錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~終戦後(その1)

2012-09-10 13:43:28 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 終戦直後の混乱と食糧難の頃、十二歳の錦之助は、実力がなければ世の中は生きていけないと感じた。母ひなは、そんな錦之助を知って、金光教の神さまが乗り移ったかのような口ぶりで、「正しく、清らかに、堂々と生きなさい」と諭した。母は錦之助に何度も口癖のように同じことを繰り返した。父時蔵に訊くと、お母さんの言う通りだとを言う。錦之助はピンと来なかった。清く正しく堂々とした生き方なんかしていたら、人に押しのけられ、見捨てられてしまうのではないかと思った。
 
 昭和二十年九月、暁星中学一年の二学期が始まり、授業が再開された。戦争中の一学期のように若和田先生の楽しい教練の時間もなくなり、勉強本位になった。錦之助は、小学校の高学年の頃から勉強嫌いになっていた。六年生の頃、一時期転校した松沢国民学校ではまともな授業もなく、先生がいつも教科書を伏せて、生徒が注文したお伽ばなしをしてくれた。学校は楽だった。暁星中学に戻って、一学期が終ると、戦争が終わり、二学期からはまともな授業が再開された。錦之助はどうしても勉強に熱が入らず、やる気も起らなかった。特に数学は大の苦手で、授業に付いていけなくなった。数学の先生の恐い顔が、閻魔さまのように見えたと、錦之助は語っている。

 錦之助は中学校へ通うほかは無為に過ごしていた。
 放課後はいつも友達と野球をして、劣等生の心のうさを晴らした。また、九段から赤坂氷川町の家へ帰る途中、お濠の魚を釣ったりしていた。錦之助の自伝「あげ羽の蝶」によると、麹町三番町のあたりだったというから、田安門から千鳥ヶ淵へ行く間の皇居のお濠である。今、お濠で釣りなどしたら警察に捕まってしまうが、戦後間もないころは白昼堂々と多くの人が釣りをしていたという。釣れる魚は、コイやフナだった。錦之助は釣りに熱中するあまり、前の日の夜に場所を決めてまき餌をしておき、朝からそこで釣りをした。面白いように釣れたという。
 体が小さかったので、強くなろうと思い、水道橋の講道館へ通って、柔道も習っていた。
 学校も怠け癖がついて、さぼりがちになった。また始めた芸事の稽古にも身が入らなくなった。放課後野球に熱中して、稽古の時間を忘れ、遅刻することもあった。

 焼け跡にもポツポツと家が建ち始めた。
 父時蔵も三河台の敷地に家を新築した。一家は赤坂氷川町の借家を引き揚げて、長年住み慣れた三河台の新居へ移った。
 昭和二十一年四月、錦之助はどうにか中学二年生に進級した。

 終戦後いち早く復興を見せたのは興行界であった。空襲で焼け落ちなかったあちこちの映画館で新作、旧作取り混ぜた映画が上映され、満員の客を呼んだ。進駐軍によって封建的な時代劇や好戦的な映画は厳しく禁止されたが、喜劇、メロドラマ、歌謡映画などが次々と上映された。また新劇や軽演劇などを上演する各劇場も客を集めた。娯楽に飢えた人たちがどっと集り、興行界は活況を呈していく。

 歌舞伎界はどうであったか。
 すでに昭和二十年秋からは、戦災で大きな被害を受けなかった劇場で歌舞伎公演が再開され始めていた。東京では東京劇場(東劇)、帝國劇場(帝劇)、新宿第一劇場、京都では、南座、大阪では大阪歌舞伎座などである。
 帝劇は十月の開場第一回公演に菊五郎一座を迎え、菊五郎は得意の「鏡獅子」を踊って健在ぶりを示した。この時には、水上滝太郎作の「銀座復興」も上演され、菊五郎が歌舞伎ではなく現代劇の主役を演じて話題を呼んだ。この公演には、権十郎、多賀之丞、男女蔵(のちの三代目左団次)、訥子、松緑、菊之助(梅幸)などが顔を揃えた。錦之助の長兄種太郎も出演した。
 十一月の東劇には吉右衛門一座が出演し、昼夜二回興行で「佐倉義民伝」「道行初音旅」をかけた。吉右衛門をはじめ、時蔵、もしほ(のちの十七代目勘三郎)、芝翫(のちの歌右衛門)、染五郎(のちの八代目幸四郎)のほかに、ベテラン幸四郎(七代目)も加わった。当初は「寺子屋」を出す予定だったが、連合軍総司令部から中止命令が出た。封建時代の忠義や自己犠牲をテーマにした芝居は日本の民主化にふさわしくないという理由だった。
 ちなみに、進駐軍による歌舞伎への厳しい統制は約二年間続く。ほとんどすべての時代物が上演できなくなってしまったのだ。「忠臣蔵」「熊谷陣屋」「盛綱陣屋」ほか清正物など全部ダメで、世話物と舞踊劇くらいしか許可されず、歌舞伎界は危機に瀕する。松竹ほか興行主の側でも自粛し、新作を交えるなどして対処したが、一時期は古典的な歌舞伎がなくなるとまで騒がれたほどだった。進駐軍によって歌舞伎の特殊性が認められ、統制が緩和されるのは昭和二十二年四月以降で、まず、「寺子屋」が同年四月に上演され、「忠臣蔵」が通しで上演されたのは同年十一月だった。
 
 昭和二十一年、新しい年を迎えた。正月、東劇では、菊五郎一座と幸四郎一座の合同公演が行われ、菊五郎の「娘道成寺」に加え、「福沢諭吉」(真山青果作)「初ごよみ」(宇野信夫作)といった新作を上演。
 一方、帝国劇場では吉右衛門一座に宗十郎が加わって歌舞伎興行が打たれた。吉右衛門は「幡随長兵衛」と「河内山」、また「廓文章」では宗十郎が熱演。そして、宇野信夫の新作「薄紅梅」に、およそ三年ぶりに錦之助が舞台出演した。吉右衛門と宗十郎の共演で、錦之助は伊勢屋という商家の娘役だった。




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1 コメント

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東映時代劇 (高野 浩)
2023-02-10 20:20:37
初めてメール差し上げます。懐かしいです。小学生のころ紅孔雀を見ました。嘉門の有馬宏治さん懐かしいです。私も東映時代劇の脇役・敵役の名前と顔をほとんど覚えています。

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