後半、ようやくドラマが展開し始める。町衆たちは一揆鎮圧のため馬借や百姓たちと無益な戦いをしたことを反省し、侍たちに対する信頼も揺らいで、自らの生活を守るため団結に向かう。ここで、やっと新吉がリーダーシップを取り、行動を起こす。町役人の侍に対し税金不払い運動を行い、新吉がその先頭に立つのだ。役人たちはその対抗処置として、関税を設け、京の町への食糧供給の道を遮断してしまう。新吉は町衆の重役を説得し、これまで敵対していた馬借のもとへ米を運んでくれるように頼みに行く。あやめが自ら人質を申し出て新吉に協力するところはどうも理解できないが、町衆が馬借を通じ百姓たちと手を結ぶ結果となって、町衆による自治体制の基盤が築かれることになる。この馬借の頭、熊左という荒くれ者を演じたのが三船敏郎で、三船が登場してから話が急に面白くなり、私は身を乗り出してこの映画を観るようになった。熊左は三船にぴったりの役柄で、オイシイところを三船がさらってしまった感すらあった。
町衆の集会で、新吉は祇園祭の復興を提案する。ただし、映画的構成から言えば、時すでに遅しといった感で、あとは急ぎ足で、祇園祭の準備があり、クライマックスの山鉾巡行にたどり着く。が、残念ながら、なぜ町衆が立ち上がって祇園祭を復興するのか、祭りにかける町衆の決意の強さと意欲の描き方が甘く、盛り上がりに欠けてしまった。また、この世の災厄や病苦を振り払うという祇園祭の意義と象徴性も浮き彫りにしてほしかったと思う。
「仏造って魂入れず」という言葉があるが、『祇園祭』という映画は、「映画作って魂入れず」みたいな中途半端な作品に終わってしまった。ストーリーだけが枠組みのように残っているだけで、個々のシーンも登場人物たちも有機的なつながりを欠いていた。要するに、映画特有の躍動感を感じなかった。登場人物たちはセリフは話すものの、作中でほとんど生きていない印象すら受けた。豪華俳優陣もそれぞれ与えられた役柄をどう演じていいか分からず、顔見世だけで終わってしまったのではあるまいか。また、登場人物たちが皆、標準語をつかっていることも気になった。なぜ京都弁を話さなかったのだろう。それが分からなかった。錦之助だけは少し京都アクセントをつかっていたが、他の俳優たちが話す現代的な標準語に私は非常な違和感を覚えた。
クライマックスも物足りなかった。『祇園祭』は、市民運動のはしりのような話で、その高まりを謳い上げることが重大なテーマがなのだから、町衆による自治体制の象徴として祭りを取り上げ、祭りの復興を目指して団結した町衆のエネルギーが集結し、最後には爆発するくらいのクライマックスでなければならなかったと思う。聞きところによると、山鉾巡行のシーンだけで7千万円の製作費がかかったらしい。そんなに金をかけるくらいなら、壮大なスペクタクルに仕上げてほしかったものである。美空ひばりが見物人の間から手を振ったり、祭りを阻止しようとするエキストラみたいな侍たちが現れたり、また山鉾に乗った新吉が弓矢に射られ瀕死状態になる場面など、余計だったのではあるまいか。京の町並みと群集の中をただ山鉾が堂々と練りまわるシーンをじっくりと撮影すれば良かったように思う。
『祇園祭』は、伊藤大輔監督がずっと暖めていた企画であった。が、もとはと言えば、京都の歴史学者林屋辰三郎が中心となり、戦後の市民運動の一つとして、史実にある京都町衆による祇園祭復興の話を紙芝居で演じていたのが原点だった。その頃から伊藤大輔は市民の自治を謳ったこの題材に興味を覚え、映画化を考えていたという。それは、西口克己が同じ題材をテーマにして小説『祇園祭』を発表する以前だった。伊藤大輔はまだ東映にいた錦之助の賛同を得て、二人揃って東映に企画を提出したが、製作費がかかり過ぎるという理由で拒否されたようだ。東映を辞めた後、錦之助は伊藤監督をかついで『祇園祭』の自主製作に乗り出す。その後、芸能ルポライターの竹中労が一役買って、革新府政で有名だった蜷川京都知事に話を持ちかける。蜷川知事の発案で、京都府政100年を記念するという製作目的が掲げられ、資金面では京都府のバックアップ(1億円)が約束され、ようやく映画製作に漕ぎつけたのである。
しかし、製作途上で多くのトラブルがあったことも周知の事実だった。最近私はこの辺の事情を詳しく知ろうと思い、古い「キネマ旬報」を入手し、関連記事や関係者による投稿文を読んでみたが、複雑怪奇な裏事情を知るに至り、『祇園祭』が失敗作に終わったのも無理もないと納得した。たとえば、共産党議員であった原作者(西口克己)による強引な要請、八尋不二が書いた脚本第一稿の却下、新たに脚本を書いた鈴木尚之・清水邦夫両名と伊藤監督との行き違い、クランクイン時点における脚本の未完成、それによる伊藤監督の降板、山内鉄也への監督交替、プロデューサー久保(何某)の調整役としての不手際、独立プロ「日本映画復興協会」の有名無実化などである。
錦之助が彼の自伝の中で、『祇園祭』のことを触れたがらず、沈黙を守っていたのも分からないではない。映画製作の舞台裏はどうであれ、映画は、作品自体の良し悪しがすべてである。『祇園祭』は、興行成績は上々だったとはいえ、はっきり言って、不完全な作品だった。今となってはもう二度とこの映画を作り直せないことを私は大変遺憾に思う。
町衆の集会で、新吉は祇園祭の復興を提案する。ただし、映画的構成から言えば、時すでに遅しといった感で、あとは急ぎ足で、祇園祭の準備があり、クライマックスの山鉾巡行にたどり着く。が、残念ながら、なぜ町衆が立ち上がって祇園祭を復興するのか、祭りにかける町衆の決意の強さと意欲の描き方が甘く、盛り上がりに欠けてしまった。また、この世の災厄や病苦を振り払うという祇園祭の意義と象徴性も浮き彫りにしてほしかったと思う。
「仏造って魂入れず」という言葉があるが、『祇園祭』という映画は、「映画作って魂入れず」みたいな中途半端な作品に終わってしまった。ストーリーだけが枠組みのように残っているだけで、個々のシーンも登場人物たちも有機的なつながりを欠いていた。要するに、映画特有の躍動感を感じなかった。登場人物たちはセリフは話すものの、作中でほとんど生きていない印象すら受けた。豪華俳優陣もそれぞれ与えられた役柄をどう演じていいか分からず、顔見世だけで終わってしまったのではあるまいか。また、登場人物たちが皆、標準語をつかっていることも気になった。なぜ京都弁を話さなかったのだろう。それが分からなかった。錦之助だけは少し京都アクセントをつかっていたが、他の俳優たちが話す現代的な標準語に私は非常な違和感を覚えた。
クライマックスも物足りなかった。『祇園祭』は、市民運動のはしりのような話で、その高まりを謳い上げることが重大なテーマがなのだから、町衆による自治体制の象徴として祭りを取り上げ、祭りの復興を目指して団結した町衆のエネルギーが集結し、最後には爆発するくらいのクライマックスでなければならなかったと思う。聞きところによると、山鉾巡行のシーンだけで7千万円の製作費がかかったらしい。そんなに金をかけるくらいなら、壮大なスペクタクルに仕上げてほしかったものである。美空ひばりが見物人の間から手を振ったり、祭りを阻止しようとするエキストラみたいな侍たちが現れたり、また山鉾に乗った新吉が弓矢に射られ瀕死状態になる場面など、余計だったのではあるまいか。京の町並みと群集の中をただ山鉾が堂々と練りまわるシーンをじっくりと撮影すれば良かったように思う。
『祇園祭』は、伊藤大輔監督がずっと暖めていた企画であった。が、もとはと言えば、京都の歴史学者林屋辰三郎が中心となり、戦後の市民運動の一つとして、史実にある京都町衆による祇園祭復興の話を紙芝居で演じていたのが原点だった。その頃から伊藤大輔は市民の自治を謳ったこの題材に興味を覚え、映画化を考えていたという。それは、西口克己が同じ題材をテーマにして小説『祇園祭』を発表する以前だった。伊藤大輔はまだ東映にいた錦之助の賛同を得て、二人揃って東映に企画を提出したが、製作費がかかり過ぎるという理由で拒否されたようだ。東映を辞めた後、錦之助は伊藤監督をかついで『祇園祭』の自主製作に乗り出す。その後、芸能ルポライターの竹中労が一役買って、革新府政で有名だった蜷川京都知事に話を持ちかける。蜷川知事の発案で、京都府政100年を記念するという製作目的が掲げられ、資金面では京都府のバックアップ(1億円)が約束され、ようやく映画製作に漕ぎつけたのである。
しかし、製作途上で多くのトラブルがあったことも周知の事実だった。最近私はこの辺の事情を詳しく知ろうと思い、古い「キネマ旬報」を入手し、関連記事や関係者による投稿文を読んでみたが、複雑怪奇な裏事情を知るに至り、『祇園祭』が失敗作に終わったのも無理もないと納得した。たとえば、共産党議員であった原作者(西口克己)による強引な要請、八尋不二が書いた脚本第一稿の却下、新たに脚本を書いた鈴木尚之・清水邦夫両名と伊藤監督との行き違い、クランクイン時点における脚本の未完成、それによる伊藤監督の降板、山内鉄也への監督交替、プロデューサー久保(何某)の調整役としての不手際、独立プロ「日本映画復興協会」の有名無実化などである。
錦之助が彼の自伝の中で、『祇園祭』のことを触れたがらず、沈黙を守っていたのも分からないではない。映画製作の舞台裏はどうであれ、映画は、作品自体の良し悪しがすべてである。『祇園祭』は、興行成績は上々だったとはいえ、はっきり言って、不完全な作品だった。今となってはもう二度とこの映画を作り直せないことを私は大変遺憾に思う。