錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『源義経』(その6)―そして『続源義経』

2015-06-22 14:57:52 | 源義経
 現在見ることができる『源義経』は、東映チャンネルで放映した総集篇で、『源義経』と『続源義経』を合わせて99分に短縮して編集したものである。ビデオもDVDもなく、東映には35ミリの上映用フィルムもなく、原版のネガもない。私の知る限り、16ミリフィルムも存在しない。現存するのは、総集篇に編集されたこのテレビ放映用の映像ソフトだけである。
 東映がいつ総集篇を作ったのかは不明であるが、映画館で再上映するために作ったのかもしれない。その時、原版のネガを編集して、もとの映画をマスターポジに保存しておかなかったのではなかろうか。そうだとすれば、『源義経』も『続源義経』も全長版は永久に見ることができない。どうやら、その可能性が高い。
 先日、録画したこの総集篇を見ながら、時間を計り、どのくらい削除してあるのかを調べてみた。
 データによると『源義経』は94分だったが、総集篇ではこれを74分に短縮している。約20分削除したわけだ。八尋不二が書いた『源義経』の脚本は「時代映画」(昭和30年7月号)に掲載されているが、それを読むと、どこが削除されたかが、だいたい分かる。
 錦之助の出演場面は1箇所削除されているだけだった。多分3分くらいだろうが、牛若丸が母の常盤御前を訪ねて、留守番をしていた異父の弟(植木基晴)と妹(植木千恵)と遊ぶ場面である。あとは、メインストーリーとは関係ない部分で、弁慶が喜三太(中野雅晴)を助ける場面、常陸坊海尊(河部五郎)が登場する場面、金売吉次(龍崎一郎)の屋敷で女房のあかね(月丘千秋)が登場する場面などである。ラスト近く、盗賊伊勢の三郎(吉田義夫)の一党が牛若丸たちを付け狙い、襲撃しようとする場面も削除されている。総集篇では、あの独特な悪党顔の吉田義夫がまったく登場しないのだ。『源義経』のラストは、暴風雨の中、元服した義経が父義朝の墓に詣でる場面であるが、盗賊たちが襲撃しようとしている画面が抜けているので、風雲急を告げる緊迫感がないまま終わっている。

 総集篇の最初にあるクレジットタイトルは、『源義経』のものをそのまま使っている。そのため、総集篇の後ろ4分の1に加えられた『続源義経』で新たに登場する出演者の名前はない。藤原秀衡の宇佐美諄、佐々木盛綱の清川荘司、源頼朝の南原伸二の名前が落ちているわけだ。

 総集篇では、『続源義経』86分のうち、25分しか採っておらず、61分も削除している。『続源義経』はズタズタに切られたわけだ。残っているのは、奥州平泉の藤原秀衡(宇佐美諄)の館へ義経がたどり着く場面、義経が頼朝(南原伸二)敗走の報を聞いて奥州を発つ場面、奥州からから馳せ参じた義経が頼朝と対面する場面などで、ラストに富士川の戦いの場面が少しあるだけである。

 『続源義経』のパンフレットにあら筋があるので、内容を簡単に書いておく。
 奥州で義経は蝦夷の部族に知り合う。その娘モイヤ(山本鳥古)に恋い慕われる。また、はるばるやって来たうつぼ(三笠博子)と再会し契りを結ぶ。頼朝敗走の報を聞いて、奥州を出発、頼朝の軍に加わる。合戦後、平家の軍営で静御前(千原しのぶ)と出会う。常盤御前が一子良成(中村萬之助、現・吉右衛門)を義経に託す。ラストは義経が平家追討のため、弁慶、良成を引き連れ、勇ましく行軍していく。

 ところで、『続源義経』は、『源義経』を撮影した約8ヶ月後の昭和31年2月初めにクランクインし、3月15日に公開された。その間、錦之助主演作が7本作られている。『紅顔の若武者 織田信長』、『獅子丸一平』第一部から第三部、『あばれ振袖』、『羅生門の妖鬼』、『晴姿一番纏』である。そして、東映が全精力をつぎ込んだ総天然色のオールスター映画『赤穂浪士』が作られ、記録的な大ヒットを飛ばしている。錦之助は小山田庄左衛門の役であった。
 前にも書いたが、『源義経』は三部作の予定だったので、『続源義経』は、第二部にあたるはずなのだが、結局、第三部の完結篇は製作されずに終わってしまう。『続源義経』そのものも製作への志氣がトーンダウンしてしまい、大作といった感じはなくなっていた。製作者に大川博の名前はなく、企画者のマキノ光雄の名前も消えている。第一部の『源義経』が中途半端で、出来栄えも評判もあまり良くなかったことが影響したのだろう。錦之助自身、初めて『源義経』に取り組んだ時、あれほど意気込んでいたのだが、『続源義経』の時には意欲も情熱もやや薄れてしまったようだ。


『源義経』(その5)

2015-06-21 15:58:26 | 源義経
 全国の東映系映画館約230館に、『源義経』の目も鮮やかなカラー版ポスターが飾られた。錦之助の牛若丸が馬に跨り、遠くを見つめ、弓を引いている。稚児髷の前髪を左右に分け、顔にあどけなさを残した美少年振りで、赤地に金色の草花模様の装束が高貴な若武者を感じさせた。ポスターの惹句は、「源平盛衰、剣と浪漫の武者絵巻!!」だった。
 『源義経』の製作スタッフのトップには、東映社長大川博の名前が置かれた。いかにも東映が社長以下全力を傾けて製作した大作といった触れ込みである。宣伝コピーには「最高最大の娯楽巨篇」と謳ったものもあった。

 封切館の上映は、7月末から8月第1週。学校の夏休みを当てにした期間だった。
 しかし、客の入りは、残念ながら期待を下回った。東映時代劇の作品では平均よりはずっと良かったが、大ヒットとまでは行かなかった。正月に『紅孔雀』を上映した時のように映画館が連日親子連れで満員になることはなかった。錦之助ファンの女子中学生や高校生は詰めかけたが、小学生の男子や一般の大人の数が予想していたほど多くなかったのだった。
 「キネマ旬報」のデータによると、封切り後1週間の観客総動員数は、新宿東映が18,884名(収容率71.0パーセント)、浅草常磐座は、17,822名(54.7パーセント)、大阪東映は、16,678名となっている。東映時代劇は当時浅草での観客動員数がバロメーターで、浅草常磐座で1週間に2万人を越えないとヒットしたとは言えなかった。錦之助主演作では、5月第4週の『あばれ纏千両肌』(併映『飛燕空手打ち 完結篇』)と浅草の観客動員数は変わらなかった(17,166名で収容率48.2パーセント)。
 平安時代の歴史物はヒットしないというジンクスを『源義経』も打ち破れなかったわけだが、その原因は明らかだった。まず、『源義経』が子供向けなのか、大人向けなのか、中途半端ではっきりしなかったこと、そして、映画自体、製作費の上でも配役の上でも東映が宣伝したような大作では決してなかったことである。
 『源義経』が白黒作品だったことは、当時、大映、松竹、東宝に比べ、映画のカラー化に立ち遅れていた東映としては仕方がなかった。東映は昭和28年11月公開の『日論』以降、総天然色映画を1本も作っていなかった。『源義経』が公開された昭和30年夏の前後では、大映は5月に永田雅一社長の下で溝口健二監督による総天然色の大作『楊貴妃』を放ち、話題をまいていたし、7月中旬には松竹が時代劇『修禅寺物語』(中村登監督)を、東宝が『続宮本武蔵』(稲垣浩監督)を、いずれも総天然色で製作公開していた。
 大映は、さらに、夏前に吉川英治原作の『新・平家物語』を総天然色の大作として溝口監督、市川雷蔵主演で製作することを発表し、6月末には撮影を開始していた。9月半ばに公開予定であった。
 『源義経』は、『新・平家物語』に比べれば、会社の意気込みも予算も監督の力量も作品のスケールも雲泥の差であった。
 『源義経』の配役にも問題があった。人気スターは錦之助一人という寂しさである。『紅孔雀』で人気を上げた千代之介も大友も高千穂ひづるも出演していないのでは、娯楽版の中篇にも劣る配役だった。相手役に中原ひとみを抜擢したのは良いとして、共演者に若手人気スターを誰も使わなかったのは失敗だった。共演男優が三条雅也、片岡栄二郎、中野雅晴では魅力に乏しく、女優も浦里はるみ、月丘千秋では地味すぎた。弁慶の月形龍之介、常磐御前の山田五十鈴というベテランが脇を固めただけでは、観客動員につながらず、錦之助の父の時蔵が出演したことなど、大した話題にもならなかった。つまり、錦之助が孤軍奮闘しているだけの映画になってしまったのである。

 とはいえ、『源義経』は、2番館、3番館と下りていくにしたがい、観客が増えていき、配給収入を挽回していったようだ。東映系の専門館でなく、他社作品と2本立てないし3本立てで上映する小さな映画館で、大都市の場末や地方都市に数多くあった。東映の契約館と言われる映画館で、ここで『源義経』が掛けられ、人気を呼んだ。この契約館は、映画館の特色に合わせ、松竹、大映、東宝、日活などとそれぞれ複数契約しており、昭和29年半ばには東映の契約館が一番多くなり、昭和30年8月末には全国で1847館もあった。
「東映十年史」によると、『源義経』は、昭和30年度東映全作品の配給総収入の第9位にランクされている。総配給収入額は約7,800円。製作費および宣伝費のトータルは約2,400万円だったと推定されるので、『源義経』は約5,400万円の大きな収益を上げたことになる。昭和30年当時と現在との金額の比較は難しいが、封切映画館の入場料が12倍(当時150円、現在1800円)になったことだけから単純計算すれば、6億5000万円の収益になろう。
 昭和30年度の東映作品の興行成績ベストテンのダントツの第1位は『紅孔雀』5部作(配給総収入2億2000万円)であるが、ほかに錦之助主演作では、9月公開の『紅顔の若武者 織田信長』が第6位、10月公開の『獅子丸一平』が第7位で、ともに配給総収入は8000万円近い。錦之助は、明らかに夏公開の『源義経』以降、本篇を一枚看板で任せられる主演スターとして一本立ちしたのだと言えるだろう。千恵蔵の多羅尾伴内シリーズ2本(『隼の魔王』『復讐の七仮面』)と右太衛門の旗本退屈男シリーズ2本(『謎の怪人屋敷』『謎の伏魔殿』)もベストテンに入っているが、実質的には昭和30年から、錦之助人気で収入を上げる時代に入ったことは間違いない。


『源義経』(その4)

2015-06-14 17:50:01 | 源義経
 これまで錦之助の恋人役を演じた女優は、美空ひばりと瑳峨三智子以外、年上ばかりであった。とくに『笛吹童子』以降、タライ回しのように錦之助の相手役を務めた東映専属女優の三人、千原しのぶ、高千穂ひづる、田代百合子は1歳ないし2歳上だった。この頃の錦之助は実際の年齢よりずっと若々しく見えた。だから余計彼女たちが姉のように老けて見えてしまうのだった。
 中原ひとみは、錦之助より4歳年下、錦之助の恋人役としてふさわしかった。東映は二人を「新鮮コンビ」と呼び、『源義経』の売りとして大々的に宣伝した。後年、錦之助は、『一心太助』で同じ東京っ子の中原ひとみを恋人・女房役にして、彼らしい地の出た熱演ぶりを見せたが、『源義経』当時はまだ二人とも初々しかった。牛若丸もうつぼも16歳の設定だったが、22歳の錦之助も18歳の中原もまったく違和感なく、思春期の純愛ドラマを睦まじく演じた。今、『源義経』を見ても、二人の場面は新鮮である。錦之助はプライベートでも妹のような中原ひとみを愛称のバンビと呼んで可愛がり、中原が京都滞在中はあれこれと面倒を見た。
 
 『源義経』の脚本には、牛若丸がうつぼを女として意識し、うつぼも女の本能を感じる重要な描写があった。平家の荒くれ者(平教経=片岡栄二郎)に打たれて怪我をしたうつぼを牛若丸が介抱するシーンの中である。

 牛若は、うつぼを寝かして、小袖の肩をはだけて、紙にのべた練りぐすりを貼る。
 牛若は、うつぼの襟を合わしてやりながら、初めて女の肌にさわったことに気付き、顔を赤らめ手を引く。
 と、気を失っていたと思ったうつぼの手が、牛若の手を求めて、そっと握りしめる。はっとして見下す牛若。
うつぼ(目を閉じたまま)「嬉しうございます」
牛若「うつぼ!」
 思わず、うつぼの手を握ってやる。
うつぼ「牛若様(閉じた瞼から涙の玉がにじみ出る)お会いしとうございました」
牛若(頷く)
うつぼ(牛若の手を握りしめて、泣く)


 錦之助も中原ひとみも脚本のこの部分を読んで、ワクワクし、監督がどう演出するのか不安に思う反面、期待していたにちがいない。それを実際の撮影では、萩原遼は適当に誤魔化してしまった。この監督はどうでもいいところを凝るわりに、肝心の場面をじっくり演出して撮らない。ストーリーの表面ばかり追って、芯になるドラマの盛り上げ方も上手くなく、強調すべき場面(映画用語では「押すところ」)の表現もありきたりである。
 映画を見ると、牛若丸がうつぼの胸に手を入れて膏薬を貼るショットはない。脚本通り、うつぼの乳房にさわって、はっとする錦之助の演技が見たかったものだ。うつぼは、牛若への愛で膨らむ胸を牛若に初めてさわられて、歓喜のあまり涙を流す。目をつぶったままでいるのは、恥じらいもあるが、その初体験とも言える歓喜を身体全体で感じるためであろう。映画は、脚本の意図を無視し、目を開いたうつぼと牛若丸がただ手を握り合うだけで、子供だましの稚拙な演出に終わっていた。錦之助がはっとするのは、家人(藤太=高松錦之助)が現れ、握っていた手を素早く離すところで、意味のないお粗末な変え方であった。

 これは、前に書いたことの補足であるが、うつぼ役には三笠博子も候補として上がっていた。彼女も東映第一期ニューフェスで、昭和8年東京生まれ。東映東京では中原ひとみに続いて人気が出てきた新人女優であった。中原とは仲良しで、うつぼ役が中原に決まった時には三笠博子も祝福したという。そして、翌年2月に『続源義経』が製作されると、うつぼの役は中原に代わって三笠博子が演じることになる。中原ひとみがなぜ出演しなかったのかは不確かであるが、日活移籍問題がその理由だったのかもしれない。

 『源義経』は、撮影期間が約1ヶ月、東映作品としては長い方だった。製作費も2,000万円以上かけたようだ(東映の本篇は1,800万円の低予算だった)。クランクアップ(6月20日ごろ)後、1ヶ月置き、夏休みが始まった一週間後の7月30日に公開された。併映の娯楽版中篇は『夕焼童子』第一篇(小沢茂弘監督、伏見扇太郎主演)であった。


『源義経』(その3)

2015-06-12 16:10:07 | 源義経
 キャスティングは、マキノ光雄を中心に慎重に協議を重ねて行なわれた。武蔵坊弁慶には月形龍之介、平清盛に小沢栄(のちに栄太郎)、金売吉次は龍崎一郎、以下脇役の男優陣は比較的スムーズに決まった。
 牛若丸が恋い慕い、再会する母の常盤御前の役は、全員一致で、山田五十鈴が選ばれた。錦之助とはもちろん初顔合わせである。常磐御前に山田五十鈴を当て、錦之助にこの名女優の胸を借りさせることにすれば、錦之助の励みにもなるし、この映画の呼び物になるにちがいない。
 そして、再婚した夫の一条大蔵卿の役は、マキノが直接、錦之助の父中村時蔵に出演交渉した。錦之助も大賛成だった。
 歌舞伎の「鬼一法眼三略巻」の中に「一条大蔵譚(ものがたり)」があるが、時蔵は若い頃一度だけ一条大蔵卿の役をやったことがあった。が、この役は何と言っても昨年9月に亡くなった兄吉右衛門の当たり芸で、女形の時蔵は常磐御前が持ち役だった。無論、吉右衛門の名演は何度となく目の当たりに見てはいた。とはいえ、映画初出演である。時蔵は、歌舞伎役者として松竹専属だったので、松竹会長の大谷竹次郎に相談に行った。
 「兄さんを偲んで大蔵卿をやるならええやないか」と、大谷は後押ししてくれたのだった。
 時蔵は、錦之助が映画界に入って人気が出ると、一度は息子と映画で共演してみたいと思っていた。しかし、自分に映画俳優ができるだろうか。
 「心配することないさ。おれがついてるから、大丈夫だよ」
 迷っている父親を笑い飛ばすように錦之助は言った。これで時蔵は決心がついた。「老いては子に従え」とも言うではないか。映画のことは何も知らないが、錦之助の意見を聞きながら精一杯演じればなんとかなろだろう。

 キャスティングで人選が難航したのは、牛若丸の初恋の相手うつぼの役であった。16歳の牛若丸と相思相愛になる里の娘であるから、純情可憐な少女でなければならない。うつぼの役を誰にするかなかなか決まらないでいた頃、原作を読んでいた錦之助がイメージ通りだと思い、是非やってもらいたいと第一候補に推す女優が現れた。東映の第一期ニューフェイスに選ばれ、バンビの愛称でめきめき人気を上げてきた東映東京の新人女優、中原ひとみであった。昭和11年東京下谷生まれ。可愛らしいベビーフェイスで、当時18歳。家城巳代治監督の『姉妹』(昭和30年4月公開 製作中央映画 配給独立映画)では、野添ひとみの妹役を演じ、ひとみコンビが注目を浴びた。錦之助初の現代劇『海の若人』にも出演し、錦之助はその時彼女と知り合って、うつぼの役に最適だと感じた。そこで、すぐに監督の萩原遼に進言すると、萩原も同意見だった。主役と監督が揃って強力に推薦した結果、うつぼの役には中原ひとみを抜擢することに決定した。彼女にとって東映京都の時代劇は初出演、京都を訪れるのも中学生の修学旅行以来であった。



『源義経』(その2)

2015-06-11 13:22:20 | 源義経
 『源義経』は、錦之助主演の初めての時代劇大作であった。義経の生涯を描く平安末期の本格的な歴史物で、鎧物(よろいもの)と呼ばれるものだ。鎧兜に身を固めた武将や侍が登場し、合戦シーンが見せ場になる映画のことだが、鎧物も錦之助には初めてであった。(ただし、『笛吹童子』は戦国時代劇で、完結篇のラストに鎧をつけた合戦シーンがあるが……)
 東映は製作本部長のマキノ光雄を中心に、半年以上かけて企画を練り、成長著しい錦之助に期待をかけて、製作に入った。なにしろ牛若丸時代から始めて、元服して義経となり、頼朝の下で獅子奮迅の活躍後、奥州に落ち延びて、討ち死にするまでの、義経をめぐる壮大な歴史ロマンである。東映は本篇3部作の予定で製作を進めることに決めた。村上元三の新聞連載はまだ義経が初陣を飾るところを書いている最中で、連載はずっと続いていく。そこで、第二部第三部は来年以降に製作することになった。

 村上元三が朝日新聞夕刊紙上に「源義経」の連載を始めたのは昭和26年10月だった。約1年間続けて、しばらく中断後、昭和29年6月から連載を再開していた。錦之助は、「源義経」が新聞に発表された当時から愛読し、連載再開後は新聞を切抜きして、ノートに貼っていたほどだった。まだ単行本が出版されていなかったからだ。
 村上元三は、昭和25年「佐々木小次郎」を朝日新聞に連載して、一躍人気作家になった。同年12月、稲垣浩監督、大谷友右衛門主演で東宝が『佐々木小次郎』を映画化して(翌年に続篇、完結篇が公開)、記録的な大ヒット。以後、村上元三の時代小説は映画各社で続々と映画化され、好成績を上げていた。
 また、昭和27年6月から29年4月まで「オール讀物」に連載した「次郎長三国志」も東宝でマキノ正博(のちに雅弘)監督の手で映画化され、連載に並行して9部作で次々に公開され大ヒットしている。マキノ正博の弟のマキノ光雄が製作本部長を務めている東映では、『新選組』3部作(昭和27年 萩原遼監督、千恵蔵主演)、『喧嘩笠』(昭和28年 萩原遼監督、千恵蔵主演)、『加賀騒動』(昭和28年 佐伯清監督、大友柳太朗、山田五十鈴主演)が村上元三原作の話題作であった。村上は兄のマキノ正博とも弟の光雄とも大変親しくしていた。
 ところで、「源義経」は、発表間もない頃から映画化権をめぐって映画各社の争奪戦になったが、映画化をずっと保留にしていた村上元三が東映のマキノ光雄の要望を受け入れたのは、連載再開の直前であった。錦之助が東映で人気スターになり、歌舞伎通でもあった村上が映画界に転じた錦之助に注目し始めた頃である。村上は、錦之助が義経を演じることに期待し、マキノ光雄には原作に忠実に映画化してほしいと注文をつけた。

 話は遡るが、錦之助が映画デビューした頃、父の中村時蔵が村上元三に面会を求め、何か息子に向いた良い作品があれば是非よろしくと挨拶しに来たことがあった。その時、「源義経」の話が出たかどうかは不明だが、村上がそれ以来錦之助のことを気にかけるようになったことは確かであろう。村上が敬愛する師匠の長谷川伸に同行して東映京都撮影所を訪ねたのは昭和29年の5月半ばで、『一本刀土俵入』をリメイクした片岡千恵蔵の陣中見舞いが目的だった。その日、錦之助が『里見八犬傅』のセット撮影中だったので、長谷川伸といっしょに錦之助の様子を見に行った。千恵蔵とマキノ光雄が長谷川と村上に錦之助を紹介したそうだが、時代劇の両作家から励まされたようだ。錦之助は大変恐縮したと語っている。多分この時にはすでに、長谷川伸が「越後獅子祭」を、村上元三が「源義経」を錦之助主演で映画化することを了承していたと思われる。


『源義経』(映画はモノクロ) 錦之助の牛若丸と山田五十鈴の常盤御前

 マキノ光雄は、東宝から独立してフリーになった辣腕プロデューサー藤本真澄の協力をあおぎ(具体的に何をしたかは不明)、東映企画部の大森康正を加えて、『源義経』の製作を進めた。脚本はベテランの八尋不二に頼んでいる。八尋は少し前に内田吐夢の戦後復帰第一作『血槍富士』(昭和30年2月公開)の脚本を書いて、ヒットさせていた。監督には萩原遼を指名したが、この人選はどうであったか。疑問符が残る。『源義経』という大作が結果的にB級作品になってしまったのは、監督萩原遼の責任であるが、当時は萩原の評価が高かった。長谷川伸の「越後獅子祭」も村上元三の「源義経」も萩原遼が監督しているが、両作家にも萩原は好感を持たれていたようだ。
 萩原遼は、『笛吹童子』『紅孔雀』といった子供向けの童子物を大ヒットさせ、東映躍進に大変功労のあった監督だったが、低予算のプログラム・ピクチャーを短期間で作ることができるだけの職人監督にすぎなかった。『源義経』の撮影は吉田貞次で、内田吐夢の『血槍富士』の撮影も担当したが、監督が違うと作品のレベルの差が歴然と現れてしまう。もし内田吐夢が『源義経』を監督していたら、傑作に近いものができていたかもしれない。美術は塚本隆治、音楽は小杉太一郎が担当したが、俳優(監督)小杉勇の息子太一郎が映画音楽で注目されたのは『血槍富士』だった。『源義経』のクレジットタイトルに流れる音楽は、後年『宮本武蔵』第二部から小杉太一郎がクレジットタイルに付けた音楽とほぼ同じで、勇壮で心が躍るようなメロディである。

 『源義経』第一部は、鞍馬にいた牛若丸(遮那王)が平家の追討を逃れ、奥州に下る途中、父義朝が没した近江の地で元服し、九郎義経と名乗り、源氏再興を誓うまでであった。見せ場は、牛若丸と里の娘うつぼとの純愛、母常盤御前との再会、そして五条大橋での武蔵坊弁慶との対決で、クライマックスは元服した義経が父義朝の墓を詣でる場面であった。