Snowtree わたしの頭蓋骨の下 *鑑賞記録*

舞台は生もの、賞賛も不満もその日の出来次第、観客側のその日の気分次第。感想というものは単なる個人の私感でしかありません。

歌舞伎座『六月大歌舞伎 夜の部』3等A席前方センター

2006年06月17日 | 歌舞伎
歌舞伎座『六月大歌舞伎 夜の部』3等A席前方センター

『暗闇の丑松』
面白かった!丑松というキャラクターのゆがみをそのまま提示してみせ復讐譚として男の切なさを描かず、心の底に闇を持つ男の転落譚。それゆえに「女」の哀れさが前面に押し出された。その「女」たち、お米@福助さん、お今@秀太郎さんが秀逸。他の役者がやったら「丑松」の一途な男の哀れさを前面に出すものになるのですが今回は「人殺し」をする男の「狂」を見せています。今回はまさしくノワール。

特筆すべきは舞台演出。舞台美術、照明、転換、音、の演出の妙が素晴らしい。細かい拘りが『暗闇の丑松』という戯曲のもつ緻密さを浮き出させた。全幕、上下の立体感ある作り。階段の使い方が上手い。またそれぞれの幕で物語が進む内側だけでなく外の情景を効果的にみせていく。印象的なところをあげてみると

一幕目での暗がりのなかのろうそくの火の使い方、階下から聞こえる物音、話し声、屋根裏部屋から逃げ出す際の月の光。

二幕目での嵐のなかの風音、雨音(本水を使っての効果音だそう)。宿屋の門口と階段が真ん中に据えられた階下から、廻り舞台で2階の部屋への場の転換の上手さ。

三幕目で一転、まぶしいほどの光。蝉が泣く夏の日差しがきつい朝。けだるい朝の情景。家の裏道を去ったかと思うと舞台が廻り湯屋の裏、釜場へと繋ぐ、ここでも転換の上手さが際立つ。

抑制がありつつもメリハリのある演出。以前観たはずの『暗闇の丑松』はハッキリとは覚えてないのですけど、それでも今回、細かい部分でだいぶ幸四郎さんの手が加えられている印象。それにしても殺しの場を見せず気配と台詞だけで感じさせ観るものに鮮明にその図を視覚化させる演出の見事さ戯曲の見事さに感嘆。殺しの場は「歌舞伎」のもつ様式美に昇華されている。特に最後の湯屋の殺しのシーンは名場面でしょう。この殺しの場を考えたのは作家の長谷川伸氏か、初演の六代目菊五郎さんか、かなり演出に長けてないとこういう舞台は作れない。

丑松@幸四郎さん、丑松の持つそもそもの人間性のゆがみをそのまま提示する。いつもだと一本気の良い男として演じられるのだと思うのだけど、実際のところ社会不適合すれすれの人物である。怒りっぽくとてつもなく単純、カッとなったら一線を越えてしまうその愚かさ、簡単に闇のなかへ転げ落ちることをしてしまう男。意図したものかどうかはわからないが幸四郎さんのもつ「狂」のオーラがどこか真っ当でない丑松を見せつけた。そのなかに人の弱さ哀しさがある。それを正当化しない演じようであったように思う。そしてそんな男がお米に「女の理想」を見ている。自分だけを見つめてくれる女として。丑松にとってお米は「穢れのない女」だったはずなのだ。だからそれを守るために「人殺し」を重ねる。「穢されてしまった」お米の言葉を信じられないのではなく、信じたくないのだ。だからこその悲劇。

ただ、幸四郎さんだとこの役には貫禄がありすぎるというかどうしても分別がつきそうな雰囲気になってしまう。丑松のもつ単純さがあまり現れてこない。愚かであるがゆえの勢いがあるともっと説得力が出ただろうと思う。ただ最後の狂気の目はその先の果てしない暗闇を連想させるものであった。

お米@福助さん、哀れな女としての存在が見事でした。丑松同様、とても単純で愚かな女。惹かれあうのが必然な男と女。人生を落ちていく予感をさせる盲目な恋心。その一途さゆえの悲劇が体現されていた。丑松しか見えてない、いじらしい女。どこまでも丑松と共に生きていきたいと願うからこそ自身の運命を呪いながらも生きながらえてきたであろうお米。自身を恥じながらも、それでもいつかこんな境遇になっても丑松と出会えたら「一緒に生きよう」と言ってくれると信じ一縷の望みをかけていたに違いない。しかし、その望みが非常に細く頼りないものと判っていたようにも思えた。丑松がどういう男か知っているからこそ訴えかける表情には諦めの表情があった。それでも言わずにはいられなかったお米。望みが打ち砕かれた時、死を選ぶしかなかった。お米@福助さんは丑松と杯を交わす瞬間から丑松しか見ません。死してなお、丑松の姿を忘れずにいようとするかのように思えました。お米にとって丑松に杯を受け取ってもらえたことは最後の喜びであったかもしれません。従来の演出では丑松は杯を受け取ってくれません。今回、ほんの少しですけどお米には救いをもたせた演出なのが嬉しかったです。とても切ないシーンでした。

追記:asariさんのとこにコメントしたのですがお米の福助さん、とても美しく見えました。
<<特に最後にふすま越しにそっと丑松を伺う姿は聖母のように見えました。ほんの少し微笑んでいるように見えたんですが実際はどうだったのでしょう?三階からだとそこまではハッキリ見えなくて。死体を戸板に乗せて運ぶ演出は私もいらないとは思ったのですが福助さんの横顔が異常に綺麗でドキッとしました。>>
微笑んでいたのには間違いないそうです。たまたま染仲間の方からメールで「あの笑い顔がなんだったのか」と問われ、考えてみました。私はお米の最後の笑いは諦めの笑い&丑松に会えた喜びの両方の微笑かなと思いました。死へ向かう暗さのなかに丑松を包み込みようなオーラを感じました。たぶん、私の裏読みしすぎ、だとは思います(笑)


お今@秀太郎さん、絶品。もうね、細々と言いたくないですね。とにかく見てくださいと。闇の部分をすっかり受け入れてる女でした。女の嫌らしさと崩れた色気。秀太郎さんにしかできないですよ、こういう役。

お熊@鐵之助さん、真っ当な人としてのお熊でした。憎まれ役、のはずなんですがお熊なりの論理が「女の哀しさ」を現わしていました。

四郎兵衛@段四郎さんはかっこよかったですね。苦みばしってて、貫禄あって。でも悪さをしてても女房には頭があがらない、可愛い男でもありました。

湯屋の番頭@蝶十郎さんがチャキチャキとよく動き回り拍手を貰ってました、いい仕事ぶりです。ここの明るい仕事ぶりが、丑松の殺しの暗との対としてある。本当にうまい演出です。

料理人祐次@染五郎さんは勢いがよく、身軽さをみせて華がありましたがもっとおっちょこちょいな雰囲気があってもいいかな。祐次は丑松と似たような性格でありながら「明」の世界にいることをみせる役。それゆえに報復に燃え、暗闇の嵐のなか飛び出す丑松の暗さが引き立つと思うのです。

そういう「明」の部分では建具職人熊吉@高麗蔵さんの職人らしい風情と情けないながら明るさのある雰囲気が良かったです。

他にも杉屋妓夫・三吉@錦吾さん、杉屋遣手おくの@歌江さん等、役者の皆さんがとても良い芝居ぶりでした。


『身代座禅』
楽しい演目なので楽しく観れましたがちょっと物足りなかったかも。どことなく可笑し味が薄かった。

右京@菊五郎さんは手馴れているだけに安心。以前拝見した時は品よく酩酊するところが可愛らしいと思ったのだけど、今回は最初から少々酔ってるような雰囲気が…。台詞廻しが最初から軽すぎるような気がしました。あまり観客を笑わせようとサービスしなくても十分素敵ですのでやりすぎないでくださいませ。

玉の井@仁左衛門さん、知的で美人系な玉の井でした。ニラミをきかせるところはかなり怖いですが旦那想いな可愛らしさも伝わってきました。体全身の姿が綺麗。でも仁左衛門さんの持ち味ではあるのだけどちょっとあっさりしすぎ?もっとたっぷりやって欲しかった。うーん、玉の井に関しては団十郎さんの玉の井に私的ぞっこんラブなので誰がやっても満足いきません。

太郎冠者@翫雀さんが軽妙洒脱に演じて上手さを感じた。間が非常に良いのと体の使い方の柔らかさが良いんじゃないかと思います。今まで翫雀さんにあまり感じなかった柔らかな空気感が最近出てきたのかな?とかな。

小枝@梅枝くんと千枝@松也くんがたいそう可愛らしくてよかったです。梅枝くんは柔らかさが出てきました。


『二人夕霧』
今月の狂言立てのなかではかなり損をしてますね。舞踊劇を二つ並べたことに疑問です。まあのんびりぼけーっと見ている分には楽しい演目ではあります。突っ込みどころが沢山あるのでそこを突っ込みつつ見るのもいいかも。

伊左衛門@梅玉さん、こういう上方のお役に熱心ですよね、姿は良いし、いかにもぼんぼんな雰囲気もあるんですがもう一つ色気とか可愛らしさがほしいような気がします。

先の夕霧@魁春さん、可愛いです。貫禄もちょっと出てきたかな?歌右衛門さんに非常に似てきたのでちょっとビックリしました。恨み言を述べてもおっとりした雰囲気を終始失わないのが魁春さんらしいです。

後の夕霧@時蔵さん、とにかく美人です。炊事をしている時の抜け感のあるところが可愛い。とにかく華やかです。

おきさ@東蔵さん、きりっとした風情が場を締めました。踊りがお上手です。そういえば東蔵さんのちゃんとした踊りってあまり見ないかも。もっと見たかったです。

いや風@翫雀さん、小れん@門之助さん、てんれつ@松江さんの三人組が楽しかったです。上方らしいふわっとした風情は翫雀さんがちょっと上手かな。でも 門之助さん、松江さんとも楽しげにやってらして良かったです。


7 コメント

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微笑み (asari)
2006-06-27 00:34:06
諦観と自嘲なのかな、と思って観ていたのですけれど、丑松に会えた喜びかぁ…。それでも嬉しかったのでしょうかね、お米。。憐れですね。

序幕で「男なんてみんなそう。でも丑さんは違う」って言ってますよね。丑松はお今を殺すときに「女なんてみんなそうだ、お米もそうだった」と。お米はあの時もまだ「丑さんだけは違う」と思っていたのか、「丑さんも同じだった」と思ったのか。。

微笑むお米の眼が真っ暗で怖くて、何を思っているのか覗き込むことなんて出来ませんでした。
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Unknown (もこもこ)
2006-06-27 07:40:15
もこもこです。

場末の女郎屋にいるんだから、みんな幸せな境遇な筈は無いと思いますが、他の女郎達は明るい、たくましい。それに比べて、お米はほんとに暗い女郎で、初回ばかりで裏が返らない。鞍替え続き。朋輩ともうまくいかずいじめられる毎日、となると、お米はすでに生きる気力が切れかけて、抜け殻だったのかもしれません。丑松との再会でさえ、強く望んでいたとは思えない。そこへ丑松が現れたことで、彼岸への最後のきっかけを与えてしまったのかもしれません。福助丈が演じると、ちょっとその微笑みが生々しさを伴うようで、違和感はあったのですが、あの笑いは、もう彼岸に足を踏み入れた、なかば仏のほほえみだったのかもしれません。アルカイックスマイルのような微笑みなのでしょうね。

お米は、身の上の語り始めは、なんとしても聞いてくれ、と必死に話を始めますが、四郎兵衛兄貴を全く疑わない丑松の態度に、途中からは理解してもらうことすらもあきらめていますよね。後半の語り口は、なかば他人の話をするよう。杯をねだった時の心境はまさに別れの杯のように思えます。あのシーンが、一番毅然としていました。

私は、暗闇の丑松は初見だったのですが、あの杯、丑松に受けてもらえないのが今までの演出だったのですか?お米もお酌してもらえなかったのかしら。だとすると、ほんとに救いがないですね。お米は恨みながら、ではなく全てをあきらめて死んでいったのではないでしょうか。いやー悲しい話だ。

繊細な絵移出に感動でした。
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誤字m(__)m (もこもこ)
2006-06-27 07:41:07
絵移出⇒演出
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お米の微笑み (urasimaru)
2006-06-27 12:11:50
こんにちは。8日位に見た時は、なんか幽霊のような呆然とした感じで覗いていて、この女はもう死んでる…という怖さを感じましたが、楽に見た微笑みはそれは美しかったです。

TBさせてもらいました<( )>
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微笑み (雪樹)
2006-06-27 17:37:09
★asariさん

たぶんね、会えて嬉しかったんだと思います。あの境遇のなかで生きてきたのは会うためだったんじゃないかと。お米は最後まで丑松を信じたんじゃないかな。丑松は全然変わってないんですよね。別れた時のまま。どういう性格がわかっていたからこそ「死」を選んで訴えるしかなかったのかなと。なぜあのタイミングなんだと言えばやはり判ってもらいたかったから。信じてもらえない本当の絶望だったらそのままフラフラ死んでいったと思うんです。ふと会いに戻ってきたのはもう一目会ってからという想いだろうし、完全に絶望していたらあそこで微笑みは出ないと思うんですよね。信じたいと思うからこそ死ぬのが怖くなかったんじゃないかしらと。その暗い死を覚悟した目を私は近くで観たかったです。結局は見る側の解釈でしかないんですけど、それでも微笑みの質を見極めたかったです。無理にでも行けばよかった(後悔)。



★もこもこさん

うわー、お初の書き込みありがとうございます。『暗闇の丑松』の演出、良かったですよねえ。



お米は死ぬのはいつでも出来たと思うんですよ。でも生きてきたのは、彼女が最初に丑松が死ぬを止めた、からだと思うんです。一緒に生きていたいという思いがいつもどこかにあったんじゃないかなと。でも実際、丑松と会って自分の境遇がどんな状態か完全に突きつけられた。丑松のためにあの境遇に落ちたとはいえ、それが一番辛かったでしょうね。お米ってほんとに可哀想な女性だと思います。



従来の演出だと丑松はお米から受け取った杯を叩き割るんです。お米に怒りをぶつけるかのように。あんまりですよね。でも今回は受け取って飲んでくれますよね。丑松はちょっと呆然としてるんじゃないでしょうか?江戸で信頼してるはずの先輩の元でたぶん料理屋の仲居でもして待ってるとか思っていたお米が遊女になっているショックのほうが大きいような気がしました。信じたたくなくて耳を貸しませんけど、何かが違うとは感じている。だから三吉に色々問いただすんだと、そういう流れに今回なっていたと思います。また丑松のお今への「女なんてみんなそうだ、お米もそうだった」という言葉はお米を信用してないのではなく、男のためだったら穢れることを厭わない女であってほしくなかったってことなのだと思います。女性への神聖化が見え隠れしてるような感じ。おいおい、って突っ込みたくなりますけど。



★urasimaruさん

TBありがとうございます。お米、美しかったですよね。青白い炎のような儚いオーラがあったように思えました。前半のお米@福助さんの感想を色々拝見していると、後半もしかしたら死への覚悟の心のありようが変化したのかな?とか。実際のところどうなんでしょう。可愛らしくていじらしくって、美しくってほんと感動したんです。なぜこのお米が不評なのか不思議でたまらなかったです。
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どうぞよろしく (もこもこ)
2006-06-27 21:37:59
雪樹さん、ご挨拶もせずに書き込んでしまいました。

改めて、どうぞよろしくお願いいたします。



>お米は死ぬのはいつでも出来たと思うんですよ。

確かにそうですね。発端の場で、自訴しようとする丑松を、逃げられるだけ逃げよう、と説き伏せているんですものね。

丑松がたとえわかってくれなくても、会うことができて、杯をもらえて、自分からも与えることができて、もうそれで満足、いやあきらめがついてしまったんでしょうか。それとも丑松に、自分の気持ちを死を持って訴えたのでしょうか?

杯をたたき割られたら、ホントにお米は立つ瀬がない。そうなると、あきらめがついて死ぬのではなく、もう絶望しきって死ぬ、という解釈になりますよね。それだと笑えないでしょうね。



お米が立ち去った後、丑松は三吉にいろいろ問いただして、お米の言い分を信じかけて居たように思います。あそこでお米が死ななければどうなったのでしょうね。

足抜けさせた?それとも身請けの努力をする?それともお米は放り出して、四郎兵衛を殺しにいったのでしょうか?



いろいろ考えさせられる芝居でしたね。



幸四郎さんと福助さんのペアの評判最近よろしくないですが、この暗闇の丑松は私はとても好きでした。

初見が楽日直前だったので1回しか見られませんでしたが、はやいころだったらもう1回観たかった。



回りの役者さんもそれぞれ良かったですよね。周りの人がまともな人間の姿をきちんと見せていないと、お米と丑松の闇が際だたないですからね。



舞台転換もとてもスマートでしたし、暗い暗いと不評の照明も、あの暗さはとても効果のある照明だったと思いました。
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えー不評だったんですか? (urasimaru)
2006-06-28 13:10:08
私は好きだったけどなあ。

幸四郎さんも福助さんも世話の方が好きです。
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