錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『浪花の恋の物語』(その10)

2017-03-07 18:48:06 | 浪花の恋の物語
 その日の昼過ぎ、まだ風雨の強い中、錦之助は濃紺のスーツにネクタイを締めて、銀座へ向かった。グラビア写真の撮影だけなら普段着にジャンバーで済ますところだが、珍しく洋服の正装をしたのは、言うまでもなく有馬稲子に初めて対面するからである。
 写真家の三浦はいつもと違う錦之助を見て驚いたが、すぐに納得が行って、
「きょうはお見合いでもするみたいですな」と冗談を飛ばした。
 錦之助は照れながら、
「おふくろに言われたんだよ、有馬さんに失礼のないように、きちんとした服装で行きなさいって」と言った。
 スーツ姿の錦之助は、大実業家の子息か華族の御曹司かと見まがうほどで、良家のどんな令嬢とお見合いしても合格間違いなしである。ただ三浦の見たところ、錦之助の頭髪がちょっといただけない。伸びた毛につやがなくボサボサなのだ。
「錦ちゃん、首から下はダンディな紳士なんだけど、その髪、なんとかなりませんかね。貧乏書生みたいで良くないなあ」
「わかったよ。行きゃいいんだろ、床屋へ」
 大の床屋嫌いな錦之助が、この日はどうしたわけか、妙に素直だった。三浦は早速、銀座にある馴染みの店へ錦之助を連れて行き、椅子に座らせると、カメラを手にした。



「ここから撮影開始と行きます。いいですね」
「もうまな板の鯉だ。なんとでもしてくれ!」
 洗髪、カット、ヒゲ剃り、調髪、その時々の錦之助の表情を三浦が順次カメラに納め、すっかりハンサムになった錦之助とともに理髪店を出たのは小一時間後だった。



 それから近くの誰もいない画廊喫茶で何枚か撮って、外へ出た。雨は小降りになっていたが、まだ風が強かった。スーツ姿の錦之助が傘を差しながら銀ブラしているところを撮っても絵にならない。しかし、傘がなければスーツも頭もずぶ濡れになってしまう。錦之助はあいにくレインコートを着て来なかった。すると錦之助はそれを察したのか、裏通りをスタスタ歩いていくと、行きつけの洋服屋へ飛び込んだ。銀座で有名なテーラー「ヤジマ」であった。店員に見立ててもらった英国製のレインコートとハンチング帽を試着するやいなや、錦之助は、「このまま着ていくから」と言って財布を出した。ついでに格子縞のシャレたネクタイを一本買った。有馬と対談する前に締めかえるつもりらしい。



 松坂屋の前の銀座通りは台風の日で閑散としていたが、撮影をしていると、どこからともなく錦之助に気づいた通行人たちが寄って来て、人だかりができ始めた。こうなると引き上げるしかない。そろそろ対談の時間が近づいてきたことでもあり、三浦はタクシーを拾って、錦之助と築地へ向かった。(つづく)