錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『任俠清水港』(その9)

2016-05-27 13:40:44 | 森の石松・若き日の次郎長
 11月半ば、『任侠清水港』のクランクも佳境に入り、いよいよ森の石松が金毘羅代参の帰り道、都鳥兄弟らのだまし討ちに遭って、壮絶な最期を遂げる場面を撮ることになった。
 映画で錦之助が敵役に斬られるのも初めてなら、立ち回りで東映剣会(つるぎかい)の斬られ役の面々に錦之助が斬られて殺されるのも、もちろん初めてだった。
 石松が都鳥兄弟らと斬り合いをやる場面は二度ある。
 まず、賭場へ向かう夜道、酔っ払った石松が都鳥の吉兵衛(山形勲)に後ろから出しぬけに斬られ、待ち伏せしていた数人のやくざ(保下田の久六の子分ら)も都鳥に加勢して、斬り合う場面である。ここでは石松は背中を斬られたうえに足も斬られるが、危ういところで竹藪に逃れて窮地を脱する。
 そのあと、石松は小松村の七五郎夫婦(東千代之介と千原しのぶ)の家へ行き、かくまわれて傷の手当てを受ける。しかし、親友夫婦に迷惑がかかるのを気遣い、七五郎が引き留めるのも断って、石松は杖をつき足を引きずりながら去っていく。
 そして、深夜の閻魔堂の前。閻魔堂の中に石松は隠れているが、保下田の久六の子分らが石松を捜しながら、大声で次郎長と自分の悪口を言っているのを聞いて、我慢できずに飛び出して、斬り合いが始まる。すぐに都鳥兄弟らも駆けつけ、やくざ約十人を相手に、負傷した石松一人が死闘を繰り広げる。
 石松のこの最期の場面をどのように撮影するか、これが一番の問題であった。
 比佐芳武が書いた脚本では、この場面はこうなっていった。

吉兵衛「野郎、こんどこそは逃さねえぞ」
石松「なにをぬかしやがる。そいつァこっちのセリフでえ!」
 凄烈な乱斗になったが、石松はついにズタズタに斬られ、がっくりと倒れ伏して、
石松「お、親分!」

 監督の松田定次は、脚本に書かれてある「凄烈な乱斗」と「ズタズタに斬られ」という部分を実際どのように撮影するかについて頭を悩ませていた。
 錦之助は今や東映の宝とも言うべき看板スターであり、とくに子供や若い女性たちから圧倒的な人気を得ているアイドル的存在である。その錦之助を立ち回りで無残に斬り殺させたとしたら、きっと多くのファンから反感を買うにちがいない。しかも、正月に全国の映画館で封切られる総天然色のオールスター映画で、錦之助が殺される場面を上映することはどうなのだろう。縁起が悪いだけではすむまい。監督の自分だけでなく東映本社がごうごうたる非難を浴びるのは目に見えているのではなかろうか。
 松田は二度目の立ち回りは簡単に済ませ、斬られるところも省いて、石松が死ぬことの生々しさはできる限り避けようと考えた。
 しかし、錦之助本人はどう考えているのだろうか。石松を演じることにものすごい意欲を向けている錦之助なのだ。撮影前に一応錦之助の意見をきいてみないわけにもいくまい、と松田は思った。


『任侠清水港』(その8)

2016-05-06 14:33:28 | 森の石松・若き日の次郎長

 自転車で撮影所を移動する錦之助の石松

 錦之助は間もなく24歳を迎えようとしていた。
 映画で森の石松に扮した役者はこれまで数え切れないほどいたが、おそらく錦之助が最年少であった。錦之助の石松は、映画に初めて登場した若くてイキのいい石松だった。
 それだけではない。人気絶頂の若手の二枚目スターが森の石松をやるのも、久しくないことであった。さらに言えば、東京生まれ東京育ちの、いわば江戸ッ子役者が演じた石松も稀であった。
 
 調べてみると、無声映画時代は時代劇の大スター阪東妻三郎の森の石松が極め付きだったという。阪妻は昭和5年の正月映画『清水次郎長伝』とその続篇『石松の最期』(阪妻プロ製作、松竹キネマ配給)で石松を演じている。講談ネタの次郎長物の活動写真であるが、この石松、片目ではなく、右眉の上に刀傷はあるものの、両目であった。
 阪妻はすでに次郎長をやっていたが不評だったらしく、あえて挑んだ勇猛な石松役で観客を魅了した。「写真阪妻映画」の編著者御園京平は、「妻三郎の浪人の殺陣も素晴らしいが、このやくざ剣法、剣術を知らない男がめくら滅法にやる殺陣も実に見事である。(中略)身に負う傷を堪えて、立ちては転び、転んでは立ち上り、歯ぎしりして惨殺される石松の最期、後年羅門光三郎が石松役者と評されたが、阪妻の前には遠く及ばぬ石松であった」と書いている。
 阪妻は、神田生まれの江戸っ子役者で、当時28歳であった。ただし、無声映画では江戸ッ子らしさを発揮するにも限界があったであろう。


阪妻の石松
 
 戦前は、阪妻のほかに、小林重四郎、黒川弥太郎、羅門光三郎、エノケン、千恵蔵などが石松をやった代表的な役者である。とりわけ剣戟スターだった羅門が『金毘羅代参 森の石松』(昭和13年、新興キネマ)で演じた石松が人気を博したという。千恵蔵が『続清水港』(昭和15年、日活京都、マキノ雅弘監督)で石松を演じたのは36歳の時である。そして終戦間近い昭和20年7月公開の『東海水滸伝』(大映、監督は伊藤大輔と稲垣浩)で千恵蔵は40歳を過ぎて再度石松をやるが、次郎長が阪妻(二度目)、小松村の七五郎が右太衛門という配役であり、この映画は大ヒットした。ちなみに、石松の恋人役は花柳小菊だった。『任侠清水港』では次郎長の女房お蝶の役である。


『東海水滸伝』千恵蔵の石松、右太衛門の七五郎、市川春代の女房

 戦後は藤田進(当時37歳)に始まって、田崎潤、大木実、森繁久弥、原健策、堺駿二が石松をやっている。一番若い大木実が29歳、一番年上の原健策は47歳で、ほかの俳優はみな40歳近くであった。
 なかでもマキノ雅弘監督の東宝作品『次郎長三国志』九部作の第二部(昭和28年1月公開)から第八部(昭和29年6月公開)まで登場する森繁の石松が好評だったが、この石松はモサッとした中年のオッサンと言った感じで、従来の元気で気風の良い石松のイメージとは違い、両目で、しかもドモリ(第五部まで)である。だいたい村上元三の原作「次郎長三国志」が講談や浪曲から離れた新趣向の次郎長物で、次郎長の子分たちの群像ドラマに仕立てたため、石松の魅力を半減させてしまった。次郎長や鬼吉にお国言葉を話させるのはまだしも、石松をドモリにしたのは村上元三の行き過ぎた改ざんである。そのうえ映画ではマキノ雅弘がさらに潤色を加え、途中から石松を片目にしてドモリを直したり、金毘羅代参のあと、遊女夕顔との話をオリジナルで創ったりしたものだから、従来親しまれてきた石松像がすっかり変わってしまった。また、石松役の森繁は、次郎長をやった小堀明男(当時32歳)より年上で、まだ映画俳優として売れていなかった。だからでもあろう、演技過剰で、いかにもあざとい芝居をした。あの顔面神経痛のような顔つきと大げさな身振りは、好き嫌いの分かれるところであろうが、私自身は嫌いである。


森繁の石松、小堀の次郎長

 話を錦之助の石松に戻そう。錦之助は、千恵蔵から阪妻の石松のことも聞いたであろうし、千恵蔵自身の経験談も聞かされたにちがいない。千恵蔵が錦之助を石松役に推薦した時、石松は二枚目の人気スターがやるべきものだという考えが念頭にあったようだが、千恵蔵は自分のことではなく、阪妻の石松を思い浮かべていたのかもしれない。
 千恵蔵は『任侠清水港』で初めて次郎長を演じることになるのだが、53歳であった。錦之助とは親子ほど違う30歳近い年の差があった。錦之助の石松が最年少なら、千恵蔵の次郎長は最高齢だったと言えよう。(昭和28年の東映の正月映画『喧嘩笠』で次郎長をやった大河内伝次郎は54歳だったが、この映画の次郎長は脇役で、千恵蔵の大前田栄次郎が主役だった。)