錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

桂長四郎さんを偲ぶ

2012-04-28 10:30:33 | 監督、スタッフ、共演者
 美術監督の桂長四郎さんが亡くなった。87歳だった。
 桂さんは京都での錦之助映画祭りに何度も足を運んでいただき、また京都シネマではトークゲストにお迎えし、私が聞き手をやらせていただいた(2009年6月11日)。「青春二十一 第二巻」の日誌にはそのときのことが書いてあるが、この小冊子を桂さんのお宅へにお送りした二週間前(3月26日)に桂さんは亡くなっていた。お送りしてすぐ奥様からお電話をいただき、桂さんの逝去を初めて知らされたのだった。第二巻をご覧になられたら、あの童顔をほころばせ、きっと喜ばれたに違いないと思うと、お目にかけられなかったことが悔やまれてならない。桂さんとは何度かお話ししたが、穏健でとても真面目な方だった。


(桂さんと京都シネマのロビーで)

 桂長四郎さんは美術デザイナーとして、昭和22年東横(東映の前身)入社から昭和39年ごろまで東映一筋にずっと第一線で活躍された。最初に稲垣浩監督作品につき、その後松田定次、マキノ正博(雅弘)、中川信夫、佐々木康、伊藤大輔、田坂具隆といった名監督たちの作品の美術を担当された。錦之助出演作では、『任侠清水港』『おしどり駕篭』『浅間の暴れん坊』『弥太郎笠』『親鸞』『続親鸞』『反逆兒』『ちいさこべ』『源氏九郎颯爽記 秘剣揚羽の蝶』『関の彌太ッペ』などがある。


(京都シネマに展示した『弥太郎笠』のポスター)

 今私の手許に、京都シネマでのトークショーの時に、桂さんから前もっていただいたトークの原稿がある。トークの前に桂さんがちょっと打ち合わせをしたいとおっしゃり、こういうことを話そうと思っているんですがと手渡されたのがこの原稿である。私もこれまで何人かトークの聞き手をやっているが、原稿を書いてこられたのは桂さん以外にはいない。実際のトークは全くこの通りには行かず、違う話(桂さんが東横に入社するまで)に時間をとってしまい、桂さんが用意してきた内容とは相当離れてしまった。桂さんのご冥福を祈り、その原稿をここに紹介させていただく。

 美術デザイナーの桂長四郎でございます。
 振り返ってみると、中村錦之助さんを中心にして監督のマキノ雅弘さん、田坂具隆さん、伊藤大輔さんを始め、たくさんの方達との出会いを持ち、良い作品につかせていただけたことを幸せだったと思っております。
 先ほど観ました『弥太郎笠』は、子母沢寛の名作で、各社で撮られておりますが、この作品はマキノ監督好みの作品だと思っております。昭和35年(1960年)公開ですから、49年ぶりに観ました。マキノさんとはこの作品のほかに6本くらいやっております。
 『ちいさこべ』は、一昨日上映され、見せてもらいましたが、この話は江戸の大火で親と死に別れた孤児達を助け、一緒に生活していく若き大工の棟梁を、田坂さんは優しい目で描いた心の暖まる作品であったと思います。
 田坂さんはその昔、日活多摩川時代は『路傍の石』や『土と兵隊』といった心にしみる名作を作ってこられ、内田吐夢さんと昔の日活を代表する監督です。私が田坂さんと初めて仕事をしたのは、『親鸞』でした。これも時代劇ですが、むつかしい時代で、考証が大変でした。田坂さんという方は誠実で穏やかに話をされる方で、打ち合せにあたって私の意見をじっくりと聞いていただき、それをとり入れていただけたと思っております。田坂さんは終戦の年広島で被爆され、「桂さん、私はねェ、原爆の落ちた時、便所に入っていたから命が助かったんだよ」と言っておられたことを思い出します。当時白血病でおつらかったことだと思いました。
 この『ちいさこべ』のお話をいただいたのは私がちょうど『反逆兒』で毎日映画コンクールに入賞してその受賞に東京の東映本社へ寄った時、本社の方が田坂さんが私がこちらへ来るので是非会いたいとおっしゃっているので受賞式が終ったら必ず本社へ立ち寄るようにと言われ、式が終って本社へ訪れると、田坂さんとプロデューサーの小川貴也さんが待っておられ、次回にやる『ちいさこべ』の美術をやってほしいと言われて驚いたことがありました。監督からじかに指名されたことは初めてだったからです。
 準備して撮影に入りましたが、大工の棟梁の話ですから、大道具の係の古い方にお願いし、演技の指導、新築の家を建ち上げるまでの工程と立ち会ってもらい助かりました。
 そして江戸の大火の場面、焼け跡のセットも大変でした。オープンセットで作るわけにもいかず、近くにある宝プロダクションの空地に全部焼け跡の江戸の街を作りました。材料には焼けた木材をずいぶんと使いました。



(京都シネマに展示された『ちいさこべ』のポスター)

 今回は上映されませんでしたが、伊藤大輔監督の『反逆兒』は私の一番思い出に残る作品です。私と伊藤さんとの初めての出会いは小池一美さんというデザイナーについて早川雪洲の『あゝ無情 第一部』(レ・ミゼラブル)でしたが、二週間ほど九州ロケに連れて行ってもらい、私は監督の指名で捕り手役にかり出されたことを思い出します。
『反逆兒』は、徳川家康の長男である信康を家康は徳川の家を守るために殺させるという悲惨な話でしたが、その信康を演じた錦之助さんの演技は大変見事だったと思いました。
 その年の芸術祭で伊藤大輔監督が『反逆兒』で芸術賞を受けられてその祝賀会が行なわれた時、その席上で離れた席から私の方へ来られた錦之助さんから、「桂さん、良かったですね」と握手をしていただいたことがありました。錦之助さんはこの『反逆兒』で熱演されておられ賞をいただけると私達は信じていたのに、ご本人も残念だったと思います。まだまだ思い出はつきませんが……。伊藤さんとはその後、『源氏九郎颯爽記 秘剣揚羽の蝶』『この首一万石』と三本続いて仕事をさせていただきました。



(トークが終って、桂さんご夫妻と食事)


青春二十一 第二巻 販売書店(追加)

2012-04-23 18:10:58 | 錦之助ファン、雑記
 以下の書店で、来週初めには店頭に出ます。
 
 旭屋書店イオン鹿児島店、ジュンク堂書店鹿児島店、ジュンク堂書店大分店、リブロ熊本店、喜久屋書店熊本店、クエスト小倉本店、クエスト黒崎本店(北九州市)、
 紀伊國国屋書店高松店、
 喜久屋書店阿倍野店、
 カルコス岐阜本店、カルコス穂積店(岐阜県瑞穂市)、
 有隣堂ルミネ横浜店、有隣堂小岩ポポ店、
 喜久屋書店千葉ニュータウン店、
 あゆみブックス仙台青葉通り店

 連休明けまでには、あと数店増えると思います。
 「青春二十一 第二巻」を販売している書店では、「青春二十一 第一巻」と「一心錦之助」も併売してもらっています。


近況報告(その三)

2012-04-21 02:45:57 | 錦之助ファン、雑記
 この一週間にいろいろなことがあったが、錦ちゃんに関係する話題だけ書こう。
 先週の土曜日は、スイスから帰郷した錦ちゃんファンの方とお会いした。ハルエさんと言って、70歳すぎの日本人の女性だが、3年ほど前にインターネットで「錦之助映画祭り」のことを知り、弾む声で私に国際電話をかけて来て、錦之助映画ファンの会に入られた方である。スイスのバーゼル在住で、『笛吹童子』を観てからずっと錦ちゃんファンだったとのこと。日本でスイス人と結婚して、スイスに渡られたのだが、9年前にご主人を亡くしてからは、「錦ちゃん命」で、錦ちゃんの映画ばかりをビデオとDVDで観ているそうな。
 ハルエさんはスイスの遠い空から、いつも錦ちゃんの映画の上映会のことを想い、たまに私が上映会のチラシや錦ちゃんの本を送ると大喜びして、バーゼルの自宅で何度も熟読されるという。もちろん、お金も過分に送ってくれる。錦之助映画ファンの会にとっては得難いファンなのだ。私とはメールか手紙で連絡を取り合っているが、今年の3月にはスイスのチョコレートを大量に送ってくれた。私が「青春二十一 第二巻」をなんとか作れたのも、彼女のお蔭が大きい。チョコレートでエネルギー補給をしながら、制作にあたれたからだ。
 土曜日は朝からあいにくの雨で肌寒い日だったが、お昼に宝町の地下鉄の出口で待ち合わせた。ミシェルさんという息子さんもいっしょだった。三人で喫茶店へ行き、レストランへ行き、そのあと、彼らが宿泊しているウィークリーマンションへ行き、トータルで3時間ほど話しただろうか。このハーフの息子さん(40歳くらい)というのが実に親孝行で、錦ちゃんのDVDの購入は全部、彼が引き受けているらしい。ハルエさんが多分最後の里帰りになるかもしれないということで、ちょうどイースターの休暇に母親に付き添って来たのだという。彼は日本語はカタコトで、主にドイツ語で話していたが、これでも私は昔はドイツ語を勉強したので、彼の言っていることの半分くらいは理解できた。外国語は使っていないと、話すのはダメだが、聞くだけならなんとかなる。
 ハルエさん親子は翌日の日曜にはスイスへ帰国したはずである。別れ際に彼女のリクエストしたものを送る約束をしたので、きっとスイスに帰ってから楽しみにしている思う。
 
 今週の火曜に私は還暦になった。この日は、新橋演舞場へ『仮名手本忠臣蔵』を観に行った。獅童さんのお母さんの小川陽子さんからいただいた招待券が2枚残っていたので、丘さとみさんをお誘いした。「青春二十一 第二巻」を送ったあと、丘さんから電話があって、その時、招待券のことを言うと、ぜひ!とおっしゃるのでごいっしょすることになった。
 午後の3時ごろ、有楽町のUNOというパチンコ屋の上にあるお好み焼き屋で待ち合わせた。丘さんは趣味がパチンコで、私と会う前にパチンコをしていたらしい。お会いしてすぐ、丘さんから誕生日プレゼントを頂戴した。ダンヒルのネクタイで、デパートで買って来てくださったようで、恐縮至極、感謝感激。お好み焼きを食べて腹ごしらえしてから、タクシーで新橋演舞場へ行った。
 二階のど真ん中の席だった。最初が五段目の「山崎街道」で、おかる・勘平の話。獅童さんは悪役の斧定九郎で、はまり役だったが、登場してすぐに死んでしまった。死体のまま寝そべっている時間が長くて、かわいそうに思った。主役は勘平の亀治郎で、六段目の腹切はなかなかの熱演だった。近々、猿之助を襲名するので、亀治郎としては最後の舞台になるとのこと。おかるは福助で、相変わらずの女形。舞台を観ながら、私は錦ちゃんの映画『おかる勘平』を思い出していた。
 次は、七段目の「祇園一力茶屋」。由良之助が染五郎なので、丘さんが「大丈夫かしら」と心配。貫禄が今一つで、どう観ても城代家老には思えないというのが私の感想で、丘さんは「思ったより良かった」と。なにしろ東映オールスター映画では、右太衛門と千恵蔵が演じた大役。あの二人の迫力にはかなわない。が、東宝では染五郎の祖父の松本幸四郎(先代)が演じている役でもあり、染五郎も今から由良之助を演じておいて、今後磨きをかけていけば良いかもしれない。丘さんは、寺岡平右衛門を演じた尾上松緑がお気に入りで、大変買っていた。
 最後に十一段目「討入り」があり、これは歌舞伎では私は初めて観た。立ち回りが良かった。
 丘さんとは休憩時間に東映の『忠臣蔵』(『赤穂浪士』)についていろいろお話を聞いた。「あたし、一度でいいから、内匠頭夫人の瑶泉院をやりたかったの」とおっしゃっていたことが印象に残った。

 昨日の20日の金曜。美術監督の桂長四郎さんの奥様からお電話をいただいた。悲しい知らせだった。3月26日に桂長四郎さんが心不全でお亡くなりになったとのこと。「青春二十一 第二巻」の私の日誌に京都シネマでの桂さんのトークのことが出てくるが、お読みになれないまま、あの世へ行かれてしまった。残念である。


  

近況報告(その二)

2012-04-18 03:56:10 | 錦之助ファン、雑記
 先週の13日の金曜、第21回日本映画批評家大賞の授賞式に出席した。映画評論家で選考委員代表の渡部保子さんから招かれ、午後の3時半ごろに調布のグリーンホールへ来るようにと言われていた。が、引っ越しの後片付けで遅刻。会場に着いたのは4時過ぎで、すでに式は始まっていた。ホールに入るとほぼ満員で、ちょうど調布市長の長いスピーチの最中。そのあとすぐ、渡部さんのスピーチがあり、なんとか間に合ってほっとする。渡部さんの黒い服に付いたたくさんのビーズがライトを浴びてキラキラ輝き、大変引き立っていた。手短でざっくばらんな話し振りも良かった。舞台の前のテーブルに受賞者がずらっと揃っていたが、新人賞の女優二人に向かい、渡部さんが「すぐ結婚しないで、映画界のためずっとガンバッテよ!」と言って、会場から笑いが起る。新人賞は、剛力彩芽と前田敦子。最近の芸能界に疎い私でも、剛力彩芽は顔と名前が一致する数少ない若手タレントの一人だったが、前田敦子という女の子のことはまったく知らず。あとで恥をかく。なんと、今売れっ子のAKB48の一員で、この間引退というか卒業というか、メンバーを辞めたとのこと。「あんた、知らないの!」とパーティの時渡部さんからもバカにされる。彼女が出席するというので、報道陣がこんなに集ったのかと、やっと納得。別に、そこらへんにざらにいる平凡な女の子の一人じゃないかと思うものの、やっぱり若さと人気には勝てない。この日の出席者には、浅丘ルリ子(ダイヤモンド大賞)を始め、山本陽子(ゴールデングローリー賞)、宮本信子(助演女優賞)もいたが、スポットの浴び方が断然違う。なぜか『黒部の太陽』が特別賞を受賞したことで、石原まき子こと往年の北原三枝も出席していたが、彼女ももう忘れられた女優なのだろう。北原さん自身もスピーチでそう語っていた。
 ほかの受賞者で主な出席者は以下の通り。
 成島出(監督賞)、阪本順治(作品賞『大鹿村騒動記』)、三浦友和(主演男優賞)、片岡愛之助(助演男優賞)、西田敏行(審査員特別演技賞)、北大路欣也(ゴールデングローリー賞)、蟹江敬三(ゴールデングローリー賞)。壇上で受賞後、それそれスピーチあり。 *大竹しのぶ(主演女優賞)、白川和子(ゴールデングローリー賞)は録画映像でスピーチを流した。
 授賞式の後、壇上に出席者が集って記念撮影があり、その後40分ほど休憩。北大路欣也さんだけは存じ上げているので、ちょっとだけお祝いの言葉を申し上げようと思い、楽屋裏へ行く。欣也さんが通路にいらしたので、声を掛ける。前々回に丘さとみさんが同じゴールデングローリー賞を受賞したことを言うと、ご存知で、私が「丘さんとは最近連絡とってますか」と聞くと、「ここんとこ電話してないなあ」「丘さん、きっと待ってますよ」。欣也さんは、錦之助さんを兄貴と慕い、丘さんをお姉さんと慕い、長谷川裕見子さんをお母さんと慕う方である。錦之助さんの十三回忌に発行した「一心錦之助」では、真っ先に熱い思いのこもった文章を下さったし、裕見子さんのお通夜にも出席された。「来年の3月、錦之助さんの十七回忌ですよ」と言うと、「早いもんだねえ」と欣也さん。「その節はまたよろしくお願いします」と言って、お別れする。
 ホールのロビーに石森史郎夫妻がいらしたので、歌舞伎の招待券を2枚差し上げる。新橋演舞場で今上演中の「仮名手本忠臣蔵」のティケットで、獅童さんのお母さんの小川陽子さんから送っていただいたもの。二日分各2枚ずつあったので、日頃お世話になっている石森夫妻に差し上げることにした。私は別の日に丘さとみさんと観に行くことにしている。
 こういった映画関係者の集るパーティに出席すると、いろいろな方と話し、名刺を交換することになる。この日も10人ほどの方と顔見知りになった。市議会議員、デザイン事務所社長(このお二人は石森さんの紹介なのでまたお会いすることがあるかもしれない)、プロデューサー三人、イヴェント企画者、映画書評ライターなど。まあ、それでもほとんどの方とは一期一会であるが……。(つづく)


近況報告(その一)

2012-04-15 16:02:48 | 錦之助ファン、雑記
 4月10日(火)から12日(木)の三日間をかけて、仕事場を東京都千代田区飯田橋から杉並区和泉へ移転した。「青春二十一 第二巻」の制作が飯田橋での最後の仕事になった。この本を完成させ、3月31日と4月1日の錦之助映画ファンの会の集いで配り、欠席された会員と関係者のみなさんへも送り終え、引っ越しの準備に取り掛かった。移転先は、駅でいうと、明大前と代田橋と永福町と方南町のどの駅からも徒歩12分で、やや不便な所である。つまり、四つの駅から成る正方形の対角線の交点に位置する。都心の飯田橋に比べると、多少辺鄙な感は否めない。それに気温が3度ほど低くて、寒い。近くに寂れた商店街(和泉商店街)はあるが、一番近いコンビニへ行くにも歩いて8分かかる。ここは、閑静な高級住宅街のはずれにある一軒家で、私の拙宅である。もともと二世帯住宅の一階に両親が住んでいたのだが、父が亡くなり、三年前に母が高齢で施設に入ってしまったので、一階がずっと空家になっていた。不用心でもあり、仕事場と自宅の往復も面倒になったので(とはいえ、平日は仕事場に泊まり込みで、帰宅は週末だけだったが)、引っ越しを決断した。それに、飯田橋のマンションの家賃も高くて(月16万円)、道楽で売れない本ばかり作ってきたツケがたまり、経済的に苦しくなってきたことも大きな理由だった。
 それにしても、引っ越しの大変だったこと!荷物の移動だけで大仕事だった。なにしろ私の仕事場は本の山で、中型のダンボール箱が本だけで80箱、それと在庫品の梱包(10冊~15冊)が約300。VHSのビデオが約400本とDVDがほぼ同数。机が3個、椅子10脚、本箱4個、整理ダンスが2個ある。10日には若い男の運搬人が三人がかかりで、積み込みに2時間半、積み入れに2時間半かかった。最後はみんなへとへとで、老人のように腰をかがめていた。11日は私一人で本の整理と、NTTによる光通信の開設とパソコンの設定。12日は大塚商会によるコピー機の移転と、住居の清掃の後、自動車で私自ら残りの雑物の運搬。移転先の一階は3LDKあるのだが、両親が使っていた家具や生活用具がたくさんある上に、私の仕事場にあった大量の荷物を持ち込んだので、全室が倉庫状態。やっと一部屋が片付いて、仕事ができるようになった。それで今、パソコンでこれを打っているというわけである。
 ところで、飯田橋には、昭和60年暮に会社を作って以来、約27年居た。17年間は進学塾をやり、10年間は出版活動、そしてここ5年間は上映会の企画に従事してきた。その間、仕事場は三度移転したがすべて近距離で、四半世紀以上を飯田橋で過ごした。だから、飯田橋を離れるのは非常に寂しかったのだが、私も近々還暦を迎えるので、人生再スタートを切ろうと思った次第である。

 思えば、錦ちゃんの映画を再びビデオで見始めたのは、平成9年3月に錦ちゃんが亡くなってからで、「錦之助ざんまい」というこのブログを立ち上げたのが約6年前。それからずっと「中村錦之助=萬屋錦之介」を追い求め、映画館を回ったり、会報を作ったり、上映会を催したり、数多くの錦ちゃんファンや錦ちゃんと仕事をされた関係者の皆さんにお目にかかって親交を結んだり、錦ちゃん関連の本を作ったりしてきた。約5年間はまさに「錦ちゃんづくし」だった。ずっと全速力で走り続けてきたような気がする。それが昨年3月、「青春二十一 第一巻」を制作中に東日本大震災があり、家庭の事情もあったが(女房と娘が原発の被害を恐れフランスへ帰ってしまった)、なんとか錦之助映画ファンの会の集いに間に合うように完成させた。その後、ガクッと疲れが出て、正直言って、急激にテンションが下がってしまった。錦ちゃんのファンとして自分が出来ることはほとんどやったという達成感もあったからだろう。

 それから何をしていたかと言えば、4月半ばから約50日間かけて「東京都ガラクタ区お宝村」という本を作った。このことは以前このブログにも書いた通りである。そして、6月下旬に書店営業をやり始めた時、不図これを原作に映画化したら面白いだろうと思い立ち、気が付いたら企画の実現に向けて動き始めていた。私は今年が年男だが、唯一の想像上の動物である「龍」を干支に持つせいか、夢のような大望に思いを馳せる性癖がある。しかも、思っ立ったことはすぐに実行に移す猪突猛進型、せっかちで先走りでもある。
 映画を製作しようなどという大それたことのきっかけになったのは、この本の著者の伊東幸夫さんが一人芝居で有名なイッセー尾形さんの東京公演の裏方をアルバイトでやっていて、伊東さんに招かれて私が久しぶりにイッセーさんの芝居を観たことだった。主役のガラクタ屋はイッセー尾形さんが最適だとピンと来て、企画をイッセーさんの事務所の社長の森田清子さんに持ちかけたところ、大乗り気で、ぜひやりましょうということになった。主人公のガラクタ屋があちこちの古い家を訪ね、お年寄りの住人たちと触れ合い、みんなを幸せにしていくヒューマンコメディである。タイトルは『うぶ出し屋 萬珍堂(まんちんどう)』。うぶ出し屋というのは、古い家や店に眠っていた古物を掘り出して、初めてマーケットに出すことをなりわいにしている人である。
 共演者には、錦ちゃんと縁の深い俳優さんたちがすぐに頭に浮んだ。そこで、だいたいの登場人物と役柄を決め、親しくしていただいている女優男優さんたちに直接ないしマネージャーを通じ間接的に連絡を取った。有馬稲子さん、丘さとみさん、入江若葉さん、星美智子さん、風見章子さん、尾形伸之介さん、それと渡辺美佐子さん、石濱朗さん、淡島千景さん(淡島さんは出演を楽しみにしていたが、今年2月に亡くなってしまった)ほか。みなさん、出演してくださるとのことだった。これが昨年の夏。さて、それには、何よりもシナリオが面白くなければダメだと思い、どうせなら自分で書くのが一番と、8月からシナリオを書き始めた。映画のシナリオはもちろん何本も読んだことはあるが、自分で書くのは初めてである。書式を調べ、書き始めたが、どうも小説か戯曲のようになってしまう。動きがあって絵(映像)になるようなシーンを描き出すのも難しいし、生きたセリフもなかなか書けない。

 初稿を書き上げたのは9月初め。しかし、今思えば点数にすると30点くらいの出来で(つまり不合格点)、映画関係者の方、四、五人に読んでいただいたが、面白くないし、シナリオになっていないと、厳しく、あるいはやんわりと、けなされた。とくに、脚本家の石森史郎さんからはコテンパンに批判され、これは石森さん愛のムチだと思い、発奮もし、また大いに参考にもなった。そんなわけで、この半年間、書き直しにつぐ書き直しで、現在10数稿目である。その間、シナリオの書き方の本を読んだり、名作のシナリオを分析したり、シナリオの勉強も続けながらやっているので、だんだん良くなってきたと思う。現在60点くらいの出来だと思う。第3稿からは、中島貞夫監督と脚本家の那須真知子さんに読んでいただき、適切なアドバイスをもらっている。改訂稿からは石森史郎さんの奥さんの房枝さんに読んでいただき、率直な意見を伺っている。那須真知子さんは、映画監督の那須博之さん(故人、『ビバップハイスクール』などヒット作がある)の奥さんで、私の親友が那須監督の大学時代の親友で、そんな縁でつい最近に知り合った。私の親友といっしょに真知子さんの住む横浜へ行き、飲み屋で3時間ほど話し合っただろうか。飾り気のないとてもチャーミングな女性で、私と同い年。吉永小百合さん主演の『北のカナリアたち』(阪本順治監督)のシナリオを書き上げたばかりだった。真知子さんの書いたシナリオ作品では、私は『化身』(渡辺淳一原作、東陽一監督、藤竜也、黒木瞳出演)が大好きな映画で、何度も観ていると言ったら、とても喜んでいた。その時、真知子さんに私の書いた第3稿のシナリオを手渡し、ぜひ読んで感想を教えてくださいと頼んだ。三日後に電話すると、ちゃんと読んでくれていて、言葉は丁寧だが、石森史郎さんに劣らぬ手厳しい批判だった。ただし、具体的なアドバイスをたくさんいただいたので、その後、悪いとは思ったが、書き直したものを二度も送って、その度に読んでもらい、貴重なご意見を伺っている。最新の改訂稿は、前半がずいぶん良くなったので、あとは後半をもっとドラマらしくして面白くすれば、大丈夫だと思うと言われた。プロのシナリオライターは、シナリオの完成度を的確に判断してくれるので、辛辣だが、甘いお世辞を言わないだけ、役に立つと思って、私は進んで批判をあおぐことにしている。
 引っ越しも完了し、あともう少し片付けを終えたら、またシナリオに取り掛かろうと思っている。(つづく)