錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

錦之助出演のラジオドラマ(5)

2015-12-10 17:28:42 | 【錦之助伝】~スター誕生
 錦之助のラジオドラマ5本目で最後が昭和31年2月から放送が始まった「異国物語 ヒマラヤの魔王」だった。錦之助と千代之介が共演した唯一のラジオドラマである。二人は『笛吹童子』以降、映画では何本も共演していたが、ラジオで声だけで共演するのはこれが初めてであった。といっても、二人とも映画の撮影で非常に忙しかったため、録音はほとんど別々に行われたという。
 ラジオドラマ「ヒマラヤの魔王」は、同じ映画の宣伝用に東映が肩入れして急きょ企画され、民放のラジオ東京によって制作された。内容は、ティーンエイジャー向きの冒険ロマン時代劇で、「異国物語」と副題が付いているように、NHKの「新諸国物語」を真似たものだ。原作者は大林清である。
 錦之助は自著の「あげ羽の蝶」の中で、こう書いている。

――「ヒマラヤの魔王」は、何はともあれ、映画化の前にぜひやらねばならないことなので、二人とも(錦・千代)意を決してマイクの前に立つことになりました。

 映画のほうは東映娯楽版中篇3部作として昭和31年のゴールデンウイークをはさんで公開されるが、ラジオドラマは同年2月から5月までの3か月間、月曜から金曜の夕方15分間の放送であった。スポンサーは不二家で、関東ではラジオ東京で午後5時30分より、関西は大阪の朝日放送とラジオ京都で午後5時20分より放送され、大変な人気を博した。当時子供たちの間で人気絶頂の錦之助と千代之介がラジオで共演したのだから当然である。ラジオ東京の番組では開局以来の大ヒットだったそうだ。
 NHKのラジオドラマ「新諸国物語」は、昭和31年1月から第五話「七つの誓い」を放送中で、時間帯は月曜から金曜の夕方6時30分から15分だった。ということは、昭和31年2月から約3ヶ月間、錦・千代ファンの子どもたちは、夕方5時半から「ヒマラヤの魔王」を聞き、夕飯をとったあと、6時半から「七つの誓い」を聞いていたのだろう。
 映画『ヒマラヤの魔王』三部作については回を改めてまた書きたいと思う。



錦之助出演のラジオドラマ(4)

2015-12-09 14:08:55 | 【錦之助伝】~スター誕生
 4本目は「獅子丸一平」だった。企画制作は大阪の新日本放送で、昭和31年1月から関西地方だけで放送されたようだ。しかしこのラジオドラマについては不明な点が多い。
 私の持っている資料では、映画『獅子丸一平』五部作のパンフや東映ウィークリ―にはラジオドラマのことが全く付記されておらず、これについて書いてあるのは、錦之助の後援会誌「錦」だけである。
「錦」昭和31年1月号(1月中旬発行)の巻末ページに後援会本部からの知らせとして、こんなことが書いてある。

――今度新日本放送の「獅子丸一平」の放送に一平の役で出演されるようになりました。ただ残念なことに、午前9時45分からの放送なので、会員の多くの方達にとって聞けない時間なので、苦情が本部にきて居りますので本部としても早速新日本放送へ皆さんの御要望を伝えておきましたが、きまった番組変更は難しい様子です。お聞きになった方は、ラジオ批評をお寄せ下さい。

 不得要領な記載で、新日本放送での放送日程も曜日も、放送時間が何分なのかも分からない。ほかの放送局(例えばラジオ東京)で放送される予定があるかどうかも、他の出演者もまったく不明である。
 翌月の「錦」(昭和31年2月号)の巻末ページ(本部だより)を見ると、急きょラジオ放送が開始された「異国物語」に錦之助が風早蔵人の役で出演することは書かれているが、ラジオドラマ「獅子丸一平」のことには何も触れていない。しかし、同号の錦之助の日誌にはこう書いてある。

――1月16日 午前八時起床。午後九時半大阪に再び自動車で向う。午前十一時より新日本放送で私の本年度第一回目の放送になる「獅子丸一平」の録音をする。

 また、「錦」昭和31年3月号の錦之助の日誌にもこうある。

――2月13日 午前10時、大阪の新日本放送局へ行く。午前11時30分から午後5時まで「獅子丸一平」の録音を済ませる。

 錦之助が新日本放送局のスタジオでラジオドラマ「獅子丸一平」の数回分の収録をしたことは確かであるが、その後のことがまったく分からないのである。

 川口松太郎の「獅子丸一平」は昭和29年9月より毎日新聞夕刊に連載され、2年後の昭和31年9月に完結した長編小説である。単行本は上中下の三巻で、上巻は昭和30年7月に、中巻は昭和31年3月に、下巻は同年10月に発行されている。
 「獅子丸一平」は新聞連載中から評判を呼び、映画化権は各社の争奪戦になったようだが、当時破竹の勢いにあった東映が映画化権を獲得し、昭和30年夏に錦之助主演で『獅子丸一平』第一部と第二部が製作され、10月には封切られている。
 第三部は昭和31年1月初旬にクランクインするが、ラジオドラマの制作もこれと同時期に始まっている。普通、ラジオドラマは映画に先行し、映画の宣伝用に作られることが多いのだが、ラジオドラマの「獅子丸一平」は、企画も中途半端で、いかにも時期遅れといった感じで、聴取率も悪かったのではなかろうか。
 映画『獅子丸一平』第三部が公開されるのは昭和31年3月15日であるが、ラジオドラマはその後すぐ打ち切られたように思われる。


錦之助出演のラジオドラマ(3)

2015-11-24 10:06:49 | 【錦之助伝】~スター誕生
 錦之助が出演したラジオドラマの3本目(映画界に入ってからは2本目)が山岡荘八原作の「織田信長」だった。錦之助が主役で、若き日の信長を演じるものである。錦之助は「明玉夕玉」でラジオドラマには懲りていたが、あえてこれに再挑戦した。
「織田信長」の映画化に賭けていたからだ。錦之助は意欲満々だった。自伝「あげ羽の蝶」に、錦之助はこう書いている。

――「明玉夕玉」を放送して以来、僕の苦手の放送も、これだけは張り切って出演、連続放送劇としてラジオ東京から毎週一回放送致しました。

 ラジオ東京は、民放のTBSの前身である。後援会誌「錦」昭和30年5月号(5月半ば発行)に錦之助主演の連続ラジオ放送劇「織田信長」の予告とあらすじが掲載され、以後10月号まで提供の雪印乳業の1ページ分の広告にラジオ放送のことが書かれている。
 それによると、「織田信長」は、5月下旬からラジオ東京だけでなく、ほぼ全国ネットで放送された。ラジオ東京では毎週水曜の夕方17時30分から30分間。他の放送局は、北海道放送(土曜19:00~)、ラジオ岩手(土曜20:30~)、東北放送(水曜19:30~)、中部日本放送(土曜17:30~)、新日本放送(火曜18:15~)、ラジオ九州(水曜18:00~)である。
 また、「織田信長」のラジオ放送開始に合わせ、「平凡」7月号(5月下旬発売)から山岡荘八原作、伊勢田邦彦挿画の「織田信長」の連載絵物語が始まる。山岡の「織田信長」はすでに「小説倶楽部」に連載され、第1巻の単行本が講談社から発売されていたが、「平凡」誌上にもう一度最初から転載することになる。これは「明玉夕玉」と同じく、ラジオで放送する立体絵物語と称し、挿画をたくさん加えて読みやすくしたものだった。「平凡」誌上での「織田信長」の連載は、ラジオドラマの宣伝も兼ね、各放送局の曜日と時間帯を記載して11月号まで5回連載された。ちょうど映画の『紅顔の若武者 織田信長』が9月20日に封切られるまで続いた。

 連続ラジオ放送劇「織田信長」の制作スタッフおよび配役は以下の通りである。 
 脚色:高橋辰夫、音楽:若山洋一、演出:番一夫
 配役:吉法師信長=中村錦之助、中務政秀(語り手)=小沢栄、織田信秀と森三左エ門=中村歌昇、濃姫=水城蘭子、その他、劇団「葦」


 信長の守役の平手政秀が小沢栄(栄太郎)で語り手もやっている。錦之助の長兄の中村歌昇が信長の父信秀と斎藤道三の家来の森三左エ門の二役を演じた。濃姫役の水城蘭子はのちにテレビドラマの脇役や声優としても活躍した女優である。

 「錦」昭和30年5月号の錦之助の日誌を見ると、第一回目の録音は昭和30年4月24日の午後6時半から大阪のスタジオ(マジェスティック・テレビ・プロダクションの録音室)で行われた。錦之助の台詞だけを単独で録音したようだ。この日は、午前中は『あばれ纏千両肌』の撮影、午後から大阪の朝日ラジオホールで錦之助後援会の関西地区の「春の集い」に出席し、大忙しの一日だった。「織田信長」の録音が終わったのは夜の11時半で、錦之助は夜中に京都の常宿小田屋へ帰っている。
 二回目の録音は5月1日の午後、東京のアオイスタジオで行われた。アオイスタジオというのは錦之助の一つ上の姉の多賀子の夫(丹羽氏)が経営していた録音用スタジオで、永田町にあり、錦之助の後援会の本部もここにあった。
錦之助の日誌の5月1日には、こうある。

――午後1時アオイスタヂオに出向き、織田信長の吹込。4時に終って、階下に降りると日曜にもかかわらず、会員の皆さんが一生懸命封筒書きをしておられる姿には感心しました。

 錦之助後援会は昭和29年7月に設立し、8月22日に上野精養軒での盛大な発会式を行ったが、その後会員の数が増え続け、昭和30年5月には1万人を突破していた。設立時から会誌「錦」を毎月発行してきたが、その郵送が大変で、事務局が会員に呼びかけ、本部で封筒のあて名書きを手伝ってもらっていたのだ。

 「平凡」9月号(7月下旬発売)の「織田信長」の最初のページには「東映映画化、中村錦之助主演・撮影開始」という予告と、顔写真入りで錦之助のメッセージ「ラジオだけでなく映画にも出演することになりました。ファンの皆様どうぞご声援ください」という一文が載るが、錦之助待望の映画『織田信長』はすでにクラックインし、7月中は撮影の真っ最中だったわけである。


錦之助出演のラジオドラマ(2)

2015-11-04 20:08:31 | 【錦之助伝】~スター誕生
 ラジオドラマの「明玉夕玉」はもともと美空ひばり側の企画で、錦之助はひばりに誘われて、引き受けたのだった。主題歌と挿入歌はひばりが唄い、主役もひばりであるが、相手役に錦之助を望んだのはひばり自身であった。
 前回引用した錦之助の言葉によると、ひばりと共演した映画『八百屋お七 ふり袖月夜』の撮影中に「明玉夕玉」の出演を頼まれたと言っているが、本当は撮影前の昭和29年7月上旬だったのではあるまいか。その時錦之助はあまり考えずに気軽に応じたのだと思われる。この頃は『里見八犬傳』5部作が公開されたばかりで、錦之助の人気が急上昇する途上にあったとはいえ、「平凡」をはじめとする芸能雑誌がまだ錦之助を大々的に取り上げていなかった。美空ひばりに比べれば、知名度には雲泥の差があった。錦之助はまだ全国の日本人に知られるほどのスターではなく、『笛吹童子』や『里見八犬傳』などの錦之助の出演映画を見た限られたファン、おもに一部のティーンエイジャーたちにとって錦之助がアイドル的存在になりかけた頃であった。ちょうど千原しのぶとの共演作『唄ごよみ いろは若衆』を撮影中で、『八百屋お七 ふり袖月夜』がクランクインする前である。

 昭和29年8月号(6月下旬発売)の「平凡」を見ると、連載が始まった「明玉夕玉」第1回には、ラジオドラマのことがまったく触れられていない。それが9月号(7月下旬発売)には、第2回「明玉夕玉」の冒頭ページにひばりと錦之助がマイクの前で仲良く並んだ写真が「録音中の二人 珠姫=美空ひばり、竜太郎=中村錦之助」の文字入りで掲載され、ラジオドラマが宣伝されている。「7月18日から毎日曜日午後7時より放送開始!☆ニッポン放送(JOLF)1310KCに どうぞラジオのスイッチを!」とあるが、9月号が発売されるのとほぼ同時にラジオドラマが放送されたわけである。また、キャッチフレーズの「ラジオで放送する日本で初めての立体絵物語」もこの時から使われ始める。



 雑誌「平凡」がひばりと錦之助を格好のカップルとして扱い始めたのはこの9月号からであるが、同時に錦之助の取材記事が急に増え始めるのも9月号からであった。同号には、ひばりが東京の麻布三河台町にある錦之助の実家を訪問するという3ページのグラビア記事「錦之助さん、こんにちは!」を載せ、ひばりと錦之助の仲良しぶりを公(おおやけ)にしている。まるでひばりがフィアンセでもあるかのように錦之助は母や兄嫁や妹たちにひばりを紹介しているのである。ひばりが錦之助の東京の実家を訪ねたのは6月のことだと思うが、ひばりと錦之助は6月下旬に京都で再会し、この時から8月半ばまでの期間に二人は恋愛関係に入った。ひばり17歳、錦之助21歳である。そして、二人の熱々ぶりが最高潮に達したのは、『八百屋お七 ふり袖月夜』の撮影期間中であった。この映画はひばりと錦之助の三度目の共演作だったが、まさに三度目の正直で本物の恋が燃え上がり、ひばりは、ヒロインのお七さながら、吉三郎の錦之助を熱愛するようになっていた。昭和29年の真夏、7月下旬から8月半ばの2週間のことである。



 錦之助が東京のニッポン放送で「明玉夕玉」の数回分の収録を行ったのは、昭和29年8月22日だった。錦之助は書いていないが、その日ひばりもいっしょにいたことは間違いない。ひばりはまた錦之助と東京で会って、「明玉夕玉」の仕事をいっしょにできることを喜んだにちがいない。
 錦之助の日誌によると、20日に『八百屋お七 ふり袖月夜』がクランクアップして、21日に東京に帰り、22日は朝、駒沢球場で野球をして、昼にニッポン放送のスタジオへ向かった。その時、「明玉夕玉」の台本をもらって、ぶっつけ本番で台詞の録音をしたそうだが、録り直しの連続でひどく苦労したようだ。午後5時まで掛かって、ようやく数回分の収録を終えたが、翌日23日もスタジオへ行きその続きの録音をした。ひばりは台本の台詞をすらすら上手にこなしていくのに対し、錦之助は慣れていなかったので、台詞が棒調子になり、また言葉に詰まることも多かった。これで、錦之助はラジオドラマに対して苦手意識を持ってしまった。「錦」第3号(昭和29年9月発行)で錦之助は、こう語っている。

―――ラジオというやつは馴れないせいもあって、まるっきり苦手である。ひばりちゃんはじめ、レギュラーの方々は、オーソリティばかり。私だけが取り残されているみたいで、最初は全くマイク恐怖症にかかってしまった。が、最近漸く馴れて来た様に思うが、あとで聞いてみるとまだまだ勉強不足。アクションなしで、声の変化によって感情を出すという事の難しさをしみじみと味わっている。一日も早く「明玉夕玉」がおしまいになることを祈るや切。

 「明玉夕玉」のラジオドラマは、ニッポン放送では昭和29年の暮まで計24回続いて終了し、昭和30年から同じく毎週日曜に7時半から再放送されたようだ。放送開始時期、放送時間は違うが、ラジオ大分、関西の新日本放送(毎週土曜夜9時から)、ラジオ青森でも放送されている。
 
 「明玉夕玉」は、ひばりと錦之助の共演で、東映が映画化する話もあった。昭和30年4月号(2月下旬発売)の「平凡」に掲載された「明玉夕玉」(第9回)の冒頭ページには「ひばり・錦之助主演 東映映画化決定!」とあり、最後のページにも「いよいよ四月から東映でクランクインすることに決定しましたから、どうぞご期待ください」と発表されている。「平凡」4月号が編集された2月の時点では、東映は『紅孔雀』に続く少年少女向きの娯楽版を「明玉夕玉」に決め、ひばりと錦之助のコンビで前後篇ないしは3部作にして製作するつもりだったのだろう。
 ところが、それが急きょ中止になった。その理由は明らかにされていないが、映画の製作決定後間もなく、錦之助が降板したいと申し出て、製作中止になったのだと推測される。錦之助はひばりに勧められて一度は出演を承諾したようだ。しかし、昭和30年2月に錦之助が盲腸の手術で慶応病院に入院することになって状況が一変した。錦之助は2月8日に手術をしてその後2週間入院していたが、その間に映画俳優としての今後の自分のあり方について、いろいろ考えたようだ。映画デビュー以来、会社にあてがわれた役を次から次へとがむしゃらに演じてきたことは決して無駄ではなく、映画俳優として成長の一段階であったが、これからは自分が演じる役を十分に検討し、少年少女向けの中篇娯楽版の連作に出演することは控えようと考えたのではなかろうか。大人が見ても鑑賞に耐えられる映画に出演し、演技者としてさらに前進しようと錦之助は決意を固めたのだと思う。


錦之助出演のラジオドラマ(1)

2015-10-31 13:55:17 | 【錦之助伝】~スター誕生
 錦之助が初めてラジオ放送劇に声優として出演したのは、映画デビューする前、まだ歌舞伎界にいた頃だった。錦之助の自伝「あげ羽の蝶」の中でこう書いている。

――「新書太閤記」を、日吉丸時代を弟の賀津雄、少し大きくなって僕、壮年期を千秋実さんとそれぞれわけてやったのが初めてですが、この時はさしてあがりもせず、順調でした。

 これは吉川英治原作の「新書太閤記」のラジオドラマであろう。放送時期、放送局などについて調査したいと思うのだが、なにぶん昔のラジオドラマなのでデータが残っていないようだ。インターネットに「配役宝典」というサイトがあって、たまに見ることがあるのだが、豊臣秀吉を調べてみると、ちゃんと出ていた。

 北沢彪 / 中村賀津雄(声)ラジオドラマシリーズ「新書太閤記」(昭和28年)

 錦之助の名前はないが、賀津雄と「新書太閤記」とあるので、このラジオドラマに間違いなかろう。錦之助は、千秋実と書いているが、「配役宝典」では北沢彪である。どちらが正しいのか? 錦之助の記憶違いなのだろうか。それとも千秋実の予定が途中で北沢彪に代わったのだろうか。
 放送局は不明である。NHKかニッポン放送かラジオ東京のいずれか?
 放送期間は、昭和28年のいつごろだったのか、時間帯も不明だ。たぶん夜だと思うが、「新書太閤記」ならば人気番組だったにちがいない。
 それにしても、錦之助が映画デビューする前に、ラジオドラマの声優に挑戦し、若き日の木下藤吉郎に扮していたというのは意外である。
 ところで、昭和28年には東映が「新書太閤記」二部作を製作し、第一部「流転日吉丸」(萩原遼監督)を5月半ばに、第二部「急襲桶狭間」(松田定次監督)を9月末に公開している。ラジオドラマはこの映画の前宣伝のために制作されたのだろうか? あるいは逆に、ラジオドラマをやっていたので、東映がそれに便乗して映画を製作したのであろうか。映画はフィルムが残っているのかどうか不明だが、データによると第一部で日吉丸に扮したのは石井一雄、木下藤吉郎になってからは市川右太衛門である。第一部で織田信長は岡田英次、蜂須賀小六は月形龍之介。第二部で信長は龍崎一郎、前田犬千代が河津清三郎、今川義元が岡譲司。

 錦之助のラジオドラマ出演の2本目が「明玉夕玉」だ。美空ひばりが主役で、錦之助が相手役である。このドラマについては、以前このブログに書いたことあるが、先日You Tubeでいろいろ探していたら、ニッポン放送のラジオ番組のアーカイブがあり、そこにこの「明玉夕玉」のほんの一部が収録されているのを見つけた。
 二部に分けてあり、片方に昭和29年(1954年)7月から始まった「明玉夕玉」があるではないか!! まさかこんな古いラジオ放送が今になって聞けるとは思ってみなかったので、驚く。「明玉夕玉」は、わずか2分かそこらだけだが、貴重な音源である。ひばりの主題歌で始まり、ナレーション(誰か?)のあと、ひばりと錦之助の声でドラマが展開する。ひばりは声優をやってもプロ級でうまい。錦之助はそんなに下手でもないが、ちょっと噛んでしまった言葉が二つあった。このアーカイブには、ほかに「少年探偵団」と「モノマネのど自慢」が入っている。1979年、ニッポン放送が開局25周年記念の時に、野球のナイター中継の合間に流したものだという。奇特な人がいたものだ。カセットテープに録音したものをずっと保存していて、You Tubeにアップしてくれたのだ。

 ラジオドラマ「明玉夕玉」を試聴する(クリック!)

 「明玉夕玉」は、月刊「平凡」誌に昭和29年8月号(6月下旬発売)から始まった連載小説だが、中沢巠夫(みちお)・作、山口将吉郎・画。挿絵が紙芝居のように数多く描かれ、「ラジオで放送する日本で初めての立体絵物語」がキャッチフレーズ。作者の中沢巠夫は当時売れっ子の大衆作家で、山口将吉郎は吉川英治の「神洲天馬俠」の挿絵で有名な画家である。豊後の臼杵(うすき)家に伝わる家宝の真珠・明玉夕玉をめぐって、臼杵家の娘珠姫とその恋人の竜太郎が悪漢たちと争奪戦を繰り広げ、珠姫の父で囚われの身にあった豊後守を救出するといった物語である。
 「明玉夕玉」は、芸能雑誌とラジオドラマがタイアップした最初の試みだったようだが、ラジオドラマの方は、主役の珠姫に美空ひばり、相手役の竜太郎に錦之助が選ばれ、7月第3週からまずニッポン放送で番組が開始された。毎週日曜午後7時からである(のちに7時30分からに変更された)。「平凡」9月号には「明玉夕玉」の第2回が掲載されるが番組の放送日程も書いて宣伝を加え、さらに、10月号からは、挿絵のいくつかにひばりと錦之助の顔写真を配して、物語のイメージを掻き立てた。
 ひばりと錦之助はそれまで映画で3本共演していたが、ラジオドラマでも共演をしたわけである。ただし、声だけの共演である。多忙な二人は、それぞれ別々にスタジオでセリフを録音することがほとんどだったという。
 錦之助の書いた文章を見ると、錦之助はどうも最初からこのラジオドラマの出演には気乗りがしなかったようだ。

――『ふり袖月夜』の撮影中、連続放送劇「明玉夕玉」を頼まれ、イヤだというのに京都から東京に着くとすぐ、その日のうちに脚本をもらってすぐ録音というあわただしい放送の仕事をさせられました。気持は落ち着かず、NGの連続です。