錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~反逆と挫折(その2)

2012-10-31 13:27:59 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 私の手許に昭和27年11月23日発行の「アサヒ芸能新聞」というタブロイド判の週刊誌のコピーがある。ずっと以前に錦之助ファンからいただいたものだが、錦之助の発言を記録した資料としては昭和26年11月号の「演劇界」のインタビューに次いで古いものである(他にもあるかもしれない)。そこに、「梨苑会をめぐって」という座談会の記事があり、この会の設立主旨、活動内容、そして近々催される共立講堂での発表会のことが語られている。
 出席者はメンバー8人で、中村又五郎中村吉十郎市川九蔵(この三人は吉右衛門劇団の準幹部で指導者格)、市川松蔦岩井半四郎(この二人は猿之助劇団)、坂東慶三梅枝錦之助である。


座談会の出席者 左から又五郎、慶三、松蔦、錦之助

 これによると、発表会は11月28日、29日の二日間で、第一回目である。出し物は、近松門左衛門生誕三百年を記念して、「大名なぐさみ曽我」と「傾城反魂香」の二本立て。
 昭和27年のカレンダーを調べてみると、28日が金曜、29日が土曜である。錦之助は「昼夜二回」と書いているが、この二本の出し物を昼の部と夜の部に分け、二日公演なのでそれぞれを昼夜入れ替えて上演したのかもしれない。たとえば、「大名なぐさみ曽我」は28日の昼の部と29日の夜の部といったように。
 最初に梨宛会の指導者格の又五郎と九蔵の発言があり、会の設立動機や趣旨、これまでの活動や今後の抱負などを語っている。要約しよう。

 関西歌舞伎の若手たちの活動に刺激され、東京の方でもそうした若手の会を結成しようということで梨苑会が出来た。この名称は、昭和初期に勘三郎や幸四郎たち当時の若手が作った研究会の名称と同じで、第二次梨苑会と言うべきもの。まず、歌舞伎の脚本の検討から始め、いずれ試演会を催そうと思っていた。それが今回やっと実現の運びになった。会員はここに集った出席者のほかに、種太郎(病気療養中)、澤村源平(のちの訥升)で、相談役として歌右衛門、勘三郎、幸四郎にも協力してもらっている。今までに近松の「心中万円草」と「心中天網島」を仕上げた。みんなで読み合わせながら解釈の仕方を討論するやり方で、分らない箇所は専門家に教示してもらった。近松の作品から始めたのは、系統的な意味から選んだことで、今後は南北、黙阿弥、また新作も手がけていくつもりだ。試演会はこれを機に年二回くらいはやっていきたい。

 その後、若手たちのいろいろな発言がある。
 半四郎は「最初は一週間に一回くらいでしたが、劇団が同じでないから僕や松蔦君はなかなか出られないので辛いナ」と言っている。猿之助劇団に在籍していた二人は、蚊帳の外に置かれていたところもあったようだ。梨苑会は、吉右衛門劇団が中心で、菊五郎劇団の若手は一人も入っていない。
 関西歌舞伎界の若手と一番交流があったのは、種太郎と錦之助である。この二人が発案者、推進役となって、梅枝や他の若手を巻き込み、又五郎を担ぎ出して梨苑会を作ったことは間違いあるまい。種太郎と錦之助が親しくしていた雷蔵と鶴之助からいろいろな知恵を授かり、彼らの経験も参考にしたのだと思う。
 梅枝は座談会で第一回発表会のPRをして、「両方(『大名なぐさみ曽我』と『傾城反魂香』)とも原作に非常に忠実で、なかなかいいいですよ」と話し、司会から稽古の期間を尋ねられて、「大体半月ですね。でも少ない」と答えている。これは立稽古のことで、本読みはすでに終っていたのかもしれない。


座談会の出席者 左から梅枝、半四郎、吉十郎、九蔵

 なにしろ、元禄期に坂田藤十郎らによって京都で上演された歌舞伎を二百数十年ぶりに復活上演するというのだから大変なことだったにちがいない。近松の原本を省略せず科白も変えずに忠実に演じるというのである。『傾城反魂香』は「吃又(どもまた)」のくだりの後に続く段を上演し、『大名なぐさみ曽我』全段は初演の時以来という上演である。実際演じられた芝居を誰も観たことがなく、伝承された型も存在しないので、新作をやるのと同じように一から創り上げたという。役者の稽古だけでなく、義太夫、衣裳、小道具、舞台セットなどすべてそうである。錦之助は「稽古に入って二日になるけどまだどの程度のものか見当がつかないナ」と言っている。

 錦之助はこの座談会であと二度発言している。
 近松の脚本について、「読んでいて素直に入れるということは、やはり近松という人が人間の気持を真底から正しくつかんでいたのですネ」が一つ。
 もう一つ、司会が今月のように歌舞伎の昼夜十本の出し物の時に一本くらい自分たちの勉強のためにやらせてくれと言えないのかという質問に対し、松蔦が「無理でしょう」と答えた後に、錦之助は文楽に比べ若手が勉強する場を与えてくれない歌舞伎興行に触れ、こう言っている。
 「文楽の太夫さんたちは端場なんか語ったり、掛合いをやったりして勉強ができるけど、僕たちにも端場もののようなものをやらせてほしいナ
 端場(はば)とは人形浄瑠璃では各段の最初の部分で、あまり重要でない場面である。
 
 この座談会が11月のいつ行われたのか分からない。発行は11月23日であるが、座談会は11月の初め頃かもしれない。公演が28日から始まり、稽古が半月、この座談会の時点で稽古二日目ということは、11月10日以前であることは確かだ。
 
 梨苑会公演の「大名なぐさみ曽我」のことを長々と書いたが、これでようやく11月の歌舞伎座公演で、錦之助が一役にしか出演しなかった理由が判明した。この期間、梨苑会公演の稽古に励んでいたのである。梨苑会のほかのメンバーも同じで、やはり11月の歌舞伎座では一役しかやっていない。又五郎、梅枝、種太郎(病気で休演したようだ)、半四郎、松蔦はみな一役である。慶三だけが二役やっているにすぎない。歌舞伎座の本興行を片手間にして、自分たちの公演の準備や稽古を優先したのだ。歌舞伎座の千秋楽は26日。一日置いて、翌日28日から2日間だけの公演であったが、これは既成歌舞伎への挑戦でもあり、若手役者たちの体制内での反逆でもあった。

 錦之助も書いているように、梨苑会公演では、みんなで切符を分担して売りさばいたというし、スポンサーがいたのかどうか分からないが、自主公演同然だった。神田一ツ橋の共立講堂は約2,500人収容、当時はクラシック音楽のコンサートがメインのホールであった。若手歌舞伎で二日とも大入り満員になったというのだから大したものだ。関係者や知り合いだけでは満員にはなるまい。大手の新聞にも報道され、きっと大きな話題を呼んだのだと思う。
 
 一つ、新しい事実が分かった。「配役総覧」で、ついでに「傾城反魂香」の配役を調べてみた。すると、これにも錦之助が出演しているではないか。錦之助本のリストにはこの公演で「大名なぐさみ曽我」だけを記していたし、錦之助も「あげ羽の蝶」の中でこの出し物のことにしか触れいなかった。が、「配役総覧」を見ると、「大名なぐさみ曽我」には錦之助の名前がないのに対し、「傾城反魂香」にはちゃんと出ている。実はこちらの方が良い役だったのだ。以下、配役をあげておく。
 
 お宮=又五郎、元信=梅枝、葛城=錦之助、山三=九蔵、亭主=吉十郎

 これでは何が何だが分からない。そこで、「歌舞伎名作事典」を出して「傾城反魂香」のあらすじを読む。錦之助の演じた葛城という役は島原の傾城(遊女)で女役であった。九蔵扮する名古屋山三と結ばれるようだ。それにしても梅枝が男役の狩野元信をやっているのはどうしたことか。又五郎のお宮は、島原の元傾城で年増女。元信の昔の恋人だった。

 さて、その後の梨苑会の活動についてだが、今のところさっぱり分らない。第二回発表会を催したのか、また錦之助が関わったのは第一回までなのか。それと、松竹演劇部は梨苑会の活動にどういう反応を示したのか。歓迎したとはとても思えないのだ。松竹は武智歌舞伎に対しても報復的な処置を講じたようだし、梨苑会の活動に対しても阻止する方向に動いた可能性が高い。また、座頭である吉右衛門と猿之助、そして梨苑会のメンバー三人の父時蔵は、どう考えていたのであろうか。これも分からない。




中村錦之助伝~反逆と挫折(その1)

2012-10-29 21:43:59 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 昭和二十七年、錦之助は良い役に恵まれなかった。ほとんどが脇の脇といった役だった。出演も一興行に一役ないしは二役で少なかった。
 望んでいた立役はさっぱりで、誰かの家来ばかりだった。歌舞伎座では、一月の「志度寺」(しどじ)で家来、四月の「清正誠忠録」で家臣、十一月の「俊寛」で侍。まあまあ良い役といえば、二月の新橋演舞場で「船弁慶」の駿河次郎、十二月の京都南座で「紅葉狩」の従者左源太くらいである。(「紅葉狩」では山神に代わって初めて左源太をやった)
 あとは女形で、こちらの方がまだしも良い役が多かったが、それでも四番手ないし五番手の役が多く、四月の歌舞伎座、「西郷と豚姫」で舞妓、九月の「菖蒲浴衣」で芸者をやったのが目立ったにすぎない。良い役は、五月の大阪歌舞伎座での「佐々木高綱」の娘薄衣の役くらいであろうか。


「西郷と豚姫」左から源平、梅枝、錦之助

 昭和二十七年後半の錦之助の舞台出演に関しては不明な点が多い。錦之助本の巻末リストを見る、十月と十二月の二ヶ月がブランクである。また、七月の吉右衛門一座の地方巡業も、演目と役名は分かるが、どこへ巡業に行ったのか、また期間はいつなのかも分らない。
 問題は十月のブランク。データベースに錦之助の出演記録はない。が、記念写真集「三世中村時蔵」を見ると、年譜に、時蔵は「十月、四国九州方面へ巡演」と記してある。きっと錦之助は時蔵の巡業に随行したのだと思う。長兄種太郎も一緒だと思う。一方、この期間、吉右衛門一座は名古屋の御園座に出演。データベースによると、「吉右衛門大一座十月興行」とある。吉右衛門は、昼の部で「石切梶原」、夜の部で「籠釣瓶」という当たり役を演じている。吉右衛門を座頭に、幹部の幸四郎、勘三郎、歌右衛門、又五郎、吉之丞、吉十郎、そして若手の慶三、梅枝、訥升など総出演である。つまり、錦之助だけがはずれて、時蔵一座の地方巡業に参加した可能性が高い。さもなければ、東京で居残り組である。

 この年は、錦之助の自伝の中でも思い出に残る役として、雷蔵と同じ舞台に立った役を二つ挙げているだけである。
 それは、三月に大阪歌舞伎座で出演した「三千歳と直侍」での千代春と、八月の明治座で出演した「十六夜清心」(外題は「花街模様薊色縫」)での恋塚求女(もとめ)であった。
 「三千歳と直侍」では、直侍の片岡直次郎を雷蔵の養父の市川寿海が演じ、その恋人の花魁三千歳を錦之助の父時蔵が演じたが、入谷の大口屋寮の場で錦之助と雷蔵が二人揃って若いお女郎さんに扮したのだった。錦之助の千代春に対して、雷蔵の方は千代菊という名である。
 「十六夜清心」も寿海と時蔵の共演で、寿海が寺僧清心、時蔵が遊女十六夜だったが、こちらは錦之助と雷蔵が一日交替で恋塚求女の役を演じた。女ではなく中性的な寺小姓で、清心に金を奪われ、殺されてしまう哀れな役である。つまり、錦之助と雷蔵が舞台で一日おきに殺されていたわけだ。錦之助は、「あげ羽の蝶」の中でこう書いている。

――二人とも寿海さんから教わったのですから、セリフ回しが少し違うぐらいで、大体同じなんですが、舞台にたつとモリモリと競争心がわき、教わったことをやるので精一杯のなかにもお互いにいろいろと工夫しあったものです。


錦之助(千代春)と雷蔵(千代菊)

 錦之助の遊女はあでやかだったと想像するが、雷蔵の女形というのはどうなのだろう。写真を見る限り、特別美しいとも思えないが、修業の必須科目として雷蔵も女形に取り組んだのだろう。雷蔵の舞台出演リストを見ると、ずいぶん女形もやっているが、雷蔵はやはり立役に向いている役者であった。武智歌舞伎で鶴之助、扇雀とともに一躍脚光を浴び、昭和二十六年六月に雷蔵を襲名してからは関西歌舞伎だけでなく、東京にも出向いて有望な若手役者と目されるようになっていたが、莚蔵時代に特に好評を得た役は、武智歌舞伎で演じた「妹背山道行」の烏帽子折の求女(実は藤原淡海)だった。この役はまさに適役だったらしく、関西の劇評家たちだけでなく谷崎潤一郎が賞賛したほどであった。これがきっかけとなり、関西歌舞伎界の重鎮寿海に認められ、寿海に嫡子がいないことから、ちょうど二十歳になる前に彼の養子に入って雷蔵を襲名したのである。
 この時代の錦之助と雷蔵を比べてみると、雷蔵の方が恵まれていたし、役者としての方向もある程度見えていたように思える。寿海が自分の後継者と定め、養子とはいえ一人息子の雷蔵に絶大な期待をかけ、後ろ盾になったことも大きい。役柄は、二枚目の立役、それも「やつし」の境遇にある貴公子か、悲愴感漂う武将など、翳と憂いを帯びた立役を目指していた。
 それに対し錦之助はどうかと言うと、時蔵の実子でも四男であったことがます何よりの弱みであった。また世代的に東京の歌舞伎界では上(先輩)が詰まっていて、錦之助を優先的に押し立てるわけにもいかない。錦之助は三越青年歌舞伎の「鏡山」のお初で好評を得たが、それは一途で可憐な娘役が評価されたのであり、父時蔵が歩んだ女形への道を歌舞伎ファンが期待するものであった。
 九月の歌舞伎座出演で、「菖蒲浴衣」で芸者をやった四人の集合写真が「あげ羽の蝶」に載っている。


「菖蒲浴衣」左より錦之助、又五郎、梅枝、慶三

 錦之助本の巻末リストで九月のところに「菖蒲浴衣」が二行重複して書いてあるのは、最初誤植かと思ったが、実は子供かぶき教室で、同じ「菖蒲浴衣」をやり、錦之助も本興行と同じ芸者の役をやっているのが分かった。これは「歌舞伎座百年史」にちゃんと書いてあることで、「九月十四日 第七回子供かぶき教室 解説=河竹繁俊 『菖蒲浴衣』 芸者=又五郎・慶三・源之助・松蔦・九蔵・雷蔵・梅枝・錦之助・源平」とある。錦之助、雷蔵、梅枝が女形で共演している。
 子供かぶき教室は昭和二十七年二月から始まった催しで、東京都教育委員会協賛。都内の小中学生を招いて、歌舞伎座で日曜の朝に上演。若手歌舞伎俳優の養成にもなった。

 錦之助は女形を嫌い、時蔵の期待にそむいてまで立役を目指したが、はたして立役が向いていたのだろうかという疑問を感じる。無論、歌舞伎役者としての話だが、弁慶や仁木弾正のような豪快な役は無理だろうし、いずれ義経や「忠臣蔵」の判官あるいは勘平といった大役が回ってくるまで、何年か女形を続けるよりほかに仕方がなかったのではあるまいか。が、それも、錦之助のお坊ちゃん育ちの忍耐力のなさ、熱しやすく冷めやすい傾向、負けず嫌い、新しいものへの挑戦欲、一本気といった性格、しかも子役時代の栄光を引きずって、観客からの喝采を浴びる主役に憧れていたとすれば、困難であったにちがいない。現在の自分の状況が八方ふさがりで、歌舞伎界に進むべき道がないのではないかと思い始めたのは当然かもしれない。
 人一倍研究熱心で看板役者の芝居を真剣に見ていた錦之助が急に情熱を失い始めた。稽古にも熱が入らなくなった。錦之助は「あげ羽の蝶」にこう書いている。

――しかし、歌舞伎教室はともかくとしても、本興行ではさっぱり役らしい役はもらえませんでした。そしてふたことめには、関西カブキの若手はしっかりしているのに、東京の若手はだらしがない、という声が劇団の内と外でささやかれていました。関西方の若手では中村扇雀、坂東鶴之助さんが活躍して扇鶴時代とかいわれていたときでした。僕たちにいわせればやらせてもらえないものはだらしがあるもないも、しょせん仕方がないではないかといった気持になってきました。

 昭和二十七年から二十八年にかけて頃であろう。雷蔵も含め関西の若手たちの活躍に対し、ひがみ、あきらめ半分だった錦之助の気持ちがうかがわれる内容である。


中村錦之助伝~当時の日本映画界(その3)

2012-10-26 21:38:45 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 ほかに、昭和27年から28年にかけて映画出演した歌舞伎役者には、市川段四郎、岩井半四郎、中村扇雀、坂東鶴之助、松本幸四郎などがいる。段四郎と幸四郎は明治生まれで、時代劇の若手スター候補とは言えないが、参考までに書いておく。
 市川段四郎は、猿之助(二代目)の長男、映画女優の高杉早苗の夫、団子(三代目猿之助)の父である。昭和27年に東宝時代劇に5本出演しているが、主演は『喧嘩安兵衛』(滝沢英輔監督)だけで、ほかは助演である。
 松本幸四郎(今の幸四郎の父)は、昭和28年夏、松竹京都の時代劇大作『花の生涯』(舟橋聖一原作、大曾根辰夫監督 10月公開)に出演、主役の井伊直弼を演じている。阪妻亡き後、時代劇の大物がいなくなった松竹の大谷竹次郎社長に乞われ、遅まきながら映画デビューした。が、これが好評で、以後昭和31年まで毎年、歌舞伎のない夏休みになると、松竹の大作映画に主役で出演している。
 岩井半四郎は、戦前すでに仁科周芳(ただよし)の本名で子役で映画出演していた。東宝作品『忠臣蔵』(昭和14年 滝沢英輔監督)などである。また、終戦直後に完成し、GHQによって上映禁止になった黒澤明の『虎の尾を踏む男たち』(昭和27年4月公開)では義経に扮している。その後は市川笑猿として猿之助一座で歌舞伎修業を続け、昭和26年、歌舞伎座の「源氏物語」で若き日の光源氏を演じ(この時、錦之助は若き日の頭中将役)、脚光を浴び、同年10月、岩井半四郎を襲名した。そして、昭和27年、松竹大船の現代劇で軽い脇役で映画出演、昭和28年には時代劇3本に出演した。新東宝の『名月赤城山』、松竹京都の『疾風からす隊』と『とのさま街道』(倉橋京介監督、岩井半四郎主演)であるが、注目は浴びず、時代劇のスターになる見込みは薄かった。
 中村扇雀は、昭和28年4月、松竹京都の『お役者小僧』(冬島泰三監督 出演高田浩吉、高千穂ひづる)で映画デビュー。女形役者を演じて話題をまいた。同年11月に大映京都作品、大河内主演の『魔剣』に助演したが、この頃の映画出演はお試し程度だった。以後扇雀は舞台に専念し、本格的に映画出演を始めるのは昭和30年からである。
 坂東鶴之助は、昭和28年9月、新芸プロの『次郎長一家罷り通る』(堀内真直監督 松竹配給)でデビュー、同年新東宝の『若さま侍捕物帖』で主役を演じ、これを2本撮るが、時代劇のスターになるには程遠かった。「若さま侍」は初代が黒川弥太郎、二代目が鶴之助、そして三代目が大川橋蔵で、昭和31年以降橋蔵の当たり役になる。

 錦之助が映画デビューする前の歌舞伎役者の映画出演は以上の通りである。

 補足として、「演劇界」の昭和30年12月増刊号に「映画に出た歌舞伎俳優」という題で映画評論家の山本恭子(女性では当時の第一人者)がそれぞれの俳優に忌憚のない意見を述べている。リアルタイムの発言として参考になるので、引用しておこう。(昭和30年末の記事で、錦之助も雷蔵もすでに映画界入りしていて、二人のことにも触れているが、それはまたいずれ紹介しよう。)

(大谷友右衛門)彼の性情には何処かニヒリスティックなものがあるのか、小次郎役はハマリ役だった。その後次々映画に出演しているが、皮肉なことに『誘蛾燈』にパチンコ屋の息子、『噂の女』のアプレ青年医師など、現代劇の彼の役柄が一番印象深い。

(北上弥太郎)髷も勿論板につき、時代劇的な風貌も立派で、次々と作品に出演、時代劇では一応第一線スタアとなったが、まだ沸騰的人気がわくというところへは行かない。出演映画の質による運ということもあるが、あまり役で苦労している様子が見えず、器用にこなすところで本人も周囲も満足していることが災いしているのではないだろうか。

(岩井半四郎)現代劇でよい演技を示した。『帰郷』という映画のなかで、少々イカレ・ポンチ式のアプレ青年を演じてアッといわせた。その後時々時代劇映画で顔を見せるが、これという作品がなく、彼の本腰はやはり歌舞伎にあるらしい。

(中村扇雀)女形としての無類な美しさと色気とを舞台で買われていただけに、映画は女形を必要としないから、これも何割方かの損をしている。色若衆に扮しても、舞台の人気にまさる人気の沸き立つ道理はないのである。といって、立役の偉丈夫にもなりきれないうらみがある。

(坂東鶴之助)素や舞台で見るよりも、映画では彼の六頭身位の顔の大きさが醜く目立つので損をしている。映画の根底にあるものが、結局は冷酷なリアリズムだということを、形式美に生きる歌舞伎の人たちはまず考えてかからなけければならないのではなかろうか。


 市川雷蔵ファンのホームページ「ようこそ雷蔵ワールドへ」に、演劇雑誌「幕間」の昭和28年9月号に掲載された「東西若手放談会」の一部が紹介されている。司会の「みんな映画に出たいと思いませんか」という質問に対して、錦之助と雷蔵の回答が面白い。

錦之助―僕少しは興味を感じます。
雷蔵―僕は売りこむのは嫌いやけど、勉強になるというなら、出る。
錦之助―出てやってもいいっていうの?
雷蔵―うん、出てやってもええわ(大笑)


 控え目な錦之助に対し、強気で自信家の雷蔵の発言である。これは、昭和28年8月、新橋演舞場で東京大阪合同歌舞伎が催された時、東西の若手を何人か集めて取材した記事だと思う。(つづく)



中村錦之助伝~当時の日本映画界(その2)

2012-10-26 16:58:01 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 ところで、戦後第一期の男優スターと言えば、池部良三船敏郎鶴田浩二佐田啓二三國連太郎らであるが、彼らは現代劇で主役を演じ人気が出たスターだった。(鶴田のデビュー作は昭和23年松竹京都の時代劇『遊侠の群れ』だが、彼が主演して注目されたのは昭和24年の『フランチェスカの鐘』だった。また、三船敏郎のデビュー作は昭和22年東宝作品『銀嶺の果て』で、注目されるのは昭和23年、黒澤の『酔いどれ天使』である。三船の時代劇初出演は昭和25年の『羅生門』、剣豪を初めて演じるのは『完結佐々木小次郎・巌流島決闘』の宮本武蔵で、この時の小次郎は友右衛門である。)
 そして、彼らはみな、大正後半生まれで、昭和27年4月時点(筆者の生まれた時)で二十代半ばを過ぎていた。(池部良は、若く見えるが、大正7年生まれで35歳、この中で最年長だった。昭和24年『青い山脈』で20歳そこらの旧制高校生を演じた時、すでに32歳である。)
 が、それでも時代劇に比べればましだった。時代劇の人気俳優はほぼ全員戦前からのスターで、明治生まれの中年男ばかりだった。昭和27年4月時点で一番若い大友で39歳、最年長の大河内が54歳だった。若い順に言うと、浩吉40歳、長谷川44歳、右太45歳、アラ寛48歳、千恵蔵49歳、月形50歳、阪妻51歳である。
 これまで時代劇の男優は、歌舞伎役者をスカウトすることが多かった。時代物の所作振舞といった基本が出来ているので、着物を着せて鬘をかぶせ、すぐにでも映画に出せた。手っ取り早かったのである。ただし、戦前の時代劇俳優は、歌舞伎では名門出身でないため不遇な役者、売れていない役者、小芝居の役者がほとんどだった。尾上松之助、市川百々之助、阪妻、千恵蔵、寛寿郎、右太衛門、林長二郎(長谷川一夫)がそうである。大河内は新国劇、歌舞伎や芝居に無関係なのは月形龍之介くらいである。
 前にも述べたが、戦後歌舞伎役者から転じた時代劇スター第一号は、昭和25年12月、『佐々木小次郎』で映画デビューした大谷友右衛門だが、昭和27年には時代劇4本に出演している。大佛次郎原作の『四十八人目の男』(佐伯清監督 東宝)は「赤穂浪士」の番外編で、討ち入りに加わらなかった小山田庄左衛門(のちに錦之助も演じた)を主人公とした作品だが、これを友右衛門が好演している。その後、東宝から新東宝、大映、松竹と転々とし、20本ほど出演して(その中には溝口健二の現代劇『噂の女』での医師もある)、昭和30年歌舞伎界に戻ってしまう。友右衛門は、短命の時代劇スターだった。
 昭和一ケタ生まれ(錦之助と同じ昭和7年生)で歌舞伎役者から時代劇俳優に転じた最初の役者は、北上弥太郎である。七代目嵐吉三郎の息子で関西歌舞伎時代の名は嵐鯉昇、武智歌舞伎で注目された若手有望株の一人だった。昭和25年大阪歌舞伎座で錦之助は鯉昇と同じ舞台に立っている。演目は「夕涼み」で、錦之助は江戸っ子芸者、鯉昇は太鼓持ちを演じた。鶴之助、扇雀、雷蔵も出演した舞台であった。鯉昇は大谷竹次郎社長の推挙を受けて、時代劇スターが手薄な松竹京都に入り、昭和27年2月、『出世鳶』(大曾根辰夫監督)で本名の北上弥太郎を名乗ってデビューした。
 その後、昭和28年末までに15本の作品(3本は現代劇)に出演。美空ひばりの相手役をやった最初の歌舞伎界出身の若手俳優であった。その15本のうち美空ひばりとの共演作が4本あり、昭和28年10月製作の『山を守る兄弟』(大仏次郎原作 松田定次監督)では、北上が兄の玉置伊織、ひばりが弟の大三郎をやっている。


『山を守る兄弟』北上とひばり

 この映画の企画は、ひばりのプロモーター、新芸プロ社長福島通人である。これは重要なことなのだが、福島がその次の時代劇映画で、16歳になったひばりにもそろそろ恋愛する役をやらせようと考え、『ひよどり草紙』を企画したのは、この頃だった。そして、その相手の男優を必死に探していた。ということは、北上弥太郎がひばりの恋人役としては適さないと感じたからなのだろう。この頃、北上は瑳峨美智子との噂もあり、ひばりの母の加藤喜美枝とひばり自身も北上を望まなかったにちがいない。結果的に北上はひばり母娘に振られたことになる。(『山を守る兄弟』と『ひよどり草紙』の間に、松竹大船作品『お嬢さん社長』(川島雄三監督、佐田啓二共演)が製作される。ちなみに、ひばりに「お嬢」という呼び名がついたのはこの作品によってである。)
 北上弥太郎は、主演作で松平長七郎役の「若君捕物帳」を2本撮ったがシリーズ化には至らず、結局主役スターにはなれないまま脇役俳優に落ちてしまう。松竹京都に入ったのが不運だったのかもしれない。彼はスターになれなかった時代劇俳優だった。


八代目嵐吉三郎(北上弥太郎)

 北上弥太郎は、旧友扇雀の勧めで、昭和59年歌舞伎界に復帰し、父の名跡の嵐吉三郎(八代目)を継いだ。が、歌舞伎役者として再スタートした3年後の昭和62年、喉頭鴈で人生の幕を閉じている。享年55歳だった。(つづく)




中村錦之助伝~当時の日本映画界(その1)

2012-10-26 11:04:28 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
昭和27年から昭和28年にかけての日本映画界について触れておきたい。錦之助が映画界入りする前の背景であり、錦之助という映画スターが登場する前の、いわば前舞台である。
 まず、大映は、昭和26年9月に黒澤明の『羅生門』がヴェネチア映画祭でグランプリを取って気勢を上げた。その後社長永田雅一は、自社作品の海外進出も視野に入れ、芸術大作路線を敷いて本格的に映画製作に乗り出した。
 大映はすでに長谷川一夫の劇団新演伎座とは提携契約を結んでいたので、長谷川一夫は大映作品に出ていた。昭和26年、長谷川は、娯楽時代劇『銭形平次』シリーズを開始し、また11月、大作『源氏物語』(吉村公三郎監督)で光源氏を演じてヒットさせた。そして、昭和27年、松竹京都の『治郎吉格子』(伊藤大輔監督)で鼠小僧を演じた後、大映京都で『修羅城秘聞』二部作などを撮って大映専属となり、以後大作は衣笠貞之助監督と組んで、11月に『大仏開眼』、翌28年には大映初の総天然色映画『地獄門』を撮って、大映時代劇を支える看板スターの座を確保していく。『地獄門』はアカデミー賞の衣裳デザイン賞と外国語映画賞を取り、カンヌ映画祭ではグランプリを受賞した。
 また、永田雅一は、顧問に川口松太郎を据え、昭和27年には監督溝口健二を招いて『お遊さま』を製作(これは失敗作)、翌28年、溝口は『雨月物語』を撮って、ヴェネチア映画祭で銀獅子賞を受賞する。つまり、大映はチャンバラ時代劇でなく、プライドの高いワンマン社長永田雅一の方針の下に、芸術大作時代劇を連打していた。それには、チャンバラスターがいなかったこともあるだろう。(昭和29年夏、市川雷蔵と勝新太郎が入る前の大映の話になってしまった。)

 さて、それに対し、チャンバラ解禁を受けて、それを最も活用したのは東映であった。昭和26年4月に三社合併によって設立した、大川博社長率いる東映は、膨大な負債を抱え苦境にあったが、経費を切り詰め、自社作品の配給網を広げていった。GHQによる時代劇への規制は昭和25年頃から緩められていたが、昭和27年、まったく自由に時代劇が製作できるようになって、俄然勢いづいた片岡千恵蔵、市川右太衛門、月形龍之介、大友柳太朗など、並み居るチャンバラスターが活躍を開始した。
 昭和27年4月、他社に先駆け戦後初の忠臣蔵映画『赤穂城』(萩原遼監督)、5月に『続赤穂城』を封切った。ただし、討ち入り場面はなかった。この映画で、浅野内匠頭と大石内蔵助の二役を演じたのは片岡千恵蔵である。多羅尾伴内、Gメン、金田一耕助といった現代人をやっていた千恵蔵が、近藤勇や国定忠治や机竜之助もやるようになった。市川右太衛門の「旗本退屈男」はすでに昭和25年に復活しシリーズ化していたが、「ジルバの鉄」をやった右太衛門が中山安兵衛や浅香恵之助(『修羅八荒』)に扮し、剣を振るった。
 東映のことはまた書こう。

 松竹は大船の現代劇がメインだったが、京都製作の時代劇にも力を入れ出す。
 昭和24年秋、大物スター阪東妻三郎を大映から松竹に移籍させた。阪妻はまず、木下恵介監督の現代喜劇『破れ太鼓』でカミナリ親父を熱演し大ヒットさせた後、暮に『影法師』を撮って昭和25年の正月上映で当て、松竹京都時代劇の大看板になっていた。同年5本(1本は東横作品)、翌26年3本(1本は東映作品)、寡作ながらもすべて時代劇だった。昭和26年11月公開の『大江戸五人男』(伊藤大輔監督、市川右太衛門共演)では幡随院長兵衛を演じた。昭和27年は『魔像』と『丹下左膳』に主演。だが、持病の高血圧に悩まされ、往年の活躍は望めなかった。昭和28年7月初め『あばれ獅子』の撮影中に倒れ、7月7日不帰の人になった。一世を風靡した剣戟スターが消えたのだった。
 松竹京都の時代劇には、ほかに高田浩吉がいたが、歌のうまい時代劇スターではあったが、チャンバラスターとは言えなかった。
 
 東宝は争議の後、落ち着きを取り戻し、自社製作がやっと軌道に乗り始めていた。が、時代劇は当時まだ不得手で、昭和27年は、三船敏郎主演で『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』(森一生監督)と『戦国無頼』(稲垣浩監督)を作ったが、子会社の宝塚映画が製作した作品を配給することも多かった。
 新東宝は設立時の大物俳優がごっそり抜け、経営も苦しく低予算の映画を連作していたが、時代劇は専属スターも不在で小粒な作品が多かった。昭和27年、起死回生をはかり、溝口健二の力作『西鶴一代女』を世に送るも、興行的には不発に終ってしまった。
 
 戦前からの大物時代劇スターには、ほかに大河内伝次郎と嵐寛寿郎がいた。
 大河内伝次郎は50歳を過ぎてから大映時代劇では長谷川一夫の助演が多かったが、昭和27年、東宝の『四十八人目の男』で大石内蔵助、大映の『すっ飛び駕』で河内山宗俊、昭和28年、東映の正月作品『喧嘩笠』では清水次郎長に扮し、大前田栄次郎役の千恵蔵と共演し、続いて新東宝の『名月赤城山』で国定忠治、夏にマキノ雅弘監督で『丹下左膳』を2本撮った。が、左膳に往年の迫力はなかった。
 嵐寛寿郎は新東宝系の綜芸プロに所属していたが、フリーだった。昭和26年以降、寛寿郎は各社から引っ張りだこになる。『鞍馬天狗』だけを追ってみると、昭和25年夏、綜芸プロ製作、新東宝配給で『鞍馬天狗 大江戸異変』を撮って戦後初の鞍馬天狗を撮った後、昭和26年は松竹京都で2本(『鞍馬天狗 角兵衛獅子』では美空ひばりが杉作を演じ、松竹京都作品計3本に共演)、昭和27年になると松竹京都、東映京都、新東宝各1本で計3本、昭和28年には東映京都3本、新東宝1本、宝塚映画(東宝配給)1本で、計5本撮っている。加えて『右門捕物帖』も数本撮って、天狗だけでな「むっつり右門」の当たり役も復活させた。