錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『成吉思汗』

2010-04-24 22:03:25 | 成吉思汗・青年
 『成吉思汗』(ジンギスカン)は、錦之助の「幻の映画」である。1957年(昭和32年)の秋に製作が開始され、撮影途中で急遽中止になった、いわくつきの映画だった。東映時代、錦之助主演で企画された映画の中で、実現寸前で実際に映画化されなかった作品はいくつかある。たとえば、『青年』(林房雄原作の現代劇)、『女殺油地獄』(近松門左衛門原作)、ほかにも何本かあったと思う。が、『成吉思汗』は、特例だった。脚本が完成し、監督、スタッフ、キャスティングまで決め、ロケ地(確か長野だった)でクランク・インしてから、製作中止になったのだ。だから、宣伝用のスチール写真も何枚かあり、公表されている。もちろん、主役の錦之助が、モンゴルの衣裳をまとい、撮った写真もある。ご覧になった方もいるだろう。(私が持っている錦之助資料の何かでその写真を見た記憶がある。今度探しておきたい。)
 『成吉思汗』は、東映の製作部長・マキノ光雄が企画を立てた大作だった。監督は兄のマキノ雅弘で、主役の若き日のジンギスカン(テムジンという)は錦之助、その恋人役には有馬稲子が内定していたという。(この映画が錦ちゃんと有馬さんの初共演作になるはずだった。次にもう一本企画があって、これも流れ、『浪花の恋の物語』は三度目の正直だった。私の察するところ、二人は1955年11月「近代映画」の対談で初めて出会い、仲良くなって以来、ずっと共演を望んでいたようだ。結局、共演が実現するのは3年半後だった。初めは錦ちゃんの方が燃え上がったようだ。有馬さん曰く。)閑話休題。『成吉思汗』の出演者は、ほかに中村賀津雄、堀雄二、宇佐美淳、故里やよい、夏川静江、大河内伝次郎で、高倉健も出ることになっていた。東映東京の大泉撮影所を拠点に、オールロケに近い撮影スケジュールだったらしい。
 製作中止になった経緯に関しては、監督のマキノ雅弘が次のように語っている。ちょっと長いが、「映画渡世・地の巻」(マキノ雅弘自伝)から引用しよう。

 ――これは依田義賢がNHKのラジオドラマ用に書いた脚本をもとにしてやることになったが、連続ラジオドラマだから、何十時間もかかる。こんな長いもん撮れるかいと云ったら、光雄が、「じゃ、兄貴、オリジナルでやろう」(中略)ということになって、やって来たホンヤが笠原和夫であった。依田義賢の脚本はほとんど無視して、笠原和夫に自由に書かせた。これは非常に良いホンになった。
 私は東宝で『次郎長三国志』の八部の夕顔の役で使わせてもらえなかった有馬稲子をここでぜひ使いたいと思って交渉してもらったが、結局出ずじまいになった。
 (背寒注:『次郎長三国志』第八部は、サブタイトルが「石松開眼」から「海道一の暴れん坊」に変更された。石松は森繁久弥で、金毘羅の遊女・夕顔には新人の川合玉江が抜擢された。この第八部のリメイクが錦之助主演の『清水港の名物男・遠州森の石松』で、夕顔役は丘さとみ。この時は、美空ひばりが夕顔役を望んだという話が伝わっている。)

 ――十月の初めに、軽井沢にロケーションに行って、二日間撮影した。(中略)乗馬のシーンはすべて私が錦之助の吹替えをやった。二日間撮影したところで、片岡千恵蔵主演のオールスター映画(『任侠東海道』)に錦之助が欠けては困るというので、東映から急遽、錦之助が呼び返された。脚本が比佐芳武、監督は松田定次で、このコンビは当時東映で最も強く、この作品も大作だった。
 そんなわけで、光雄にしてみれば、『成吉思汗』というのは、松田定次、比佐芳武のコンビに対抗する気もあって立てた企画だったようだ。もともと大川博社長があまり乗り気ではなかった『成吉思汗』を光雄が強引にやったということもあるのだが、その時は光雄もさすがに怒った。(中略)オールスター映画『任侠東海道』が上がったあと、『成吉思汗』をまたやるのかと思っていたら、光雄が病気で倒れてしまった。

 マキノ光雄が倒れたのは、この年(1957年)の10月(終わり頃か?)で、11月に東大病院に入院し、さらに清水外科に転院した。病名は脳腫瘍で、手遅れだったのだろう。12月9日に死去した。(マキノ光雄に関しては、私もいろいろ調べているので、その人物と功績に関しては稿を改めて、いつか論及したい。)
 『成吉思汗』の陣頭指揮を取っていたマキノ光雄が倒れ、それがきかっけとなってこの映画が製作中止になったことは明らかなようだ。ロケが多く、馬の費用もかかり、製作費がかさむことも、ケチで有名な大川博社長の中止命令につながったのだろう。そこで、『成吉思汗』の代わりに、病床のマキノ光雄が遺言のように兄・雅弘に頼んだ企画が『おしどり駕篭』だった。これは戦前マキノ映画で作った『弥次喜多・名君初上り』のリメイクで、目玉は錦之助と美空ひばりの久しぶりの共演だった。京都でこの映画を撮影中のマキノ雅弘が、東京で闘病していた弟・光雄の死に目にも会えず、葬式をクランクアップまで延期したことは有名な話である。

 ところで、雑誌「時代映画」(1958年6月号)に依田義賢が『成吉思汗』のシナリオを掲載している。このシナリオは、前年に「キネマ旬報」に掲載したシナリオをさらに改訂したものだという。映画化が頓挫して、もはや陽の目を見ないことが分かった時点での再発表であり、依田義賢もよほど悔しかったのだろう。(私はまだこのシナリオを読んでいないが、近いうちに読んでみようと思っている。)シナリオに添えて、依田自身のコメントが載っているので、その一部を紹介しよう。
 ――故マキノ光雄氏はこれの映画化に当って、そういった歴史的な意味(注:遊牧民と農耕民の対立)を度外視して、興味のある草原の王者・大成吉思汗の英姿を書くように希望されたのですが、王生という人物(注:漢人で農耕民)が棄て難く、光雄氏の意に添えぬまま本を書きあげました。監督に当るマキノ雅弘氏は、これの製作に際して、光雄氏の意を介されて、結束信二君の協力を得て改訂され、それがキネマ旬報にも掲載されました。
 偶々、製作条件の都合から一時中断されていた時に、光雄氏逝去のことがあり、今度再び王生の出ているもとのシナリオの特色を生かして書き改めてほしいと依頼されて来ましたが、製作条件の困難さは少しも変わらないので、それも勘案し旬報に載った稿の興味ある所も取り入れて改訂してみました。
 
 依田義賢の言によると、彼のシナリオを直したのは結束信二で、マキノ雅弘の話に出てくる笠原和夫ではない。マキノの「映画渡世」は面白い本だが、どうもあちこちが眉唾もので、大言壮語が多く、記憶違いも目立つ。この本を読むときには注意が必要である。私は、依田義賢の方を信用するが、依田は依田で真面目すぎるきらいがあり、マキノ兄弟とは気質が合わなかったのだろう。依田義賢は、溝口健二に嫌というほどシナリオの書き直しを命じられているから、マキノ兄弟の書き直しの注文は平気に感じたはずだ。ただ、シナリオの改訂を他人に委ねられたことがどうしても許せなかったのだろう。
 『成吉思汗』の製作中止は、脚本家の依田とマキノ兄弟との間のいさかいにも原因があったようで、マキノ雅弘が途中で製作を投げ出したようなところもある、と私は思っている。




有馬稲子さんの「私の履歴書」(その2)

2010-04-24 12:52:44 | 錦之助ファン、雑記
 4月17日の記事のつづき。後半で有馬さんは、平成9年に錦ちゃんが亡くなったときのことを追想し、膝の手術をして入院中であったにもかかわらず、松葉杖をついてお通夜に参列したことを書いている。そして、記者のインタビューに対し、若い頃の元気な錦ちゃんのことを語ったという。
 ――確かに晩年の錦ちゃんは、凄味のある暗い表情で人を斬る役が多かった。しかし私と付き合っていた頃の錦ちゃんは、明るく天衣無縫で自由奔放、洒脱で冗談好きで、あれほど小気味のいい啖呵を切れる人はいない、そんな俳優だった。
 ここには書いていないが、トーク・ショーで有馬さんは、「子連れ狼」の錦ちゃんの役が好きでなかったと言っている。「ああいう暗い役は錦ちゃんらしくないし、錦ちゃんの良さが出ていない、と思ってました」とお聞きした。
 有馬さんは、「一心太助」の錦ちゃんが大好きで、ビデオで映画を観たいとおっしゃるので、私は「太助」シリーズのビデオを2本有馬さんに差し上げたことがある。多分、現在住んでおられるマンションのお友達といっしょに「太助」をご覧になったのだと思う。
 記事の最後に、有馬さんが錦之助映画の上映会について触れているので、引用しておこう。
 ――今も錦ちゃんのファンは多く、主演映画の上映会もしばしば開かれる。私も時々招かれ会場で思い出を語る。ふしぎなことにそんな時、あの忙しい結婚生活ではついに体験できなかった、ゆっくりと錦ちゃんと話し合っている気分にひたれるような気がする。


有馬稲子さんの「私の履歴書」、現在連載中

2010-04-18 16:16:11 | 錦之助ファン、雑記
 今月1日から日経新聞朝刊の文化欄に有馬稲子さんが「私の履歴書」を連載している。3月20日の新文芸坐でのトークショーの時に、有馬さんからこの予告は聞いていたので、今月一ヶ月だけ日経新聞を取ることにした。この2週間、毎日愛読しているが、これがとても面白い。有馬さん独特の率直な語り口で、こんなことをバラしてもいいのかと思うことも平気で書いている。有馬さんの自伝はすでに「バラと痛恨の日々」(中公文庫)が出ているが、この本の中に書いていないネタも今回書いているので、興味深く読んでいる。毎回の終わり方がとてもうまく、次回もまた読みたい気持ちにさせてくれる。
 4月14日、16日、17日の記事に錦ちゃんのことが書いてあった。読んでいない方もいるだろうから、さわりだけ引用しておく。
 14日のタイトルは「錦之助さん」、サブタイトルは「共演10日目で結婚話」。
 ――そんなとき中村錦之助さんに逢った。私が「近代映画」という雑誌に対談のページを持っていて、その相手に登場したのがきっかけだった。正直言って『笛吹童子』のチャンバラの名人ぐらいにしか思っていなくて、対談前にあわてて作品を見たのだがそのうまさにびっくり。記事のコラムに「その色気のあるハギレのよい芝居に、何かあの爆発的人気がわかるような気がした。素の御本人も熱血漢で、ハッキリして、スミにおけない人である」と書いてあるのを見ても私の感動ぶりがわかろうというもの。いまオーラという言葉がよく使われるが、あの雰囲気はオーラという言葉がぴったりのものだった。――
 実は、3月のトークショーの後、有馬さんから電話をいただいた。
「錦ちゃんとの対談の前にわたしが見た映画、あれ『一心太助』じゃなくて『獅子丸一平』だって、あなた言ってたわね。」
「そうですよ。間違えないでくださいよ」
「今、その辺書いているんだけど、あなた、その雑誌持っていたわよね?」
「はい、なんだったなら、ネコちゃん対談のところ、ファックスしましょうか」
「じゃ、そうして」
 これで、プッツンと電話が切れる。有馬さんはものすごくせっかちで、しゃべり方も単刀直入。思っていることはズバズバおっしゃるタイプだし、周りを威圧するような堂々とした雰囲気を持っているので、初対面の人は恐れをなすかと思う。なかなか話しかけにくいし、近寄りがたい。でも、何回かお会いして、慣れてしまえばサバサバしたとてもいい方である。私も最初は有馬さんが苦手だったが、トークショーの司会を一度、聞き手を二度やって、その打ち合わせもずいぶんしているうちに、お互いに気心が知れてきたといおうか、有馬さんが好きになってきた。有馬さんも私が大の錦ちゃんファンであることを喜び、応援してくださる。電話をいただいた後、早速「近代映画」の対談記事をファックスする。
 今引用した有馬さんの文章には、結局『獅子丸一平』というタイトルは出てこなかった。どうでもいいかと思って省いたのだろう。が、対談の時のコメントはしっかり使っていらしたから、お役に立てて良かったと思う。

 4月16日の記事。タイトルは「結婚生活」、サブタイトルは「まるで宴会場の女将」である。
 ――(『浪花の恋の物語』で)錦ちゃんと共演して、私はこの人が演技者として天性のものをもった人だということを直感した。共演者に、演技と真実の壁が一瞬消えたと思わせる、つまりホンキにさせる何かがある人なのだ。――
 なかなかイイことを書いてくれるではないか!有馬さんは、今でもまだ錦ちゃんのことを懐かしみ、慕っている。それが文章のすみずみからにじみ出ている。

 ――この映画の撮影中に私はプロポーズされた。その後前述の盲腸騒ぎなどがあったが、昭和36年、大川博東映社長の媒酌で式をあげた。京都の鳴滝の900坪の土地に、150坪の家を建てた。プールと体育館も作り、庭には大好きなスタンダードのバラを中心に70種類のバラを植えた。しかし私はこの「豪華」な邸宅で安住することはできなかった。撮影を終えた錦ちゃんが、ひとりで帰宅することはまずない。いつも10人近いスタッフや、スタッフでない人も連れ帰って、夕食はそのまま大宴会になだれこむ。――
 ――私は錦ちゃんの天性を信じて、この人の才能を伸ばしたいと思っていた。世界に通用する役者になるに違いない、そのためにいろんな人と付き合い視野を広めてほしいと思っていた。しかしそんな思いが実現する前に、宴会場の女将はダウンしそうになっていた。――

 4月17日の記事。タイトルは「忙しい妻」、サブは「結婚生活を打ち切り~婚家の古いしきたり覆せず」。
 ――おかしな話だが、いま振り返っても実は離婚の理由がよく分からない。唯一分かるのは私は古いしきたりを重んじる世界に生きる婚家を、自分なりに改革しようと思ったらしい。それには時間がかかる。しかし私は生来せっかちという困った癖がある。それが周りの誤解と反感を招いて、錦ちゃんは完全に私とお姑さんの板挟み。私は自分が身を引くのが最善と考えた。――(つづく)




近々公開の錦之助映画

2010-04-15 08:27:12 | 錦之助ファン、雑記
 ブログのデザインを以前の形式に戻した。錦之助映画ファンの会の2,3人の方から、前の「竹」の方がずっと良かったと言われ続けていた。そこで私も気分を一新して、というか初心に帰って、「竹」のデザインに変更した。このほうが明るくて、すくすく伸びていく竹のイメージが錦ちゃんらしいかもしれない。「竹を割ったような」性格も、錦ちゃんにぴったりのような気もする。

 きのうは、池袋の新文芸坐へ行ってきた。脚本家の石森史郎さんが「シャネルとストラビンスキー」の映画を観に行くというので、石森さんに用事があって会いに行ったのだ。ついでに新文芸坐の5月6月のプログラムが出来ていたのでもらってきた。
 錦之助映画が6本あるので、お知らせしておく。
 5月12日(水)「仕掛人梅安」(併映は「闇の狩人」)
 *5月11日~14日「池波正太郎没後20年」特集にて。
 5月25日(火)「徳川家康」(併映は「敵は本能寺にあり」)
 5月27日(木)「千利休 本覚坊遺文」(併映は「利休」)
 6月2日(水)「新選組」(併映は「壬生義士伝」)
 6月4日(金)「幕末」「徳川一族の崩壊」
 *5月25日~28日、6月2日~5日「映画で見る日本史」特集にて。


 

山内鉄也監督逝去

2010-04-12 18:02:40 | 監督、スタッフ、共演者
 4月2日、山内鉄也監督が亡くなった。ニュースで知ったのは8日のことで、近親者で葬儀を済ませていたという。75歳だった。
 山内鉄也監督とは直接面識はなかったが、間接的には私のことをご存知であったかと思う。というのも、昨年錦之助映画祭りの記念本「一心錦之助」を作るにあたり、円尾さんを通じ、山内さんに原稿を依頼した経緯があったからだ。山内さんは、二つ返事で快く引き受けてくださったそうだ。そして、一字一句ゆるがせにしない気合いのこもった文章を書いてくださった。原稿をいただき、名文だと思った。そこで、私は「一心錦之助」の巻頭に、山内さんの文章を置くことに決め、タイトルがなかったので、本文中から選び、「早く出て来い、後継者よ!」とした。スチール写真も内容に合わせ2枚掲載。『徳川家康』で信長の錦ちゃんが馬上で雨に打たれている写真と、『反逆児』で信康の錦ちゃんと信長の月形と家康の佐野周二の3人が写っている写真である。山内鉄也監督の簡単なプロフィールは私が書いて、タイトルの下に加えた。
 円尾さんから山内さんにゲラを送ってもらい、承諾を得た。そのとき、いつもは気難しい山内さんが大変上機嫌で、とても喜んでいたとのことだった。円尾さんの話では、この頃すでに山内さんは病魔に冒され、いつ亡くなるか分からない状態で、その文章は敬愛する錦之助に託し、時代劇の未来に万感の思いを込めて書いたものだということを知った。
 本が完成し、山内さんに2冊送った。私とはこれだけの縁であった。が、病床の山内さんは本を手にしてきっと喜んだにちがいないと思う。それから、およそ一年、山内さんは闘病生活を続け、桜の花が散るのと同じように、散った。
 謹んでご冥福をお祈りする。