錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

長門裕之は語る。

2018-11-19 23:23:04 | 錦之助ノート
 部屋の片づけをしていたら、段ボール箱の中から、映画館のチラシやパンフがごっそり出てきた。その中に、以前無料で配布していた「東映キネマ旬報」が数種類あって、高倉健が表紙の2010年夏号が目に留まった。特集「日本侠客伝」とあって、長門裕之のインタビューが載っている。
 あれっ、読んだ記憶がない。そういえば長門裕之は叔父のマキノ雅弘監督の「日本侠客伝」シリーズにはいつも出演していたなあと思い当たる。



 片付けの手を休めて、早速読んでみると、面白いことが書いてある。撮影現場でのマキノ監督の演出法をいろいろ語っているのだが、特に中村錦之助、高倉健という二人の俳優が、マキノ演出にどう対応していたかについて、そばで観察していた長門が率直に感想を述べているのだ。
 長門は錦兄ィ(錦之助)に敬服していたらしく、こんなことを書いている。
「(マキノ監督と)錦兄ィとのやり取りは面白かったですね。錦兄ィは自分が持っている芝居の資質みたいなものを、いくらマキノさんに演出されても完全には同化させない。妥協しないで自分の芝居を出しながら、ちょっとだけマキノ節をからめて見せる。その技術が凄くて、器用な人なんです。」
 長門裕之が錦之助と共演したのは、映画では『日本侠客伝』第一作だけであるが、ズタズタに斬られた長門が錦之助の腕の中で死ぬ名場面があった。あの時の二人は息があっていたなあ。
「高倉健さんは、どちらかと言えば不器用な方ですから、マキノさんに言われた通りにやる。ただ『このセリフは違いますね』と、譲らない部分は決して譲らない人です。」
 さらに長門は、「鶴田浩二さんもマキノさんに対しては従順でしたね。そういう高倉さんや鶴田さんの、いい意味で一貫した個性を、マキノさんは上手いこと使って、いい部分を引き出した。それが演じたキャラクターの魅力にもなっていったと思うんです」と語っている。つまり、健さんも鶴田もマキノ監督がその個性を引き出し、任侠映画の主役に定着させたというのが長門の見方のようだ。
 ただし、「健さんはマキノさんが作る任侠の世界に最後まで馴染んでいなかった気もしますね」と言い、「要求されるものに応えようとやっていたけれども、どこかに抵抗感があった。だからその後は東映を離れて、まったく違ったタイプの役柄に挑戦したんでしょう」と語る。
 確かに、高倉健は、侠客やヤクザを演じ続けることに嫌気がさしていたんだろうなあと思う。「日本侠客伝」で最初の数作は、主役の健さんは堅気の役だったのだが、いつの間にか侠客(男気のあるヤクザ)にされてしまった。

 ところで、『日本侠客伝』第1作でヤクザの役をやったのは錦之助で、これが素晴らしかった。周知のように、『日本侠客伝』は当初錦之助の主演作であった。それが、運悪く田坂具隆監督の『鮫』の撮影が長引いて、『日本侠客伝』のスケジュールが立たなくなってしまった。そのため、主役を高倉健に譲り、錦之助は特別出演の形で、脇役に回ったのだった。その辺の事情は別の機会に書きたいと思う。




映画『祇園祭』ノート(6)

2018-11-01 13:31:15 | 錦之助ノート
 先日、京都で『祇園祭』のシンポジウムに出席し、研究者たちの発表を聴いて、初めて情報を得たことがいくつかある。

一、京都府から『祇園祭』の製作費の融資をしたのは、1967年ではなく、68年で、金額は5000万円。当時の京都府議会の議事録に記載されているそうだ。京都銀行が京都府へ5000万円を入れ、その金を日本映画復興協会へ回したらしい。しかし、京都府からその後の融資が行われたかどうか、また、あったとしたら金額はいくらなのか(再度5000万円だったのか)? その点については未調査で不明のようだ。

二、京都市民(府民)に売った前売り券(350円)とは別に、1000円券というのもあったという。これは、無料試写会付きで、広く市民に資金援助を求めたものだが、売った団体や売れた枚数は不明。

三、京都文博に所蔵されている伊藤大輔文庫(夫人から寄贈)に、『祇園祭』の未定稿が数冊残っていること。発表者の京樂真帆子さんが脚本家の八尋不二(伊藤大輔と連名)が書いた二冊の脚本に目を通したという(京樂さんは、一冊目を「山鉾本」、二冊目を「未定稿本」と名付けていた)。山鉾本は原作をずいぶん変えたものだが、山鉾本の方が史実に添っていて、これを映画化した方が良かったのではないかという感想を述べていた。また、加藤泰の書いた脚本も残っているらしい。

四、史実では、祇園祭を阻止したのは、足利幕府というより、むしろ延暦寺の大衆(だいしゅ、仏僧の集団)だったが、実際に作られた映画では、延暦寺の「山法師」「僧兵」という言葉(鈴木・清水脚本にも出てくる)が全部削除され、足利幕府だけが阻止勢力になっていた。
 こうした描き方は、明らかに原作者はじめ京都府議会の日本共産党の政治的意図によるものだったと思われる(京樂さんははっきりと言わなかった)。つまり、政治権力を有する支配者階級を武士(侍)による足利政権に限定し、武士階級が民衆(町衆、農民、下層民)を搾取・抑圧し、民衆は武士に対抗し、自治体制を確立するといった構図を明確にしたかったのだと言える。


京都で映画『祇園祭』のシンポジウムに出席する

2018-10-30 00:06:25 | 錦之助ノート


 土・日に京都へ行き、京都大学の人文科学研究所で催されたシンポジウム「映画『祇園祭』と京都」に出席してきた。京都へ行くのは8年ぶり、京大の中に入るのは48年ぶりで、大学受験して落ちて以来だ。今回は、主宰者の谷川建司さんに招かれたこともあり、また、研究発表する一人が知人の板倉史明さんであるし、それに錦之助映画ファンの会の高橋さんと野村さんも出席するというので、遠征した次第。
 行きの新幹線の中で『祇園祭』のシナリオ(鈴木尚之・清水邦夫)を再読。読みながら詰まらないホンだなと思う。主人公の新吉(錦之助)とヒロインのあやめ(岩下志麻)という人間が描けていないし、ドラマもない。ちょうど読み終わったら昼過ぎに京都駅着。バスで百万遍まで行き、京都大学へ直行。
 1日目は、時計台記念館のホールで、午後1時半から映画『祇園祭』の上映。入場無料、観客は100人ほどだった。最初に谷川さんの挨拶と解説。『祇園祭』が製作公開されたのは1968年なので、今年が50周年。それを記念しての企画だとのこと。
 『祇園祭』を見るのは、今度が5度目。高1の時、渋谷パンテオンの封切りで見て、失望した映画だ。その後何度見ても、2時間48分という長さにうんざりし、ラストも感動しない。壮大な失敗作であると私は思っている。しかし、今回はなぜか退屈しないで見ることができた。前もっていろいろな資料を調べたり、シナリオも読んで、疑問点を確認しながら見たからだろう。山内鉄也監督はシナリオに忠実に映画を撮っていたのが分かり、あのシナリオを改変せずに(脚本家の強い要請)、これ以上の映画は望めない、と納得。多少、セリフは変えていたが、許される範囲だろう。
 夕方、木屋町の小料理屋「月村」へ10年ぶりに行った。前にも女将と板前のご主人から昔話を聞いたことがあるが、また聞くことができた。女将のおばあさんが戦後間もなく開店した小料理屋で、東映(東横)のスタッフや俳優がよく来た店。マキノ光雄や月形龍之介がひいきにし、錦之助も時々立ち寄ったという。カウンター横の棚に昭和30年ごろの古い記念写真が何枚か飾ってあり、右太衛門や長谷川一夫の写真もあった。ビールを飲み、鶏釜めしを食べる。薄味でうまかった。



 夜は、鴨川べりの閑静な旅館に宿泊。石長松菊園という。どう読むのか未だに不明。客室は8畳の日本間で、朝食付きで1万5700円(一休.comで予約したので割引価格)。宿に着くとすぐに就寝したが、ビジネス・ホテルの狭い部屋より快適。

 日曜の朝、旅館を出ると、すぐ近くに金光教の河原町教会があったので驚く。金光教信者だった錦之助のお導きなのかと一瞬不思議な思いにとらわれる。新しくて立派な建物だ。日曜の礼拝があるようだが、まだ8時半で中には入れず、入口にあるガラスケースの掲示を読む。「人は生きているのではなく、生かされている云々」なるほど。
 バスで百万遍まで行く。時間があったので知恩寺を訪ねる。浄土宗の寺で、門前の立て札に、ナントカ上人が災厄を除くため百万遍の念仏を唱えたので、後醍醐天皇から「百万遍」の寺号を賜ったと書いてある。境内を一回りし、本殿に入り、本尊を拝む。
寺を出ると、道路でばったり、錦之助映画ファンの会の副会長の高橋かおるさんに会う。彼女は昨晩東京を出て岐阜羽島に泊まり、京都へ来たという。高橋さんはコテコテの錦ちゃんファンで、錦之助については生き字引である。
 京大の裏門から入り、人文研(人文科学研究所)4階の大会議室へ行く。参加者は50名ほど。午前10時から夕方まで、丸一日で大変だ。午前中に2名、昼休み休憩後、山内監督の作った京都映画祭用の短編映画の上映、そのあと3名の発表。休憩後パネルディスカッションという段取りだ。
 研究者たちの発表では、午前中の木村智哉さん(映画産業史が専門で、錦之助ファンらしく、私の本も読んでいるとのこと)の話を面白く聴いた。板倉さんの話はテーマがありきたりで、突っ込みが足らず。
 昼は錦之助映画ファンの会の高橋さんと野村美和さん(京都在住)と外へ出て、喫茶店でランチを食べ、歓談。
 午後の部では太田米男さん(大阪芸大教授で『祇園祭』のフィルムを復元した人)の話がためになった。あとのお二人(日本史研究者)の発表はテーマをもっと絞るべきで、話が散漫になってこの映画自体についても時代劇映画についても理解が不十分なように感じた。
ディスカッションの時、反論しようかとも思ったが、やめる。その代り、休み時間に京樂真帆子さん(中世史研究者)には直接、指摘しておいた。
 人文研所長の高木博志さんの発表は、『祇園祭』とはあまり関係のない当時の京都の歴史学者たちについての話だった。彼は、親切にも私を館外の喫煙所まで案内してくれ、その時、20分くらい雑談した。近代史が専門で、金光教と遊郭の関係を調べているとのこと。また金光教が登場したので驚く。さっき、河原町教会があったので、見てきたと言ったら、彼も驚く。錦之助と金光教のことで私の知っていることも話しておいた。彼とはいろいろ意見交換ができて良かった。
 木下千花(溝口健二の研究者)さんの司会でディスカッション(?)というか参加者の意見も交えた質疑応答があり、終わったのは日も暮れた6時すぎ。
 それから、烏丸通りの居酒屋で関係者による打ち上げの会があり、谷川さんに誘われて私も参加。8時半まで居て途中で退席。京都を出発したのは夜の9時。杉並の自宅へ帰ったのは12時過ぎだった。へとへとになった。


映画『祇園祭』ノート(5)

2018-10-26 12:40:19 | 錦之助ノート
 竹中労の降板後、京都府議会の決議を経て、京都府から「日本映画復興協会」へ製作費として5千万円が二度、計1億円が貸与されることになった。5千万円の貸付の時期ないし契約内容は不明であるが、67年10月までに一回目の貸付があり、68年夏までに二回目の貸付があったのではないかと思われる。
 『祇園祭』の実際の製作費は約3億円と言われているが、京都府から1億円借り入れたとしても2億円不足している。当初の見積りでは、前売り券(300円)を最低でも50万枚売って、1億5千万円を調達し、借り入れた製作費の返済にあてる予定(竹中労の成算)だった。100万枚売れば3億であるが、そんなに売れたとも思えない。翌年秋、前売り券は350円に値上げしたが、目標の50万枚売れたかどうかは不明。
 68年夏、映画がクランクインしてから、京都市民のカンパもあったと言われているが、現在のクラウド・ファンディングのような方式をとったのだろうか。カンパ資金を集めた団体は、映画のパンフレットに書かれている「映画『祇園祭』製作上映協力会」(会長:湯浅佑一)のようだが、具体的に何をしたのかは不明である。
 また、蜷川知事は完成したフィルムを京都府が買い取ってもよいと言っていたようだが、上映権つきで現像したポジ・フィルムを買うつもりが、結局、著作権ごと映画を買い取ることになった。金額は分からない。それで、現在でも京都府が映画『祇園祭』の著作権を所持しているわけだ。本当なら「日本映画復興協会」(株式会社だったようだ)が映画の著作権を所持するはずだった。
 日本映画復興協会は、『祇園祭』の後も1年に1本は映画を製作する意図を持って設立されたのだが、『祇園祭』だけを製作して、あえなく解散した。会社役員の竹中労が退任し、続いて伊藤大輔が辞めることになっては、会社の存続そのものが無意味になったのだろう。当協会の代表取締役は錦之助(本名小川矜一郎、姓名判断によって錦一から改名していた)で、ほかに役員には兄の小川三喜雄と映画評論家の南部僑一郎がいたようだが、会社解散前後の経営事情についてはまったく分からない。

映画『祇園祭』ノート(4)

2018-10-23 14:26:11 | 錦之助ノート
 1967年7月から10月までを、映画『祇園祭』の第一次製作準備段階としておく。
 製作が本格的に軌道に乗ったそのスタートは、7月18日。京都府庁知事室で、蜷川知事、山田副知事が、錦之助、伊藤大輔、竹中労と初めて会見し、蜷川知事が「京都府政百年」記念事業の一環として映画『祇園祭』の製作を全面的に支援することを確約した時である。この時、蜷川知事は京都府が1億円を補助すると提案したが、竹中はそれを断り、あくまでも京都府からの資金融資(返済する借入金)で良いと主張したという。京都府のPR映画を作るのではなく、スポンサーに拘束されない自主製作映画にこだわったわけだ。

 8月19日、京都府大グラウンドの盆踊り大会で、挨拶に立った蜷川知事が映画『祇園祭』の製作を発表。錦之助も挨拶。(当ブログの『祇園祭』ノート第2回参照)
 8月20日 スタッフ全体会議。(当ブログ第3回参照)
 8月21日 京都府庁で製作発表記者会見。錦之助、伊藤、竹中が出席。三人は東京へ移動し、午後、帝国ホテルで記者会見。出席者に映画評論家の南部僑一郎が合流。(当ブログ第1回参照)


帝国ホテルでの記者会見。左から、錦之助、伊藤大輔、南部僑一郎

 8月31日 竹中が『祇園祭』のジェネラル・プロデューサーとして当てにしていた元日活専務・江守清樹郎と会見。就任を懇請するも、「キミじゃなくちゃ、この映画はできないよ。志を立てた以上、キミ自身がやりぬくべきだ。人にまかせることじゃあるまい」と言われ、断られる。その代りに江守から、アシスタント・プロデューサーとして久保圭之介を紹介される。
 *この久保というのが問題の人物で、彼に協力を依頼したことが、竹中の大きな誤算だった。久保圭之介については回を改めて後述する。

 8月初めに脚本を依頼した鈴木尚之が辞退したため(鈴木は結局、翌年5月には清水邦夫との共同執筆ということで承諾し、脚本を書く)、伊藤大輔の希望により、八尋不二が脚本を書くことになる。しかし、伊藤の意向も加え原作を改変して脚色した初稿は、原作者の西口克己が気に入らず、八尋が9月半ばに書き上げた第二稿(八尋のオリジナル脚本に近かったという)は、伊藤大輔の意に添わず、ボツになる。それで、八尋は脚本担当を降りた(「キネ旬」1969年3月下旬号に八尋不二の文章がある)。その後、脚本は加藤泰(共同執筆者がほか2名いたというが、誰だか不明)が書くことになったが、加藤の脚本も決定稿に至らず(「キネ旬」の伊藤大輔「祇園祭始末」)。

 10月半ばには、竹中労が、『祇園祭』の製作をめぐり、日本共産党京都府委員会と対立し、京都府議会(および市議会)の共産党有力議員たち(X氏、西口克己ほか)の圧力で、製作から排除される。竹中は共産党も除名された。

 これで『祇園祭』の製作は、いったん座礁に乗り上げ、中断されたのである。
11月のクランクを予定して、多分錦之助が声をかけたことで出演に快諾した俳優たちもキャンセルされる事態になった。製作発表時に名前が挙げられた面々(新聞にも書かれた)、伊藤雄之助、小沢昭一、石坂浩二、加賀まりこ、中村勘三郎、中村賀津雄のうち、一年後に製作された映画に出演したのは、伊藤雄之助と賀津雄の二人にすぎない。
 しかし、周知の通り、最終的には、映画『祇園祭』のキャスティングは錚々たる男優・女優が並んで、映画が大ヒットする大きな要因の一つになる。