錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『あばれ纏千両肌』

2006-08-05 01:51:36 | あばれ纏千両肌・晴姿一番纏

 この映画、錦之助がいい、高千穂ひづるがいい、月形龍之介がいい、堺駿二がいい、市川小太夫がいい、というわけで、登場人物がみな生き生きとしていて、実に魅力溢れる映画になっている。清川荘司も滑稽でとぼけたイイ味を出し、一体どうなっているのだろうと不思議になった。俳優がそれぞれ適役で、ノッテいるとこんな楽しい映画が生まれるのだなーと思う。
 もちろん、その前に脚本が良くてはならないが、脚本を書いたのは舟橋和郎で、喜劇が得意なシナリオライターだけあって、見せどころ、笑わせどころを心得ていた。(後年、舟橋が脚色しヒットした作品には、勝新の『兵隊やくざシリーズ』、フランキー堺の『喜劇~旅行シリーズ』、渥美清の『喜劇~列車シリーズ』などがある。)
 監督は、『笛吹童子』『紅孔雀』で一躍脚光を浴びた萩原遼。この人、プログラム・ピクチャーを量産していた東映黄金期を支えた職人監督だったが、悪く言えば、器用貧乏、もっと悪く言えば、粗製濫造で、子供向け映画やB級映画を作り過ぎたため、名声を得ることなく終わってしまった。しかし、東映の発展に貢献した彼の功績はたたえられてしかるべきだろう。一年に15本も映画を作ったことがあるのだから、びっくりする。ご奉公にも程があるとさえ私は思う。が、『あばれ纏千両肌』は間違いなく萩原遼の名作の一つである。ビデオになっていないのが、本当に残念だ。この映画は3年ほど前に東映チャンネルで放映されたそうだ。実を言うと、それを録画し大切に持っておられた錦ちゃんファンがいて、厚かましいながら私はこの方におすがりし、その愛蔵版をお借りして見せていただいた。感謝感激、時間を縛られることが苦手な私みたいな者には幸せこの上ない。
 
 さて、『あばれ纏千両肌』の話。このタイトルは、現代の感覚からするとまことに古めかしいが、「暴れん坊の纏(まとい)持ちの素晴らしい肌」という意味。しかし、これでは、なんとも締まらない。要するに、もろ肌脱ぐと見事な刺青をしている威勢の良い火消しの話である。この主人公の名は、浪曲・講談でも登場する「野狐三次」、これを若き日の錦之助がやっている。三次は捨て子で、母は死に、成人してからは会ったことのない父親を探している。大工だったのだが、喧嘩が縁で、「ろ組」の頭(かしら)に見込まれ、火消しになる。頭の娘が高千穂ひづるで、気風のいい三次にぞっこん惚れ込んでしまう。三次の頼りない兄貴分、「ろ組」の愛すべきマスコット的存在が堺正章の親父の名優堺駿二で、やはり彼が錦之助の映画に出ると出ないでは大違い。錦之助との相性も抜群である。刺青を見せっこするシーンなど大笑いしてしまう。高千穂ひづるもこの時代、錦之助の相手役としてはピカイチだった。きりりとした美しさで、しんが強そうで、若い錦之助をリードするには最適のお姉さんタイプである。高千穂は演技も三人娘(ほかに千原しのぶ、田代百合子)のなかでは段違いにうまい。『織田信長』の濃姫なんかはとくに素晴らしかった。
 話が錦之助からそれてしまった。この映画は昭和30年5月の公開。錦之助、ときに22歳である。が、何か自信ありげで、素のままの自分をあちこちに出している。これには驚いた。そうか、この映画からなんだ、錦之助が自然体の演技に目覚めたのは!重大な発見でもしたかのように私は感じた。ところどころ、まだ気張って芝居がかったセリフを言い、力の入りすぎた演技をする場面もあるが、映画の中盤から、なぜか錦之助がガラッと変わる。それは、実父である加賀藩の重役月形龍之介と対面してからだ。
 ここからの錦之助と月形のやり取りは、まるで一心太助と大久保彦左衛門を見ているようで、思わず私はうなってしまった。もろ肌脱いで、叩き切ってくれと開き直るところなど、まるで一心太助ではないか。三次が月形の屋敷に引き取られ、若侍姿に着替えさせられ、清川荘司扮する家来の半兵衛とやり合うところなど、太助と笹尾喜内を見ているよう。また、三次に愛情を注ぐ月形のセリフも表情も、彦左衛門と錯覚するほどである。『一心太助シリーズ』の原型はこの映画なのだと私は感じた。しかも助監督が沢島忠と来たもんなら、間違いない。沢島監督と錦之助は、この映画から『一心太助』の構想を描いたのだと推察する。
 ともかく、錦之助が演じた野狐三次は、元気が良くて、カッコいい。可愛くて、親しみやすい。錦之助はこの作品で群れなす若い女の子たちのハートを完全に射止めたのではないかと思う。いや、ハートを鷲づかみにしたのだろう。(今度、50年前の元ティーンエージャーに尋ねてみたい。)
 錦之助の年譜を調べてみると、昭和30年1月は、『紅孔雀』5部作が終わって、錦之助念願の長谷川伸原作の股旅もの『越後獅子祭り・やくざ若衆』に主演し、その後、初の現代劇『青春航路・海の若人』があって、次に製作されたのがこの『あばれ纏千両肌』だった。この頃、錦之助は自分の進むべき道を模索し、女子供向けの映画からようやく脱皮しようとしていた。現代劇『海の若人』では、女性ファンを大いに失望させたそうだが、また時代劇に戻って、この映画を公開したときには、きっと物凄い騒ぎになったことだろう。待っていましたとばかり錦ちゃん人気が沸騰したはずである。今観ても、一皮も二皮もむけた錦之助の野狐三次は魅力的だし、この映画そのものも娯楽作としてAランクに入ると私は信じて疑わない。スタンダードサイズの白黒映画だったが、火事場のシーンは圧巻。立ち回りも多く、見飽きることがなかった。



『晴姿一番纏』

2006-06-02 03:10:00 | あばれ纏千両肌・晴姿一番纏

 「火事と喧嘩は江戸の華」と言うが、江戸のどこかで火の手が上がれば、われ先にと火事場へ駆けつける火消しすなわち消防隊員は、見るからにカッコよく、江戸庶民の憧れの的だったそうだ。また、火消しの男たちは気も荒く喧嘩っぱやいことでも有名だった。火消しには、武家が組織するもの(大名火消し、定火火消し)もあったが、なんと言っても人気を集めたのは町火消し、町民が組織する消防隊であった。そしてこの小隊は、いろは四十八組、「い組」から始まって「ろ組」やら「は組」やら、江戸中に四十八もあったらしい。(だだし、「へ組」と「ひ組」はなく、百組、千組と言ったとのこと。)なにしろ威勢の良い男ばかりのグループで、中には若い美男子もいたから、江戸の女たちはアイドルのように持て囃したらしい。管轄地域はおおよそ決まっていたが、競合する場所もあった。たとえば、神田明神下で火事があれば、「ほ組」「わ組」「か組」「た組」が先陣争いをして消火にあたったようだ。もちろん、消火と言っても、水をかけて火を消すのではなく、たいていは解体作業である。延焼を避けるため、燃えている家をぶっ壊すのだ。だから、はしごの他に、鍬や鳶口が必携道具だった。そして、火消しが掲げる纏(まとい)は、戦いの旗印のようなもので、小隊のシンボルであった。

 前置きが長くなった。さて、錦之助がこのカッコよい火消しに扮した映画が三本ある。『あばれ纏千両肌』(昭和30年)と『晴姿一番纏』(昭和31年)と『水戸黄門』(昭和35年)である。錦之助の演じた役は、それぞれ野狐三次、纏の矢太郎、放れ駒の四郎吉だった。今回は、『晴姿一番纏』の話をしよう。この映画、あいにくビデオ化されていないが、先だって東映チャンネルで放映されたので、ご覧になった方もいるかもしれない。これは、火消し役の錦之助といなせな旅人やくざを演じる錦之助の両方が見られる点で、一粒で二度おいしい映画だった。山手樹一郎の原作を結束信二が脚色し、河野寿一が監督した映画であるが、作品の出来映えもなかなか良かった。
 ファースト・シーンは、江戸の町を火事場から「ほ組」の火消したちが誇らしげに練り歩く場面で、錦之助は纏持ちとして凛々しい姿で登場する。長半纏(ながばんてん)に股引をはき、月代(さかやき)も青々しい頭にねじり鉢巻、きりりとした顔つきである。弥次馬の女たちが、やんやの歓声を送る。「ほ組」の小頭、纏持ちの矢太郎が錦之助の役であった。「ほ組」を統率する大頭は矢太郎の養父で、これを薄田研二が演じているが、前回の『越後獅子祭り』とは打って変わり、味のある好演だった。母親役は松浦築枝が手堅い演技、酒問屋の娘で矢太郎の恋人役お京が千原しのぶで、相変わらず上手いとは言えないが、まずまずだった。千原に横恋慕し、悪さを働く旗本が敵役の常連加賀邦男、それにこの映画では、矢太郎の実の父親、かくしゃくたる武士の役に、月形龍之介が出演していた。月形が出ると、やはり映画が締まる。途中で、端役だが、落ちぶれたやくざの一家の娘役に長谷川裕見子も登場する。彼女が出ると出ないとでは大違い。私は長谷川裕見子が好きなので、彼女の姿にはいつも注目してしまう。
 
 話は単純である。祭りの日、矢太郎とデートの約束をしたお京の千原が、悪旗本の加賀に拉致されそうになる。それを矢太郎が助けたことで、旗本一味と喧嘩が始まり、そこに駆けつけた町奉行の面々に取り押さえられる。これが原因で、矢太郎は江戸追放の身に。旅の途中、たまたま誘われた賭場で、やくざにからまれ、格闘のはずみで矢太郎は人ひとり殺してしまう。それで凶状持ちになり、股旅稼業のやくざに身を落とす…。
 まあ、そんな話だが、これは前回も触れたが、やくざの旅人姿に変わった錦之助がこれまた惚れ惚れするほどカッコ良い。鬘(かつら)も変わり、月代のない風来坊風の髪型が若い錦之助にはよく似合う。
 この映画で、錦之助は歯切れいい啖呵も切る。祭りの日、旗本と喧嘩をする前には、「二本差しが恐くって、おい、蒲焼屋の前を通れるかってんだ!」と来る。賭場で喧嘩をする前には、「おいら江戸っ子だぜ。てめえらとは育ちが違うんだ、育ちが!」そして、「ダンビラのつけえ方は知らねえが、喧嘩の仕方はこうやるんだ!」と言って大暴れする。
 単身赤鬼一家へ殴り込みに行って悪親分を斬り殺す時は、啖呵も切らず、笠を取った瞬間にバッサリやる。後ろの襟首に菊の花を一輪指していて、子分を蹴散らした後に、殺した親分の手向けにこの花を投げる。ここはちょっとキザだが、意外と印象に残る。
 この映画には観ていてどうも変だなと思うシーンもあった。矢太郎がお京を助けて逃げていく時に、お京が足にマメが出来て、歩けなくなり、矢太郎におんぶしてもらう場面がある。しばらくして、追っ手がやって来て、二人が急に走り出すのだが、足のマメはどうなったのだろうかと疑問に思った。こんなところ、どうでもいいのだが、妙に気になる。
 最後に、二人は江戸に帰り、矢太郎はやくざの足を洗い、火消しに戻る。火事場で、矢太郎が纏を持って屋根に上り、仁王立ちするラスト・シーンは、見せ場だったが、煙がもうもうと立ち込める中を何もせずじっと立ているのも不自然だなあーと思った。が、これは許すとするか。