Snowtree わたしの頭蓋骨の下 *鑑賞記録*

舞台は生もの、賞賛も不満もその日の出来次第、観客側のその日の気分次第。感想というものは単なる個人の私感でしかありません。

暗闇を知らぬ人たち…『貞操花鳥羽恋塚』の闇と『息子』の闇

2005年11月04日 | Memo
暗闇を知らぬ人たち… 『貞操花鳥羽恋塚』の闇と『息子』の闇

そのまま目に入ったもの聞いたものの表面的な部分、直裁的にわかりやすい部分だけで芝居を観たり、本を読んだりする人が増えたように思う。芝居を観ての反応、読書の感想等を目にして、最近、感覚的にわからない部分を切り捨てがちな人が多くなってきているような気がする。「知識」として無いということだけで間や行間を観たり読んだりして想像を働かせるのは出来ないのでしょうか?また、知識として必要だからと、その部分をわざわざ見せたり書いたりしないと評価されなくなっている時代なのでしょうか。与えられるものだけで「満足」するのって少々寂しい気がします。

そんなことを考えたのは10月国立歌舞伎の『貞操花鳥羽恋塚』の闇と11月歌舞伎座『息子』の闇がどの程度のものかが抜けてしまった意見を目にしたから。そして評論家の渡辺保氏ですら、「理解不能」なものとして取り扱ってることに愕然としたせい。


崇徳院が暗闇のなかのたった一夜とはいえ、子まで出来た女が顔を合わせてもわからぬというのは現代では理解不可能。原作もそうはなっているが、ハラの薄い現代の若手にはムリ。ここらが現代の補綴者が筆を入れるべきところである。
http://homepage1.nifty.com/tamotu/review/2005.10-2.htm


平安時代、江戸時代の暗闇はいかほどのものであったか?そこに想いを馳せることができたら。それだけでいいのに…。今、それほどまでに「暗闇」が無いのですね…。顔をハッキリと判別することができない、そんなことは想像すら出来ない、そういう時代。でもその暗闇を暗闇として認識できないからとその部分をわざわざ説明して判らせる必要はあるのでしょうか?行間を読む、想像力を働かせる、その面白さは消えてなくなるでしょう。

平安時代の貴族の恋愛がどんなものであったか、江戸時代の明かりがどの程度であったか、もうまるで理解不能なものなのでしょうか?古典が好きな人以外にはわからない。だから説明すべき、それで終わりですか?ああ、でもそうですね、私がわかる範囲で書いてみましょう。

平安時代、顔を見合わせることなく闇のなかで恋愛は行なわれました。だからこその「歌」の取り交わしなのです。歌を詠む、その駆け引きで恋愛の機微を感じ、また相手の知性を求めたのです。ついでに書けば匂いも重要なポイントです。姿をハッキリ見せられないため香を焚いて自己主張したのです。それぞれに自分の香りがあり、それもまたアピールのひとつだったに違いありません。現在においても恋愛に「匂い」はわりと大きなポイントだとは思いますが、姿をお互いハッキリ見ることの出来ない時代はより一層記憶に残るものとしてあったことでしょう。

姿を見交わすことが出来たのは朝方までいられる情況の時のみです。正式に夫婦として取り交わし、女性の家に居ることができた時なのです。夫婦以前の恋人同士の睦みごとは「朝まで」はほぼ有り得ません。勿論、月明かりでかろうじて体の線や顔を見交わすことはあったでしょうけど、部屋のなかにいて、隙間から洩れ入ってくる月明かりがどの程度のものか、想像してみてください。崇徳院と待宵の侍従の恋愛はそういう時代の恋愛です。顔を合わせてわからないのは当然なのです。


江戸時代、この時代も明かりは非常に貴重なもの。そして明かりがあったとしてもかなり暗いものであったでしょう。特に田舎では夜明かりをつけていることなどあまりなかったはずです。『息子』での火番小屋では「火」だけが明かりでした。お互い顔をハッキリ見合わせることができる「明るさ」ではなかったはずなのです。だから、最初はわからなくて当然なのです。

でも、九年会わなくても、わかるはず。そうです、親子がお互いの顔や声を忘れるはずはありません。息子のほうは「親」だと早い段階で気が付いていたでしょう。いや、わかっていてあの小屋に入ったのかもしれない。そこの含みは十分あったと思います。そして親のほうですが、「息子」は体裁も雰囲気も、たぶん声も酒やけで変わっていたかもしれません。しかも「成功している息子」のイメージしか持ち合わせていない父です。最初のうちはわからない、それもありです。わかろうとしなかった、それもありです。それでも話しているうちにそれとなく気が付いたでしょう。でもお互い名乗らない、名乗らせない。それは暗闇のなかの「心の闇」でもあったように思います。

これ以上は私の解釈を載せないでおきましょう。父の心の闇、息子の心の闇がどんなものであったか。この二重性が生きている芝居だからこそ余韻があるのです。それをわかりやく見せることも出来るでしょう。でも見てる側の幅がなくなり、ふくらみがなくなってしまいませんか?

芝居は演じる側のものだけではありません。観ている側の解釈、感受性でいくらでもふくらませられるものでもあります。あまりに直裁的にわかりやすいものだけだと寂しいですね。

6 コメント

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気になるブログ10件 (せいさく0319)
2005-11-07 16:03:47
せいさく0319と申します。掲載されている日記を興味深く拝見させていただきました。事後の御連絡となりましたが、当方の記事にリンクをはらせていただき、日記を紹介させていただきました。リンクをはらせていただいた件について何か差しさわりがございましたら、その旨、御連絡ください。また、よろしければ、今後ともそちらのサイトを拝見させていただくつもりですので、よろしくお願いいたします。



せいさく0319 

サイト名 気になるブログ10件

mail:noguchi0319@mail.goo.ne.jp 

http://plaza.rakuten.co.jp/kininaruburogu10/

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わかりやすさという陥穽 (ぽん太)
2005-11-09 23:13:40
雪樹さん、ちょっとご無沙汰してます。実は、顔見世などに行けてなく、こちらも読まないようお預け状態です(笑)

「息子」はおそらくみることができない気がするのでご指摘がわからないところがあるのですが、先月の『鳥羽恋塚』の崇徳院のくだりについては同感です。

自然光メインの時代では、男女の逢瀬において、あからさまに見せる、見合うことができないことの方が当たり前だった。さらに、暗さ明るさにかかわらず、互いに顔をみあうことは、高貴な異性間ではあまりなかった習慣とも思います。

直接的に相わかることそのものが、あまり意味のなかった文化ってものもありますしね。

また、崇徳院という人が、上皇という非常に位が高く、やんごとない立場だったこともあると思います。その人が事もあろうに流刑にあった。そのような格にある人を描く手法として、市井を辿ってきた誰か、それも女性がいきなりその正体を知るというダイレクトさは、避けられて当然と思います。

また、女性の側がどこで出会おうと、いきなり男性の顔をしげしげとみるようなこともないだろうし、「契ること」=今の感覚での親密な愛人関係といったことでもない。



渡辺保さんはリアルな人間ドラマを歌舞伎に求める方ですし、そのリアルさの基準を現代にお求めですよね。したがって、「理解できること」が大事なんだと思います。

そして、そのようなわかりやすさって商業演劇には必須。だから、ここ最近の歌舞伎は、どんどん説明過多になっている気がします。

一方、わかりやすさだけを追い求めると、駄目になってしまうナニカもある。

そのバランスがとてもとても難しいのだろうな、とあらためて思うのでした。

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想像力への喚起 (雪樹)
2005-11-10 10:55:03
ぽん太さん、こんにちは。私も「児雷也」がまだ未見で、ぽん太さんの詳細感想が読めなくてうずうずしてます~。「みるべし!」と書かれては、期待も高まるというもの。今週末に観に行くので、もう少しで解禁。



ところで『鳥羽恋塚』の崇徳院のくだりについてのフォローありがとうございます。あの場面はわかりやすくする必要があるのでしょうか。崇徳院と待宵の侍従の仲がどういうものであったか、その「時代の文化」を知るというのもまた芝居の楽しさのひとつだと思うのです。今の感覚でわからない「?」となった時に「なぜだろう?」と想像力をかき立てられ、また知識欲をかき立てられ、考えたり調べたりするのも楽しい、と私はそう思うんです。またそういう観劇のしかたをしてきたので、「現代の基準でわかりやすく」というのがどうしても納得できなくて…。



私もどちらかというと「リアル」を求める傾向があるのですが、「時代」も大切にしたいし、その時代の「リアル」もありだと思うのです。そのなかで観る側の解釈を幅広くできるもののほうが楽しい。「わかりやすくする」のは受け入れやすいでしょうけど画一的にもなりかねないですよね。解釈の幅が狭くなるし…。これは作り側の問題だけでなく観客側の問題も大きそうな気がしますが。なぜそんなに「わかりやすい」を求めるのかなと。また「わからない」ことを笑いに転化してる人もいつような…。あっ、これはまた別の問題かな。



でも、あまりに「理解」できないものだったら受け入れられないのも事実で。その兼ね合いが難しいのでしょうねえ。



渡辺保氏の「リアル」思考はちょっと評論家にしては狭すぎるような気がします。とても勉強されているのはわかるのですが…。それとあまり提案をしないですよね。「ではどうしたらよくなるか?自分だったらこうする」というような部分が。ご自分のサイトなんだからそのくらいしてもいいような気がするんですが。知識が豊富と思われるのに良い悪いの2元的批評が多いのが残念。



ううっ、私自身まだきちんと考察できてないのでだらだらな文章ですいません。



そうそう、ぽん太さんの「旧版と新版を読み較べる」を拝読して、また色々考え始めちゃいました。私はその本を読んでないので、まずは読むことから始めようと思います。
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リアルさ (ぽん太)
2005-11-10 13:34:04
『児雷也』は、内容や見どころなどは一切書いてないです。初日にアップしたのは、悩んでいる人がいたら是非みて!と伝えたかったせいでして…。私にしてはすごく短い記事(笑) それでも十分長いですがネ(汗)

あれがお好きかどうかわかりませんが、私は好きでした。二回目、早くみたいです。



私も「リアルさ」はどこかで求めていると思うのですね。ただ、現代人にとっての「リアルさ」を歌舞伎に求めようとは思わない。

雪樹さんのいわれる通り、「その時代のリアルさ」を知る手がかりとして受け止めはしても、いきなり現代に即してどうこういうのは、歌舞伎に求めるべきことじゃないかな~と。

あと、歌舞伎を「わかろう」ともしていないかも知れません。筋がわかりやすく、現代感覚で共感しやすいものを求めるなら、タダで放映されるTVドラマでもみてた方がずっといいでしょう。

まず、広い意味での演劇そのものが、直接的かつ極端な(誇張された)表現手段を用いてフツーじゃない磁場を形成することですから、ただフツーに「わかる」なんてことが目的ではない。むしろ、演劇というものの中には、「理解されることを拒む」違和感が最初から仕込まれているだろう、と思ってるし。



さらに、歌舞伎には頭でわかるじゃなく、みて感じる要素が、近代演劇よりも多くはいっていて、芝居というよりテーマパークっぽい有り様が素敵だった演劇形態じゃないのかな?と思ったり。

桜の季節には人工的桜並木をつくり、終わるとアッという間に全部外してケロッとしてしまえるような、吉原の街並み演出とまった同じ感覚ですけど、旬の景色に遊ぶ、人工ならではのつくられたボリュームを楽しむ、みたいな性癖に根差した「よさ」があったのかな~と。



つまり、あまり文学的じゃないんですよね。

叙情性や余情もそう必要ない。表象第一、みばこそ全ての価値観です。そういう感覚は、案外徹底してたような気がしますし、いわゆる芸術的王道路線の王朝的価値観と一線を画していたようにも思うのです。

ところで、渡辺保さんは、毎回とても文学的に歌舞伎をご覧になっておいでだと感じます。文学と歌舞伎って相いれないんじゃないか?と思う私からすると、そこが最大の違和感でしょうか。

ただ、歌舞伎を文学から考えようとしたのが近代歌舞伎ですので、渡辺さんの立ち位置は近代歌舞伎としたら正しいと思いますけどね。

同時に、近代文学的思考からすれば、歌舞伎だって他の演劇同様、結局「舞台表現の解釈」に終始しますよね。でも「解釈」って、近世にはいらないことだったはずなんですよ。「講釈」ならあっても(笑)

近世における町民の活字文化が文学じゃなく戯作だったこと、あるいは俳諧連歌だったことなんかを思うと、現代感覚の文学性みたいなことで現行歌舞伎を解釈していき、それがすべてとなると、もう何がなんだか…って気分にはなるのですが、近世的基礎知識をお客さん全員がわかっている訳でもなし、そんなことを客に求めていては商売として成立しないしなぁ、いやはや困ったね、こりゃ、もう面倒くさいから、あまり考えないでおこう、考えるのも暇つぶしの範囲内にしとこうって感じで今日まで来ています(笑)

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同感です。 (urasimaru)
2005-11-11 18:06:17
こんにちは。

歌舞伎座が月末なのでそれまで「うずうず」が続きます。



崇徳院は観劇中にわかんなくて当然、って思い、渡辺氏の文を読んで氏はむしろそれを説明する立場では?と思いました。

最近は源氏ブームだし、歌舞伎では「弁慶とおわさ」もあるし、そんなにわけわからんってもんでもないんじゃないかなあ?

森の木の名前を知らなくても、眺めて「美しい」と思うことはできるみたいに、楽しめる部分から入って、興味が湧いたら調べたり読んだりする、その過程も見物の楽しみの一つだと思います。
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物語と文学 (雪樹)
2005-11-14 17:15:55
言葉がまとまらないのです。きちんとしたお返事になりそうにないのですが。思いつくま

までお返事にならないかも。



>ぽん太さん



「物語」としての虚構は「文学」にもあると思うのです。私は近代文学の作為的な部分に虚構性と「物語」としての力を見ているので、全面的に「うん」とはうなずけないものがあるのですがこれは近代文学論になりそうなのでそこはまた別問題。



芝居の原点は「体感」だという説には完全に同意しますし確信しております。そして最近「音楽」(「物語」と「音楽」は切っても切れない仲だと個人的に思うので)を生で立て続けに聴いてなおさら、そうだ、この身のうちから感覚があわ立つ気持ち、それが基本だろうと。で、音ってなんの説明もないですよね。でも感じるし情景が浮かぶ。また、その感覚は聴いているものにゆだねられる。芝居もまずは感覚から入る部分があってしかるべきだし、感覚をゆさぶる、そこからはじまるものなんじゃないかと。すべて説明したときにはライブ感はなくなるだろうと思います。ただやはり、感覚を伝えるだけの演者の力がそこにないといけないんですが。私は今回、天才二人の音を聴きました。彼ら二人の演奏は極上のエンターテイメントでもありました。





>urasimaruさん



同意、ありがとうございます~。



>氏はむしろそれを説明する立場では?

そうなの、そうなのー。わかりやすくというのは違うだろうと。そうですよね、いったいなんのための評論家なんだと(笑)。



すべてわからなくても楽しめるのが見物のよさ。感覚を大事にすることからはじまると思うんですよね。まったくの方向違いの勘違いで観る事もあるでしょう。でもそれはそれでいいと思う。
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