錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

錦之助映画祭り(フィナーレ)追記その3

2009-12-31 21:48:55 | 錦之助映画祭り
 中日の15日の日曜、今日はいよいよ待ちに待った丘さとみさんの登場である。主催者たるもの、お招きするゲストに待遇の差があってはならないと思うのだが、丘さとみさんだけは私にとって別格である。いや、私だけではなく、錦ちゃんファンの大多数の意見は一致するであろう。錦ちゃんの共演女優の中でお似合いの相手の断然第1位は丘チンであると。
 丘さとみさんを錦之助映画祭りのトークゲストにお呼びするに関しては、昨年の夏からご本人と粘り強い交渉を続け、今年の9月になってやっとオーケーが得られたのである。その間、約1年。丘さんには電話、ファックス、手紙と、何度ラブコールを送ったことか。
 その辺の経緯については、前にも書いた気がするが、きっかけは昨年の京都映画祭であった。トークショーに丘さとみさんが出演されるという情報を得て、私は驚いた。そして小躍りして喜んだ。
 円尾さんの話では、丘さんが法律関係のお堅い方と近々再婚なさるとおっしゃっていたというところまでは知っているが、今どこに住んでいるのか、連絡先も分からないとのことだった。それは、彼が「東映城のお姫様・丘さとみ」(ワイズ出版)を編集中に丘さんにインタビューした時のことだから、約10年前の情報である。それが、1年半ほど前、映画ファンの某中年女性から、丘さんが板橋の仲宿商店街という所にあるリフォームショップに出入りなさっているという情報を入手。錦之助映画祭りの企画が軌道に乗ったら、是が非でも仲宿商店街のリフォームショップを探訪して、丘さんの居所を突き止めようと思っていた。その矢先だったのである。ご当人の方から公衆の面前に姿を現すとは!それも京都。
 私は胸の高鳴るのをおさえ、早速、京都映画祭のドンである中島貞夫監督に電話した。丘さんの連絡先を教えてもらおうと思ったのだった。中島監督は「オレの名前出していいから、事務局に問い合わせれば分かるよ」とおっしゃるので、すぐに事務局へ電話。丘さとみさんのご住所と電話番号を教えてもらう。やっぱり板橋にお住まいだった。
 私は躊躇せず、丘さんのお宅へ電話した。こういう時、私は何も考えずに行動に移す。丘さんのお声は、映画で何百回となく聞いているから、すぐに丘さんご自身が電話に出られたことがわかる。一応確かめると、
「はい、丘さとみですけど……」と、一瞬怪訝そうなお声。
 その後、ベラベラと、私自身の紹介、錦之助映画ファンの会のこと、錦之助映画祭りのことなどを話す。私が丘さんの大ファンであることも分かっていただいたようで、丘さんもすっかり打ち解け、見ず知らずの私にプライベートなことも含め、いろいろ話してくださった。その時30分以上話しただろうか。
 が、話の途中で何度か、錦之助映画祭りのトークショーのゲストとしていらしてくださいませんかとお願いすると、「私、もうおばあちゃんになっちゃったし…」とか、「主人が出席するパーティに私、いっしょに出たこともないのよ」とか、「考えときます」とか、「主人に相談してみるわ」とか、おっしゃってはぐらかされてしまう。丘さんには私の押しの一手がなかかなか通じない。
 この時は、快諾が得られず、電話を切ったあと、丘さんのお宅へ錦之助映画祭りの企画書をファックスして終わってしまった。
 それから、ほぼ二ヶ月おきに丘さんのお宅へ電話を入れた。京都映画祭の一週間前に電話をした時など、こんな会話が交わされた。
「丘さんのトークを聴きに、ぼく、京都へ行きますけど、お会いできませんか?」
「できるだけ遠くに座って、あまり近くから私を見ないでね。楽屋にも来ないでよ。お願いだから。」
 私ががっくりしたのは言うまでもない。一瞬丘さんに嫌われちゃったのかなと思ったが、ほかの話(たとえば丘さんの出演作のこと)をすると、気さくにいろんな思い出話をしてくださるから、そういうわけでもなかったようだ。多分私に直接会うと、トークゲストの件、断りきれなくなるという丘さんの判断だったのだと思う。
 結局、3月の錦之助映画祭りで丘さんをトークゲストにお招きすることは断念せざるをえなかった。ただし、チラシと記念本「一心錦之助」と招待状だけは郵送しておいた。もちろん、熱い思いのこもった手紙も添えて。
 3月の錦之助映画祭りに丘さんが5日間もいらしてくださったことは前にも書いた。お忍びというか、大きなマスクをなさっていたが、もうバレバレだった。だいたい円尾さんがあの大声で、「丘さん、丘さん」と呼ぶものだから、ファンの目にも留まり、丘さんもサインを頼まれて、応じたりしていた。でも、なんだか丘さんも嬉しそうだったので、ほっとする。
 丘さんが、私に会いたいとおっしゃってくれたのは、その初日だったが、あいにく私はその日、午前中には行けなかった。円尾さんに紹介されて、丘さんに初めてお会いしたのは、二日目だった。電話では、おそらくトータル3時間はお話しているので、丘さんも私と初対面という感じはまったくしなかったと思う。こっちは、映画で丘さんのお姿を何百時間も見ているわけだから、親近感たっぷり。
「盛大な上映会で良かったわね。さすが錦ちゃんだわ。私も、ほんとに嬉しい。」
「はい、おかげさまで。でも、丘さん、ほとんど変わらないじゃないですか。お若いし、可愛いいですね。」
「えっ、照れちゃうわね。」
 もうこの時、丘さんは11月の錦ちゃん祭りではトークショーに出演しようと決心なさっていたのではないかと思う。新文芸坐の顧問の永田さんに、「次はもっと協力するわ」とおっしゃっていたと聞く。
 
 いやはや、前置きが長すぎた。今回の錦之助映画祭り(フィナーレ)で丘さんのトークショーの記事を書くつもりが、ついつい丘さんへの思い入れが出て、こんなことになってしまった。大晦日、あと2時間で年が替わるというのに……。


錦之助映画祭り(フィナーレ)追記その2

2009-12-31 13:44:35 | 錦之助映画祭り
 映画が始まっても沢島監督が見えない。監督は、新文芸坐には何度もいらしているはずだから、道に迷うはずがない。もしかして、事故にでもあったのではないかと心配になる。お宅へ電話すると、妹さんが出て、
「兄は、さっき家を出たので、もう少ししたら着くと思います」とのこと。
 上映開始後40分ほどして、監督がいらっしゃる。黒のスーツでびしっと決めている。監督は大変おしゃれで、とくに帽子がお好きのようである。今日はスーツに合わせ、ソフト帽をかぶっている。
 監督に初めてお目にかかってご挨拶したのは、3年前シネマヴェーラ渋谷で「錦之助と橋蔵」の特集があった時のことだが、あの頃に比べて、すこしお元気がなくなってきたような気がする。大正15年生まれだから、現在83歳。当然かもしれない。
 ご挨拶した後、すぐに館内にご案内する。ドアの前に上り段があるので、
「監督、足元に気をつけてください」と言うと、
「今日は、錦兄ィにもらった靴をはいてきました。」
 映画は『一心太助 男の中の男一匹』。ニュープリントである。監督の隣りの席で映画を観る。すでに半分以上終わっていて、大河内伝次郎がお縄になるあたりからだったが、色もきれいでフィルム状態良好。
 映画が終わって、館内が明るくなると、隣りで監督がニコニコしている。
「お客さん、ずいぶん入っとるなあ。天気悪いのにありがたいことです。」
 会場に監督が親しくされている方が何人かいらしていて、監督のところに挨拶に見える。その中に、監督が演出した芝居をずっとプロデュースされてきた方が奥様ご同伴でいらしていたので、監督の隣りの席をお譲りする。私は端っこに移動。休み時間にお客さんが増え、客席は満員。これで私も一安心。
 二本目の『森の石松鬼より恐い』は、最初から最後までじっくりと鑑賞。前半はところどころで場内から笑い声が上がる。やっぱり映画は、映画館で大勢の人たちといっしょに観ると、楽しさが倍加する。見終わった後の充足感や感動も違う。

 さて、いよいよトークの時間。私の役目は、最初に舞台で簡単な挨拶をして、沢島監督をご紹介するだけ。あとは監督がたっぷり30分間スピーチをしてくださった。トークの内容は、いずれ錦之助映画ファンの会のホームページに掲載する予定(来年になるがご容赦を)。


<沢島監督のトーク。写真提供:湯澤利明さん>

 サイン会も盛況。沢島監督も大変喜んでいらした。監督の著書「沢島忠全仕事」(ワイズ出版発行。定価3800円と、ちょっと高いが…)が20冊以上売れたのではあるまいか。ワイズ出版の岡田社長が朝、部数が少ないのを見て、わざわざ会社まで取りに行ってくれたのだが、正解だった。




<沢島監督のサイン会>
 
 サイン会が終わり、上機嫌の監督が私に対し感想を一言。
「あんた、わざと私に恥をかかせたんやろ!」
「えっ、なんですか?」
「演壇の机が低すぎて、原稿がよう見えんかった。今日は、話がうまくできなかった!」
 これは、沢島監督独特の、人の腹を探る言い回しで、要するに、監督は「今日のオレの話はどうだったと思う?」と尋ねているわけなのだ。監督は見え透いたお世辞を言うヤツは嫌いな方だということを私も承知しているし、私もお世辞を言う柄ではなく、はっきり物を言うタイプなので、
「監督のスピーチ、とても良かったと思いますよ。」
「途中で間(ま)が空いただろ?」
「いやー、メリハリがついて、かえって良かったんじゃないですか。」
 最後に監督がぽつっと一言。
「もっと私のいい映画やって、呼んでくれよ。」
「じゃ、監督、またいらしてくださいよ。」
「まだ生きていればな。」
 これで一件落着。主催者として、監督の評価は十分合格点ということなのだろう。翌日、監督のお宅にお礼の電話を入れる。これも肝心なこと。
「夜、ファンの会の宴会があったんですけど、みんな、言ってましたよ。監督の話は、中身が濃くて、やっぱり違うって。」
 これは、お世辞でも何でもない。正直な感想である。



錦之助映画祭り(フィナーレ)追記その1

2009-12-27 23:57:35 | 錦之助映画祭り
 
<初日。円山榮子さんのトークショー。聞き手は私。写真提供(以下同様):湯澤利明さん)

 錦之助映画祭り(フィナーレ)の前半は、まずまずの入りだったとはいえ、私としては今一歩といった感じで、いささか不満だった。新文芸坐のあるビルの一階はパチンコ屋(マルハン)で、いつも開店前から長い行列が出来ている。私はその行列を横目で眺め、朝からパチンコをやろうとしている人々の顔つきを確かめながら、会場入りする。彼らは錦之助映画とは無縁な人々なのだろうと思うものの、内心、錦之助映画祭りも連日、開場前にあのくらいの行列が出来ないものかと思ってきた。これは、3月に錦之助映画祭りが開幕した時以来の願い、というより目標であった。

 初日の上映作品はニュープリントの『ゆうれい船・前篇』とレアな『あばれ振袖』、ゲストに円山榮子さんをお迎えした。お客さんはたくさん集まったが、残念ながら、超満員とは行かなかった。


<円山さんのトークショーの時の客席> 


<円山さんのサイン会の時のロビー>

 オールスター映画の『赤穂浪士』と『任侠清水港』の上映日はきっと満員になるにちがいないと思っていたのだが、7割くらいの入りだった。
 4日目は、東京新聞が朝刊で「錦之助映画祭り」のことを大きく取り上げたので、もしかして、館内もロビーもごった返しているのではないかと期待して新文芸坐へ行ったところ、まだ満員になっていない。東京新聞だけでなく、開幕前には読売新聞も朝日新聞も小さいながら記事を掲載した。それなのに、である。一般市民は新聞を読まなくなったのではないかと疑ったほどである。私も、新聞を滅多に読まなくなっているから、人のことは言えない。
 5日目と6日目は仕事があって私は新文芸坐へ行けなかったのだが、スタッフに聞くと、「そこそこの入り」だったという返事。「そこそこ」とはあまり入っていないという意味であろう。
 前半のラインアップは、錦之助の初期の作品で、映画館のスクリーンで長い間見られなかった作品をずらっと並べた。それでも、連日大盛況とまでは行かない。どうしたことか?いつか、見ていろ!切符売り場の3階から1階のエレベーター前まで階段にずらっと人の列が出来るほど大入りにしてやるぞ。満員札止め。館内は観客でごったがえし、席取り合戦が始まる。しまいには立ち見客があふれてホールのドアが締まらない。映画全盛期の昔の映画館はこうだった。一日でもいいから超満員を実現させてやろう。そうでなければ、錦之助ファンの会の代表として、男の名折れである。

 が、その予兆は、7日目の土曜、ゲストに沢島忠監督をお迎えした時に現れた。
 その日は、朝からぐずついた天気で、お客さんの出足を心配していた。

 前々日、沢島監督のお宅に電話をして、簡単な打ち合わせをした。
「演壇の方は、ちゃんと手配してあるので、大丈夫です。」
「そうか。あさっては雨かもしれませんな…。」
「タクシーでいらしてくださいよ。費用出しますから。」
「いや、そんなことに気、つかわんでもいい。電車で行きます。」
 沢島監督は、聞き手がインタヴューするといったトーク形式を好まない。講演、すなわちワンマンショーがお好みである。監督からは前もってお手紙をいただき、30分間話をするから、演壇を用意しておくようにという指示を受けていた。お手紙には一枚の写真が同封されていて、監督が以前新文芸坐でトークをされた時のスナップだった。そこに、木の箱型のスピーチ台が写っている。これと同じものを用意せよということである。新文芸坐の元支配人の永田さんに尋ねると、あれはホテルから借りてくるのだという。
 沢島監督のトークショーは私も二度ほど拝聴したことがある。監督は講演の原稿をちゃんと用意してきて、それを読むのではなく、メモ代わりに見ながら、独特の語り口でスピーチをされる。ご自分の講演をご自分で演出している感じなのである。
 電話で話すときは、用件を手短に言うように!と以前監督から叱られたことがあるので、早速スケジュールの確認をする。
「あさって、何時ごろいらっしゃいますか?」
「朝シャシンを2本観ようと思いますから、上映が始まる9時45分の前に行きます。」
「では、お待ちしていますので、事務所ではなく直接映画館の受付にいらしてください。席は取っておきますが、後ろの方でいいですよね。」
「あんたは忙しいんだから、私なんかに構わなくもいいです。」
「いや、ちゃんとお待ちしていますので、お気をつけて。」
 沢島監督との会話は、いつもこんな感じである。
 
 さて、当日。沢島監督という方は、とても用心深い方なので、早めにいらっしゃる可能性が高い。監督と初めて待ち合わせた時のことは忘れもしない。昨年の夏、新宿の京王プラザホテルの受付前だった。待ち合わせ時刻の15分前に私が行くと、監督はもう待っているではないか。私は恐縮してしまい、早く来ないですいませんでしたとお詫びしたのは言うまでもない。しかし、監督のことをよく知っている人の話だと、監督は約束の時刻の30分前にはいつもいらしているとのこと。時には1時間前に現場に着いていることもあるらしい。
 沢島監督とはその他にもいろいろなことがあって、今回のゲストの中でも特別に私が気をつかわなければならない別格的存在なのである。
 これは、沢島監督がよくおっしゃることだが、「錦兄ィくらい人に対して気をつかった人はいなかった。錦兄ィは、人に気をつかうことを信条にしていた」のだそうだ。沢島監督という方はどうも、「この男はどのくらい気づかいをしているか」という観点で、人を判断しているフシがある。自慢じゃないが、私は人に対してかなり気をつかうタイプなので、沢島監督のオメガネにかなったのかもしれない。「錦之助映画祭りのことはあんたに任せるから、がんばりなさい」と言われて励まされたこともある。
 ここで、あまり沢島監督のことを書くと、監督から「あんたは口が軽くって何でもべらべらしゃべるから、いかん!」と叱られそうなのでこの辺でやめておく。

 さて、当日。私は9時5分前に新文芸坐へ到着。まだ開場前である。10分、20分と経っても沢島監督は姿を現さない。受付の前で待っていると、9時15分に開場後お客さんが続々と入ってくる。今日は雨模様なのに、お客さんの入りが良い。土曜日ということもあるが、やはりニュープリントの『一心太助・男の中の男一匹』が人気を呼んだにちがいない。
 9時40分になる。上映開始の5分前である。多分客席はすでに7割方は埋まっているのではあるまいか。この分だと、次の『森の石松鬼より恐い』でほぼ満員になると思う。沢島監督のトークの時には完全に満員になること間違いない。が、どうしたことか?あれほど約束の時刻を守る沢島監督が現れない。



やっと一段落して……

2009-12-21 08:57:27 | 錦之助ファン、雑記
 ほぼ一ヶ月間、何も書かないままに過ぎてしまった。「錦之助映画祭り」の報告も4日目を書いたきり、ぷつんと途絶え……、最終日になって千原しのぶさんの訃報をお知らせしたり……いったいどうなっているのかと思った方も多かったにちがいない。ご心配を(してない?)おかけして申し訳ありません。
 いやー、もうまったく、過労死してしまうかと思うほど忙しかったのである。実は、私の出版社の新刊(英語のDVDブック)の制作と「錦之助映画祭り」が完全に重なってしまい、両方を同時にやらなければならない羽目になって……。初めの計画では、錦之助映画祭りが始まる前に新刊の制作は終えているはずだった。それが、思い通りにはかどらず、新刊の発売日を1週間ずらして調整したのだが、映画祭りの最中も、必死になって制作に専念しなければならなくなった。5日目から後は、トークゲストのいらっしゃる日だけ制作を中断して新文芸坐へ行き、ゲストをお出迎えして、舞台で聞き手をやり、サイン会に立ち会って、終わってからゲストにお礼を差し上げ、お見送りするとまた仕事場に帰ってくるという有様。観たい映画も観られず、ああ残念、無念。
 錦之助映画祭りで上映した28本のうち、ちゃんと観た映画は半数にも満たない11本。新文芸坐の大スクリーンで観るのを楽しみにしていた作品をなんと6本も見逃してしまった。『続親鸞』『一心太助・男の中の男一匹』『美男城』『冷飯とおさんとちゃん』『丹下左膳・飛燕居合斬り』『浪花の恋の物語』である。これらの作品をもう当分の間スクリーンで観られないのかと思うと、悔しくてたまらない。フィルムセンターや東映本社や東映ビデオと掛け合って、やっと上映までこぎつけたのに、主催者の自分が観られないとは思ってもみなかった。
 錦之助映画祭りの報告の続きとこの一年の総括については、今日から大晦日までに少しずつ書こうかと思っているが、この場を借りてちょっとだけ新刊の宣伝をさせていただきたい。



 タイトルは「ダジャ単ライブ」。副題は、「ダジャレ動画で憶える!英単語」。
目下、ユーチューブでサンプル版を配信しているので、興味のある方はご覧いただきたい。全国の紀伊国屋書店、ジュンク堂、ブックファーストなどで販売中。ネット書店ではアマゾン他でも売っている。(サンプル版は私の出版社のホーム・ページからも見られます。)
<エコール・セザムのホームページ>
http.//www.ecole-sesame.com

 企画・制作は私。台本書き、録音立会い、動画編集、音入れなどを担当。作画はイラストレーターの中村鈴子・銀子さん。ナレーターは、活動弁士の澤登翠さん、人気声優の三木眞一郎さん、松来未祐さん、それと講談師の宝井琴調さん。BGMは、澤登さんの活弁の伴奏を付けている湯浅ジョウイチさんと柳下美恵さん、舞台音楽家で大道芸人の紫竹芳之さん、それに著作権フリー音楽・効果音の「おんこうくん」を使用。英語のナレーションは、デジタル・ミームの社長のラーリ・グリンバーグさん、彼のアシスタントの中前綾さん。

<キャッチコピー>
 大学受験生・英語学習者の間でロングセラーの「ダジャ単」が動画になって新登場。「笑える、憶える、好きになる!」これぞ、「ダジャレで覚える英単語」究極の娯楽版。「ダジャ単」のイラスト(色付き)が動いて、活動弁士、講談師、声優がナレーション。ダジャレを言って、そのあとにネイティブが発音。日本語と英語の発音を聞き比べて楽しもう。

 幸い「ダジャ単」(5年前に発行)という英単語集は、キャッチコピーにも書いたように、受験生や英語学習者の間でそこそこのロングセラーになっている。一ヶ月に平均800冊くらいは売れていると思う。が、この本、定価を840円と思いっきり安くしたために儲けが異常に少ない。一冊売れて、300円くらい儲かる程度である。きっとラーメン一杯の方が儲かるにちがいない。
 で、その収益は、私の仕事場の家賃、光熱費、電話代などですっかり消えてしまう。私の出版社は、これまで英語の本を3冊、映画の本を2冊出しているが(6年間に5冊しかない)、売れ筋は「ダジャ単」だけである。昨年の12月に高千穂ひづるさんの本「胡蝶奮戦」を出版したが、これが大赤字。各社に払ったスチール写真代があまりにも高かったこと(約80万円)が原因の一つ。
 今年3月に出した「一心錦之助」は、勢い余って5000部も作ってしまったため、いまだに制作費の採算が取れていない。この本も定価1050円で、安すぎたかもしれないが、この本に関しては今でもこの値段で良かったと思っている。錦之助映画ファンの会の人たちから「2000円でも売れたのに!」とさんざん非難を浴びたが、みなさん、なかなか私の真意を理解してくれない。「一心錦之助」は、錦之助映画祭りの記念本として錦之助ファンの熱い気持ちを一つにするために作ったのであって、金儲けのために出版したのではない。寄稿してくださった方の原稿料はゼロ、もちろん編集者の私も高橋さんも円尾さんも只働きである。錦之助映画ファンの会には、大口の寄付金者にお願いして、東映と近代映画社に支払った写真代の半額(約27万円)を補填してもらった。
 まあ、そんなこんなで、この一年、「錦之助映画祭り」に関わって、私もずいぶん出費がかさんで、京都でのパート2のころから打開策を考えていたわけである。そこで、出版社の立て直しを図ろうと思い、「ダジャ単ライブ」の企画をこの夏から進めていた。普通の本ではなく、動画のDVDの制作である。これは、私にとって初めての試みだったが、創作的な仕事なので、やり甲斐もあり、楽しくもあった。 錦之助映画祭りの企画推進も、私が好きでやっていることなので、どんなに苦労してもまったく苦労を感じないが、こちらは単なる上映活動であり、裏方の雑用が多い。映画館との打ち合わせ、フィルムの調達(ニュープリント制作も含め)、ゲストの招聘、チラシの制作、宣伝活動など、これはこれでやり甲斐のある仕事(ボランティア活動)なのだが、新しい映画を制作するわけではないから、創作活動とはいえない。錦之助映画祭りは、回顧上映会の意味合いが強く、たくさんの人たち(おもにご年配のオールドファン)を喜ばせることができた。それはそれで大変有意義だったし、私が努力したことが人のお役に立てたのだから良かったと思っている。
 が、その半面、私自身、ここまでやってきて、錦ちゃんの映画ばかり上映することに全精力を注ぎ込んでいるだけではいけないような気がしてきたことも確かである。もちろん、今後も私は錦之助映画普及のため頑張るつもりでいるが、本業もおろそかにしてはならないと反省している。来年は私が出版社を設立した時の原点に帰り、出版活動と両立できるよう、バランスをとりながら仕事をしたいと思っている。