8月、錦之助は新橋演舞場での東京大阪合同歌舞伎に出演した。ここでまた錦之助は憤慨し、歌舞伎役者として大きな失望を感じる出来事が起る。
夏は東京の歌舞伎興行は休むのが通例で、歌舞伎座はこの年の夏、場内改装のため休演にしていた。吉右衛門劇団は北海道巡業に出たが、錦之助はそれに加わらず、東京に残った。8月、新橋演舞場では東西若手歌舞伎を催す予定であったが、それが流れ、単に東西合同歌舞伎に変更されてしまった。まず、これが錦之助にとってケチの付き初めだった。結局、大阪から歌舞伎役者が大挙してやって来て、東京で上方歌舞伎を繰り広げることになったのだった。仁左衛門、鴈治郎、簑助、嵐吉三郎、嵐雛助、浅尾奥山、寿美蔵、若手では扇雀、雷蔵である。多勢の大阪方に対し、東京方は無勢だった。時蔵一座全員と各劇団の居残り組で、夏休みを返上して、歌舞伎に出ようという役者たちだけが加わった。時蔵、彦三郎、鯉三郎、高助、それに若手では、歌昇、松蔦、錦之助、賀津雄である。
出し物は上方歌舞伎が主体であった。そして、良い役は大阪勢で固め、そこに時蔵が割って入るという形になった。
中でも目下人気上昇中の扇雀に活躍の場が与えられた。公演は昼の部四演目、夜の部四演目だったが、そのうち扇雀は、昼の「宿無団七」で団七の女とみ、「玉藻前」で桂姫、「角兵衛と女太夫」の女太夫、夜は「五条坂の景清」で傾城阿古屋、そして目玉は、近松生誕三百年記念の出し物、宇野信夫の脚色によって二百数十年ぶりに歌舞伎に復活した「曽根崎心中」で、扇雀はお初を演じた。さらに大喜利の「面影近松祭」ではそのままお初の姿で踊るというおまけつき。つまり全八演目中五役に出演、それも女形の主役ばかりであった。扇雀のお初、父鴈治郎の徳兵衛で「曽根崎心中」が初演されたのは、同年(昭和28年)5月の明治座だった。その時も話題になったが、これが大評判を呼び、扇雀の人気が急上昇し、ブームを巻き起こすのはこの夏の公演によってである。以来、扇雀は鴈治郎、藤十郎になっても「曽根崎心中」のお初を当たり芸として続演し、上演数が優に千回を越えたことは周知の通りである。
この公演では、関西のホープ雷蔵も優遇され、四役と「面影近松祭」に芸妓で出演した。
では、錦之助はどうだったか。「玉藻前」の一役。扇雀の桂姫の妹で初花姫という大変良い役だったが、これだけである。あとは、フィナーレの「面影近松祭」で芸妓になって踊って終わり。東京の若手では、松蔦が三役と最後に芸妓。歌昇、賀津雄ともに一役で、「面影近松祭」では太鼓持になって踊るという有様。
これでは、完全に東京の若手をなめた配役であった。錦之助はこの時のことを「あげ羽の蝶」でこう書いている。
昭和二十八年夏の新橋演舞場では関西方の若手とまじって「面影近松祭」を踊りました。それが終ったあと、現松竹会長の大谷社長から、よくやった若手にホウビが出ることになり、僕も三等で置時計をもらいました。普通だったら喜べたことでしょう。しかしカブキそのものに対しても不満を持ち、関西とこちらの若手を並べたとき、いつも一段格が下げられて扱われる不公平さに腹が立っていたときで、家に帰るなり、僕はもらってきた置時計を部屋のすみにほうり出しました。
前後の事情を伏せ、感情を押さえた文章になっている。が、最初私はこの部分を読んだ時、三等賞の褒美に大谷社長(当時)から置時計をもらって、それを家に帰るなり、なぜ部屋のすみにほうり投げたのか、分からなかった。ここには、この公演で特別扱いされた扇雀のことは一言も書いていない。扇雀は昭和6年生まれ、錦之助より一歳年長で、雷蔵と同じ年である。それが、大阪から新橋演舞場へ来て、良い役ばかりを五役もやることに錦之助は無性に腹が立った。別に扇雀が悪いのではない。松竹のやり方、東京の若手を見下すようなその差別に対して憤ったのだった。これも錦之助はまったく触れていないことなのだが、実はこの三等賞というのがひどいことだった。「松竹七十年史」にこんなことが出ている。
この興行では、東西の若手の中から、松蔦、錦之助、雷蔵、扇雀の四人を選って、入場者の人気投票を募った。扇雀が76%という圧倒的人気。ついで、松蔦、錦之助、雷蔵の順であった。
四人のうち三番で、三等賞だったのである。役の数と役の良し悪しに差別をつけた上、観客に人気投票をさせるという、どう考えてもあり得ない企画である。そこには松竹の主催者の役者に対する励ましではなく思いやりのなさが、露骨に表れていた。錦之助が大谷社長にもらった置時計をほうり投げたのも当然である。
錦之助は、松竹演劇部の幹部たちに対し不信感を抱き、反抗的になった。こんなところで歌舞伎をやっていられるか、と思った。そして、歌舞伎界という、門閥と古いしきたりが支配し、しがない役者たちが組織や派閥や権力に隷属し、実力を発揮できないまま卑屈になっている世界に、ほとほと嫌気を感じた。錦之助は礼節を重んじ、年長者たちに対し敬意を払う若者であった。が、人にペコペコしたり、胡麻をすったりすることが大嫌いだった。人の悪口を言ったり、陰口を利くことも好まなかった。もっと自由で差別のない社会、自分の力を思う存分伸ばし発揮できるような世界に憧れた。四歳の時からこの17年間、一流の歌舞伎役者になろうと志し、修業してきたこの歌舞伎界が、急に魅力のない世界に見え始めた。
夏は東京の歌舞伎興行は休むのが通例で、歌舞伎座はこの年の夏、場内改装のため休演にしていた。吉右衛門劇団は北海道巡業に出たが、錦之助はそれに加わらず、東京に残った。8月、新橋演舞場では東西若手歌舞伎を催す予定であったが、それが流れ、単に東西合同歌舞伎に変更されてしまった。まず、これが錦之助にとってケチの付き初めだった。結局、大阪から歌舞伎役者が大挙してやって来て、東京で上方歌舞伎を繰り広げることになったのだった。仁左衛門、鴈治郎、簑助、嵐吉三郎、嵐雛助、浅尾奥山、寿美蔵、若手では扇雀、雷蔵である。多勢の大阪方に対し、東京方は無勢だった。時蔵一座全員と各劇団の居残り組で、夏休みを返上して、歌舞伎に出ようという役者たちだけが加わった。時蔵、彦三郎、鯉三郎、高助、それに若手では、歌昇、松蔦、錦之助、賀津雄である。
出し物は上方歌舞伎が主体であった。そして、良い役は大阪勢で固め、そこに時蔵が割って入るという形になった。
中でも目下人気上昇中の扇雀に活躍の場が与えられた。公演は昼の部四演目、夜の部四演目だったが、そのうち扇雀は、昼の「宿無団七」で団七の女とみ、「玉藻前」で桂姫、「角兵衛と女太夫」の女太夫、夜は「五条坂の景清」で傾城阿古屋、そして目玉は、近松生誕三百年記念の出し物、宇野信夫の脚色によって二百数十年ぶりに歌舞伎に復活した「曽根崎心中」で、扇雀はお初を演じた。さらに大喜利の「面影近松祭」ではそのままお初の姿で踊るというおまけつき。つまり全八演目中五役に出演、それも女形の主役ばかりであった。扇雀のお初、父鴈治郎の徳兵衛で「曽根崎心中」が初演されたのは、同年(昭和28年)5月の明治座だった。その時も話題になったが、これが大評判を呼び、扇雀の人気が急上昇し、ブームを巻き起こすのはこの夏の公演によってである。以来、扇雀は鴈治郎、藤十郎になっても「曽根崎心中」のお初を当たり芸として続演し、上演数が優に千回を越えたことは周知の通りである。
この公演では、関西のホープ雷蔵も優遇され、四役と「面影近松祭」に芸妓で出演した。
では、錦之助はどうだったか。「玉藻前」の一役。扇雀の桂姫の妹で初花姫という大変良い役だったが、これだけである。あとは、フィナーレの「面影近松祭」で芸妓になって踊って終わり。東京の若手では、松蔦が三役と最後に芸妓。歌昇、賀津雄ともに一役で、「面影近松祭」では太鼓持になって踊るという有様。
これでは、完全に東京の若手をなめた配役であった。錦之助はこの時のことを「あげ羽の蝶」でこう書いている。
昭和二十八年夏の新橋演舞場では関西方の若手とまじって「面影近松祭」を踊りました。それが終ったあと、現松竹会長の大谷社長から、よくやった若手にホウビが出ることになり、僕も三等で置時計をもらいました。普通だったら喜べたことでしょう。しかしカブキそのものに対しても不満を持ち、関西とこちらの若手を並べたとき、いつも一段格が下げられて扱われる不公平さに腹が立っていたときで、家に帰るなり、僕はもらってきた置時計を部屋のすみにほうり出しました。
前後の事情を伏せ、感情を押さえた文章になっている。が、最初私はこの部分を読んだ時、三等賞の褒美に大谷社長(当時)から置時計をもらって、それを家に帰るなり、なぜ部屋のすみにほうり投げたのか、分からなかった。ここには、この公演で特別扱いされた扇雀のことは一言も書いていない。扇雀は昭和6年生まれ、錦之助より一歳年長で、雷蔵と同じ年である。それが、大阪から新橋演舞場へ来て、良い役ばかりを五役もやることに錦之助は無性に腹が立った。別に扇雀が悪いのではない。松竹のやり方、東京の若手を見下すようなその差別に対して憤ったのだった。これも錦之助はまったく触れていないことなのだが、実はこの三等賞というのがひどいことだった。「松竹七十年史」にこんなことが出ている。
この興行では、東西の若手の中から、松蔦、錦之助、雷蔵、扇雀の四人を選って、入場者の人気投票を募った。扇雀が76%という圧倒的人気。ついで、松蔦、錦之助、雷蔵の順であった。
四人のうち三番で、三等賞だったのである。役の数と役の良し悪しに差別をつけた上、観客に人気投票をさせるという、どう考えてもあり得ない企画である。そこには松竹の主催者の役者に対する励ましではなく思いやりのなさが、露骨に表れていた。錦之助が大谷社長にもらった置時計をほうり投げたのも当然である。
錦之助は、松竹演劇部の幹部たちに対し不信感を抱き、反抗的になった。こんなところで歌舞伎をやっていられるか、と思った。そして、歌舞伎界という、門閥と古いしきたりが支配し、しがない役者たちが組織や派閥や権力に隷属し、実力を発揮できないまま卑屈になっている世界に、ほとほと嫌気を感じた。錦之助は礼節を重んじ、年長者たちに対し敬意を払う若者であった。が、人にペコペコしたり、胡麻をすったりすることが大嫌いだった。人の悪口を言ったり、陰口を利くことも好まなかった。もっと自由で差別のない社会、自分の力を思う存分伸ばし発揮できるような世界に憧れた。四歳の時からこの17年間、一流の歌舞伎役者になろうと志し、修業してきたこの歌舞伎界が、急に魅力のない世界に見え始めた。
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