錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『曽我兄弟 富士の夜襲』(その8)

2007-01-13 08:06:41 | 曽我兄弟
 化粧坂の少将は、『曾我物語』によれば、十六歳の若さで、「引く手あまた」の可愛い遊女だった。そこで、彼女に入れ込んだ男はたくさん居たらしい。なかでも梶原景季という武将が彼女に首っ丈で、曽我五郎が恋敵だと知って、何かとイチャモンを付けてくる。が、五郎は、仇討ちの目的を果たすために、梶原と争うのは避けようとした。
 五郎は二十歳で血気盛んな若者であったにもかかわらず、胆の据わった男だった。箱根の山で一人苦労しただけあって、我慢すべきところはぐっと我慢できる大人に成長していたようだ。
 五郎にとって化粧坂の少将は初恋の相手で、彼女のもとには足繁く通って、たくさん恋文も送ったらしいが、しかし最後は潔く諦めてしまう。富士の裾野へ向かう前に、曾我の里(現在の小田原市郊外)から平塚まで馬を飛ばして彼女に会いに行くのだが、結局会えずじまいで、和歌を書いた恋文を置いたまま帰って来てしまう。あとで少将がこの文(ふみ)を見つけて、さめざめと泣いた後、遊女仲間に文を見せながら、「わたし、貞女になろう。どうせ梶原なんかの奥さんになれっこないんだもの…」なんてことを言う。仇討ちをして五郎が死んだことを知ると、この女も、十郎の恋人の虎御前を見習って、同じように出家してしまう。十六歳で尼さんになり、五郎の菩提を弔って、なんと八十歳まで長生きしたそうだ。

 十郎と虎御前のことも書いておこう。この二人が初めて出会ったのは、十郎が十九歳、お虎が十六歳の時で、よほど相性が良かったのか、猛烈な相思相愛だった。十郎は、彼女のいる大磯の遊女の館(やかた)へ三年間も通いつめ、最後はいわゆる「」みたいなことをやって、曾我の里へ連れて来てしまう。これは前回も書いたことである。それを母親に気づかれ、怒られたのかどうかは知らないが、十郎はお虎をまた大磯へ返す。そして、もう一度連れ戻すといったことをしている。
 この二人は、新婚夫婦のような深い関係になっていたため、別れるのが相当辛かった。『曾我物語』にはその愁嘆場が非常に詳しく書いてある。十郎は仇討ちの秘密をお虎に打ち明け、別れなければならなくなった前の晩は、二人で朝まで泣き明かし、涙で布団が水浸しになり、浮き上がってしまったほどだったという。朝、十郎は、大磯に帰るお虎を馬に乗せて、途中まで送って行く。
 兄弟が仇討ちの果たして死んだ後、お虎は、曾我の里を訪ね、兄弟の母親、言ってみればお姑さんとも親しくなって、富士の裾野へ一緒に行ったりしている。そして、箱根権現で出家し、諸国を行脚した後、大磯の近くの庵に住み、十郎の供養をしながら六十三歳まで生きたという。お虎は、『曾我物語』のヒロインとも言える女性で、非常に興味をそそる愛らしい女のように私には思えてならなかった。


<箱根にある曾我兄弟の墓、右手にあるのは虎御前の墓>

 映画の話に戻そう。
 映画では、五郎と化粧坂の少将の関係も、十郎と虎御前の関係もいい加減に描いていた。というより、気軽に話を作り変えていた。芸術祭参加作品なのだから、もう少し、物語に忠実でも良かったのではないか、と『曾我物語』を拾い読みした現在の私は心の隅で思わないわけではない。が、映画を観た時点ではそんなことは思いもしなかったのだから、私も偉そうなことを言えた義理ではない。
 原作はどうであれ、時代劇での男女の描き方はこの映画のようにロマンチックな関係に変えた方が良いのかもしれない。十郎も五郎も遊女に夢中になっていたというのでは、昔の東映時代劇のヒーローにはなれなかったであろう。それに、錦・千代ファンが許さなかったと思う。
 工藤祐経の仮屋に虎御前が連れ去られ、寝間で工藤の相手をさせられそうな時に十郎がやって来る。化粧坂の少将も仮屋に居て、五郎と再会し、案内役を買って出る。『曾我物語』にはそんな場面はないが、その方が映画として面白いし、映画はこれで良いのだろう。ただ、兄弟が工藤の寝間に駆け込んできた時、虎御前の高千穂ひづるが工藤の肩をマッサージしていたところはどうもいただけなかった。どうせなら、無理矢理手込めにされそうな場面に変えたほうがもっと良かったような気がするが、どうであろうか。(まだ、つづく)



『曽我兄弟 富士の夜襲』(その7)

2007-01-07 21:10:02 | 曽我兄弟
 この映画のクレジット・タイトルに出てくる原案者の五都宮章人というのは、時代劇の脚本家五人の合同のペンネームだそうである。比佐芳武、依田義賢、民門敏雄(たみかどとしお)、八尋不二、柳川真一の五人で、いずれも著名な脚本家だが、1950年代半ばに京都を本拠にして、シナリオ雑誌「時代映画」を復刊し、また共同で映画の原案や脚本を書いていたようだ。ただ、五都宮章人の名前で書いたもので実際に映画化された作品は6本ほどだった。(錦之助の映画では他に『羅生門の妖鬼』がある。)
 『曽我兄弟』は月刊「平凡」の連載小説で、これを五人で書いていたというのも不思議な話だが、映画化に際しその脚色に当たったのは、八尋不二一人だったようである。八尋不二は大映の脚本家だったが、この頃は東映映画の脚本も書いていた。東映での代表作は、『血槍富士』(内田吐夢監督の戦後第一作で、民門敏雄との共同脚本)だが、錦之助の映画では、『あばれ振袖』『源義経』『続源義経』『怪談千鳥ヶ淵』がある。
 八尋不二によるこの映画の脚本は、大変素晴らしかったと思う。が、この映画のストーリーに関して、私はいくつか疑問点を抱いた。もちろん、映画は二時間弱の長さなので、曽我兄弟の仇討ちに至るまでの壮大な物語の全部は到底描けないだろうし、映画がダイジェスト版に過ぎないことは分かっている。ただ、この映画を何度も観ているうちに、描かれていない部分をもう少し知りたくなったことが一つ。また、映画で話の辻褄が合わない部分をいくつか感じて、それがどうしてなのかを突っ込んでみたくなったわけである。
 それには『曾我物語』を読むのが手っ取り早いと考え、書庫から古典全集の一巻を引っ張り出して、拾い読みを始めた。正直言って、古文を読むのはあまり得意ではないが、だいたいの意味を理解する程度なら何とか読める。『曾我物語』は、室町時代の初期に書かれた本で、作者不詳、異本も数多くあるらしい。いちばん有名なのは、「真名本」と言って漢文で書かれたものだそうだが、私が手にした『曾我物語』は、和文で書かれたものである。曽我兄弟の仇討ちは鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にその記述があるとのことだが、これは漢文で書かれている。とりあえず、物語として詳しい『曾我物語』を二日がかりで所々読んでみた。
 これは前にも書いたことだが、箱王の元服の年齢が引っかかっていた。映画では、箱王が箱根の山を抜け出したのも、化粧坂の少将に出会うのも、曽我の里へ兄と母を訪ねに行くのも、兄の家で元服を済ませ五郎時致と名乗るのも、すべて二十歳の時になっていた。その後すぐ、富士の裾野へ行って仇討ちを果たすので、これも二十歳だった。これはどうもおかしいなと思って観ていたのだが、映画はこの部分をすごく圧縮して描いていたことが分かった。三年の間に起こった出来事を仇討ち前の一年にまとめてしまったのだ。
 『曾我物語』の記述を要約すると、次の通りである。
 箱王は、十一歳のときに母に命ぜられ箱根権現へ入れられる。それは、ちょうど兄の一萬が十三歳で元服し、曾我家の跡取りになって、十郎祐成を名乗ることになったすぐ後である。そして、十七歳まで、箱根の山にこもって修行するが、この時、出家の話が持ち上がる。箱王はそれを嫌って、箱根の山を抜け出し、曾我の里にいる兄の十郎のところへ相談に行く。兄と仇討ちの意思を確認し合うと、母には無断で、兄弟揃って北条時政のもとへ行き、元服してしまう。北条時政が烏帽子親になり、箱王は五郎時致を名乗ることになる。それから、また曾我の里に戻り、母に弟が元服したことを報告に行くと、母は怒り、弟を勘当してしまう。
 それから、兄弟は三年ほどぶらぶらしている。その間、十郎は大磯にいる遊女の虎御前に夢中になり、彼女のもとへ通いつめ、とうとう曾我の里へ連れて来てしまう。これも母に内緒でしたことだったが、長い間十郎が訪ねに来ないことを不思議に思った母が逆に十郎の家を訪ねて、女を囲っていることを気づかれる。五郎の方も兄に負けまいと、大磯通いをしていたが、ある日、平塚の化粧坂という所にいた遊女に一目惚れ。これが化粧坂の少将と呼ばれる五郎の恋人である。(つづく)



『曽我兄弟 富士の夜襲』(その6)

2007-01-06 14:23:22 | 曽我兄弟
 母のいる曽我の屋敷を去り、十郎の家に戻って箱王が元服をする場面も印象的だった。母が箱王のために作った晴れ着と養父が贈ってくれた刀が届いて、兄弟が喜び合った後、いよいよ箱王が五郎時致(ときむね)になる。
 ここでは、錦之助得意の「変身」が見られる。あの「稚児さんルック」から、髪型も衣装もすっかり変え、見違えるような若武者になるのだ。二人とも母の作った晴れ着に着替えるのだが、千代之介の方は薄緑色の着物に、錦之助は小豆色の地に白い大きな模様のある着物に着替え、再登場する。錦之助はメークも変え、本当にカッコいい姿に様変わりする。
 千代之介が名前をどうするのかと尋ねると、錦之助は確かこんなセリフを言ったと思う。「兄上が十郎ですので、私は五郎にいたします。そして、幼き頃からなにかと目にかけていただいた北条時政公のお名前を一字頂戴して、時致(ときむね)と名乗ります」すると千代之介が「曽我五郎時致、うん、それは良い名前だ」と言う。ここから兄弟は、「兄上」「五郎」(または「時致」)と呼び合うことになるわけだ。

 これは子供の頃にも疑問に思っていたのだが、今なら「一郎」を長男、「二郎」を次男というように生まれた順番に名づけていくので、「十郎」が兄で「五郎」が弟というのは少し不思議に感じる。が、武士のミドル・ネームというべきこうした名前は、烏帽子親(えぼしおや、元服の立会人で名づけ親)と相談して決めたようで、尊敬する有名人や縁者の名前を取って適当に付けたのだろう。『反逆児』で錦之助が演じた岡崎三郎信康も、徳川家康の長男なのに「三郎」だった。
 もう一つ、五郎の元服の場面を見て疑問に思ったことは、突然、北条時政の名前が出てきたことだ。北条時政と言えば、源頼朝の妻になった北条政子の父で、頼朝のしゅうとに当たり、頼朝の死後、黒幕として鎌倉幕府の実権を握った人物である。北条時政は、この映画ではまったく登場せず、ただここでは名前だけ出てくるのだが、箱王が幼い頃世話になったようで、時政の名前を一字もらって時致と名乗ることにしたというのだ。ここも、時政と箱王の関係が分からず、やや不自然に感じた。(一昨日から『曾我物語』を拾い読みして、この疑問は判明したので、その点は次回に書くつもりである。)

 さて、元服が終わり、曽我兄弟はいよいよ仇敵・工藤祐経を討つために富士の裾野の狩場へと赴く。ここからは錦・千代コンビの名場面集といった感じである。付き添いの従者、団三郎(どうざぶろう)の原建策、鬼王の片岡栄次郎もなかなかの好演だった。
 この映画の名場面を挙げていくとキリがない。仇討ちのチャンバラ・シーンも見どころである。が、この辺は映画を観てもらうことにして、なんと言っても最大の見せ場は、捕らえられた五郎が頼朝の御前に引き出され、尋問されるラスト・シーンだった。
 頼朝の片岡千恵蔵も貫禄たっぷりで、渋い名演をしているが、錦之助の演技も最高に素晴らしい。自伝の中で、錦之助は試写で見てこの場面の千恵蔵の演技に感服したと書いているが、なかなかどうして錦之助も負けていなかった。
 仇討ちを果たした後の晴れがましさと誇りに満ちた若者の自信とがみなぎり、この場面の錦之助は見惚れるような演技をしていたと思う。とくに頼朝を諌める長ゼリフなど、そのセリフ回しといい、表情といい、千恵蔵を向こうにまわし、一歩も引けをとらない錦之助の気概があふれていた。
 この時、錦之助は二十三歳、この若さにしてこんな見事な演技が出来たのだから、錦之助という天才役者の早熟ぶりには、ただただ驚くばかりである。(つづく)



『曽我兄弟 富士の夜襲』(その5)

2007-01-03 02:40:40 | 曽我兄弟
 仇敵・工藤祐経の手下に追われ、箱王が逃げ込んだ場所が巻狩に招かれた遊女の宿舎で、このシーンがなかなか良かった。錦之助の箱王が隠れていた大きな衣装箱から出て来ると、そこに居た遊女が化粧坂の少将で、これを演じたのが三笠博子だった。
 三笠博子と言ってぴんと来る人は、錦之助通として認定証を差し上げたい。それは冗談として、この映画で錦之助の恋人役を演じたのが、田代百合子二世ともいうべき三笠博子で、この眼の大きな可愛い若手女優は、三年ほど東映で活躍すると結婚してさっさと引退してしまった。残念である。錦之助との共演作は、確か三本で、ほかに『晴姿一番纏』と『青年安兵衛 紅だすき素浪人』があった。この映画では、初めて錦之助と相思相愛の仲を演じたのだが、若い頃の錦之助にとってはなかなかお似合いの相手だった。演技は学芸会並みでも、ういういしく、可憐なのだ。
 女優の話をするとつい熱がこもってしまうが、このシーンで何が良かったかと言えば、錦之助が彼女に一目惚れしてしまい、真顔になってすぐに心の内を告白したセリフである。それが振るっていた。
「私は母上に会ったような気がする。私は12年もの間、女というものに一度も会ったことがない。女といえば、母上しか知らぬ。女はみんな母上のようなものと思っていたが……」
 この時の錦之助の生き生きした顔つきが実に良かった。そこで、錦之助は三笠博子をじっと見つめて、「こんなにあでやかな…!」で絶句。
 続いて彼女のアップがあり、はにかみながらも「嬉しい!」と心の中で叫ぶ表情。ここは三笠さん、何度も練習したのではないだろうか。良く出来ました。

 さて、この映画の前半でいちばんの名場面だと私が思ったのは、箱王が山を抜け出して母と兄の住んでいる曽我の家へ訪ねに行ったところだった。兄の十郎は喜んで出迎えてくれたのに対し、母親はわが子の身の上と曽我家に降りかかる災いを案じて、泣く箱王をよそ目に、わざと冷たくあしらい、追い返す。
 ここは花柳小菊、錦之助、千代之介、三者三様の熱演だった。親子・兄弟の情愛を描いたこの場面は何度見ても感動する。とくに、母親の花柳小菊が、二人の子が仇討ちに行くことを知って、兄の十郎には晴れ着を渡したのに、弟の箱王には渡さなかったことを、後で一人悔やんで嘆くところは、観ていて目頭が熱くなった。
 すると、二人の養父で主人の曽我祐信が現れ、箱王にも晴れ着を渡してやれと言い、さらに刀を二本差し出し、二人に本懐を遂げさせてやろうではないかと妻を励ますのだが、ここも良かった。曽我祐信を演じたのは、錦之助の実父で歌舞伎役者の中村時蔵だったが、映画出演もさすがに慣れたのか(六本目だったと思う)、枯れた味わいに温情がこもり、「播磨屋!」と声を掛けたくなるような名演だった。(なかなか終わりません。また、つづく)



『曽我兄弟 富士の夜襲』(その4)

2007-01-03 02:06:08 | 曽我兄弟
 『曽我兄弟 富士の夜襲』は、名場面が次から次へと現れ、観る者の心を揺さぶりながら、クライマックスの仇討ちへと向かっていく。この映画の数多くの名場面なかで、とくに私の瞼に焼きついて離れない場面を挙げてみよう。

 まず、母親と幼い兄弟二人が故郷を追われ流浪の旅に出る時、峠の上に立ち、領地だった伊豆の山河を最後に眺めるシーンが感動的だった。母親役は花柳小菊で、兄弟は子役の植木基晴と植木千恵(二人とも片岡千恵蔵の実子で東映全盛期の名子役)である。花柳小菊が噛んで含めるように幼子の二人に、次のような言葉を言うところがある。「この山も野も海もお父さんのものだったのですよ。よく見ておくのですよ。私たちを、逆臣の妻、謀反人の子にした工藤祐経(すけつね)の名を忘れてはいけません。正しい者が勝つときが必ず来るはずです。母はその日が来るのを待ちます。五年でも十年でも二十年でも…。」このシーンは、後々まで残像のように心に残る。花柳小菊の感情を抑えたさりげない名演が光っていた。

 次は、幼い兄弟が、源頼朝の命を受けた使者に曽我の里から連れ去られ、由比ガ浜で処刑されそうになるシーン。ここでは、鎌倉の館で頼朝役の片岡千恵蔵と、兄弟の助命を願う畠山重忠を演じた大友柳太朗との迫力ある共演が目を引いた。(使者と処刑人を兼ねた梶原景時の役は大川橋蔵だったが、まだ東映に入ったばかりの頃で、芝居っ気が抜けず、力んで見えた。)浜辺の場面では砂の上を一匹の蟹が歩いているのを正座した植木千恵がちらっと見るシーンがとても印象的だった。兄弟は危ういところで助かり、手を握り合って喜ぶのだが、この後の展開が鮮やかだった。数年の歳月を一気に省略し、処刑前のシーンをもう一度モノクロにして、十郎が夢の中で追憶する場面に変えたのだ。ここで初めて成人した曽我十郎の東千代之介が登場する。

 錦之助の登場シーンも鮮烈だった。山の中で剣の稽古をしている気合い声が聞こえ、そこで現れるのが箱王の錦之助だった。植木千恵を引き継ぎ、まだ曽我五郎になっていない元服前の箱王も錦之助が演じているのだが(二十歳という設定だったが、この年で元服していないのはどうか?)、その姿たるや、何と表現したら良いのか。女性の錦ちゃんファンなら、「カワイーイ」という歓声を挙げるかもしれないが、どうも私の目にはいささか奇異に映った。まるで巫女さんみたいなのだ。オレンジ色の着物の上に黄金色の打掛け(?)をかぶり、薄緑色の袴をはいているのだが、この装束は神社の稚児が着る礼装なのだろうか。また、あの髪型は何というのだろう。後ろ髪を尻に届くまで伸ばして、真ん中で結わき、前髪は額の出るようにカットしている。『源義経』の時の牛若丸の錦之助も確かこんな格好で似たような髪型だったと思うが、「稚児さんルック」とでも名づけておこうか。『源義経』は白黒映画だったからまだ良かったが、カラーになるとどうも…。前髪の真ん中にリボンのように白いひもをぶら下げているのは何なのか。誰か鎌倉初期の装束や髪型に詳しい方にお尋ねしたいものである。映画の前半はずっとこの「稚児さんルック」で通すのだが、ただし観ているうちにだんだん慣れてくる。が、最初は年不相応で違和感があった。(白いひもだけはずっと邪魔に思ったが…。)
 箱王の錦之助は、仇敵・工藤祐経(月形龍之介)が頼朝の巻狩に伴い箱根権現へ参拝にやって来ることを知るや、従者の団三郎(原健策)とともに工藤をつけ狙うが、チャンスが得られない。巻狩のある富士の裾野で兄弟そろって工藤を討とうと決心し、ついに箱王は箱根の山から遁走する。(それにしても、錦之助のあの派手な格好がやたらと目立つんだよな…。私はそれが気になって仕方がなかった。)(つづく)