錦・千代の決闘シーンは『里見八犬伝』にもあり、これも見せ場だったが、『紅孔雀』第四篇の最後と第五篇の最初にある小四郎と浮寝丸の決闘もハラハラするものだった。ほかに二人の決闘シーンは『隠密七生記』と『沓掛時次郎』の名場面が頭に浮ぶ。『紅孔雀』では、二人の背後に黒刀自の毛利菊枝が狂ったように呪いまくっている姿があり、しかも雷鳴の中で行われるので、迫力満点だった。途中で大友柳太朗の五升酒の猩々が仲裁に入って事なきを得るのだが、そのあと浮寝丸の目が開くという椿事が起こる。こんなことを言っては千代之介に失礼かもしれないが、浮寝丸は盲目の方がずっと良かったと思う。目が開いてからはそれまでのイメージが崩れてしまった。
高千穂ひづるの久美も大熱演だった。黒刀自にどくろかづらの毒を飲まされてから、「されこうべ党」の首領にされ、小四郎を殺そうとする悪い心に取りつかれてしまう。この久美の表情の変わり方がすごかった。メーキャップも変えていたが、目が吊り上って急に恐ろしい顔になるのだ。私は今でも高千穂ひづるの狂気の表情が瞼から離れない。『紅孔雀』の久美と『ゼロの焦点』で金持ちの奥様を演じた高千穂ひづるは、その豹変ぶりが恐いほどだった。
錦之助の二刀流について触れておこう。那智の小四郎は、場面によって二刀流を使う。錦之助の宮本武蔵が二刀流開眼するのはずっと後の話で、『宮本武蔵・第三部』は確か昭和38年の映画だが、錦之助は昭和29年末に製作された『紅孔雀』で初めて二刀流を使うわけである。以後、錦之助は、宮本武蔵に至るまで多くの剣士役で二刀流を磨いてきた。そして、『源氏九郎颯爽記・秘剣揚羽の蝶』(昭和37年)で、様式美の極みとも言うべきあの舞うように美しい二刀流(これぞ神変胡蝶流の完成であろう)を披露し、さらに『宮本武蔵・一乗寺の決斗』(昭和39年)では、源氏九郎とは全く違った武蔵独特の実戦的でなりふり構わない二刀流を使い、吉岡一門の多勢を次々と斬り倒す。
『紅孔雀』の第二篇では、小四郎が、鎖鎌の使い手の黒騎刑部(楠本健二)と闘うシーンがある。これは、のちに『真剣勝負』で描かれた武蔵と宍戸梅軒との死闘を暗示させる。鎖が大刀にからんでも、小刀の方で相手を斬り倒す。二刀流の使い方は同じだった。が、『紅孔雀』の頃の錦之助の二刀流はまだお世辞にも上手とは言えなかったと思う。斬る時に腰が入っていないので、手先だけで刀を振り回している感じだった。錦之助も『紅孔雀』で初めて二刀流を使った時には大変苦労したと語っている。片方の刀に気をとられているともう一方の刀が死んでしまうというのだ。確かに両刀をうまく使いこなすのは、まだ若い錦之助にとっては至難の技だったかもしれない。
ところで『紅孔雀』は、もともとNHKのラジオ連続ドラマ『新諸国物語』の第三話で、昭和29年の正月から一年間放送された。その前年が第二話『笛吹童子』だった。東映のこの映画は、ラジオの『紅孔雀』がちょうど終了する間際、昭和29年12月終わりから封切られる。そして翌30年の正月から五週にわたって公開され、正月の子供の観客を総ざらいする大ヒットとなる。『紅孔雀』は、『笛吹童子』をはるかにしのぐ収益を上げた。昭和30年度に公開されたすべて東映映画の中だけでなく、すべての邦画の中でも、『紅孔雀』の興行成績はダントツだったという。『東映十年史』という本によると、『紅孔雀』五部作の封切り配給収入は約4,600万円で、二番館・三番館での上映も含めた総配給収入は約2億2千万円だったそうだ。(『笛吹童子』三部作の封切り配給収入は、約1,300万円だったそうで、これでも爆発的なヒットだった。)昭和30年当時、金銭の価値が現在の十分の一だったとすれば、『紅孔雀』五部作で現在なら20億円以上の収入があったことになるだろう。
それでは、何が『紅孔雀』をこれほどまでに大ヒットさせたのだろうか。まず、『笛吹童子』で始まった錦・千代ブームが沸騰の頂点に達したことが言えるだろう。東映が企画した子供向けの中篇映画路線が軌道に乗ったことも明らかだ。それと、『紅孔雀』各篇の終わり方が次回に期待を膨らませるようなうまい作り方だったことも大きい。たとえば、第一篇の終わりは、小四郎と一角が崖の淵で、紅孔雀のカギを奪い合うシーン、第二篇の終わりは、浮寝丸が黒刀自の呪いで雷に襲われるシーンである。まるで連続物の紙芝居のように、どうしても続き見なくてはおさまらない終わり方になっていた。
東映の映画は、戦後の子供たちにとって全国のあちこちで一斉に上演された大規模な紙芝居のようなものだったと言えよう。口の悪い映画関係者たちが「東映はジャリ集めの映画を作っている」と評したことも故なきことではなかったし、『紅孔雀』という映画が、子供たちにとってまさに空前絶後の紙芝居、今の言葉で言えば一大イヴェントであったことも確かだった。(おわり)