錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~若手のホープ(その4)

2012-10-13 12:01:00 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 錦之助の芸への精進も真剣味が加わって来た。歌舞伎座の裏に土俵が作られ、そこで砂まみれになって「とんぼ」の稽古をした。「とんぼ」とは、とんぼ返りで、空中で体をひっくり返してまたもとの姿で立つことである。歌舞伎の立廻りの基本練習であった。練習中に頭を泥に突っ込んだり、腰をいやというほど地べたに叩きつけたり、容易ではなかった。しかし、飽かずに幾度もやっているうちに自然とそのコツを覚えることが出来たと錦之助は語っている。
 錦之助は、小柄で身も軽く、運動神経も発達していたので、とんぼの習得は比較的楽だったと思う。
 錦之助が、歌舞伎役者になるために役立つあらゆる稽古事に最も積極的に取り組んだのは、昭和二十六年がピークだったと思われる。踊り、三味線、清元、常磐津、義太夫、太鼓、笛、そして茶道のほかに、暁星小中学校時代の同級生であった観世静夫の紹介でも習っていた。
 弓道は、吉右衛門の四谷の家に道場があったのでそこで練習するほかに、播磨屋一門の後援者であった貿易商の石川謙という人の指導を受けていた。彼は錦之助にとって芸の励みのうえで大恩人だったというほどの人物であった。「わが人生 悔いなくおごりなく」の中に、この「石川のおじ様」のことが詳しく書いてある。

――石川のおじ様は慶応大学出身の粋でダンディーな社長さん、父時蔵の仲の良い友人。ごひいきのお客様と役者という堅苦しいお付き合いではなく、「時ちゃん」「謙さん」と呼び合う、本当の仲よしでした。大の播磨屋びいき、中村吉右衛門伯父の芝居を見る会「吉見会」のメンバーで、歌舞伎をこよなく愛し、歌舞伎を熟知しているお方でした。
 (中略)
 弓道と居合の有段者、日本橋浜町にある弓道館の副会長をなさっていましたので、私はおじ様に弓の指導を受けました。弓の稽古の帰りには、例によってご馳走になり、昔の芝居の話をよくしてくださって、随分勉強になりました。
 そのころ、役もつかずにくさっている私に、「今月の錦ちゃんは良かったよ。特に意気が良かった」と力づけてくださるのです。行く手に光明の見えなかった歌舞伎の修業時代の私に、やる気を起こさせてくださったのも石川のおじ様でした。
「今月の伯父さん(吉右衛門)の『引き窓』はよおく見ておきなさい」
「お父さん(時蔵)の、こういう所は、腹に、胸にしまっておきなさい。演技は古風でなければいけない」
 などと常に細かい注意をしてくださいました。


「芸は見て覚える」ということを錦之助は忠実に実践した。これは父時蔵の教えでもあった。三越青年歌舞伎で好評を博した「鏡山」のお初の役も、時蔵の演じるお初を目に焼き付けるほど見て、演じたものだった。
 「別冊近代映画 中村錦之助特集号 ブルーリボン大衆賞記念」(昭和三十四年四月発行)に劇評家の佐貫百合人が「錦之助の歌舞伎時代」という文章を載せている。その中にこんな一節がある。

――尾上松緑に若手のホープを推薦してくれというと、即座に「錦之助だよ。文句なしに」といって、面喰わせた。普通なら松緑の場合、所属する菊五郎劇団の橋蔵か光伸(のちの八十助)を推薦してくれるものと予測していたのだが、松緑は「錦ちゃんの素質も優秀だが、あの子の研究熱心には感服するよ。ウチの若い連中に爪のアカでも煎じてのましてやりたいくらいだよ」と語をついだ。

 尾上松緑は、吉右衛門の愛弟子だった温厚な兄の幸四郎とは違い、菊五郎の厳しい指導を受けただけあって、ズバズバとものを言うことで知られていた。錦之助の兄の獅童が役者を廃業することになった原因は、松緑が獅童に演技のまずさを指摘し、獅童が立腹して舞台を降りたからだと言われている。そんな松緑が誰よりも錦之助を買っていたというののだから皮肉な話である。

 錦之助は芸事に励んだ。そして、看板役者たちの芝居を食い入るように見て学び取ろうとした。
 吉右衛門と時蔵が手本だった。吉右衛門一座の三本柱と呼ばれるようになった幸四郎、勘三郎、歌右衛門(昭和二十六年四月、芝翫改め六代目中村歌右衛門を襲名)が演じている役も熱心に観察して、自分もいつか彼らのような良い役をやってみたいと思った。いや、やるんだと心に誓った。
 しかし、自分はいったいどういう役者になれば良いのだろうか。そんな迷いも心の隅にあった。父時蔵のように女形で通すべきなのだろうか。
「鏡山」のお初は時蔵の持ち役の一つであった。父に倣って三越劇場で演じたお初は思いがけないほどの賛辞を得た。嬉しかったし、今後の励みにもなった。が、あれで良いのだろうか。
 父時蔵の当り役と言えば、「忠臣蔵」のおかる、「義経千本桜」の静御前、あるいは「清正誠忠録」や「孤城落月」などの淀君、「紅葉狩」の更科姫、「土蜘」「茨木」「嫗山姥」などの鬼女、世話物では「幡随長兵衛」の女房お時、「切られお富」のお富など数多くあるが、あのような女形を目指すべきなのだろうか。
 兄の梅枝は急成長し女形のホープと目されるようになってきたが、父の後継者は兄貴の方が向いているのではないか。女形は兄に任せれば良いという思いも錦之助にはあった。それに吉右衛門劇団には澤村源平(のちの訥升)という同世代の有望な若女形もいるではないか。
 女形ではなく、自分は立役をやってみたい。歌舞伎ではもちろん女形も重要だが、万雷の拍手を浴びる主役はなんといっても立役である。錦之助はそう思った。吉右衛門のように幡随長兵衛を演じてみたい。「忠臣蔵」の由良之助を演じられる看板役者になりたい。もう亡くなって舞台を見られなくなってしまったが、六代目菊五郎の素晴らしさも、錦之助の目に焼きついて離れなかった。「娘道成寺」の花子もやれば、「め組の喧嘩」の鳶頭辰五郎という江戸っ子もできる華のある千両役者。子役の頃から六代目に何度も言われた、「錦坊、えらい役者になるんだぞ」という言葉が錦之助の頭の中を駆けめぐった。
 錦之助は自分の性格から言って女形には向かないと思っていた。できれば立役をどんどんやって行きたい。吉右衛門や父時蔵にも相談してみた。若い頃は女形をやっておくと後で立役になるにしても大変役立つ。二人とも同じような答だった。立役にも色気がなくてはならない。その色気は女形をやって養うものだというのだ。錦之助は納得した。あと二年、二十歳になるまで、女形をやってみよう。
 が、一つだけ、錦之助には不安があった。コンプレックスというほどでもないが、少年時代からの悩みでもあった。それは背が低いこと、身体が小さくて貧弱だということだった。ある程度成長が止まる十六歳ごろになっても身長は一五〇センチ半ば、体重は五十キロあるかないかというところだった。昔のように尺貫法で言えば、五尺二寸、十四貫目である。もっと背が伸びるように、もっと身体が逞しくなるようにと、錦之助は好きな野球のほかに水泳を練習し、講道館へ柔道を習いに通った。朝起きるとパンツ一枚で鉄亜鈴を持って上半身を鍛えた。肉料理をつとめて食べた。
 その効果が現れたのか、十八歳になる頃までに背の方は五センチ以上伸びて一六〇センチを超えた。体重は五キロほど増えて五十五キロ。女形をやるには良いが、いずれ立役をやるにはまだ小さい。錦之助は体格改造を続けていった。



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