Snowtree わたしの頭蓋骨の下 *鑑賞記録*

舞台は生もの、賞賛も不満もその日の出来次第、観客側のその日の気分次第。感想というものは単なる個人の私感でしかありません。

国立小劇場『二月文楽公演 第三部』1等席

2005年02月27日 | 文楽
初文楽鑑賞だったのでどきどきわくわくでした。舞台が思った以上に大きかったのと義太夫の方々が全面に出て座るのに驚きました。歌舞伎と似た部分と違う部分、色々較べて観られたのも楽しかった。語りが非常に重要な役回りであること、また語りと人形が一体になってこそ、お互いの芸が活きてくることがよくわかりました。やはり総合芸術なんだなあと。

『壇浦兜軍記』
舞台の拵えが歌舞伎そのままだったので、較べながら観ました。歌舞伎が文楽のほうに近づけた演出をしているのだなあという感じを受けました。それにしても、人形1体を3人で操っているのにも関わらず、人間が邪魔に見えないのにかなり驚きました。そしてちょっとした仕草がきちんと意味を持ってまるで生きているかのようなたたずまいを見せるんです。そして、義太夫の語りがまたなんというか訴えかけてくるんですよ。言葉は難しいので何を言っているのか全部把握できないんですが、声に様々な心情がのっている。そしてそこにその心情を体現する人形がいて、どういう場か、登場人物がどういう想いをしているかが伝わってくる。

特に阿古屋の出には、本気で呆然としました。だって人形なのに、オーラがあるんですよ、でもって色気が漂ってるんですよ。どういうことですか?お人形の頭の顔自体はふっくらした感じでそれほど美女なお顔ではないんです。人形の美しさとか衣装の美しさとか、そういう部分でのものじゃないんですよ。操られてる感じに見えなくて実際に「阿古屋」が全身で動いて心情を見せるんです。ああ、もう本当に凄かったとしかいいようがない。

くどきのシーンもさることながら琴、三味線、胡弓を弾くシーンでの細かい動きに目を奪われました。指遣いまできちんと弾きこなしてる。それだけにここは動きが大きいわけじゃないんです。でもね、体すべてを使って必死に弾いてるんですよ。それがわかるんです。ええ、人形とは思えません。歌舞伎で同じ演目を見ているだけに、あの人形から発せられる色気はいったいどこから出てくるの?あの必死な心情はいったいどうして伝わってくるの?と。ただただ衝撃を受けたとしかいいようない感覚に襲われました。

そして歌舞伎役者の雀右衛門さんが「色気は女形としての芸のテクニックで出すもので役者自身が持つもので出すものではない」とおっしゃった、その芸の突き詰め方に通じるものを感じました。雀右衛門さんの一途でしっとりした色気の持ち味が吉田簑助さんが操る阿古屋の色気と通じるものがあっただけになおのこと、芸の厳しさ凄さがダイレクトに私の心に伝わってきてしまったような気がします。芝居の内容に感動したのか、「人形」に魂が込められるその芸に対して感動したのか自分でもよくわからないまま感動のあまり涙が出てきてしまいました。

断トツに吉田簑助さんが操る阿古屋が素晴らしかったのですが他の登場人物のなかでは重忠の静かな強さや人情、岩永の押し出しは強いけどちょっと人のよいコミカルさがうまく表現されていたと思います。

語りに関しては私、人形を見るだけで必死で、義太夫がどうの、とかそこまできちんと聞けなかったように思います。でも阿古屋の人、うまいなあと思いながらは聞いていたなあ。それと胡弓の音色が素晴らしかった。胸にこんなに響いてくる音とは思いませんでした。

『卅三間堂棟由来』
『壇浦兜軍記』は阿古屋ばかりに目を奪われすっかり興奮してしまったのですが、『卅三間堂棟由来』は阿古屋のような見取り(有名な場だけの上演)ではなく通しでひとつの物語として演じられたので、物語自体を楽しむことが出来ました。

こちらの演目は「歌舞伎」に近しい演出のように感じました。見得があったり、衣装替えのケレンがあったり、大掛かりな舞台転換があったり、はらはらと雪や柳の葉が美しく舞い落ちてきたり。それだけに登場人物の誰かを注目して観るというよりは、彼らはどうなるだろうと話を追って観ていました。登場人物個々に感想を書きたいんですが、どう書いたらいいかわかりませんね。どこが良かったとかそこまで細かく見る余裕がない。見るのに聞くのに必死で(笑)。ただこの演目に関しては全体のバランスがとてもいい舞台だったと思います。老母、旦那、子供、そして敵役それぞれの役者が揃っていたという感じがいたしました。

しかし遣い手によって人形の持ち味が随分と違っていたことには驚きました。吉田文雀さん操る、今回の主役の「お柳(おりゅう)」は柳の精で、切り倒される所を助けてくれた男と結婚している女房という「阿古屋」とはタイプが違う役柄ではあります。それでも遣い手の持ち味がかなり違うことはわかりました。楚々としているなかにとても品のある色気がある女性像を描き、心情をぎりぎりまで抑えた端正な動きをしておりました。それだけにその押さえた心根に哀れを感じさせていたように思います。かなりケレンのあるキャラクターなんですがとても透明感があり人でない役どころ草木の精霊そのものようでした。

それにしても見てるうちに人形の遣い手がいることを時に忘れてしまいます。あたかも人形自身が動いてるような錯覚を覚えます。そして、時々ふと美しい女房の頭の横におじさんの顔をあることに驚いたり(笑)。でもそのおじさんたちがいなければ彼ら人形は動いてないわけで、とても不思議な感覚です。

それと『卅三間堂棟由来』では一人の語り手がすべての役柄を演じるのですが、その使い分けに感心してしまいました。特に声色を変えてるという感じではなく、女性の声も子供の声もそれほど作りこむ感じではなくおじさんの声なんですが、でもちゃんと女性や子供の語りになってるんですよ。いやあ、ほんとすごいです。