錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『祇園祭』(その2)

2006-07-29 21:59:20 | 祇園祭
 後半、ようやくドラマが展開し始める。町衆たちは一揆鎮圧のため馬借や百姓たちと無益な戦いをしたことを反省し、侍たちに対する信頼も揺らいで、自らの生活を守るため団結に向かう。ここで、やっと新吉がリーダーシップを取り、行動を起こす。町役人の侍に対し税金不払い運動を行い、新吉がその先頭に立つのだ。役人たちはその対抗処置として、関税を設け、京の町への食糧供給の道を遮断してしまう。新吉は町衆の重役を説得し、これまで敵対していた馬借のもとへ米を運んでくれるように頼みに行く。あやめが自ら人質を申し出て新吉に協力するところはどうも理解できないが、町衆が馬借を通じ百姓たちと手を結ぶ結果となって、町衆による自治体制の基盤が築かれることになる。この馬借の頭、熊左という荒くれ者を演じたのが三船敏郎で、三船が登場してから話が急に面白くなり、私は身を乗り出してこの映画を観るようになった。熊左は三船にぴったりの役柄で、オイシイところを三船がさらってしまった感すらあった。
 町衆の集会で、新吉は祇園祭の復興を提案する。ただし、映画的構成から言えば、時すでに遅しといった感で、あとは急ぎ足で、祇園祭の準備があり、クライマックスの山鉾巡行にたどり着く。が、残念ながら、なぜ町衆が立ち上がって祇園祭を復興するのか、祭りにかける町衆の決意の強さと意欲の描き方が甘く、盛り上がりに欠けてしまった。また、この世の災厄や病苦を振り払うという祇園祭の意義と象徴性も浮き彫りにしてほしかったと思う。

 「仏造って魂入れず」という言葉があるが、『祇園祭』という映画は、「映画作って魂入れず」みたいな中途半端な作品に終わってしまった。ストーリーだけが枠組みのように残っているだけで、個々のシーンも登場人物たちも有機的なつながりを欠いていた。要するに、映画特有の躍動感を感じなかった。登場人物たちはセリフは話すものの、作中でほとんど生きていない印象すら受けた。豪華俳優陣もそれぞれ与えられた役柄をどう演じていいか分からず、顔見世だけで終わってしまったのではあるまいか。また、登場人物たちが皆、標準語をつかっていることも気になった。なぜ京都弁を話さなかったのだろう。それが分からなかった。錦之助だけは少し京都アクセントをつかっていたが、他の俳優たちが話す現代的な標準語に私は非常な違和感を覚えた。
 クライマックスも物足りなかった。『祇園祭』は、市民運動のはしりのような話で、その高まりを謳い上げることが重大なテーマがなのだから、町衆による自治体制の象徴として祭りを取り上げ、祭りの復興を目指して団結した町衆のエネルギーが集結し、最後には爆発するくらいのクライマックスでなければならなかったと思う。聞きところによると、山鉾巡行のシーンだけで7千万円の製作費がかかったらしい。そんなに金をかけるくらいなら、壮大なスペクタクルに仕上げてほしかったものである。美空ひばりが見物人の間から手を振ったり、祭りを阻止しようとするエキストラみたいな侍たちが現れたり、また山鉾に乗った新吉が弓矢に射られ瀕死状態になる場面など、余計だったのではあるまいか。京の町並みと群集の中をただ山鉾が堂々と練りまわるシーンをじっくりと撮影すれば良かったように思う。

 『祇園祭』は、伊藤大輔監督がずっと暖めていた企画であった。が、もとはと言えば、京都の歴史学者林屋辰三郎が中心となり、戦後の市民運動の一つとして、史実にある京都町衆による祇園祭復興の話を紙芝居で演じていたのが原点だった。その頃から伊藤大輔は市民の自治を謳ったこの題材に興味を覚え、映画化を考えていたという。それは、西口克己が同じ題材をテーマにして小説『祇園祭』を発表する以前だった。伊藤大輔はまだ東映にいた錦之助の賛同を得て、二人揃って東映に企画を提出したが、製作費がかかり過ぎるという理由で拒否されたようだ。東映を辞めた後、錦之助は伊藤監督をかついで『祇園祭』の自主製作に乗り出す。その後、芸能ルポライターの竹中労が一役買って、革新府政で有名だった蜷川京都知事に話を持ちかける。蜷川知事の発案で、京都府政100年を記念するという製作目的が掲げられ、資金面では京都府のバックアップ(1億円)が約束され、ようやく映画製作に漕ぎつけたのである。
 しかし、製作途上で多くのトラブルがあったことも周知の事実だった。最近私はこの辺の事情を詳しく知ろうと思い、古い「キネマ旬報」を入手し、関連記事や関係者による投稿文を読んでみたが、複雑怪奇な裏事情を知るに至り、『祇園祭』が失敗作に終わったのも無理もないと納得した。たとえば、共産党議員であった原作者(西口克己)による強引な要請、八尋不二が書いた脚本第一稿の却下、新たに脚本を書いた鈴木尚之・清水邦夫両名と伊藤監督との行き違い、クランクイン時点における脚本の未完成、それによる伊藤監督の降板、山内鉄也への監督交替、プロデューサー久保(何某)の調整役としての不手際、独立プロ「日本映画復興協会」の有名無実化などである。
 錦之助が彼の自伝の中で、『祇園祭』のことを触れたがらず、沈黙を守っていたのも分からないではない。映画製作の舞台裏はどうであれ、映画は、作品自体の良し悪しがすべてである。『祇園祭』は、興行成績は上々だったとはいえ、はっきり言って、不完全な作品だった。今となってはもう二度とこの映画を作り直せないことを私は大変遺憾に思う。



『祇園祭』(その1)

2006-07-29 17:20:32 | 祇園祭

 『祇園祭』を観るのは今度が二度目であったが、初めて私が観たのは、もう今から38年前で、1968年11月末の封切りの時だった。今でもよく覚えているのは、洋画系のロードショー専門の映画館、渋谷東急でこの映画を観たことである。錦之助は東映を辞めてから長い間映画に出演していなかった。東映最後の作品は『丹下左膳・飛燕居合斬り』で、調べてみると1966年5月公開とのことだから、錦之助のスクリーン再登場までには約2年半のブランクがあったわけだ。
 『祇園祭』は、錦之助ファン待望の作品であり、独立プロによる自主的な映画作りを歓迎する気運も盛り上って、前評判が非常に高かった。三船敏郎が友情出演したことも注目を浴びた。錦之助と三船という当代二大時代劇スターの初共演だったからである。(その後二人は『風林火山』『新選組』『幕末』『待ち伏せ』と共演作を発表し続ける。)また、この頃演技派女優として進境著しかった岩下志麻の出演も話題を呼んだ。それはともかく、当時高校生で金がないため安い名画座ばかりを回っていた私がロードショー料金まで払って『祇園祭』を観に行ったのは、何よりも錦之助ファンだったからで、全精力を傾けこの映画を自主製作した錦之助に対し応援したい気持ちが湧いたからだったと思う。

 封切りで観た『祇園祭』の印象はさすがにもう薄れているが、ただ見終わって失望したことだけははっきり覚えている。錦之助が演じた主人公が従来の格好の良いイメージとは違い、冴えなかったからだ。派手な立ち回りがなかったことにも原因があるが、内容も暗く面白くなかった。今回38年ぶりに観て、やはりその失望感は変わらなかった。しかも悪いことに、先日京都文博で観たこの映画はカラーが変色し、セピア色になっていた。ただ、ラストの山鉾(やまぼこ)巡行のシーンだけは変色していなかったので、それがせめてもの救いだったが、初めて観た時の好印象、色彩の美しい映画だったという記憶は結局確かめられなかった。ニュー・プリントで上映してもらいたかった。
 しかし、カラーの美しさは映画の内容とはあまり関係ないと思う。それよりも残念だったのは、この映画を観ながら、私は何度もため息をつき、途中で時計すら見てしまったことだ。錦之助の映画を観ている時、めったに時間を気にすることなどないのだが、この映画は途中で退屈に感じた。上映が始まったのは1時半で、時計を見た時はすでに3時近かった。実を言うと、観ている最中、私は上映時間が2時間半だということを知らなかったのだが、だらだらと続いた映画の前半にはうんざりした。侍と町衆と百姓たちが殺し合う陰惨なシーンにいったい何の意味があるのだろうかと思った。

 スクリーンでは相変わらず錦之助が一所懸命に演じていた。染物職人の新吉という役である。時代は応仁の乱の後に続く混乱期、場所は度重なる戦乱で荒れ果てた京都の町。近隣の百姓たちは土一揆を起こし、都に入り、焼き討ちと略奪を重ねる。侍たちの統治力は弱体化し、一揆を鎮圧することができない。町役人たちの圧制と百姓一揆との間で京都の町衆は生活を脅かされ、塗炭の苦しみを味わう。その町衆の一人が主人公の新吉なのだが、映画の前半で新吉は目立った活躍をしない。何か気弱そうで頼りなく、苦しみ受け入れ耐えているだけの羊のような人間にすぎない。状況を変えようといった行動も起こさない。おろおろしながら惨状を見ているだけで、錦之助の魅力がまったく生かされていない、まるで木偶坊(でくのぼう)みたいな役柄なのだ。
 ある夜のこと、お堂の方から笛の音が聞こえ、岩下志麻が演じるあやめという美しいが怪しげな女が現れる。新吉はあやめに魅せられてしまう。よく分からないうちに、錦之助と岩下志麻の濃厚なキスシーン(ここも余計だ)があって、二人はお堂の中で関係を持つ。この辺も唐突でストーリーに不自然さを感じた。二人のロマンス(?)がいかにも取って付けたようで、全体の流れから浮いているとしか思えない。
 翌朝新吉が家に帰ると、母親(滝花久子)が死んでいる。町役人の侍に撲殺されたのだ。妹(佐藤オリエ)に事情を説明される新吉。ここで母親の撲殺シーンがリアルに映し出される。この場面なども不要で、首をかしげたくなってしまう。支配者階級の侍たちの残虐さを強調したかったのだろうが、この映画は侍の描き方が馬鹿馬鹿しいほど戯画的なのである。他にも惨殺シーンが多すぎて、この頃の時代劇の悪弊だけがやたら目に付く。
 新吉があやめの言葉によって現実に対し目を見開かされるという設定も気に入らなかった。新吉があやめに操られているようなのだ。あやめは気高いお姫様のようでもあり、また魔性の女みたいな存在なのだが、実は最下層民であるの頭領の娘である。町衆に不信感を持っていて、新吉に対しても批判的である。岩下志麻は、『五辨の椿』で演技開眼したとはいえ、時代劇ではまだ違和感があった。顔はきりりと締まってよいのだが、セリフが硬く、つっけんどんで冷たい印象を与えてしまう。錦之助とは合わないなと思った。妹役の佐藤オリエの方がずっと女らしくて良かった。
 侍たちは、京の町衆に対し、武器を取って土一揆鎮圧のため戦うことを命じる。止むに止まれず、馬借(ばしゃく=馬方衆)や百姓たちと殺し合いをする町衆。侍たちは窮地に追い込まれると、卑怯にも町衆を見捨て、逃げてしまう。
 
 映画の前半では、侍、町衆、馬借・百姓という三つの異なった階層に加え、公卿、までが登場し、それぞれの階層が入り乱れ、映画自体も収拾がつかなくなっている。登場人物の出入りばかりが激しく(有名俳優のちょい役が多すぎた!)ドラマなき描写とでも言おうか、茶番劇のような左翼的な階級闘争が延々1時間以上にわたって描かれるのだから、観ていて、うんざりするのも当然である。
 祇園祭復興というテーマはどこへ行ってしまったのか。前半のこの一時間近くは20分ぐらいに縮め、ダイジェスト版のようにして、ナレーションを加えながら、説明すれば済むのではないかと私は感じた。(つづく)



京都にて

2006-07-27 06:26:10 | 錦之助ファン、雑記
 今月16日の日曜、京都で映画『祇園祭』を観て来た。毎年祇園祭の季節になると、京都文化博物館の映像ホールで錦之助主演の『祇園祭』を上映していて、それがここ数年恒例になっているのだという。東京に住んでいる私が、なぜ京都まで遠征したのかというと、どうしても再びこの映画が観たかったからである。前に観たのは封切りの時だから、38年前、私が高校1年の頃である。その時以来私は錦之助の『祇園祭』を観ていない。この映画、ビデオになっていないし、私の知る限り東京の映画館で再上映したこともなかったと思う。
 それと、『祇園祭』を京都まで観に行った理由はもう一つある。実は、私が入っている錦友会(錦之助ファンのつどい)に大阪河内在住の錦尊さんとおっしゃる生き仏のような錦之助のおばあちゃまファンがいらして、名誉会長みたいな偉い方なのだが、この錦尊さんから『祇園祭』をやるから京都へ集まるように!と大号令がかかったからである。そこで、会の世話役みたいな私も名誉会長の命に従い京都へ赴いたのだった。今回は、映画『祇園祭』のことではなく、錦友会の皆さんとの随行記みたいなものを書いてみたい。

 前日の土曜の夜、私は単身新幹線で東京を発ち、大阪に着くとアメリカ村にある定宿(西鉄インというビジネスホテル)にチェックイン。昼過ぎにゆうゆうと京都へ乗り込もうという腹積もりである。さて、当日、上映開始が午後1時半ということで、その20分前に京都文化博物館にたどり着いた。京都文博(文化博物館を略してこう呼ぶらしい)を私が訪れるのは今度初めてだ。ここにはフィルム・ライブラリーがあって、昔の日本映画のフィルムを数多く所蔵し、定期的に上映会を催しているそうだ。今回は先だって亡くなった田村高廣を偲ぶという企画でもあり、『祇園祭』のほかに彼の出演した映画を何本かまとめて上映している。映像ホールは定員100名で、段差がないためスクリーンは見づらい。
 ホールに入ると、すでに錦友会の顔見知りの面々が10名ほど集まっていた。なんとド真ん中の座席を占領しているではないか!このブログにもコメントを下さるどうしんさんもいらして、私のために席を取っていてくれた。1時に開場したので、皆さん早目に来たとのこと。どうしんさんは大阪堺在住であるが、ほかの会員の方々は、埼玉、千葉、神奈川、長野、静岡から遠路はるばる錦之助の『祇園祭』を観に来たのだから、並々ならぬ情熱である。新幹線の料金だけでも往復で2万7千円(東京・京都間)はかかるのだから、映画1本観るのにこの出費!たいしたもんだ。集まった会員が12名、皆さん上映中はきっと目を細め、錦之助扮する主人公新吉をうっとりと眺めていたのだろう。『祇園祭』は2時間半に及ぶ長い映画で、前半は退屈、後半から徐々に盛り上がりを見せたものの、残念ながら錦之助の映画にしては不出来な作品だった。

 映画を観終わった後、錦尊さんが予約してくれた某料亭で宴会を催す。そして、錦之助談義に大いに花を咲かせ、時を忘れるほどの楽しい時間を過ごした。宴会出席者は、私以外はみな女性で、うらやましい限りと思われるかもしれないが、平均年齢はゆうに65歳に達するのではなかろうか。お一人だけ30歳半ばの女性(可愛いコテコテの大阪女性)が出席していたが、彼女がピチピチギャルに見えるほどで、あとはみな私より10歳以上は年上の老婦人ばかり。名誉会長錦尊さんは古稀である。私は彼女たちをわがバー(婆)ルフレンドと呼んでいるが、まあ言ってみればシワクチャギャルたちである。老いたりといえども、錦之助を愛する気持ちは初恋中の少女のようで純情そのもの、そこら辺にいるスレたヨン様ファンとは雲泥の差で比べものにならない。皆さん、錦之助を語りだしたら止まらない。
 夕方7時前に宴会終了。ほぼ全員が大阪へ民族移動。そのうち6名は(私もその1名)淀屋橋の喫茶店で夜11時近くまで喋りまくった。2時間の宴会では話し足りなかったのだろう。翌日は、また京都へ引き返し、太秦の東映映画村を見学するという予定。誘われて、私もお付き合いすることになった。その夜、皆さんは淀屋橋の東横インに宿泊。私は難を逃れアメリカ村のビジネスホテルに戻って連泊した。

 翌朝7時過ぎ、バールフレンドの一人ポテトさんからモーニングコールあり。最近はホテルのモーニングコールも電話の音だけのことが多いので、愛情あふれるナマの女性の声で起こされるのは大変嬉しい。ただ、母親に起こされたような感じもしないではなかった。飛び起きて、身支度を済ませ、皆さんが泊まっている東横インへ急行する。午前8時、一階のロビーに7名が集合。全員そろって京都へと出発進行。淀屋橋から京阪電車、地下鉄、バスと乗り継ぎ、弥勒菩薩像で名高い広隆寺前でバスを降り、映画村までとぼとぼと歩く。
 あいにくの雨だった。オープンセットは、傘をさしての見学になってしまった。場内で殺陣ショーを観覧。写真館みたいな所があったので、興が湧き、私は股旅もののやくざ姿に扮装し記念写真を撮影してもらった。衣装係が三人付き、着物を着せ、カツラをかぶせてくれる。脇差をさし、合羽を肩にかけ三度笠を手にして、はいポーズ!私は錦之助の沓掛時次郎になったつもりだった。が、出来上がった写真を見ると、くたびれた「あんかけの時次郎」ではないか。
 映画村は見るべきものがあまりなかった。壁に錦之助の写真が飾ってあると、皆さん、大喜びでキャッキャと叫ぶ。それにしても、東映にあれほど偉大な功績を残した錦之助のモニュメントが一つもないというのはどうしたことか。忘恩にもほどがある。銅像くらい立てろ!いや、錦之助の記念館を作れ!ということで全員の意見が一致。みんながっかりするやら腹を立てるやら…、錦之助の偉業をなんとしてでも後世に伝えようという決意を固め(私だけかもしれない)、映画村をあとに別れたのだった。



『江戸っ子奉行 天下を斬る男』

2006-07-08 22:16:47 | 江戸っ子奉行 天下を斬る男


 錦之助が町奉行の与力役を演じるのがまず見どころといえば言えようか。大岡忠相(ただすけ)、つまり若き日の大岡越前守の役で、もちろん、錦之助にとって初役である。ただし、お白洲で大岡裁きが出てくるわけではない。この大岡忠相、まだ駆け出しの与力にすぎない。だが、謎の殺人事件を糾明し、政治権力の内幕を暴いていく。錦之助の与力姿がサマになっていて、新鮮である。

 大岡越前守といえば八代将軍吉宗の時代の名奉行だが、ここでは五代将軍綱吉の時代に設定していた。生類憐れみの令が発せられた頃とあって、チンケな犬をお篭に乗せて行列が通る場面が二度出てくる。私は、大岡と綱吉がどうも結びつかず、時代が重なるのかと思って、映画を観た後調べてみると、大岡忠相は1677年~1751年、綱吉は将軍在位が1680年~1709年で、大岡の青年時代は綱吉全盛の頃だったと分かって納得。こんなことは、映画とはあまり関係がないが、気にかかったので調べてしまった。ちなみに吉宗の将軍在位は1716年~1745年で、六代家宣(いえのぶ)・七代家継の間が7年しかない。

 映画の話に戻ろう。初め、錦之助は長屋に住む市井の遊び人として登場する。このやくざっぽいアンちゃん役は錦之助としてはやり慣れた役どころでお手のもの。忠さんという通称で、隣に住むおぼこ娘の丘さとみとアツアツ。惚れ合っている。錦之助と丘さとみの相思相愛カップルの映画は見ていて楽しい。

 丘さとみはお栄という名前で、博打ばかりやっている遊び人のダメ兄貴(田中春男)と二人暮らし。お針子のバイトなんかをやっている。長屋の壁の破れ目から錦之助が覗いて丘チンに話しかけ、お祭りのデートに誘う場面などなかなか良く、目を細めて見とれてしまう。この映画は昭和36年の製作だが、丘さとみ嬢がちょっと太り気味で、あんぱんみたいな顔が肉まんみたいになっている。私は彼女のキャラクターが可愛くて子供の頃からずっと好きだった。あんぱん美人が肉まん美人になろうと構わず、好きな気持ちは変わらない。
 この映画、前半は二人のシーンが多くて、楽しい。土手の木のところで待ち合わせをして、丘チンが奇麗なおべべを着ていそいそとやって来るシーンとか、祭りで錦之助がかんざしを買って、髪に差してやるところなど、別にどうでもよいシーンかもしれないが、この二人が好きな私は見ていて嬉しくなる。「忠さんがいなくなったら、あたしも生きていないから」なんて、丘チンが愛の告白をする。照れるが、悪い気はしない錦之助。

 相変わらず田中春男はダメな男の役だ。博打で大負けし、悪親分の山形勲に可愛い妹の丘チンを奪い取られてしまう。錦之助はそれを知ってすぐに助けに行くのだが、山形から十両返せと言われて、その金をどうにか算段をしようとする。ここから話が急に展開し始める。
 錦之助はとある武家屋敷を訪れる。庭から障子の向こうに声を掛けると美しい武家娘が出てくる。これが大川恵子で、錦之助の妹役だった。ここで初めて観客は、錦之助が奉行所の与力を勤める厳格な父親(東野英治郎)と喧嘩して、勘当されたことが分かる。大川恵子も品があって奇麗だ。ここら辺もなかなか良い。十両なんて大金はないから、妹の恵子ちゃん、大切にしまっておいた宝箱(何だか分からない)を風呂敷に包んで、兄に手渡す。これを質にして金にかえてくださいという意味。錦之助が去ってすぐ、父親の東野が庭に人の気配を感じて出てくる。お兄様が可哀想だから、許してあげてと恵子ちゃんが懇願する。東野が苦虫を噛みつぶしたような顔をして、親の心子知らずみたいなセリフを言うと、めまいがして、柱に倒れ掛かる。
 錦之助が十両を持って、丘チンを引き取りに行くと、悪親分の山形は利子をつけろと無理難題。そこから、インチキ博打を暴いて、乱闘が始まる。面白いのは、怒った錦之助が山形を風呂場まで追い詰めて、首根っこをつかまえ、湯につける場面。「もう手出しをするんじゃないぞ、オレが出て行くまで湯につかって待ってろ!」と錦之助に脅され、山形が着物のまま湯にドブンと飛び込むシーンには笑える。

 その後、父親が危篤になって、恵子ちゃんが錦之助を長屋へ迎いに来る。それで、錦之助がお侍だったことが丘チンにバレてしまう。結局死に目に会えず、錦之助は父親の遺書を読んで、改心。長屋を引き払い、ついに奉行所の与力になる。武家の嫁にはなれないと丘チンは諦め、錦之助に愛想尽かしをする。ここまでが映画の前半。ここから、謎の殺人事件が勃発し、与力の錦之助が大活躍。映画は後半から、捕物帖と旗本退屈男を足して二で割ったような展開になっていく。絶望した丘チンが、下手人の兄貴の身代わりとして自首して、牢屋に入れられる。なんと丘チンが竹刀で叩かれる拷問シーンがあったりして…、あとは映画をご覧あれ。

 監督は佐々木康、脚本は鈴木尚之と平田肇(内田吐夢の長男で後に映画監督になった内田一作のペンネーム)の共作。まあ、作品的にはお定まりの娯楽時代劇だが、ところどころに見せ場もあり、楽しめる映画である。共演者は他に、月形龍之介が南町奉行の長官、岡田英次の同僚与力、進藤英太郎の悪い豪商。(2019年2月6日改稿)



錦之助の江戸っ子ぶり

2006-07-08 00:21:05 | 錦之助ファン、雑記
 江戸っ子らしい性格とはどんなものなのだろう、と時々考えることがある。もちろん、江戸っ子なんて今の世に生き残っていないから、まったく現実離れした話なのだが、東京人の端くれである私みたいな者は、そんなことを考えてみたくなるのだろう。実は内心、江戸っ子の典型に少しでも近づきたいと願っているところもあって、大袈裟だが、私の価値観、人生観にもつながる問題のような気もする。
 私は何よりも「江戸っ子的なもの」が好きだ。それを好む傾向を自分でも積極的に肯定している。たとえば私は古典落語が大好きなのだが、今は亡き江戸っ子の名人しか認めない片寄りぶりである。これまで、志ん生、文楽、三木助、円生の録音カセットばかり聴いてきた。たまに寄席にも行くが、志ん朝が死んだ今となっては、小三治を聴きに行く程度である。落語には、八ッつぁん、熊さんはじめ、職人気質のいろいろな江戸っ子が登場し、また落語の主人公はちょっと誇張して面白おかしな性格で描かれているわけだが、江戸っ子らしい性格とはざっと挙げると次のようなものだろう。
 そそっかしい、気が短い、元気がいい、強がり、無鉄砲、喧嘩っ早い、人情が厚い、世話好き、自慢屋、見栄っぱり、口が悪い、ウソがつけない、お世辞下手……、ほかに、意気地がない、涙もろい、権威に弱い、威張りたがり屋、なんていうのもあるかもしれない。
 これは錦之助の自叙伝で読んだ話だが、父親の中村時蔵は落語ファンだったらしく、志ん生を家に招いて落語をやってもらっていた時期もあったらしい。戦後しばらく経ち志ん生が中国から帰還して売れ始めた頃だろうから、錦之助がハイティーン時代で、錦之助をふくめ播磨屋一門が間近でナマの落語を聴いていたとのことだ。これは興味深い話である。私は歌舞伎に関してはあまり詳しくないのだが、落語にはいわゆる芝居噺というのがあって、歌舞伎十八番や江戸時代の名優の話を落語にしたものがたくさんある。「淀五郎」とか「中村仲蔵」とかは『忠臣蔵』の四段目と五段目をテーマにした有名な噺だ。歌舞伎と落語は関係が深いのだ。播磨屋一門がどんな噺を聴いていたかは分からないが、錦之助が若い頃から歌舞伎だけでなく江戸の大衆文化、とりわけ江戸の庶民性に通じていたことは確かである。
 錦之助を観察していると、江戸っ子を自負しているプライドのようなものを言動のふしぶしに感じる。そして、私が錦之助の大ファンである最大の理由の一つも、錦之助が江戸っ子っぽいからなのである。錦之助はある意味で京都を本拠とする東映時代劇の異端児だった。旧態然とした京都時代劇に東京の新風を吹き込んだ革命児だったとも言えよう。戦前の時代劇スターと言えば地方出身の役者や関西系の不遇な歌舞伎俳優が多かったのではあるまいか。主だったスターの出身地を調べてみると、阪妻だけが東京で、大河内伝次郎は福岡、片岡千恵蔵は群馬、市川右太衛門と嵐寛寿郎は大阪、月形龍之介は宮城、長谷川一夫は京都、大友柳太朗は愛媛である。
 戦前は知らないが、戦後の男優で時代劇の江戸っ子を演じさせたら、錦之助の右に出る役者はいなかったし、今でもいないと私は思っている。東千代之介は東京出身だが、江戸っ子らしい役に恵まれなかった。大川橋蔵も東京出身だが、品の良い美しさが特長でべらんめえ言葉が板についていなかった。市川雷蔵は京都出身でニヒルな暗さが魅力。勝新太郎は東京出身だったが、泥臭い演技が売りで、私の好きな「悪名」の主人公にしても粋な江戸っ子とは程遠かった。三船敏郎は田舎くさい侍が適役だった。
 錦之助だけが粋で気風のいい江戸っ子を演じることができたと思う。映画で言うと、『一心太助』シリーズ全五作のほかに、『蜘蛛の巣屋敷』『江戸っ子繁昌記』『江戸っ子奉行・天下を斬る男』『ちいさこべ』、そして『冷飯とおさんとちゃん』の『ちゃん』などがある。主人公の性格描写の違いこそあれ、どれも錦之助の江戸っ子ぶりが見られる作品である。『若き日の次郎長』シリーズの錦之助は、清水の次郎長ではなくむしろ江戸の次郎長だし、オールスター映画の『水戸黄門』で演じた火消し役は威勢のいい江戸っ子だった。『任侠清水港』『遠州森の石松』『森の石松鬼より恐い』で演じた錦之助の石松も、従来の石松のイメージを打破し、ドモらず口のよく回る江戸っ子的な石松だった。
 錦之助の良いところは、何より江戸っ子らしい明るさである。しかもエロキューションが大変よく、歯切れのいい東京弁が特長である。それにあの甘いマスクで、気風がいい、と来たもんだから、昔も今も錦之助を憧れる人が跡を絶たないのは当然だと言えよう。ましてや自称東京人の多くの人々が(私もその一人だ)錦之助に江戸っ子の典型を見て、彼にぞっこん惚れ込むのもまったくアタボーな話なのだ。