錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~東千代之介誕生(その8)

2013-01-14 01:39:36 | 【錦之助伝】~東千代之介
 そんなことなど知らない千代之介は、撮影中止の二日間、京都撮影所へ行って俳優部屋で悠然と構えていた。また声が掛かれば、衣裳に着替えて出演すれば良い。製作部の辻野力弥が心配して千代之介の様子を見に来た。
「ぼくはやるだけのことはやっています。ダメだったら降りても別に構いませんから」と千代之介は言った。辻野はそんな千代之介の毅然とした態度を見て、これは大物かもしれないと思った。
 二日後、撮影は再開された。野淵昶がやって来て、千代之介の演出をするようになった。それで意思疎通がうまく取れるようになった。が、野淵の言うことはよく分かり、自分でもそうやりたいと思うのだが、実際に演じてみると思うようにできないことばかりだった。千代之介は毎日、台本首っ引きで稽古に励んだ。
 現場では共演者の原健策がお手本を見せてくれ、手取り足取りの実地指導をしてくれた。もうつきっきりのコーチであった。原健策はその後も千代之介が難役を演じる時は、自らコーチを買って出て、熱心に指導した。後年、オールスター映画の『赤穂浪士』で千代之介が浅野内匠頭を見事に演じたその蔭には、吉良上野之介役の月形龍之介と片岡源吾衛門役の原健策の指導が大きかった。むろん、千代之介がそれに応えられるだけの素質があってのことだが、千代之介の人柄の良さと謙虚さも先輩に好かれる要因だった。
 高千穂ひづるもコチコチになっている千代之介をリラックスさせようと暖かい言葉をかけてくれた。目に涙がにじむほどありがたかった。
 ある日、監督の河野寿一が、撮影終了後、千代之介を飲みに誘った。二人は心を開いて話した。良い映画を作ろうという思いは同じだった。河野寿一は千代之介が一所懸命にやっていることは分かっていた。河野寿一は、二十貫の巨体で声も大きく威圧感があったが、気は優しい男だった。二人とも酒豪である。二人は浴びるほど酒を飲んで、互いの健闘を誓い合った。

『雪之丞変化』第一部「復讐の恋」と第二部「復讐の舞」が撮り終わり、第三部「復讐の劍」に取り掛かろうとしていた頃のことである。三月の下旬であった。無我夢中で一ヶ月近く撮影を続け、ようやく千代之介も映画の演技のイロハが分かりかけて、NGが少なくなっていた。俳優課の担当者が千代之介の俳優部屋へやって来て、次の映画の台本を手渡した。表紙のタイトルを見ると、『笛吹童子』と書いてあった。
「やれやれ、おれもクビにならないで、次回作に出られるんだな」と千代之介はほっとして、台本の最初のページをめくった。
 配役を見て、びっくり仰天した。
「あっ! 錦ちゃんじゃないか!」
 自分の隣りに、中村錦之助の名前が書いてある。萩丸と菊丸、どうやら兄弟らしい。まさか自分が次の映画で錦ちゃんと兄弟役で共演するとは思いもかけないことだった。千代之介は、台本を持ってすぐに山崎真一郎のいる所長室に駆け込んだ。
「なんだ、君たちは知り合いだったんだ」と山崎は目をまん丸くして言った。
「錦ちゃん、もうここへ来ましたか」と千代之介は尋ねた。
「この間、来たけど、またヅラ合わせに来るよ」
「今度来たら、ぼくの部屋へ寄るように行ってください。それから、俳優部屋もいっしょにしてくれるとありがたいのですが」
「ああ、いいよ」と山崎はうけ合った。

 この頃、京都撮影所の俳優部屋は木造二階建てで、部屋数が少なく、千恵蔵、右太衛門、月形が個室で、ほかの俳優たちは相部屋だった。男優となると十人くらいが八畳から十二畳の部屋をいっしょに使っていた。千代之介も十人部屋だった。
 それから数日後の昼休みのことだった。
 午前中の撮影がスムーズに終って、千代之介が俳優部屋で昼食を食べたあとくつろいでいると、「やあ」という声が肩口で聞こえた。振り返って見ると錦之助だった。満面に笑みを浮かべている。
「東千代之介って誰かと思ったら、先輩じゃないの。もうびっくりしちゃった」
「相変わらず元気そうじゃないか。こっちは毎日しごかれてボロボロだよ。まっ、坐れよ」
 錦之助は千代之介の前にあぐらをかいて坐った。
「いま雪之丞やってるんだって。さっきポスター見たよ」
「どうだい、ぼくの女形は。錦ちゃんには負けるかな」
「いや、なかなかのもんですよ」
「そうか」
「それより『笛吹童子』で兄弟の役やるっていうんだから、驚いたのなんの。こんなことってあるんだね」
「台本の配役見て、ぼくも目を疑ったよ」
「東映の役者さん、誰も知らないからちょっと心配だったんだけど、先輩といっしょだったらこんな心強いことないね」
「それはこっちの言うセリフだよ。錦ちゃんといっしょにできるなら勇気百倍だよ」
「二人でがんばろうよ」
 錦之助は手を差し出した。千代之介は錦之助と握手すると、
「おう、がんばろう。でも良かったよ、これからも映画続けるかどうか、どうしようかと思ってたんだ」
「えっ、そうだったんだ」
 二人は、握手した手をもう一度固く握り合った。
 こうして、東映に時代劇黄金時代を招きこみ、またたく間に東映が大躍進する原動力となった「錦・千代コンビ」が誕生したのだった。



中村錦之助伝~東千代之介誕生(その7)

2013-01-14 01:36:04 | 【錦之助伝】~東千代之介
 河野寿一は当時33歳、熱血漢の青年監督だった。彼は大正10年、朝鮮の平安北道で生まれた。現地の商業学校を終えると、本土へ渡り、東京へ上る。早稲田大学専門部経済に入るが、映画作りに青春の夢を抱き、日本大学映画科に再入学。昭和18年、同大卒業後、新興キネマ大泉撮影所に入社。昭和22年、大映から東横映画(のちの東映)京都撮影所へ助監督として移籍し、主に松田定次に師事。昭和28年、32歳でようやく監督に昇進した。その二作目が大友柳太朗主演の『快傑黒頭巾』(脚本小川正 昭和28年11月公開)で、大友版黒頭巾の第一作だった。これはヒットした。
 東映は昭和29年から全プロ(プログラム)自社作品の新作二本立て体制を打ち出し、一本は東映娯楽版と名づけ、5000フィート前後(約45分)の中篇の連続物とした。製作はマキノの右腕とも言われる企画本部次長坪井与(與、あたえ)が担当した。マキノの指示は、子供が見ても面白い、昔の活動写真を思わせる冒険活劇を作れということだった。その手始めが講談や立川文庫でも人気のあった「真田十勇士」の再映画化で、知将真田幸村のもと、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道らが活躍する時代劇である。そして、マキノが『真田十勇士』の監督に抜擢したのが河野寿一だった。監督第三作目である。「忍術猿飛佐助」「忍術霧隠才蔵」「忍術腕くらべ」の中篇三部作から成り、脚本は村松道平と結束信二。これが河野・結束という東映若手コンビのヒットメーカーが生まれる記念すべき作品となる。出演は、月形龍之介(真田幸村)、大友柳太朗(猿飛佐助)、杉狂児(霧隠才蔵)、岸井明(三好清海入道)、石井一雄(真田大助)、大谷日出夫(穴山小助)、夏川大二郎(由利鎌之助)、ほかに原健策、楠本健二、河部五郎、澤村国太郎、女優陣は喜多川千鶴、千原しのぶ、田代百合子、八汐路恵子。
 東映娯楽版第二弾は『謎の黄金島』三部作(堀雄二主演)で、再び河野寿一が監督し、第三弾が東京撮影所製作の現代劇『学生五人男』三部作(小杉勇監督、波島進主演)だった。さらに第四弾『雪之丞変化』三部作も河野がメガフォンを取ることになった。
『雪之丞変化』は、三上於菟吉の時代小説の傑作で、昭和10年松竹キネマで映画化され大ヒットした。衣笠貞之助監督、伊藤大輔脚本、林長二郎主演だった。この名作を戦後、東映娯楽版で取り上げるというのだ。河野寿一の監督としての力量が問われる本格的時代劇の大作である。しかも、この作品で東映時代劇のスターとして新人東千代之介を売り出さなければならない。これが河野寿一にとって重荷であった。スタッフは、脚本西條照太郎、撮影松井鴻、美術鈴木孝俊、音楽高橋半で、共演は、高千穂ひづる(浪路)、喜多川千鶴(軽業のお初)、薄田研二(土部三斎)、原健策、清川荘司、香川良介、河野秋武、河部五郎、朝雲照代、八汐路恵子といったベテラン揃いで問題なかった。

『雪之丞変化』の初日の撮影が思ったように行かず、河野寿一は自分の手に負えないと思った。そこですぐ製作責任者の坪井与に電話で連絡を取った。坪井は東京本社にいた。河野は千代之介が雪之丞のイメージに合わないこと訴え、
「この作品、ぼくでは無理です。だれかほかのベテランが監督をやったほうがいいと思います」と言った。
 坪井は今さら何を言うかと思ったが、千代之介の演技指導は、演劇と映画の両方の演出に手馴れた野淵昶に応援を頼むことにして、全責任は河野が持つようにと励ました。しかも、電話だけの説得では不十分だと思い、坪井は河野の家へ電報を打った。
「ここが男の大事なところなり。最後までがんばれ」
 河野からも返信があった。
「男だからがんばる」
 これで、河野寿一は『雪之丞変化』の監督を続けることになった。




中村錦之助伝~東千代之介誕生(その6)

2013-01-13 22:50:27 | 【錦之助伝】~東千代之介
――女形雪之丞の艶姿と侠盗闇太郎の不敵さ、新スタア東千代之介が魅力の二態を演じて、全時代劇ファンにお目見得する艶麗無比の大絵巻!!
 こんな惹句の載ったポスター、プレスシートが東映系の劇場、新聞雑誌の担当記者にばら撒かれた。その目玉は、東映娯楽版『雪之丞変化』で主役の雪之丞と闇太郎の二役を演じる新星東千代之介の売り出しであった。マキノ光雄は、昔、松竹が総力を挙げて林長二郎(長谷川一夫)を売り出した時の先例にならい、前途有望な大型新人の披露興行でも打つかのような、いかにも芝居がかった泥臭い宣伝作戦に出た。
 プレスシートには、マキノ光雄の仰々しい披露口上、山崎真一郎所長の推薦文、千代之介自身の「ごあいさつ」と略歴が添えてあった。マキノはその口上で東千代之介を紹介し、
人一倍精進深き芸道心に免じ、格別のお情け、御引廻しを下されますよう、平に、平に、隅から隅まで、ずいーっとお願い上げ奉りまする」と書いた。
山崎は千代之介を「日本的青年貴公子」と持ち上げ、時代劇スターになること間違いなしと太鼓判を押した。


雪之丞に扮する千代之介の「ごあいさつ」に添えられた写真

 そして、新聞広告の紙面にはこんな文句が載った。
全女性が待ち焦がれた美男・東千代之介、時代劇に登場!」

 前評判ばかりが先行し、千代之介は自分が期待はずれに終ったらどうしようかという不安に駆られた。が、ここまで来たら、全力を尽くしてやるしかない。
 映画関係者への挨拶を一通り終えると、いよいよ『雪之丞変化』の撮影に入った。2月21日だった。
 雪之丞の扮装をしてセットに入ると、初カットは頭を下げてお辞儀をして顔を上げるだけだった。二番目のカットはセリフがあった。薄田研二の土部三斎とのからみの芝居だった。三斎が「娘はどうじゃ」と尋ねたのに対し、雪之丞が「お帰りになるそうでございます」と答えるセリフ。
 監督の河野寿一(としかず)がすぐに注文を出した。
「もっと女っぽくしゃべってくれませんかね」
「お帰りになるそうでございます」
「ダメ、ダメ、声が太くて、女らしくない!もう一度」
「すいません」
 何度やっても河野寿一からオーケーが出なかった。河野も次第に苛立ち、ついに大声で、
「下手糞!こんな雪之丞じゃどうにもならん」と言うと、撮影中断を申し渡した。
 午後、千代之介が次のカットを撮るため、闇太郎の扮装をしてセットに入ると、進行主任が飛んで来て今日は中止になったと言う。
 撮影は二日間休みになった。千代之介は役を下ろされても仕方がないと観念した。


中村錦之助伝~東千代之介誕生(その5)

2013-01-11 04:26:04 | 【錦之助伝】~東千代之介
 2月10日、錦之助の映画デビュー作『ひよどり草紙』が封切られた。
 孝之は感慨ひとしおだった。錦之助が美空ひばりの相手役として映画出演するという話は、もちろん、孝之も新聞を読んで知っていた。去年の12月の京都南座の顔見世興行の時に、実は、錦之助の映画界入りは役者の間でも評判になっていた。この興行には錦之助の父の時蔵も出演していたので、孝之は楽屋で時蔵のおやじさんからその話を直接聞いた。その時、自分の映画出演の話はまだ可能性の段階だったので、孝之は黙っていた。が、その数日後、孝之の東映入社が決まり、それから間もなく孝之は京都を発ってあちこち奔走して新年を迎えた。そしてすぐに東映京都撮影所通いである。
 孝之は『ひよどり草紙』が公開されると、早速、新京極の松竹の映画館へ見に行った。映画を見て、孝之は若きスターの誕生を確信した。すがすがしかった。溌剌さと気品、錦ちゃんの長所が発揮されていると感じた。錦ちゃんはこのままスター街道を突っ走っていくにちがいない。錦ちゃんに比べれば自分は少し年は取っているが、なんとか踊りの素地を生かして自分の個性を出してみよう、と孝之は思った。
 
 2月14日の土曜の朝、孝之は、福岡行きの汽車の車中にいた。男優の杉狂児、女優の高千穂ひづる、月丘千秋がいっしょだった。宣伝部からの依頼で福岡の東映封切館(多聞座)へ舞台挨拶に行くところだった。公開中の『殴り込み二十八人衆』と娯楽版『謎の黄金島』第一部の上映の合間に新人として紹介されるという。孝之にとって映画俳優として初めてのお披露目である。そのあと九州各地の東映系館主たちを招いたパーティに出席することになっていた。いよいよ売り込みが始まった。
 しかし、芸名のほうはどうなったのだろうか。マキノ光雄が考えてくれるといったまま、そのままになっている。孝之は、踊りの芸名坂東伊三郎を却下され、自分でもいろいろ考えてみた。本名の若和田孝之の中の三文字を取って、和田孝というのがなかなかいい名前だと思った。マキノ光雄が京都へやって来た時に、孝之は和田孝を芸名にしたいと申し出た。
「なんやそれ。現代劇の名前やないか」と、マキノは一蹴した。
「わしも寝ずに考えとるんやが……」
 マキノは目をつむると、腕組みし、
「バンドウ……妻三郎にあやかって、ダンザブロウ、カンザブロウ、ライザブロウ……」
 すると急になにか思いついたらしく、
「そや、バンドウ、チヨノスケ。どうや、ええやろ?」
「横綱の千代の山みたいじゃないですか。山をスケに代えただけでしょ」
「そやない。千代って、きれいな女がおったんや。女形でデビューするんやからええやないか」
「もっとモダンな名前のほうが……」
「つべこべ言わんと、待っとれ。わしの知り合いに姓名判断の大家がおるんや。今度相談して決めてやろう」
 マキノ光雄は、姓名判断の青木某氏を信頼していた。牧野満男をマキノ光雄に変えたのも彼の助言によるものだった。本名は多田光次郎というのだが、苗字の多田は母方の養子になったからである。光雄の兄の映画監督マキノ雅弘も、本名は牧野正唯というが、マキノ正博から雅弘、そして雅裕に改名している。
 
 孝之が汽車の中で一眠りしようとすると、宣伝部の社員がそばに来て、孝之に一枚のメモを渡した。マキノ光雄からの言づてだった。
「今日から東千代之介や。あずまちよのすけ。ええ名前やろ。すぐにサインの練習をせえ」
 いい加減もいいとこじゃないかと孝之は思った。坂東の頭の一字を省いて、千代之介は前にマキノが思いついた名前である。そう思うと無性に腹が立った。古臭くて気が利かない芸名だが、仕方がない。福岡に到着した瞬間から東千代之介を名乗らなければならない。いや、まず、汽車の中にいる東映関係者に自己紹介しておこう。
「東千代之介という芸名に決まりました。よろしく」と言って、孝之は席のあちこちを回った。
「おめでとうございます。東男に京女って言うじゃありません。いいお名前ですわ」と、高千穂ひづるは言った。
「そういえばそうですな」
 こうして東京出身の時代劇役者東千代之介が誕生した。
 汽車の中で千代之介は俳優の杉狂児の隣りに席を替えてもらった。年配の杉狂児が字のくずし方を教えてあげようと親切に言ってくれたからだった。
「画数から言って、これはいい名前ですな。こう書くと字のバランスもなかなかいい」と、杉はひとり悦に入ってサインの手本を孝之に見せた。
 揺れる汽車の中で孝之は、懸命にサインの練習に励んだ。そして、何度も書いているうちに東千代之介という名前が、不思議なことに、自分の名前らしく思えてきた。




中村錦之助伝~東千代之介誕生(その4)

2013-01-10 13:55:55 | 【錦之助伝】~東千代之介
 東映入社が決まると、年の暮れまで孝之は稽古場回りに明け暮れた。京都、名古屋、浜松、そして小浜にいる弟子たちに最後の稽古をつけた。みんな名残を惜しんだが、孝之の映画界入りを祝って送別会を開いてくれた。
 明くる年(昭和29年)の1月、孝之は太秦の東映京都撮影所へ通い始めた。新しい芸名はまだ決まっていなかったので、東映関係者からは坂東さんと呼ばれていた。宣伝用の写真を撮ったあとは、撮影の見学をしていた。新入りでスタッフにまだ顔も知られていないので、セットへ入っていくのはなんとなく気が引けた。それで、撮影見学は適当に済ませ、宣伝部の部屋で時間を潰すことが多くなった。
 ある日、何かの用事で宣伝部へ月形龍之介がやって来た。孝之は月形龍之介に紹介された。天下の名優の前で孝之はコチコチになり、直立不動の姿勢になった。
「君が今度入った人かね」と言うと、月形はじろっと孝之を見た。
「はい、坂東伊三郎と申します」
「ミッちゃん(マキノ光雄)からそれとなく話は聞いているが、クランクはまだなんだな」
「はい、三月からであります」
「で、今は何をやっとるんだ」
「初めはスタジオをまわって撮影見学しておったのですが、知らない方ばかりでどうも居づらいものですから……」
 それを聞いて月形は顔を曇らせた。
「そうか。しかし、こんなところでブラブラしていてはいかんな。君はこれから役者になるんだろ。現場で勉強しなきゃダメだよ」
「はい」
「ぼくの名前を使っていいから、もっと中へ入って、しっかり勉強したまえ」
「わかりました」と孝之は頭を下げた。
 月形は去っていく時に、また孝之の方を見て声を掛けた。
「それから、君、終ったらぼくの部屋へ遊びにきたまえ」
 孝之は月形龍之介の温情に胸が熱くなった。その後、東千代之介になってからも彼はずっと月形を慕うようになっていく。
 この数日後、大川博社長が上洛し東映京都の新年会があった。三嶋亭という老舗のすき焼屋だった。知らない人ばかりに囲まれ、着物に袴姿の孝之は話もできずにかしこまって坐っていた。ふと見ると、月形龍之介が向こうで手招きしている。
「まあ、一杯」と月形がお流れをくれた。
 近くに女優の高千穂ひづるがいたので、月形は孝之を紹介してくれた。
「君たちは今度共演するって話じゃないか。まあ、仲良くやりたまえ」
 高千穂ひづるは、孝之の整った顔立ちと堂々とした着物姿をちらっと見ると、そばへ来て、孝之にお酌をした。
「あっ、どうも」と言うと、孝之は恐縮して、言葉が継げなかった。若い女性の着物姿は踊りの稽古場で見慣れていたものの、あでやかな女優の振り袖姿は格別で目にまぶしかった。初めて会ったスター級の映画女優である。孝之は、盃を前に出したまま硬くなって、相手の顔を見る余裕もなかった。
「ご一緒にお仕事するの、楽しみですわ」と言うと、高千穂ひづるはほほえんだ。
 二次会は月形龍之介のお供をして祇園のお茶屋へ行った。ここで孝之は何合酒を飲んだことだろうか。が、緊張していたのでいくら飲んでも酔わなかった。
「今度の新人、大物やないか。一升飲んでも乱れもせんわい」と月形はスタッフに言った。
 後日、孝之の酒豪ぶりが京都撮影所の人々の噂に上った。