The Last ward from Southen Cross to my future

目の前にある林檎は本当に林檎なんだろうか。その林檎は腐っているから林檎だって気づかないだけかもしれない。

日本という国のシステムを維持する意義

2011-08-25 23:34:38 | Weblog
自分が子供の頃にはお菓子屋などはお年寄りが店番をしていた。田舎にいけばうちの婆さんと近所の婆さんで野菜など作って早朝から農業をやっていた。
たぶん、年齢としては70歳ぐらいのはず。朝取った野菜をおかずに朝飯を食ってから山や川まで自分たちの子供を連れて行く。山道などとてもじゃないが、本当に老人なのかというぐらいにさっさと歩く。ある意味治安が良い国だから年寄りも働けるのだろう。

外国でも治安が悪い地域だと銃を隠していたり、保安カメラだけでは強盗は防げないからと聞いた。銃が禁止されている日本だとしてもナイフをはじめ凶器はある。最近はコンビに強盗の報道が少ないようだが、それだけ犯罪は減ったんだろうか、と疑問がある。それとも意図的に報道してないのか。
日本という国はどうして良い部分を捨て去ろうとするのだろうか。老人や子供が安心して夜道を歩けるというのは自慢していいはずなのだが。

自分たちの生活を守るために働く公務員を悪とする風潮も未だ存在する。警察や消防、自衛隊という職業についている人の報道は軽犯罪でも報道する。社会的報復という意味では必要なのだろうが、だったら軽犯罪を犯した一般庶民も実名で未成年も実名で報道するべきだろう。子供には未来があるというが、善悪の判断ができる年齢であれば過失とは言い切れない殺人事件でさえ報道されない。その理由は差別されるからという。犯罪者が一般庶民と区別されるのは正常な社会。差別というなら、刑を受けるならまだしも、刑すら受けないような人間が本当に自らの犯した行動を反省するのだろうか、と疑問もある。窃盗や万引きにしても習慣化することで他人の所有物を無断で自分が取ることに何の疑問も持たないそうだ。習慣化は簡単になおらない。
社会全体で甘やかすのを辞めないと安全な安心した社会は維持できない。

教育で道徳は不要といった教師がいた。他人の者を盗むという行為をどう判断させるのか。道徳は不要だが、宗教は必要なのか。何かおかしい。宗教よりも誰もが共通の社会的ルールとして道徳がある。それを明文化したのが法律。
もし、こういった社会で生きるための基本的な教育がされるなら児童虐待や家庭内暴力は減少するという。自らを律するとは、感情を理性でコントロールすること。今までは恥の文化で維持されてきたとしてもこれからは維持できない。タバコにしても未だに禁煙場所で平然と吸う人。誰も注意すらしない。注意をすれば何かされるかもしれない、と思っている人が多いからだと思う。
そういった無関心がますます安全な社会を壊していく。多数で力を持つならば何故こういった人たちに注意をするのに周囲は協力しないのだろうか。
何が悪く、何が良いのか境がわからないと言った高校生がいる。法で決まったことも守らないでいても済むならば法律なんて無駄だそうだ。
信号があっても昼どきや夜に車が通らないのなら赤信号だって渡ってもいいと答えた小学生もいる。しかし、朝の通学や下校時には多くの子供が道路を横断する。赤信号を無視したらどうなるのか。見通しがいい道で車をいないなら渡っていいのか、と問われて教師や親が子供にどう回答するんだろうか。

政権党首が外国人から献金をもらったにも関わらず、問題ない。脱税を認めながら堂々と居座る政治家。政治資金疑惑裁判をしながら政治家として歳費をもらうなど、自分勝手な行動ばかりだ。政党という組織がこういったルールを無視する姿勢は決して日本の未来を良くしない。何故ならルールがあっても機能しないとなれば他国が日本国に対してルールを無視した行動を取っても避難できないからだ。この2年で日本国民の政治不信はかなり濃くなった。
日本の危機に瀕しても行動をしない地方政治家たちや企業や経済団体への不信感も募っている。こういった小さな歪を積み重ねることで社会に歪が溜まっていく。礼節を重んじる文化を維持してきたのは、少々の我慢を犠牲にしても誰もが不快を感じない安全な社会を維持するためだ。だからこそ、筋が通らない行動をして平然としているような政治家を放置することはいかがなものか。
自国の歴史を卑下し、自国の文化を卑下するような政治家は不要だと感じる。
それぞれ立場を持つ限り、誰もが納得する歴史など存在しない。歴史は勝者によって作られるというのはそうゆうことだ。政治家は日本国という国を運営する責任ある職業だからこそ、日本国側という立場も背負う。もし、日本国側ではなく他国側の立場を重視するなら反日行為と言える。自国の利益より他国の利益を優先したいのなら政治家ではなく慈善事業を経営すればいいだけだ。
かつてアフリカへ支援に行った人が日本のホームレスの映像を見せたときに「日本に帰ってこの人たちを支援しなさい。」と言われたニュースがあった。
震災後、多くの日本人が外国で「日本のために寄付しなさい。」と言われたそうだ。自分もその一人。つまり国民とは他国からすればある集団の塊であり、日本国という家族とも言える。自分の自由というが、それ以前に自分が存在しているのは自分の国があってこそではないのか。

自分が幸福でないのなら、他人を幸福にはできない。もし、自分を犠牲にして誰かを救えると信じるのなら宗教家になった方がいい。妬みや恨みも持たないというならそれは人間ではない。どんなに素晴らしい人格者でも心の中になんらかの負の感情はある。それを制御できるから人格者になれるだけだ。
これからの日本は今までのように楽して生きられるってことはない。誰もが覚悟を決めて、もう一度安全で住みやすい国を作っていくしかない。
そのためにはプロ意識を持って日本国を運営できる政治家を選択することだ。
衣食住が確保できる収入を得られる仕事を要求しよう。年金も保険も低所得層が増えれば、崩壊する。負のスパイラルは日本国民自身が生み出している。
消費が活発化するためにも低所得からの脱却する方法を考えよう。

家族の絆とは夫婦とその子供。子供が小学校を卒業する年齢までは扶養者の税金控除額を180万ぐらいまであげればいい。それに新しい子供手当てがある。
あとは子供の母親の就業がいかに円滑にできるかどうか。乳幼児期に親と過ごす時間が子供には必要だという。勿論、いろいろな事情で親と過ごせない子供もいる。そういった場合も親に代わる扶養者への支援もすること。国や社会が子供を育てるとは、社会の土台である家族という単位の上に存在する。
家族が生活できないのなら、社会保障で支援する。勿論、経済自立を前提で就職できるようなスキルも支援する。やろうと思えばできることをいつもやらないのが政治。少子化や児童虐待は家族を軽んじる風潮から生じると論文もあった。つまり家族という最小単位で各自が担う責任がなくっているからだそうだ。親の体罰の賛否両論ある。しかし、子供が怪我をしたりするほどの体罰は行き過ぎているという判断を親ができない。児童虐待を受けて育った親は自分の児童虐待をするのではないかという不安があるため、子供を作らない選択をする人が多いそうだ。体罰と児童虐待とは違う。体罰は怪我をするほどの傷を負わせない。もし、傷がつくほどであればこれは児童虐待になる。

百聞は一見に如かず。自分の目や耳で聞いたこと以外は疑って検証する習慣を教育で身に付けさせたい。金太郎飴教育はやめるべき。人には個性があり、得て不得手もある。だから集団の中でバランスが取れる。競争を否定する限り、こういった人間が持つ個性を活かすことはできない。競争の種類もあり、それぞれ勝者と敗者がいる。これを学ぶことから現実を知る。負けず嫌いなら反動でがんばる人間もいる。人種、国籍、宗教で差別というが、こういった人間の個性による違いに対する評価まで差別というから金太郎飴しかできない。
違いを認めることこそ、共存共生の第一歩なのだが、違いを認識できない人間ばかりだとなんらかのレッテルをつけて人間を評価する。幽霊の正体みたり枯れ尾花というぐらいに、考えて欲しい。何かを決断するときにその決断は誰が利益を得、誰が損するのか。損得だけでは継続できない関係は家族だけだ。




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