錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『八百屋お七 ふり袖月夜』(その3)

2013-05-20 16:58:52 | おしどり若衆・いろは若衆・ふり袖月夜
 錦之助は、デビュー以降の初期の出演作の中で、『八百屋お七 ふり袖月夜』が一番気に入っていた。「平凡スタアグラフ」(昭和29年11月発行)のインタビューで、錦之助は、好きだった役を質問され、この映画の吉三郎を挙げている。また、自伝「ただひとすじに」(昭和30年9月発行)の中でも、「この作品は今でも私の好いている作品の一つです」と語っている。
 錦之助は、この映画の吉三郎の役を大変苦心しながら演じた。そして、苦心の跡が顕著に現れ、自分でもうまく行ったと感じ、満足したのだろう。その苦心とは、どのようなものだったのか。

「あげ羽の蝶」(昭和32年1月発行)で、錦之助は、
長年見てきたカブキの吉三郎が僕の頭にあるものですから、おのずと弱い吉三郎となり、松田先生から『弱い、弱い』と数回注意されました」と語っている。
 錦之助の言う「カブキの吉三郎」とは、叔父の勘三郎が演じた寺小姓の吉三郎のことであった。八百屋お七の物語を取り入れた歌舞伎狂言は、「松竹梅恋江戸染(こいもえどぞめ)」、あるいはこれを改作した「松竹梅湯島掛額(ゆしまのかけがく)」である。「吉祥寺お土砂の場」と「火の見櫓の場」から成る二幕物で、前段が「紅長」(主役の紅屋長兵衛の略)、または「お土砂(どしゃ)」と呼ばれているものだ。
 錦之助は、その舞台を何度も見ていた。端役だったが、実際、舞台に出演して見ていたのだった。錦之助が懸命に歌舞伎修業に励んでいた頃である。昭和24年1月、東劇で上演された「松竹梅恋江戸染」と、昭和25年6月、同じく東劇で上演された「松竹梅湯島掛額」であった。どちらも、吉右衛門の紅屋長兵衛、芝翫(のちの歌右衛門)の八百屋お七、勘三郎の吉三郎で、錦之助は丁稚の役だった。錦之助は、いつか自分もこれらの役のどれかを演じると思い、それぞれの役について演じ方の細部に至るまで頭に焼き付けた。その時、およそ四年後に、舞台ではなく映画で自分がその吉三郎を演じることになろうとは思ってもみなかったにちがいない。
 映画で演じる吉三郎は、歌舞伎の優柔な寺小姓ではなく、剣道に励む硬派の若武者で、まったく違う役柄だった。錦之助はそれを十分承知して役作りをして撮影に臨んだのだが、本番前のテストになると、歌舞伎の役柄のイメージが抜けず、監督の松田定次に何度も注意された。
 錦之助はセリフの調子についても松田監督から注意を受けた。
『あげ羽の蝶』の中で、錦之助はこう打ち明けている。
僕のセリフの調子がすごく高くて、キンキン金属的にひびき、セリフが浮くとの忠告です。それから僕は、つとめて調子の調節をするよう心掛けるようになりました。これは映画に入っての一番の勉強でした
 錦之助の話では、松田定次は注意したあと、やさしく諭すように、「すぐに直らんでも、自分で気ィつけたら、それでええんや」と言ったそうだが、負けず嫌いの錦之助は、こう言われて逆にカッとなった。それから、奮起して猛烈な練習を繰り返したにちがいない。
 松田定次は、月刊誌「時代映画」(昭和36年3月号)の中で、『八百屋お七 ふり袖月夜』を撮った頃の錦之助のセリフ回しについて、こう語っている。
声が非常にういていたんです。(中略)何かこう、うわずっていたんです。台詞が、板についていないと云うんじゃなくて、歌舞伎から来たという形でなんです。だけど錦之助君は、それを良く頑張って見事に克服してくれました。ラ行の発音も、持ち前の熱心さでしゃべれるように工夫したらしく、非常に良くすべるようになったんです。本当に驚きました




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