錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~転機(その6)

2012-11-14 13:50:20 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 九月、夏の暑さがまだ残る頃、歌舞伎座で訥升と源平の親子ダブル襲名の披露公演が行われた。澤村訥升が八代目澤村宗十郎を、長男の澤村源平が五代目訥升を継ぐことになった。この年は襲名ラッシュだった。4月は錦之助の兄二人が歌昇と芝雀を襲名、6月は八代目市川中車と九代目市川八百蔵の襲名、そして九月がこの二人の襲名と続いた。歌昇と芝雀が名跡からいえば小さいが、歌昇はいずれ時蔵を、芝雀は雀右衛門を継ぐ前段階であった。思えば、錦之助の兄二人を含め子供の頃の仲間が、次々とそれなりの名前を襲名して新たなスタートを切っていた。橋蔵、松蔦、岩井半四郎、そして今度が自分より一つ年下の源平が訥升を継ぐ。関西では親友の雷蔵もそうだ。錦之助の新たなスタートはいつのことか。名前なんかどうでもいい、伯父の吉右衛門だって、一代で名を大きくしたではないか。自分も錦之助という名前を大切にしようと思った。
 九月の公演で錦之助は二役当てられた。吉右衛門の「幡随長兵衛」に出るのは久しぶりだった。長兵衛の子分である。勘三郎の「お祭り」では若衆の一人。この二役だけだが、そのほかに公演中の一日だけだが大役が回ってきた。子供かぶき教室で錦之助が主役になって踊るのだ。叔父の勘三郎が錦之助を推薦してくれ、本興行と同じ「お祭り」で鳶の頭を錦之助がやるのだった。本興行の「お祭り」には錦之助も出ていた。舞台で勘三郎の踊りの一挙手一投足を、目を皿のようにして見た。終ると、楽屋で勘三郎の踊りを反芻しながら一人で稽古した。
 子供かぶき教室は二十日の日曜の朝からだった。数日前に錦之助は勘三郎に見てもらおうと思って、夜遅く半蔵門にある彼の家を訪ねた。勘三郎にはそれまでも何度となく錦之助は教わりに彼の家を訪ねていた。勘三郎は「見てるから、わかってるだろう」と言うと、「それより飲もうよ」と錦之助に酒を勧めた。夜中までいろいろな話をした。そのまま帰れなくなり仕方なくその日は勘三郎の家に泊まった。翌朝錦之助は勘三郎の家から歌舞伎座へ向かった。子供かぶき教室の前の日に勘三郎が稽古場に錦之助の踊りの仕上げを見に来た。ギョロッとした目をむきだすようにして真剣に見てくれた。勘三郎はずっと黙って見つめていたが一言だけこう言った。「いいかい、こんな頭(カシラ)みたいな粋にする役は、キザに踊るんだよ
 当日、錦之助は夢中で踊った。伯父のあの一言が効いた。ちっとキザに踊ってみたら、案外うまく行った。好評だった。

 ちょうどその頃、街では「君の名は」の噂で持ちきりだった。NHKの人気ラジオドラマが今度映画化され、いよいよ公開されるというのだ。主演は佐田啓二、岸惠子。映画は九月十五日に公開されるや爆発的にヒットした。松竹大船作品「君の名は」は、この年の正月に公開された東映映画「ひめゆりの塔」を配給収入で抜いた。数寄屋橋にも見物客が大勢集っていた。
 あんなメロドラマのどこがいいのか。『哀愁』の真似ではないか。映画なんかに見向きもせず、自分は歌舞伎に精進しよう。そう錦之助は思った。そして、これからは女形ではなく立役でいきたいと錦之助は決心した。父時蔵にもそれは何度も言ってあったし、勘三郎も分かってくれ、自分のやった役をこれからやらせていくとまで言ってくれた。
 吉右衛門もそんな錦之助を察してか、錦之助に立役を多くして役をつけた。錦之助は十月、吉右衛門一座に入って名古屋の御園座へ行った。宗十郎と訥升の名古屋での襲名披露公演だった。吉右衛門も悪い身体をいたわりながら、加わった。錦之助は、四役プラスもう一役。四役は立役で、もう一役のほうだけ娘役だった。もう一役とは一演目で二役だったからだ。
浮舟」の右近という役と「高杯」の次郎冠者は良い役だった。とくに「高杯」は、勘三郎の太郎冠者、それに勘弥(高足売)と団之助(大名某)の三人の踊り手に錦之助が加わっての舞台だった。吉右衛門の「加賀鳶」では若衆と娘役の二役をやった。あとはもう一つは奴の役だった。

 十月二十六日に御園座公演を終えて帰京すると、十一月一日からまた歌舞伎座。芸術祭参加公演だった。歌舞伎座公演でも役がたくさんついた。五役である。名古屋から帰るとすぐ稽古に入った。役が多いので大変だった。昼の部「娘道成寺」の坊主はいつもの通り、吉右衛門の「盛綱陣屋」で四天王の一人。
 夜の部の新作「明治零年」の稽古が大変だった。「明治零年」は高橋丈雄という人が書いた芸術祭入選脚本で、三幕四場の幕末物の大作だった。久保田万太郎が演出した。ただ、ここでやる新撰組隊士の一人島田魁というのは良い役だった。ほかに「鬼一法眼三略巻」の「菊畑」の侍女と「ゆかりの紫頭巾」の新造は女形だった。が、この公演中の子供かぶき教室でも、勘三郎が「菊畑」で自分のやる虎蔵実は牛若丸という大役を錦之助にやらせてくれた。子供かぶき教室は中日十五日だった。錦之助は気が抜けなかった。
 
 歌舞伎座公演は一日に初日を迎えた。そのおよそ十日後のこと。錦之助のところに思いがけない話が持ち上がったのである。



中村錦之助伝~転機(その5)

2012-11-06 03:51:12 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 8月、錦之助は新橋演舞場での東京大阪合同歌舞伎に出演した。ここでまた錦之助は憤慨し、歌舞伎役者として大きな失望を感じる出来事が起る。
 夏は東京の歌舞伎興行は休むのが通例で、歌舞伎座はこの年の夏、場内改装のため休演にしていた。吉右衛門劇団は北海道巡業に出たが、錦之助はそれに加わらず、東京に残った。8月、新橋演舞場では東西若手歌舞伎を催す予定であったが、それが流れ、単に東西合同歌舞伎に変更されてしまった。まず、これが錦之助にとってケチの付き初めだった。結局、大阪から歌舞伎役者が大挙してやって来て、東京で上方歌舞伎を繰り広げることになったのだった。仁左衛門、鴈治郎、簑助、嵐吉三郎、嵐雛助、浅尾奥山、寿美蔵、若手では扇雀、雷蔵である。多勢の大阪方に対し、東京方は無勢だった。時蔵一座全員と各劇団の居残り組で、夏休みを返上して、歌舞伎に出ようという役者たちだけが加わった。時蔵、彦三郎、鯉三郎、高助、それに若手では、歌昇、松蔦、錦之助、賀津雄である。
 出し物は上方歌舞伎が主体であった。そして、良い役は大阪勢で固め、そこに時蔵が割って入るという形になった。
 中でも目下人気上昇中の扇雀に活躍の場が与えられた。公演は昼の部四演目、夜の部四演目だったが、そのうち扇雀は、昼の「宿無団七」で団七の女とみ、「玉藻前」で桂姫、「角兵衛と女太夫」の女太夫、夜は「五条坂の景清」で傾城阿古屋、そして目玉は、近松生誕三百年記念の出し物、宇野信夫の脚色によって二百数十年ぶりに歌舞伎に復活した「曽根崎心中」で、扇雀はお初を演じた。さらに大喜利の「面影近松祭」ではそのままお初の姿で踊るというおまけつき。つまり全八演目中五役に出演、それも女形の主役ばかりであった。扇雀のお初、父鴈治郎の徳兵衛で「曽根崎心中」が初演されたのは、同年(昭和28年)5月の明治座だった。その時も話題になったが、これが大評判を呼び、扇雀の人気が急上昇し、ブームを巻き起こすのはこの夏の公演によってである。以来、扇雀は鴈治郎、藤十郎になっても「曽根崎心中」のお初を当たり芸として続演し、上演数が優に千回を越えたことは周知の通りである。
 この公演では、関西のホープ雷蔵も優遇され、四役と「面影近松祭」に芸妓で出演した。
 では、錦之助はどうだったか。「玉藻前」の一役。扇雀の桂姫の妹で初花姫という大変良い役だったが、これだけである。あとは、フィナーレの「面影近松祭」で芸妓になって踊って終わり。東京の若手では、松蔦が三役と最後に芸妓。歌昇、賀津雄ともに一役で、「面影近松祭」では太鼓持になって踊るという有様。
 これでは、完全に東京の若手をなめた配役であった。錦之助はこの時のことを「あげ羽の蝶」でこう書いている。

 昭和二十八年夏の新橋演舞場では関西方の若手とまじって「面影近松祭」を踊りました。それが終ったあと、現松竹会長の大谷社長から、よくやった若手にホウビが出ることになり、僕も三等で置時計をもらいました。普通だったら喜べたことでしょう。しかしカブキそのものに対しても不満を持ち、関西とこちらの若手を並べたとき、いつも一段格が下げられて扱われる不公平さに腹が立っていたときで、家に帰るなり、僕はもらってきた置時計を部屋のすみにほうり出しました。
 
 前後の事情を伏せ、感情を押さえた文章になっている。が、最初私はこの部分を読んだ時、三等賞の褒美に大谷社長(当時)から置時計をもらって、それを家に帰るなり、なぜ部屋のすみにほうり投げたのか、分からなかった。ここには、この公演で特別扱いされた扇雀のことは一言も書いていない。扇雀は昭和6年生まれ、錦之助より一歳年長で、雷蔵と同じ年である。それが、大阪から新橋演舞場へ来て、良い役ばかりを五役もやることに錦之助は無性に腹が立った。別に扇雀が悪いのではない。松竹のやり方、東京の若手を見下すようなその差別に対して憤ったのだった。これも錦之助はまったく触れていないことなのだが、実はこの三等賞というのがひどいことだった。「松竹七十年史」にこんなことが出ている。

 この興行では、東西の若手の中から、松蔦、錦之助、雷蔵、扇雀の四人を選って、入場者の人気投票を募った。扇雀が76%という圧倒的人気。ついで、松蔦、錦之助、雷蔵の順であった。

 四人のうち三番で、三等賞だったのである。役の数と役の良し悪しに差別をつけた上、観客に人気投票をさせるという、どう考えてもあり得ない企画である。そこには松竹の主催者の役者に対する励ましではなく思いやりのなさが、露骨に表れていた。錦之助が大谷社長にもらった置時計をほうり投げたのも当然である。
 錦之助は、松竹演劇部の幹部たちに対し不信感を抱き、反抗的になった。こんなところで歌舞伎をやっていられるか、と思った。そして、歌舞伎界という、門閥と古いしきたりが支配し、しがない役者たちが組織や派閥や権力に隷属し、実力を発揮できないまま卑屈になっている世界に、ほとほと嫌気を感じた。錦之助は礼節を重んじ、年長者たちに対し敬意を払う若者であった。が、人にペコペコしたり、胡麻をすったりすることが大嫌いだった。人の悪口を言ったり、陰口を利くことも好まなかった。もっと自由で差別のない社会、自分の力を思う存分伸ばし発揮できるような世界に憧れた。四歳の時からこの17年間、一流の歌舞伎役者になろうと志し、修業してきたこの歌舞伎界が、急に魅力のない世界に見え始めた。



中村錦之助伝~転機(その4)

2012-11-06 01:44:06 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 錦之助は、大阪から帰ると、6月に歌舞伎座で八百蔵改め八代目市川中車、高麗五郎改め九代目市川八百蔵の襲名披露公演に出演した。「名月八幡祭」の芸者と「どんつく」の若旦那の役だった。
 そして7月、明治座に出演した。7月の明治座公演はなぜか錦之助本の巻末リストにはすっぽり抜けているが、データベースにも「演劇界」にも記載があるので出演したことは間違いない。以下、演目と錦之助の役名、主な配役を挙げておく。

 7月4日~28日 明治座 吉右衛門劇団
 相馬の金さん 岡本綺堂作 (官軍隊士
 幸四郎(相馬金次郎)、又五郎(弟半三郎)、勘三郎(石沢寅之助)、訥升(文字若)、団蔵(伊勢屋亭主)、吉之丞(番頭)、九蔵(おくま)、芝鶴(おとく)、福助・歌昇・慶三ほか(官軍隊士)
 女殺油地獄 近松門左衛門作 (妹娘おかち
勘三郎(河内屋与兵衛)、歌右衛門(豊島屋女房お吉)、勘弥(豊島屋七左衛門)、幸四郎(兄多兵衛)、芝雀(天王寺屋小菊)、吉之丞(与兵衛親徳兵衛)、又五郎(小栗八弥)、歌昇(講中市兵衛)
 浮舟 「源氏物語」より北條秀司作演出 (大輔
 歌右衛門(浮舟)、幸四郎(薫大将)、勘三郎(匂宮)、勘弥(時方)、松蔦(侍従)、訥升(中の君)、芝雀(右近)、芝鶴(浮舟の母中将)

 錦之助の役はどれも大した役ではないが、出し物自体は名作、佳作揃いで、時代も内容もバラエティに富んでいる。
 「相馬の金さん」は幕末物で、江戸っ子の御家人が彰義隊に入って暴れる話。
 「浮舟」は舟橋源氏に対抗して北條秀司が書いた悲恋物で、この時が初演であったが、歌右衛門、幸四郎、勘三郎の三者の代表作の一つになった。
 「女殺油地獄」は近松の名作で、後年錦之助が東映で映画化を企画し、実現寸前になって流産した作品である。「女殺油地獄」は昭和32年、扇雀と新珠三千代、それに鴈治郎が加わって東宝で映画化されている。若い頃、錦之助は近松の作品にかなり執着し、東映では「曽根崎心中」も映画化を望んだが、これも実現せず、結局『浪花の恋の物語』(近松の「冥途の飛脚」とその改編版「恋飛脚大和往来」が原作)で、亀屋忠兵衛を演じただけで終ってしまった。
 この公演ではほかに、「通俗西遊記」(三世河竹新七作)といったエンターテイメント歌舞伎も上演し好評だった。それには、幸四郎の息子の染五郎(11歳)と萬之助(9歳)、勘三郎の娘の久里子(7歳)と千代枝も子役(小猿)で出演している。(勘九郎はまだ生まれていない。)「西遊記」は、勘三郎が孫悟空、幸四郎が三蔵法師、歌右衛門が女王といった配役だった。
 
 昭和28年のこの頃になると、吉右衛門が出演しなくとも、吉右衛門劇団は、幸四郎、勘三郎、歌右衛門の三本柱で立派に興行が打てるようになっていた。ここに、守田勘弥が入り、吉右衛門門下で生え抜きの又五郎、吉之丞、吉十郎、九蔵が加わり、客分格の訥升(この後すぐ宗十郎を襲名する)、団蔵、芝鶴といったベテランが脇を固めるといった布陣であった。ほかに助高屋高助、高砂屋の福助、坂東慶三、女形には芝雀と、澤村源平(病気休養中のようだった)がいる。染五郎や萬之助も英才教育を受け子役で育ってきた。さらに時蔵一門が参加すればまさに大一座である。襲名後の歌昇は、吉右衛門の勘気が解けたのか、時蔵が出演していないにもかかわらず、この公演では吉右衛門劇団に参加している。
 こうした状況で、錦之助がいくら良い立役をやろうとしても、無理な話だった。女形でも三番手、四番手になってしまうのは当然であった。


中村錦之助伝~転機(その3)

2012-11-05 16:18:08 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 昭和28年4月、歌舞伎座での歌昇、芝雀襲名公演は、吉右衛門劇団、猿之助劇団、時蔵一門に三津五郎が加わって、1日から25日まで行われた。披露口上はなかったが、昼の部の「だんまり」と夜の部の「道行旅路の嫁入」(「忠臣蔵」八段目)を襲名披露にあてた。父時蔵が両演目に主演して、劇中で襲名した息子二人を紹介するといった段取りだった。
 「だんまり」は「暗闘」と漢字を当てるが、歌舞伎の演目名ではなく、演出様式にすぎない。舞台を暗闇であると仮定し、登場人物たちが無言で、ものを探り合ったり、奪い合ったりするといったスローテンポの一種の立ち回りである。同公演の「だんまり」は、曽我兄弟に関係のある鎌倉武士と遊女たちを配した時代物のいわゆる「お目見えだんまり」だった。
 配役は以下の通りである。
 三津五郎(工藤祐経)、時蔵(遊君亀菊)、勘三郎(畠山重忠)、幸四郎(仁田忠常)、歌昇(仁田の息忠胤)、芝雀(畠山重忠の娘梅ヶ枝)、錦之助(工藤の息犬坊丸)
 ほかに、団蔵、勘弥、八百蔵(同年6月に中車襲名)、田之助、訥升(同年9月に宗十郎襲名、その時長男の源平が訥升襲名)、又五郎など十数名が出演し、襲名披露を盛り立てた。
 夜の部の「道行旅路の嫁入」は以下の通り。
 時蔵(加古川本蔵の妻戸無瀬)、芝雀(娘小浪)、歌昇(奴時平)、吉之丞(家老)、勘弥・又五郎・慶三(駕籠際の侍)、八百蔵・高助・福助・田之助(槍持奴)、大輔(旅の武士)、源之助(奥女中)、九蔵・吉十郎・愛之助(警固の侍)、種五郎・時十郎(雲助)、時蝶・時寿(後見)
 錦之助は出演していない。出演者中、吉之丞、吉十郎、又五郎、九蔵、慶三は吉右衛門劇団、愛之助、種五郎、時十郎、時蝶、時寿は時蔵一座の面々である。
 
 歌昇、芝雀は上記の二役のほかに、もう一役なかなか良い役をやっている。歌昇は「暫」で鹿島入道震斎。芝雀は「弁慶上使」で腰元しのぶである。
 賀津雄は「暫」で渡辺小金丸の一役だけ出演している。
 また、この公演で、時蔵の門弟、蝶次郎と時代が、それぞれ時蝶、時寿となって名題昇進している。

 錦之助は、「だんまり」で工藤祐経の息子役のほかに、問題の「同志の人々」で薩摩藩士の一人、林庄之進という役をやっている。配役は以下の通り。田中瑳磨介は又五郎に変わっている。演出は久保田万太郎だった。
 勘三郎(是枝萬介)、幸四郎(田中河内介)、又五郎(田中瑳磨介)、福助〔高砂屋〕(谷元)、八百蔵(永山)、慶三(有馬)、吉十郎(橋口)

 この歌舞伎座公演には、吉右衛門も出演しているが、襲名披露の演目にも出ず、また本来ならば口上も吉右衛門が勤めるところだが、それも行っていない。不満があったのだろう。
 歌昇は、ある時期菊五郎劇団へ入っていたことがあり、退団後は時蔵一座の一員であり、吉右衛門劇団に在籍していない。菊五郎に弟子入りした時、吉右衛門の勘気に触れ、そのままの状態が続いていたようだ。また、芝雀は、播磨屋から京屋へ移ったことが吉右衛門の心証を害したのだと思われる。吉右衛門は昼の部の「石切梶原」(一幕)で梶原平三景時、夜の部の「増補忠臣蔵」(本蔵下屋敷の一幕)で桃井若狭介、この二役を演じているが、どちらにも、歌昇、芝雀は出演していない。
 二人の襲名は、時蔵は当然として、幸四郎と勘三郎が引き立てた。歌右衛門も吉右衛門同様、引き立て役をやっていない。

 さて、翌5月の大阪歌舞伎座も、歌昇、芝雀の襲名披露公演であった。東京に続いて大阪でも披露目しようということで、吉右衛門をはじめ、4月の歌舞伎とほぼ同じ顔ぶれが出演した。
 この時は、昼の部に披露口上があり、時蔵、歌昇、芝雀、時蝶、時寿が舞台で挨拶した。
 夜の部では歌舞伎座と同じ「道行旅路の嫁入」を披露演目にした。歌昇、芝雀ともに同役で、ほかにそれぞれ二役やっている。幸四郎、勘三郎、歌右衛門、時蔵出演の「絵本太功記」(尼ケ崎)では、歌昇が加藤正清、芝雀がその嫁初菊、加えて歌昇は、「嫗山姥」の太田十郎、芝雀は「河内山」の腰元しのぶを演じた。大阪歌舞伎座では、吉右衛門の昼の部の出し物「河内山」に芝雀が出演した。吉右衛門はもう一つ夜の部の「籠釣瓶」に出演。当たり役の佐野治郎左衛門を務めている。

 無論錦之助も加わり、この公演では以下の演目に出演した。( )内が役名である。

 色彩間苅豆 (捕手山蒲)
 勘三郎(与右衛門)、歌右衛門(かさね)、慶三(捕手沢田)
 *演目は「いろもようちょっとかりまめ」と読む。通称「かさね」。四世鶴屋南北作の怪談。

 嫗山姥 (沢潟姫)
 時蔵(八重桐)、勘弥(源七)、訥升(白菊)、歌昇(太田十郎)、九蔵(局呉竹)
 
 道行旅路の嫁入 (槍持奴)
 時蔵(戸無瀬)、芝雀(娘小浪)、歌昇(奴時平)、団蔵(家老)、高助・福助・慶三(槍持奴)、吉之丞・団之助・九蔵・愛之助・吉十郎(警固の侍)、種五郎・時十郎(雲助)

 女形の沢潟姫はまずまず良い役だが、他の男役は大した役ではない。二ヶ月間に及ぶ兄二人の襲名公演に付き合って、錦之助は、自分にはもう当分の間チャンスは廻って来ないだろうと思ったにちがいない。この時点で、映画出演は夢と消え、歌舞伎でも「同志の人々」で絶好の役を降ろされた、そのダメージも大きかった。



中村錦之助伝~転機(その2)

2012-11-05 00:01:23 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 錦之助は叔父の勘三郎を大変慕っていた。勘三郎も錦之助のことを「錦ちゃん、錦ちゃん」と呼んで可愛がった。
 伯父の吉右衛門には神経質で気難しいところがあり、人を寄せ付けない威厳と頑固さがあった。吉右衛門は自由奔放で茶目っ気のある錦之助を子供の頃から可愛がり、彼のいたずらっぽさを楽しんでいるふしがあった。が、錦之助の方から見ると、尊敬する名優といった気持ちが抜けず、歌舞伎のことを気軽に尋ね、また教えてもらう相手ではなかった。錦之助は吉右衛門を敬して遠ざけているところがあった。
 父の時蔵は、吉右衛門と違って、新しいもの好きで、大変なせっかち、気さくで愛嬌もあったが、昔気質で頑固なところもあった。また、意識的に子供を突き放すところがあり、自分から進んで子供に手取り足取り教えようとはしなかった。吉右衛門と同じで、普段から人の芝居をよく観て、自分で芸を覚えろという伝統的な教授法を信奉していた。興行中何日か経ってから、錦之助の演技について気に入らない点があればチクッと一言、釘を刺す人だった。錦之助も直接父親に教わるのは気が向かなかったのであろう。
 それに対し、勘三郎はやんちゃ坊主がそのまま大人になったような人柄でざっくばらんだった。才気煥発で芸幅も広く、また、菊五郎や源之助といった今は亡き名優たちの演技を身体に記憶していて、教え上手でもあった。錦之助は勘三郎の家へよく教わりに行った。「紅葉狩」の山神や従者左源太をはじめ、若手歌舞伎や昭和28年の後半「子供かぶき教室」で錦之助がやった主要な役のほとんどは、勘三郎に教えてもらった。「勧進帳」の義経と富樫、「菊畑」の虎蔵実は牛若丸、「お祭」の鳶の頭、みなそうだった。また、これはずっと後年のことだが、映画『瞼の母』で錦之助が熱演した番場の忠太郎は、最初は勘三郎から教わったものだった。勘三郎は、錦之助を見込んで、「おれの役どころは錦ちゃんにやらせる」とまで口にしていたほどだった。

 昭和28年3月の大阪歌舞伎座でのことである。実川延若追善の東西合同歌舞伎で、東京からは時蔵一座に勘三郎が加わり、錦之助も随行した。種太郎、梅枝は襲名のこともあり、東京に残った。関西側は、寿海、寿三郎、鴈治郎、仁左衛門、延二郎、雷蔵など関西歌舞伎界のほぼ全員が揃った。錦之助は「土蜘」で巫女かつみ、「島鵆(しまちどり)」で鳥蔵の娘おはま、「先代萩」で局松島の三役、すべて女形だったが、どれもなかなか良い役であった。
 興行が始まって間もなく、勘三郎から、来月4月の歌舞伎座公演で錦之助に願ってもない大役の話が持ち出された。それは、山本有三作の「同志の人々」を自分の出し物としてやろうと思っているのだが、田中瑳磨介(さまのすけ)という役をやってみないかという話だった。4月の歌舞伎座は、種太郎改め歌昇、梅枝改め芝雀の襲名披露がある大事な公演である。兄二人には良い役がつくはずなので、錦之助にも良い役をやらせてやろうという勘三郎の好意だった。錦之助は勘三郎からその役柄について聞き、目を輝かせてオーケーした。
 「同志の人々」という芝居は、大正の末にに山本有三が書いた幕末物の新作歌舞伎で、是枝萬介田中河内介の二人の主役を菊五郎と吉右衛門が初演し、評判を得た名作だった。その後、昭和14年に勘三郎はもしほ時代に大阪で「同志の人々」を上演し、菊五郎の演じた是枝萬介をやっている。その時河内介は簑助だった。
 4月の公演では、これを勘三郎と幸四郎で再演しようというもので、錦之助に与えられた瑳磨介という役はこの二人に次ぐ重要な役だった。
 錦之助は勘三郎から台本をもらい、目の色を変えて読み耽った。
 薩摩藩の勤皇派の志士たちが、罪を着せられた同志の田中河内介・瑳磨介親子を護送船の中で処刑するように上から命じられ、志を果たすためには仕方がないという結論に達する。そこで、河内介を尊敬する是枝萬介がやむなく介錯役を買って出て、田中親子に対峙する。瑳磨介は憤り、父をかばって是枝萬介に立ち向かい、斬られてしまう。が、是枝萬介は河内介に討たれる覚悟だった。河内介はそれに気づき、潔く切腹する。いわば同志の内ゲバを描いたストーリーである。
 錦之助は感動した。そして、瑳磨介という役は自分にうってつけの役だと思った。叔父の勘三郎に体当たりする気迫で臨もう。錦之助は台本を何度も読んで研究した。勘三郎にもいろいろ教えてもらった。毎夜、芝居が引けると、遊びにも行かず、役づくりに励んだ。

 そして、大阪での興行が終わり、錦之助は勇んで東京へ帰った。
 本読み開始の前日のことである。勘三郎から思わぬ連絡が入った。「同志の人々」の瑳磨介役が急遽変更になったという知らせだった。勘三郎は、自分の出し物なのだからぜひ錦之助にやらせてくれ、さもなければ自分も降りるとまで言って頑張ったのだが、力及ばなかった。勘三郎は錦之助に何度も謝った。錦之助は軽い別の役に変わっていた。先輩役者との役のバランスからという理由だったが、松竹演劇部の幹部が決めたことで、錦之助は、軽く扱われたのだった。
 戦前のことだが、勘三郎はもしほ時代、一時東宝に移籍し、泣く泣く松竹に戻って、大阪に島流しになったことがあった。もしほから勘三郎を襲名したのも松竹の大谷社長の推挙によるもので、松竹に対しては恩義もあり、反逆できない弱みもあった。松竹の幹部が決めたことを覆すことはできなかったのだろう。
 錦之助は落胆すると同時に悔しさで歯ぎしりする思いだった。自分に対する評価はその程度なのか。兄二人の襲名披露公演で自分にチャンスもくれない松竹のお偉方たちの度量の狭さに腹が立ってたまらなかった。
 
 錦之助が歌舞伎界に見切りをつけて、映画界に入った最大の原因はこの事件だったと言う人がいる。歌舞伎界の裏事情をよく知っている劇評家の佐貫百合人は、「別冊近代映画 中村錦之助特集号」(昭和34年4月発行)に「錦之助の歌舞伎時代」という長文を寄せているが、その中で、この事件を紹介し、こう結んでいる。

 錦之助が、松竹から、これに気兼ねした父から、ともに「映画にでるなら二度と舞台を踏ませない」とまで、過酷な縁切状をつきつけられてなおひるまず、未知の世界にとびこんだのも、生来の負けず嫌いとともに、この時の無念さが貫いていたとみてよかろう。

 これは錦之助の本心を言い当てた言葉だと思う。叔父の勘三郎もずっと後々まで、錦之助が歌舞伎を辞めて映画界に入ったのは「同志の人々」のこの一件が原因だったと思い、錦之助に会うと必ず、「あの時はすまなかったね」と謝っていたという。
 しかし、錦之助はその著書の中で、これをきっぱり否定し、「ただ映画が好きだったから、誘われて映画界に入った」と言い、松竹を批判する発言は、一切漏らさずにいた。錦之助が頑ななまでに守ったポリシーは、絶対に人の悪口を言わないことだったが、世話になった会社の批判も公には一切言わなかった。漠然と一般論にぼかして、批判することはあったが、決して特定の名を挙げることはなかった。