Snowtree わたしの頭蓋骨の下 *鑑賞記録*

舞台は生もの、賞賛も不満もその日の出来次第、観客側のその日の気分次第。感想というものは単なる個人の私感でしかありません。

渋谷コクーン『桜姫』 2等 中2階席

2005年06月17日 | 歌舞伎
TVで『三人吉三』と『夏祭浪速鑑』は拝見していますが生で観る初コクーン歌舞伎です。コクーン歌舞伎には臨場感溢れた独自の演出といったイメージがあり『桜姫』にもそこを期待していきました。

『桜姫』感想を書く前にまず書いておかなくてはと思う。、私は桜姫にはかなりの思い入れがあります。私が「歌舞伎」ってなんだか凄いものと感じさせてくれたのが玉三郎・仁左衛門(当時・孝夫)の『桜姫東文章』なのです。あまりに思い入れがありすぎて昨年7月の玉三郎・澤瀉屋一門版は私のなかの超絶に美しかったあの玉三郎・仁左衛門(当時・孝夫)版舞台のイメージが崩れるのがイヤで観にいかなかったくらい。まあなんせ昔過ぎて場面場面はきっちり覚えてるもののちゃんと全場面を覚えてはいない状態です。しかも、ちゃんと調べたら私が観たのは仁左衛門さんが権助と清玄二役の時。でもなぜか清玄は団十郎さんで覚えています。清玄@団十郎さんのほうは実際の舞台はどう考えても観ているわけはなくTVで見たものと実際観たものとごっちゃにしているのか、仁左衛門さん@清玄を団十郎さんと勘違いして覚えているのか?記憶が定かではありません。そんな状態ではありますがやはり較べて観てしまったことは否めません。

さて、どう書いたらいいでしょう。まず第一印象として演出がそれほど歌舞伎から崩していないなと。勿論、歌舞伎ですし、確かに『三人吉三』と『夏祭浪速鑑』も「歌舞伎」から逸脱したものを造っているわけではないのですが、いわゆる型からはかなり崩してきていて、それがうまく臨場感に繋げてきているという気がしていたのですよ。それが今回の『桜姫』では型から崩そうとした部分が成功しておらず、従来の型で見せた部分は成功していると、そう思いました。歌舞伎というものを型から崩して見せることがどれだけ難しいものか、と思い知らされました。反対に型さえきちんとできればある程度は見せられるものなのだとも。

まず第一幕、因果に至る発端の清玄と白菊丸の心中事件をきちんと場面として見せないのはどう考えても失敗ではなかろうか?このせいで清玄のキャラクターが曖昧になってしまったような気がする。このシーンは短くて済むし、『桜姫』の世界観を端的に現すシーンでもあると思うのだけど。語りと絵で見せるのはお家の重宝騒動のほうではないか?とか。私的には実のところ「絵」は必要なかった。むしろ邪魔。想像させる部分がエロチックだったりするのに全部見せてしまう。それってどうなのよ?見せすぎは興ざめにつながる。

第一幕は今までの『桜姫東文章』のイメージから離そうとして雛段や空間の上に造った欄干で芝居をさせていたのだが、確かにユニークとは思えど役者の動きが小さくなってしまいダイナミックさに欠け、臨場感もでない。そのためか役者たちがあまり美しく見えない。特に福助さんが女形のグロテスクさだけが強調されたような気がしなくもない。(ん?南北的にはこれは成功なのか?)小さい空間でしかも型から外そうとした前半は役者が活きないで終わってしまったような気がする。悪五郎と七郎の追いかけっこなどはしごくまじめにやることで面白さを見せていたなと感心はしたのだけど。そのくらいかなー。

第二幕は第一幕の小ささが無くなりかなり面白く見せていた。岩渕庵室の造りがいい。平面的な造りの歌舞伎座と違ってこれはコクーン歌舞伎ならではかも。ここでようやく役者たちが活きて来た。そして、小細工をしなくなって従来の型に近い部分での演じよう。このほうがより美しく見えるのが皮肉といえば皮肉。特に橋之助さんが活き活きとしててうまさを見せる。福助さんもようやく持ち味が出た。ただ残月と長浦の笑いの部分がちょっとしつこかったかなー。

次の権助宅はモノクロのセット。このセット以外でここの演出は人物像の描き方は違うもののいわゆる歌舞伎のセオリーから外してないように思う。そのほうが見せ場として成り立つ。『桜姫東文章』という話自体がこの場の組み立てを崩させないのかな?と思わせましたが、どうなんでしょう。ここでの桜姫の福助さん、玉三郎版桜姫の呪縛から逃れられてないように見受けられました。台詞回しが玉さまそっくり。福助さんらしい独特の可愛らしい台詞回しがほとんど出てなかった。権助を殺すシーンはリアル志向。ここはわりとインパクトがあってコクーン独自性があったと思う。ただこのリアルをラストに繋げなくても。ラストの桜姫狂乱はかえってつまらない…あまりにも普通すぎて。めでたしめでたしで終わったほうが南北らしくて良かったんじゃないかな~。桜が舞うセットは美しくてよかったです。

全体的に話の筋や人物に一貫性を持たせたことで面白み、物語の濃厚さが薄れたような気がします。南北の人物の切り取り方ってかなり振幅が激しく、一貫性がなく、場面場面で肥大化させたり卑小化させたり。その一貫性のなさから「人」を映し出す作家では?と勝手に思っていて、またそこに面白さを見つけているので、そのナンセンスの面白みがなくなってしまうとなーとか。エログロナンセンスって南北作品のある一面だと思うのよねー。その最たるものがこの作品だと思っていたのになあ。そこが見せ場じゃないのかえ?今回の桜姫は最初から「女」でしかない。あまりにも一貫しすぎてて稚児~姫~女郎~姫というころころと変化するキャラクターの振幅の激しさのなかに儚さを見るのがいいお話だと思っていたんだけど、その部分がまったくなくなってしまっていた。私的に『桜姫東文章』にはバランスの悪さに美を求めるってやつがありまして…私の勝手な要望かもしれないけど。むー、桜姫は硬質でちょっとバランスを欠いたタイプの女形のほうがしっくりくるのかもしれない。

#となると今現在の玉三郎さんも以前ほどの振幅の激しさは出せてないかも…。やはり美しい思い出はそのままにしておいて良かったのかも。まっ、玉・ニザコンビが再演だったら行っちゃうかもしれんが。

あさひ7オユキさん@口上はあまり評判がよろしくないようだけど、あれは「今」の見世物小屋的案内人としてちょうどいいかなと思う。語りを完全に「現在」にしたことでいったん観客を突き放して「物語」を見せるという感覚に陥らせる。そこからは観客が舞台に同調しようが、物語を観るだけなのはお任せ。時々素に戻らせて熱狂させない、これは確かに「今」だなーと。あさひ7オユキさんに関しては普通の語りではなく歌わせたほうが説得力がある人だと思うのでどうせなら歌で口上してほしかったな。歌う時、いいお声してるんですよ。

福助さん@桜姫は最初の姫の部分がトウがたちすぎていた。声が潰れていて高い声が出なかったのも一原因と思うが、みるからに成熟してて子供も産んでそうな雰囲気。これでは一見無垢で清楚そうな姫が実は…の面白さが出ない。後半は姫と成熟した女の部分がちょうど半々のいい位置にある場なので福助さんらしいよさも出てたけど、女郎に落ちた部分の衝撃的な落差が残念ながら無い。ゆえに女郎、風鈴お鈴と桜姫のちゃんぽん言葉に面白味を見つけられず。しかも可愛らしい声が出てないのでなおさら。なんというか、福助さんの「女」を出せる部分が今回ストレートに出すぎてしまった感じ。

橋之助さん@清玄&権助はどちらにも一定のうまさを見せたけど、清玄のほうがより魅力的でした。特に岩渕庵室の場での清玄は色気もあってなかなか。権助のほうは小悪党ぶりは非常にいいのだけど、ただの小悪党ではなくもっと凄みのある悪の美しさが必要ではないかなー。どうにも人のよさがそこかしこににじみ出てるんですが…。

他キャラ感想追加するかも。