錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

京都で映画『祇園祭』のシンポジウムに出席する

2018-10-30 00:06:25 | 錦之助ノート


 土・日に京都へ行き、京都大学の人文科学研究所で催されたシンポジウム「映画『祇園祭』と京都」に出席してきた。京都へ行くのは8年ぶり、京大の中に入るのは48年ぶりで、大学受験して落ちて以来だ。今回は、主宰者の谷川建司さんに招かれたこともあり、また、研究発表する一人が知人の板倉史明さんであるし、それに錦之助映画ファンの会の高橋さんと野村さんも出席するというので、遠征した次第。
 行きの新幹線の中で『祇園祭』のシナリオ(鈴木尚之・清水邦夫)を再読。読みながら詰まらないホンだなと思う。主人公の新吉(錦之助)とヒロインのあやめ(岩下志麻)という人間が描けていないし、ドラマもない。ちょうど読み終わったら昼過ぎに京都駅着。バスで百万遍まで行き、京都大学へ直行。
 1日目は、時計台記念館のホールで、午後1時半から映画『祇園祭』の上映。入場無料、観客は100人ほどだった。最初に谷川さんの挨拶と解説。『祇園祭』が製作公開されたのは1968年なので、今年が50周年。それを記念しての企画だとのこと。
 『祇園祭』を見るのは、今度が5度目。高1の時、渋谷パンテオンの封切りで見て、失望した映画だ。その後何度見ても、2時間48分という長さにうんざりし、ラストも感動しない。壮大な失敗作であると私は思っている。しかし、今回はなぜか退屈しないで見ることができた。前もっていろいろな資料を調べたり、シナリオも読んで、疑問点を確認しながら見たからだろう。山内鉄也監督はシナリオに忠実に映画を撮っていたのが分かり、あのシナリオを改変せずに(脚本家の強い要請)、これ以上の映画は望めない、と納得。多少、セリフは変えていたが、許される範囲だろう。
 夕方、木屋町の小料理屋「月村」へ10年ぶりに行った。前にも女将と板前のご主人から昔話を聞いたことがあるが、また聞くことができた。女将のおばあさんが戦後間もなく開店した小料理屋で、東映(東横)のスタッフや俳優がよく来た店。マキノ光雄や月形龍之介がひいきにし、錦之助も時々立ち寄ったという。カウンター横の棚に昭和30年ごろの古い記念写真が何枚か飾ってあり、右太衛門や長谷川一夫の写真もあった。ビールを飲み、鶏釜めしを食べる。薄味でうまかった。



 夜は、鴨川べりの閑静な旅館に宿泊。石長松菊園という。どう読むのか未だに不明。客室は8畳の日本間で、朝食付きで1万5700円(一休.comで予約したので割引価格)。宿に着くとすぐに就寝したが、ビジネス・ホテルの狭い部屋より快適。

 日曜の朝、旅館を出ると、すぐ近くに金光教の河原町教会があったので驚く。金光教信者だった錦之助のお導きなのかと一瞬不思議な思いにとらわれる。新しくて立派な建物だ。日曜の礼拝があるようだが、まだ8時半で中には入れず、入口にあるガラスケースの掲示を読む。「人は生きているのではなく、生かされている云々」なるほど。
 バスで百万遍まで行く。時間があったので知恩寺を訪ねる。浄土宗の寺で、門前の立て札に、ナントカ上人が災厄を除くため百万遍の念仏を唱えたので、後醍醐天皇から「百万遍」の寺号を賜ったと書いてある。境内を一回りし、本殿に入り、本尊を拝む。
寺を出ると、道路でばったり、錦之助映画ファンの会の副会長の高橋かおるさんに会う。彼女は昨晩東京を出て岐阜羽島に泊まり、京都へ来たという。高橋さんはコテコテの錦ちゃんファンで、錦之助については生き字引である。
 京大の裏門から入り、人文研(人文科学研究所)4階の大会議室へ行く。参加者は50名ほど。午前10時から夕方まで、丸一日で大変だ。午前中に2名、昼休み休憩後、山内監督の作った京都映画祭用の短編映画の上映、そのあと3名の発表。休憩後パネルディスカッションという段取りだ。
 研究者たちの発表では、午前中の木村智哉さん(映画産業史が専門で、錦之助ファンらしく、私の本も読んでいるとのこと)の話を面白く聴いた。板倉さんの話はテーマがありきたりで、突っ込みが足らず。
 昼は錦之助映画ファンの会の高橋さんと野村美和さん(京都在住)と外へ出て、喫茶店でランチを食べ、歓談。
 午後の部では太田米男さん(大阪芸大教授で『祇園祭』のフィルムを復元した人)の話がためになった。あとのお二人(日本史研究者)の発表はテーマをもっと絞るべきで、話が散漫になってこの映画自体についても時代劇映画についても理解が不十分なように感じた。
ディスカッションの時、反論しようかとも思ったが、やめる。その代り、休み時間に京樂真帆子さん(中世史研究者)には直接、指摘しておいた。
 人文研所長の高木博志さんの発表は、『祇園祭』とはあまり関係のない当時の京都の歴史学者たちについての話だった。彼は、親切にも私を館外の喫煙所まで案内してくれ、その時、20分くらい雑談した。近代史が専門で、金光教と遊郭の関係を調べているとのこと。また金光教が登場したので驚く。さっき、河原町教会があったので、見てきたと言ったら、彼も驚く。錦之助と金光教のことで私の知っていることも話しておいた。彼とはいろいろ意見交換ができて良かった。
 木下千花(溝口健二の研究者)さんの司会でディスカッション(?)というか参加者の意見も交えた質疑応答があり、終わったのは日も暮れた6時すぎ。
 それから、烏丸通りの居酒屋で関係者による打ち上げの会があり、谷川さんに誘われて私も参加。8時半まで居て途中で退席。京都を出発したのは夜の9時。杉並の自宅へ帰ったのは12時過ぎだった。へとへとになった。


映画『祇園祭』ノート(5)

2018-10-26 12:40:19 | 錦之助ノート
 竹中労の降板後、京都府議会の決議を経て、京都府から「日本映画復興協会」へ製作費として5千万円が二度、計1億円が貸与されることになった。5千万円の貸付の時期ないし契約内容は不明であるが、67年10月までに一回目の貸付があり、68年夏までに二回目の貸付があったのではないかと思われる。
 『祇園祭』の実際の製作費は約3億円と言われているが、京都府から1億円借り入れたとしても2億円不足している。当初の見積りでは、前売り券(300円)を最低でも50万枚売って、1億5千万円を調達し、借り入れた製作費の返済にあてる予定(竹中労の成算)だった。100万枚売れば3億であるが、そんなに売れたとも思えない。翌年秋、前売り券は350円に値上げしたが、目標の50万枚売れたかどうかは不明。
 68年夏、映画がクランクインしてから、京都市民のカンパもあったと言われているが、現在のクラウド・ファンディングのような方式をとったのだろうか。カンパ資金を集めた団体は、映画のパンフレットに書かれている「映画『祇園祭』製作上映協力会」(会長:湯浅佑一)のようだが、具体的に何をしたのかは不明である。
 また、蜷川知事は完成したフィルムを京都府が買い取ってもよいと言っていたようだが、上映権つきで現像したポジ・フィルムを買うつもりが、結局、著作権ごと映画を買い取ることになった。金額は分からない。それで、現在でも京都府が映画『祇園祭』の著作権を所持しているわけだ。本当なら「日本映画復興協会」(株式会社だったようだ)が映画の著作権を所持するはずだった。
 日本映画復興協会は、『祇園祭』の後も1年に1本は映画を製作する意図を持って設立されたのだが、『祇園祭』だけを製作して、あえなく解散した。会社役員の竹中労が退任し、続いて伊藤大輔が辞めることになっては、会社の存続そのものが無意味になったのだろう。当協会の代表取締役は錦之助(本名小川矜一郎、姓名判断によって錦一から改名していた)で、ほかに役員には兄の小川三喜雄と映画評論家の南部僑一郎がいたようだが、会社解散前後の経営事情についてはまったく分からない。

映画『祇園祭』ノート(4)

2018-10-23 14:26:11 | 錦之助ノート
 1967年7月から10月までを、映画『祇園祭』の第一次製作準備段階としておく。
 製作が本格的に軌道に乗ったそのスタートは、7月18日。京都府庁知事室で、蜷川知事、山田副知事が、錦之助、伊藤大輔、竹中労と初めて会見し、蜷川知事が「京都府政百年」記念事業の一環として映画『祇園祭』の製作を全面的に支援することを確約した時である。この時、蜷川知事は京都府が1億円を補助すると提案したが、竹中はそれを断り、あくまでも京都府からの資金融資(返済する借入金)で良いと主張したという。京都府のPR映画を作るのではなく、スポンサーに拘束されない自主製作映画にこだわったわけだ。

 8月19日、京都府大グラウンドの盆踊り大会で、挨拶に立った蜷川知事が映画『祇園祭』の製作を発表。錦之助も挨拶。(当ブログの『祇園祭』ノート第2回参照)
 8月20日 スタッフ全体会議。(当ブログ第3回参照)
 8月21日 京都府庁で製作発表記者会見。錦之助、伊藤、竹中が出席。三人は東京へ移動し、午後、帝国ホテルで記者会見。出席者に映画評論家の南部僑一郎が合流。(当ブログ第1回参照)


帝国ホテルでの記者会見。左から、錦之助、伊藤大輔、南部僑一郎

 8月31日 竹中が『祇園祭』のジェネラル・プロデューサーとして当てにしていた元日活専務・江守清樹郎と会見。就任を懇請するも、「キミじゃなくちゃ、この映画はできないよ。志を立てた以上、キミ自身がやりぬくべきだ。人にまかせることじゃあるまい」と言われ、断られる。その代りに江守から、アシスタント・プロデューサーとして久保圭之介を紹介される。
 *この久保というのが問題の人物で、彼に協力を依頼したことが、竹中の大きな誤算だった。久保圭之介については回を改めて後述する。

 8月初めに脚本を依頼した鈴木尚之が辞退したため(鈴木は結局、翌年5月には清水邦夫との共同執筆ということで承諾し、脚本を書く)、伊藤大輔の希望により、八尋不二が脚本を書くことになる。しかし、伊藤の意向も加え原作を改変して脚色した初稿は、原作者の西口克己が気に入らず、八尋が9月半ばに書き上げた第二稿(八尋のオリジナル脚本に近かったという)は、伊藤大輔の意に添わず、ボツになる。それで、八尋は脚本担当を降りた(「キネ旬」1969年3月下旬号に八尋不二の文章がある)。その後、脚本は加藤泰(共同執筆者がほか2名いたというが、誰だか不明)が書くことになったが、加藤の脚本も決定稿に至らず(「キネ旬」の伊藤大輔「祇園祭始末」)。

 10月半ばには、竹中労が、『祇園祭』の製作をめぐり、日本共産党京都府委員会と対立し、京都府議会(および市議会)の共産党有力議員たち(X氏、西口克己ほか)の圧力で、製作から排除される。竹中は共産党も除名された。

 これで『祇園祭』の製作は、いったん座礁に乗り上げ、中断されたのである。
11月のクランクを予定して、多分錦之助が声をかけたことで出演に快諾した俳優たちもキャンセルされる事態になった。製作発表時に名前が挙げられた面々(新聞にも書かれた)、伊藤雄之助、小沢昭一、石坂浩二、加賀まりこ、中村勘三郎、中村賀津雄のうち、一年後に製作された映画に出演したのは、伊藤雄之助と賀津雄の二人にすぎない。
 しかし、周知の通り、最終的には、映画『祇園祭』のキャスティングは錚々たる男優・女優が並んで、映画が大ヒットする大きな要因の一つになる。


ラピュタで『花と龍』を見る

2018-10-21 01:36:52 | 錦之助ノート
 2日間、ラピュタ阿佐ヶ谷へ行った。きのうの『武士道残酷物語』は15名ほどの入りだったが、『花と龍』はほぼ満員で、50名近く入っていた。今回のラピュタの特集は佐久間良子がメインだったこともあり、彼女を見に来たお客さんが多かったのだと思う。それに、土曜日だったせいもあるだろう。
『花と龍』は私の好きな映画なので、きょうは楽しむことができた。
 錦之助と佐久間良子の共演は、『独眼竜政宗』以来、6年ぶり。その間、佐久間さんは東映の看板女優にのし上がった。個人的には『独眼竜~』の頃のういういしい彼女が好きなのだが、『花と龍』のおマンさんも大変良い。色気が匂おい、女の貫禄みたいなものも出ている。
 錦之助は東映時代、佐久間良子と3本、三田佳子とは4本の映画で共演しているが、どちらとも息が合っていたと思う。佐久間さんも三田さんも錦之助を敬慕し、錦之助も二人を可愛がっていたからなのだろう。
『花と龍』(昭和40年11月公開)は、時代劇から近現代の任侠やくざ映画路線に転換した東映京都に対して、錦之助をリーダーとする体制内反対派の作った映画でもある。内容的にもやくざ否定、暴力否定を標榜している。
 錦之助が東映京都俳優クラブ組合の委員長を務めて、東映本社と闘ったのはこの年の5月から夏までであるが、秋にクランクインした『花と龍』には組合の面々が揃って出演している。神木真寿雄、尾形伸之介、加藤浩など。三島ゆり子も組合員だったと本人からお聞きしたことがある。当時東映には大部屋俳優から成る東映俳優労働組合もあって、こちらは4年前から東映本社と闘争中だったが、『花と龍』にはこちらの組合員もゴンゾウ役なので数多く出演していたようだ。
 監督の山下耕作は、この頃までは不遇をかこっていて、体制内反対派の一人だったが、『兄弟仁義』から任侠やくざ映画を撮って、傑作『博奕打ち 総長賭博』を作り、東映の屋台骨を背負うヒットメーカーになった。




錦之助を語る――(その一)山根伸介

2018-10-18 21:53:02 | 錦之助ノート
 『祇園祭』ノートだけでは詰まらないと思うので、今日から合間合間に、錦之助について、いろいろな人が語る錦之助論や錦之助の思い出をピックアップして、連載したい。
 小生も長年錦之助を追いかけ、たくさんの本や雑誌を収集してきたので、紹介する材料には困らない。
 で、第一回は、チャンバラ・トリオの山根伸介(1937~2015)の『私を斬った100人』(昭和56年、レオ企画)から。



 チャンバラ・トリオと言えば、60年代後半から70年代前半までの10年間が人気絶頂期だったと思う。当時はトリオでなく4人組だった。リーダーが山根で、頭(カシラ)の南方英二がハリ扇を持ち、ボケの伊吹太郎が叩かれ役、それに太った結城哲也がいた。


左から、南方、結城、山根、伊吹

 みんな東映出身で、南方、伊吹、山根の三人は東映「剣会(つるぎかい)」のメンバーだった。殺陣のシーンでの斬られ役である。昭和30年代の東映時代劇の画面にいちばん顔を出していたのは南方英二だった。彼は楠本健二(『笛吹童子』の斑鳩隼人役ほか)の弟。
 山根伸介は、東映時代の芸名は髙根利夫といった。彼が斬られ役をやった名場面は、『宮本武蔵 般若坂の決斗』のラスト、武蔵と浪人たちの決闘シーンである。錦之助に斬られ、胸から血を噴き出して死ぬ浪人が彼だ。身体中にホースを巻き付け、血の出る仕掛けをしていたという。



 山根は、『一乗寺の決斗』のラストシーンにも斬られ役として出演しているというが、未確認。
 伊吹太郎は、東映時代の芸名は伊吹幾太郎といったそうだが、大友柳太朗の付き人をやっていて、斬られ役としての出演は少なかったようだ。
 山根、南方、伊吹の三人が東映を退社し、チャンバラトリオを正式に結成したのは、1965年(昭和40年)。
 結城哲也は、東映入社が三人よりずっと後で、高倉健の付き人だったが、1968年に南方が病気で休養した時に代役としてチャンバラ・トリオに参加。南方復帰後も結城が居残ったため、4人組になったそうだ。

 映画『祇園祭』(1968年)のキャスティングに山根(利夫)、伊吹(幾太郎)、結城が山科の一揆の場面で出演している。南方はこの時、病気療養中だったという。



 さて、山根伸介は、「私はこの人の大ファンなので、書くことがメロメロになってしまうかも知れない」と前置きして、錦之助とのエピソードを六つほど書いている。その一つを紹介しよう。

 チャンバラトリオを結成して三年目、京都南座の松竹名人会に出演したときのこと――。
 だしものは、ご存知長谷川伸の名作『瞼の母』を、珍版としてネタにしていた。
 ある日、楽屋に、大きな舟型のうつわに盛りこんだ豪華な寿司、二十人前ほどが届けられた。
「誰や、こんな豪華なことしてくるの」
 見ると、“チャンバラトリオさんへ 陣中御見舞 中村錦之助”とあるではないか。
 一同、肩を叩き合った。東映を退社するとき挨拶にうかがうと、
「よく決心したなあ。しっかりやれよ」
 と励ましてくれ、門出の祝だと、楽屋のれんを贈ってくれた若旦那だったが、三年経った今また……!
 私たちはカンゲキして舞台をつとめた。
「若旦那、きっとどこかでみたはるぞ」
 その日はおかげで、客席は大爆笑の渦だったが、終わってエレベーターをおりたとたん、
「イヨッ、おめでとう」
 思った通り、現れたのだ。
「あ、若旦那、どうもありがとうございました」
「がんばってるなあ、面白かったよ」
「ありがとうございます」
「ところでな……三公」
 三公とは、南方英二のニックネームだった。
「あそこは、醒が井から南へ番場……じゃないよ。南へ一里磨針峠の山の宿場で番場……だよ。いくらお笑いでも、定まった名セリフはきちっと言わなきゃ、お客に失礼だよ」
「は、はい……」
 さすがは若旦那、こういうときでも芝居には厳しく、アドバイスしてくれるのだった。
 その後、楽屋で、ほかの出演者たちに向かい、若旦那は頭をさげられたものだ。
「みなさん、チャンバラトリオをよろしくお願いします」
 私は、グッと熱いものがこみあげてきて、たまらなかったことを覚えている。