錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『祇園祭』(その2)

2006-07-29 21:59:20 | 祇園祭
 後半、ようやくドラマが展開し始める。町衆たちは一揆鎮圧のため馬借や百姓たちと無益な戦いをしたことを反省し、侍たちに対する信頼も揺らいで、自らの生活を守るため団結に向かう。ここで、やっと新吉がリーダーシップを取り、行動を起こす。町役人の侍に対し税金不払い運動を行い、新吉がその先頭に立つのだ。役人たちはその対抗処置として、関税を設け、京の町への食糧供給の道を遮断してしまう。新吉は町衆の重役を説得し、これまで敵対していた馬借のもとへ米を運んでくれるように頼みに行く。あやめが自ら人質を申し出て新吉に協力するところはどうも理解できないが、町衆が馬借を通じ百姓たちと手を結ぶ結果となって、町衆による自治体制の基盤が築かれることになる。この馬借の頭、熊左という荒くれ者を演じたのが三船敏郎で、三船が登場してから話が急に面白くなり、私は身を乗り出してこの映画を観るようになった。熊左は三船にぴったりの役柄で、オイシイところを三船がさらってしまった感すらあった。
 町衆の集会で、新吉は祇園祭の復興を提案する。ただし、映画的構成から言えば、時すでに遅しといった感で、あとは急ぎ足で、祇園祭の準備があり、クライマックスの山鉾巡行にたどり着く。が、残念ながら、なぜ町衆が立ち上がって祇園祭を復興するのか、祭りにかける町衆の決意の強さと意欲の描き方が甘く、盛り上がりに欠けてしまった。また、この世の災厄や病苦を振り払うという祇園祭の意義と象徴性も浮き彫りにしてほしかったと思う。

 「仏造って魂入れず」という言葉があるが、『祇園祭』という映画は、「映画作って魂入れず」みたいな中途半端な作品に終わってしまった。ストーリーだけが枠組みのように残っているだけで、個々のシーンも登場人物たちも有機的なつながりを欠いていた。要するに、映画特有の躍動感を感じなかった。登場人物たちはセリフは話すものの、作中でほとんど生きていない印象すら受けた。豪華俳優陣もそれぞれ与えられた役柄をどう演じていいか分からず、顔見世だけで終わってしまったのではあるまいか。また、登場人物たちが皆、標準語をつかっていることも気になった。なぜ京都弁を話さなかったのだろう。それが分からなかった。錦之助だけは少し京都アクセントをつかっていたが、他の俳優たちが話す現代的な標準語に私は非常な違和感を覚えた。
 クライマックスも物足りなかった。『祇園祭』は、市民運動のはしりのような話で、その高まりを謳い上げることが重大なテーマがなのだから、町衆による自治体制の象徴として祭りを取り上げ、祭りの復興を目指して団結した町衆のエネルギーが集結し、最後には爆発するくらいのクライマックスでなければならなかったと思う。聞きところによると、山鉾巡行のシーンだけで7千万円の製作費がかかったらしい。そんなに金をかけるくらいなら、壮大なスペクタクルに仕上げてほしかったものである。美空ひばりが見物人の間から手を振ったり、祭りを阻止しようとするエキストラみたいな侍たちが現れたり、また山鉾に乗った新吉が弓矢に射られ瀕死状態になる場面など、余計だったのではあるまいか。京の町並みと群集の中をただ山鉾が堂々と練りまわるシーンをじっくりと撮影すれば良かったように思う。

 『祇園祭』は、伊藤大輔監督がずっと暖めていた企画であった。が、もとはと言えば、京都の歴史学者林屋辰三郎が中心となり、戦後の市民運動の一つとして、史実にある京都町衆による祇園祭復興の話を紙芝居で演じていたのが原点だった。その頃から伊藤大輔は市民の自治を謳ったこの題材に興味を覚え、映画化を考えていたという。それは、西口克己が同じ題材をテーマにして小説『祇園祭』を発表する以前だった。伊藤大輔はまだ東映にいた錦之助の賛同を得て、二人揃って東映に企画を提出したが、製作費がかかり過ぎるという理由で拒否されたようだ。東映を辞めた後、錦之助は伊藤監督をかついで『祇園祭』の自主製作に乗り出す。その後、芸能ルポライターの竹中労が一役買って、革新府政で有名だった蜷川京都知事に話を持ちかける。蜷川知事の発案で、京都府政100年を記念するという製作目的が掲げられ、資金面では京都府のバックアップ(1億円)が約束され、ようやく映画製作に漕ぎつけたのである。
 しかし、製作途上で多くのトラブルがあったことも周知の事実だった。最近私はこの辺の事情を詳しく知ろうと思い、古い「キネマ旬報」を入手し、関連記事や関係者による投稿文を読んでみたが、複雑怪奇な裏事情を知るに至り、『祇園祭』が失敗作に終わったのも無理もないと納得した。たとえば、共産党議員であった原作者(西口克己)による強引な要請、八尋不二が書いた脚本第一稿の却下、新たに脚本を書いた鈴木尚之・清水邦夫両名と伊藤監督との行き違い、クランクイン時点における脚本の未完成、それによる伊藤監督の降板、山内鉄也への監督交替、プロデューサー久保(何某)の調整役としての不手際、独立プロ「日本映画復興協会」の有名無実化などである。
 錦之助が彼の自伝の中で、『祇園祭』のことを触れたがらず、沈黙を守っていたのも分からないではない。映画製作の舞台裏はどうであれ、映画は、作品自体の良し悪しがすべてである。『祇園祭』は、興行成績は上々だったとはいえ、はっきり言って、不完全な作品だった。今となってはもう二度とこの映画を作り直せないことを私は大変遺憾に思う。



『祇園祭』(その1)

2006-07-29 17:20:32 | 祇園祭

 『祇園祭』を観るのは今度が二度目であったが、初めて私が観たのは、もう今から38年前で、1968年11月末の封切りの時だった。今でもよく覚えているのは、洋画系のロードショー専門の映画館、渋谷東急でこの映画を観たことである。錦之助は東映を辞めてから長い間映画に出演していなかった。東映最後の作品は『丹下左膳・飛燕居合斬り』で、調べてみると1966年5月公開とのことだから、錦之助のスクリーン再登場までには約2年半のブランクがあったわけだ。
 『祇園祭』は、錦之助ファン待望の作品であり、独立プロによる自主的な映画作りを歓迎する気運も盛り上って、前評判が非常に高かった。三船敏郎が友情出演したことも注目を浴びた。錦之助と三船という当代二大時代劇スターの初共演だったからである。(その後二人は『風林火山』『新選組』『幕末』『待ち伏せ』と共演作を発表し続ける。)また、この頃演技派女優として進境著しかった岩下志麻の出演も話題を呼んだ。それはともかく、当時高校生で金がないため安い名画座ばかりを回っていた私がロードショー料金まで払って『祇園祭』を観に行ったのは、何よりも錦之助ファンだったからで、全精力を傾けこの映画を自主製作した錦之助に対し応援したい気持ちが湧いたからだったと思う。

 封切りで観た『祇園祭』の印象はさすがにもう薄れているが、ただ見終わって失望したことだけははっきり覚えている。錦之助が演じた主人公が従来の格好の良いイメージとは違い、冴えなかったからだ。派手な立ち回りがなかったことにも原因があるが、内容も暗く面白くなかった。今回38年ぶりに観て、やはりその失望感は変わらなかった。しかも悪いことに、先日京都文博で観たこの映画はカラーが変色し、セピア色になっていた。ただ、ラストの山鉾(やまぼこ)巡行のシーンだけは変色していなかったので、それがせめてもの救いだったが、初めて観た時の好印象、色彩の美しい映画だったという記憶は結局確かめられなかった。ニュー・プリントで上映してもらいたかった。
 しかし、カラーの美しさは映画の内容とはあまり関係ないと思う。それよりも残念だったのは、この映画を観ながら、私は何度もため息をつき、途中で時計すら見てしまったことだ。錦之助の映画を観ている時、めったに時間を気にすることなどないのだが、この映画は途中で退屈に感じた。上映が始まったのは1時半で、時計を見た時はすでに3時近かった。実を言うと、観ている最中、私は上映時間が2時間半だということを知らなかったのだが、だらだらと続いた映画の前半にはうんざりした。侍と町衆と百姓たちが殺し合う陰惨なシーンにいったい何の意味があるのだろうかと思った。

 スクリーンでは相変わらず錦之助が一所懸命に演じていた。染物職人の新吉という役である。時代は応仁の乱の後に続く混乱期、場所は度重なる戦乱で荒れ果てた京都の町。近隣の百姓たちは土一揆を起こし、都に入り、焼き討ちと略奪を重ねる。侍たちの統治力は弱体化し、一揆を鎮圧することができない。町役人たちの圧制と百姓一揆との間で京都の町衆は生活を脅かされ、塗炭の苦しみを味わう。その町衆の一人が主人公の新吉なのだが、映画の前半で新吉は目立った活躍をしない。何か気弱そうで頼りなく、苦しみ受け入れ耐えているだけの羊のような人間にすぎない。状況を変えようといった行動も起こさない。おろおろしながら惨状を見ているだけで、錦之助の魅力がまったく生かされていない、まるで木偶坊(でくのぼう)みたいな役柄なのだ。
 ある夜のこと、お堂の方から笛の音が聞こえ、岩下志麻が演じるあやめという美しいが怪しげな女が現れる。新吉はあやめに魅せられてしまう。よく分からないうちに、錦之助と岩下志麻の濃厚なキスシーン(ここも余計だ)があって、二人はお堂の中で関係を持つ。この辺も唐突でストーリーに不自然さを感じた。二人のロマンス(?)がいかにも取って付けたようで、全体の流れから浮いているとしか思えない。
 翌朝新吉が家に帰ると、母親(滝花久子)が死んでいる。町役人の侍に撲殺されたのだ。妹(佐藤オリエ)に事情を説明される新吉。ここで母親の撲殺シーンがリアルに映し出される。この場面なども不要で、首をかしげたくなってしまう。支配者階級の侍たちの残虐さを強調したかったのだろうが、この映画は侍の描き方が馬鹿馬鹿しいほど戯画的なのである。他にも惨殺シーンが多すぎて、この頃の時代劇の悪弊だけがやたら目に付く。
 新吉があやめの言葉によって現実に対し目を見開かされるという設定も気に入らなかった。新吉があやめに操られているようなのだ。あやめは気高いお姫様のようでもあり、また魔性の女みたいな存在なのだが、実は最下層民であるの頭領の娘である。町衆に不信感を持っていて、新吉に対しても批判的である。岩下志麻は、『五辨の椿』で演技開眼したとはいえ、時代劇ではまだ違和感があった。顔はきりりと締まってよいのだが、セリフが硬く、つっけんどんで冷たい印象を与えてしまう。錦之助とは合わないなと思った。妹役の佐藤オリエの方がずっと女らしくて良かった。
 侍たちは、京の町衆に対し、武器を取って土一揆鎮圧のため戦うことを命じる。止むに止まれず、馬借(ばしゃく=馬方衆)や百姓たちと殺し合いをする町衆。侍たちは窮地に追い込まれると、卑怯にも町衆を見捨て、逃げてしまう。
 
 映画の前半では、侍、町衆、馬借・百姓という三つの異なった階層に加え、公卿、までが登場し、それぞれの階層が入り乱れ、映画自体も収拾がつかなくなっている。登場人物の出入りばかりが激しく(有名俳優のちょい役が多すぎた!)ドラマなき描写とでも言おうか、茶番劇のような左翼的な階級闘争が延々1時間以上にわたって描かれるのだから、観ていて、うんざりするのも当然である。
 祇園祭復興というテーマはどこへ行ってしまったのか。前半のこの一時間近くは20分ぐらいに縮め、ダイジェスト版のようにして、ナレーションを加えながら、説明すれば済むのではないかと私は感じた。(つづく)