錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『織田信長』(その2)

2015-07-21 14:24:46 | 織田信長
 山岡荘八の「織田信長」を読みながら、錦之助は、身体中の血が沸き上がるような興奮を覚えた。是が非でも信長がやってみたい。そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。小説の映画化権のことが気になって仕方がなかった。
「えい、こうなったら直談判してみよう」と錦之助は思った。
 
 これまで錦之助は、子母澤寛、長谷川伸、村上元三といった作家を自ら訪問し、原作の映画化を願い出て快諾を得てきた。プロデューサーに任せるのではなく、原作者に自分が直接会いに行って、情熱を吐露し、誠意を尽くして交渉するのが錦之助の流儀であった。常に前向きで自信もあり、初対面の大家でも人気作家でも物おじすることがなかった。
 
 山岡荘八は長谷川伸が主宰する新鷹会(しんようかい)の主要メンバーだった。これは、長谷川を慕う大衆小説の作家たちが月一回長谷川邸に集まって、自作の小説を発表し、批評しあって切磋琢磨するという勉強会であった。土師清二が顧問格で、山岡のほかに山手樹一郎、村上元三、大林清、長谷川幸延、戸川幸夫といった面々が会員で、のちに池波正太郎、平岩弓枝も参加している。
 長谷川伸は、人望があって面倒見もよく、戦前からずっと後進の作家たちの育成に尽力していた。戦後は本格的な史伝に取り組み、股旅物の芝居を書くことはなかったが、戦前に書いた名作の数々は、GHQの規制がなくなると、再び舞台で上演され、映画でも次々にリメイクされた。長谷川伸は自分の旧作の主人公を演じたいと望む若手の役者たちにも暖かい目を向けたが、なかでも錦之助に大きな期待をかけていた。錦之助が「越後獅子祭」の片貝半四郎をやりたいと言ってきた時にも喜んで承諾し、激励したほどだった。
 長谷川に続き、新鷹会の幹事役でベストセラー作家の村上元三も進んで錦之助を応援し、朝日新聞に連載中の「源義経」を錦之助主演で映画化することにオーケーを出していた。
 山岡荘八は、山手樹一郎、村上元三に比べ、戦後の再スタートが遅れ、昭和20年代はヒット作もなく、二人の後塵を拝していた。昭和25年まで公職追放され、現代物や少年小説を細々と書いて糊口を凌いで来たが、その後もメジャーの新聞や雑誌に小説を連載することがなく、不遇をかこっていた。映画化された小説もほとんどなかった。
 熱血漢で酒好きの山岡は、書斎に積み上げた戦国時代の史料を前に朝から酒杯を傾け、徳川家康の壮大なロマンの構想を練っていた。前回書いたように、山岡が地方紙夕刊に「徳川家康」を連載し始めるのは昭和25年からである。昭和30年には、すでに「徳川家康」が数巻単行本化され、山岡もようやく多くの読者から再認識され始めた。「織田信長」は第一巻の単行本が発行されたばかりだった。
 
 思い立ったら吉日、錦之助は入院中の慶応病院から山岡荘八の家へ電話をかけた。山岡と面識のある父の時蔵に番号を教えてもらったのである。
 錦之助から電話をもらって、山岡は驚いたが、ぜひお会いしましょうと答えた。山岡はあの売り出し中のスターがいよいよ俺のところへもやって来るのかと思い、楽しみになった。師匠の長谷川伸からも同輩の村上元三からも錦之助の評判は聞いていたし、実は錦之助の主演作も何本か見て、親戚の若者に対するような身近な親しみを感じていたのだ。
 錦之助は退院すると、飛ぶようにして山岡荘八の家を訪ねた。世田谷の梅ヶ丘にある庭の広い古い家だった。
 玄関に出た山岡の奥さんが慌てて、
「ホンモノの錦ちゃんが見えましたよ」と、二階の書斎へ声をかけた。
 山岡は、人なつっこそうな笑顔で錦之助を迎え、客間へ案内した。頭に鉢巻のようなものをしていた。エジソンバンドである。磁気を帯びたキャタピラー状の金属板が付いた健康器具で、嘘かまことか、これを巻くと頭がすっきりするとか頭がよくなるとか言われていた。当時学生たちの間で流行した勉強用具でもあり、山岡は執筆中、常にこれを愛用していた。


 壮年期の山岡荘八 頭にエジソンバンドをしている

 山岡とは初対面の錦之助は、一風変わった先生だなと思った。太い眉毛に亀のような丸い目、鼻の下には口髭をたくわえ、もじゃもじゃ頭にエジソンバンドを締め、着物の両袖を上腕までめくり上げている。
 山岡荘八はこの時48歳、新潟出身の苦労人で、たたき上げの文士であった。高等小学校を中退し13歳で上京、印刷所の活字拾いから、編集者を経て、物書きになった。新潟と言えば越後、戦国時代は上杉謙信の領地であるが、山岡の風貌は、謙信ばりの武将というより、野武士か歩兵のようだった。
 錦之助はスーツ姿であった。山岡は、颯爽とした錦之助を見て、目を細めた。どこか少年の面影を残し、元服したばかりかと見まがうような初々しさである。モダンボーイだが、気品があり、戦国時代の名家の若大将が現代に生まれ変わったかのではないかといった錯覚すら覚える。

 山岡は、「まっ、どうぞ」と愛想よく座布団を勧めた。
 錦之助は「ありがとうごじます」と言いながら、座布団をよけ、その傍らに正座すると畳に両手をついて挨拶した。山岡もあわてて座り直し、深々と頭を下げる。
 錦之助は顔を上げると単刀直入に話を切り出した。
「実はきょう、お願いがあって伺ったのですが……」
「ほほう」と言って、山岡は頷くと、錦之助のほうを見た。
 手提げのバッグから「織田信長」の単行本を取り出すと、錦之助は両手で本を目の前に差し上げ、
「先生のご本、読ませていただきました。感動しました」と言う。
 山岡は、ニコッとして、続く言葉を待った。
 錦之助は目をキラキラ輝かせながら、
「このご本、ぜひ私にください。東映にではなく私個人にください。映画でこの信長をやってみたいのです。真剣に取り組みます。お願いします」と、本をさらに高く掲げて、頭を下げた。
 山岡は、錦之助のストレートな申し出に驚いた。と同時に、その情熱と自信に圧倒された。剣道でいえば、試合が始まってアッという間に一本取られた感じで、「参った!」という心境だった。山岡は、即答した。
「よし、君にあげましょう」
「えっ、ほんとうですか!」
「じゃあ、新潟のうまい酒があるんで、祝杯でもあげないか」

 山岡荘八はこの日以来、錦之助が好きになり、支援者になった。そして、自分の書いた若き信長のイメージは錦之助にぴったりだと感じるようになった。その後は錦之助をイメージしながら「織田信長」を書き続けていった。
 山岡の大作「徳川家康」(昭和40年、伊藤大輔監督)が東映で映画化された時も、信長役は錦之助であった。後年(昭和46年)、山岡荘八はNHKの大河ドラマのために「春の坂道」を書き下ろすが、主人公の柳生宗矩は錦之助をイメージして描いたものだった。NHKに主演は錦之助にするように指定したのも山岡自身であった。錦之助が東映を辞め、活躍の場をテレビと舞台に移してからも、山岡荘八は錦之助を支援し続けたのである。

 山岡は、映画「織田信長」の製作に際して、こんな文章を寄せている。
――不世出の大天才であった織田信長は、美男としても有名だった。精悍で、竹を割ったような淡白な性格は、錦之助君にはピッタリそのまま絵になると思う。映画化の話があった時から、若い信長のイメージを錦之助君に求めていただけに、今度の配役についても、私の描いた信長が、映画の上で再現されるという確信があり、原作者として実に心たのもしいものがある。錦之助君の信長によって、この映画「織田信長」が若い世代にアッピールすることを期待している。


『織田信長』(その1)

2015-07-17 19:06:05 | 織田信長
 昭和30年6月半ば、『源義経』の撮影が終わると、錦之助は東京の実家に帰り、一週間ほど休むとまた京都へ舞い戻った。次作の『織田信長』の撮影に入るためであった。
 『源義経』は目下編集の真っ最中で、封切りは一か月後である。錦之助の演じた牛若丸と義経がファンや一般の観客や口の悪い映画評論家たちからどのような評価を受けるかも分からないが、錦之助は全力を尽くして演じきったことに充足感を覚えることはあれ、後悔する気持ちはなかった。新たに意欲を掻き立て、次の映画へ進んで、大役の織田信長を演じようとしていた。


 錦之助の信長

 信長は、義経と同じ歴史上の英雄であるが、義経とはまったくタイプの違う強烈な個性の持ち主である。傍若無人の荒々しさ、天才的なひらめきと鋭さ、有無を言わせず人を統率していく並外れた魅力がある。
『笛吹童子』以来、美少年や前髪剣士に扮してきた錦之助にしてみれば、牛若丸と若き義経は、既成のイメージの延長線上にある役柄と言ってよかった。折り目正しい繊細な美しさに悲愴感を漂わせた人物像である。それに対し、信長は錦之助が今までにやったことのない剛毅な役柄で、太くて濃い線で逞しい人物像を描き上げなければならない。
 これまで俳優多しといえども義経と信長を演じた俳優は皆無に近かった。
 活動写真の大スター尾上松之助だけであろう。松之助は、講談、歌舞伎のおおよそすべての主人公を演じていて、義経にも信長にも扮している。が、これは大正時代のことで、トーキー以後、両者を演じた映画俳優は誰もいないはずだ。
 歌舞伎の舞台では、「花の海老さま」こと先々代市川海老蔵(のちに十一代目團十郎)が両者を演じている。海老蔵は戦後大佛次郎が彼のために書いた芝居「若き日の信長」(大佛次郎・作)で信長を当たり役としていた。それ以前に海老蔵は、「勧進帳」で、得意役の富樫のほかに一度だけ義経を演じたことがあった。
 錦之助は、義経と信長の両者を、なんと22歳のほぼ同時期に主役で演じようというのだ。錦之助の燃え盛るような意欲と積極果敢な挑戦心は推して知るべしであった。

 錦之助が信長を演じてみたいと思ったきっかけは、2月に盲腸の手術をして慶応病院に入院中の時だった。親友で日本テレビに勤めている樋口譲が見舞いに来て、面白いから読んでみろよと置いていった本があった。山岡荘八の歴史小説「織田信長」第一巻だった。読み始めるとすぐ錦之助はその面白さに引き込まれていった。
 山岡荘八の「織田信長」は、昭和29年春に月刊誌「小説倶楽部」に連載が始まり、「平凡」にも一部連載されたが、つい最近第一巻(無門の巻)が講談社から単行本として発行されたばかりであった。山岡はすでに北海道新聞、中日新聞、西日本新聞の地方紙夕刊に「徳川家康」を連載していたが、同時並行して「織田信長」も書いていた。
 山岡荘八は、戦時中に従軍作家として戦意高揚小説を書いたことで終戦後公職追放され、それが解けた昭和25年から再び精力的にペンを執り始めた。創作のテーマは戦争と平和で、愛国精神は戦前から一貫して変わらなかった。山岡は国家存亡の危機と平和への祈願を、戦国時代を舞台にした歴史小説に託して描き、戦後の多くの日本人の共感を勝ち得たのである。「織田信長」は全8巻(文庫版は5巻)、5年で書き終わるが、「徳川家康」は完結するまで足かけ18年もかかり、全26巻に上った。「家康」は山岡荘八のライフワークであった。「徳川家康」が大ベストセラーになり、日本中に空前の家康ブームが巻き起こるのは、日本が高度成長期を迎え始める昭和30年代半ばである。以来半世紀にわたってロングセラーを続けている。そして「徳川家康」は、韓国では1970年代に全訳され評判になり、中国では最近翻訳発行され(2007年11月第1巻発行)、全13巻で200万部を越えるベストセラーになっている。


 山岡荘八(1907~1978)

 ところで、山岡荘八の小説「織田信長」は、15歳の信長に斎藤道三の娘濃姫との縁談が持ち上がるところから始まっていた。信長は、すでに元服し、吉法師から三郎信長を名乗り、尾張那古野城の城主であったが、少年時代からの暴れん坊ぶりは変わらず、大うつけ者と呼ばれている。
 信長は若い家来を率いて野生児のように領内を馬で駆け巡り、奇行が多く、領外にもその悪評は聞こえていたが、後見役の家老平手政秀は信長の器量を見込み、美濃の領主斎藤道三と同盟を結ぶため、才色兼備の濃姫を信長にめとらせようと画策する。
 一方、マムシの異名を持つ策謀家の道三も、いずれ尾張を掌握する腹積もりだから、この縁談に乗り気で、最愛の娘濃姫を尾張の大うつけ者に嫁がせる。濃姫に信長身辺の情報を提供させ、いざとなれば信長を刺し殺せと命じるのだが、濃姫もマムシの子だけあって、信長がいとおしくなれば、父に刃を向けるかもしれないと言って那古野城へ輿入れする。濃姫は信長より3歳年長の18歳であった。
 政略結婚によって結ばれた信長と濃姫の夫婦関係を軸に、斎藤道三、平手政秀、そして信長の父織田信秀などの個性的な人物が登場して、物語がダイナミックに展開する。「織田信長」は、連載物らしく一回一回が読み切りのショートストリーのようで、読者を飽きさせず、娯楽性豊かな歴史小説であった。
 錦之助は自分が信長になったような気になって、一心不乱に読みふけった。
 若き日の信長のガキ大将ぶり、先見性と決断力のある行動型人間のところなど、自分に似ているではないか。なぜか勝気な才女に弱い点までそっくりだ。



信長と平手政秀

2014-05-24 09:32:44 | 織田信長
 私の大好きな錦之助映画に「紅顔の若武者 織田信長」がある。
 錦之助初めての汚れ役である。とは言っても、途中で、颯爽と変身。錦ちゃん得意のメタモルフォーゼだ!! お寺の名前は何と言ったか(最近物忘れが激しい)、正徳寺だ。そこで初めて、お舅の斎藤道三とまみえることになり、裃姿に着替えた信長が袴の裾を引きずりながら廊下を歩いていく。そのバストショットが映し出され、ぐいっとキャメラが寄り(キャメラマン坪井誠得意の移動撮影)、なんとも凛々しい錦之助の信長の顔のアップ。「やった!」と思わず声を上げるのは私だけであるまい。錦之助の顔は薄い白塗りで、唇に紅を塗っていた(白黒だが)。目張りはちょうどよく(以前は入れすぎのこともあった)、額と髪の生え際のラインがくっきり見えた。頭髪は、茶せん髷というのか、源義経とは全然違う。時代が違うので当たり前だ。
 会見の間では、道三の進藤英太郎が座って待っていて、信長を見るや、びっくりこく。「むこ殿」とか何とか言っちゃって、態度豹変。この時の錦之助のセリフ回しが、吉法師の時とまったく変え、ちょっと歌舞伎調で(と言っても錦之助独特の映画的な話し方)、気品と威厳があった。真面目くさって演じている錦ちゃんが目に浮かぶ。道三と信長のこのシーンは、何度見ても、面白い。錦之助が観客を驚かしてやろうとたくらんだ芝居で、錦之助もあとでうまく行ったとほくそえんだに違いない。進藤英太郎もさすがに名優で、その慌てぶりのうまいのなんの。錦ちゃんとの息の合った掛け合いは、演技の妙。この映画でいちばん笑えるシーンだった。
 「紅顔の若武者 織田信長」は、名場面が多い。錦之助は決して逞しくなく、なで肩で女性的な体つきである。それが、茶色いドウランを体中に塗りたぐり、セリフもわざとぞんざいに言って荒々しさを出そう努め、新たな演技に挑戦した錦之助。お見事でした。拍手!
 月形龍之介の平手政秀が素晴らしかった。若き信長を暖かく見守り、「わこは天下をとる器」だと信じて、期待をかける政秀。月形と錦之助。二人の名場面はたくさんあるけれども、私は、平手政秀と信長をベスト・スリーに入れる。
 この映画、録画したDVDを3年ほど見ていないので、今書いていることは全部記憶に頼っている。確か、政秀と信長の二人だけのシーンで、信長(吉法師)が自分の将来の志を語るところがあった。政秀の月形が、聞き役にまわり、「それで?」と何度か言い、信長の話を聞きながら、目を輝かしていくところがあったと思うが、その時の月形の表情の変化が私の目に焼きついている。それと、諌死する前の晩に、信長を囲炉裏端に残し、寂しく廊下を去っていく月形の後姿が忘れられない。
 この映画では、信長の奥方・濃姫役の高千穂ひづるも頑張っていたが、高千穂さんの演技はこの頃はまだどうしても宝塚的な感じになっていた。こんなことを書くと高千穂さんに叱られるが、ちょっと学芸会的な芝居になってしまうのだ。松竹へ移籍してからの高千穂さんの方が演技は数段進歩しているが、錦ちゃんファンはあまりご覧になっていないようだ。
 戻って、私がなんでまたこの映画のことを書こうかと思ったその動機は、昨日、書庫から古書を引っ張り出してめくっていたら、平手政秀が信長へ宛てた「死諌の書」というのが目に留まったからである。以下、「新撰 書翰集」(有朋堂文庫 大正7年)から引用して、私の拙い現代語訳を添えておく。

臣謹(つつしみ)て啓上奉るの旨趣は、偏(ひとえ)に主家の高運を寿(ことぶ)き願ふの外に他義なし。(家臣である私がご忠告申し上げる主旨は、ただただお家のご家運めでたしと願うことのほかありません)
それ今列国瓜(うり)の如くに割け、海内闘争の巷と成り行けば、血路を踏まざる無し。(今は諸国が瓜が割れるように引き裂かれ、国中が闘争のちまたとなってしまい、敵を打ち破って進むしか道がなくなりました)
(あま)つさえ各国の諸将、浅井、朝倉、今川、北條、武田、上杉、佐々木、斎藤の面々、威を震ひ権を争ひ、相互に天下を併呑せんと欲するの時なり。(それでなくとも各国の武将、浅井、朝倉、今川、北條、武田、上杉、佐々木、斎藤の面々が、勢威を増し、権力争いをして、それぞれ天下を統一しようとしている時であります)
君は行状を誤まり無名の刑罰を下して管内に布き及ぼし、怨おうを持ち、万民を酷虐す。(あなた様は行ないを誤り、いわれもなき刑罰を下し、国内に布告し、冤罪をもって万民を虐待しています)
悲しい哉悼ましい哉。(ああなんと悲しいこと、いたましいことでしょう)
当家の滅亡は此時なり。(当家の滅亡もこの時です)
臣つらつら旧き事を懐(おも)うに、当国吉良大浜の合戦に君は初陣して、今川義元の逞兵(ていへい)を破り、名誉の功績を顕はし給ふ。(つらつら昔のことを思い出しますと、当国は吉良大浜の合戦であなた様が初陣なさって、今川義元の強兵を破り、名誉の功績をお挙げになりました)
しかるより以来、諸処の戦功は、全くあっぱれ御大将の器量備はせられ、一族侍臣の歓喜は斜ならず。(その時以来、あちこちで上げた戦功は、まったく天晴れで、御大将の器量を備えられ、一族臣下の喜びは非常に大きなものでした)
然るに、故信秀公の逝去の後は、専ら非分の令を施し、就中(なかんづく)往来の僧侶を捕へ禁獄せしめ、かつて萬松寺に追福の設けを為す事、是れ軽卒の至り、奇怪の一事と謂ふべき者也。(それにもかかわらず、故信秀公の逝去のあとは、もっぱら道理にかなわない命令を下し、とくに往来にいる僧侶を捕え投獄し、かつて萬松寺で追善の宴を催したことなどは軽卒きわまりなく、奇怪なことというべきものでした)
臣いやしくも君を繦褓(きょうほ)の中より御乳母為れば、之を見るに堪へず、屡々諫言を奉ると雖も、敢て容れられず。(私はいやしくもあなた様がおむつをなさっている頃から養育させていただいた者ですから、こうしたことは見るに見るかね、しばしばお諌め申し上げましたが、お取り上げくださりませんでした)
然るときは即ち当家破滅の基を目撃し、然るより国家陥る時に至り、死後に何の面目有て先君に謁し奉るべきや。(ここに至って、当家が破滅する証左を目撃し、国家が陥落する危機に際し、死後に先君信秀公にお目にかかる面目もありません)
是に於て一命を抛ち史魚が死諌の誠を顕はし、一紙を残し、愚息監物をして遺言せしむ。(そこで一命を捨て、老いたる私が死んでお諌めするという誠を尽くし、この紙に書いて、愚息の監物に遺言いたします)
政秀は戦場に非らずして徒らに命をかへし亡せば、遺憾の情は謂ふ計り無し。(政秀は、戦場ではなく無駄に命を捨てるのですから、遺憾の気持ちは言葉に表しようもありません)
君愛憐を垂れて、九牛の一毛も此書に依て放逸の御心を翻へし、能を挙げ侫(ねい)を退け、庶民を撫恤(ぶじゅつ)し、寛容にして淳朴を守り給はば、織田家の累代の不朽の嘉瑞(かずい)疑ひ無し。(あなた様の憐憫の情をたまわって、少しでもこの遺書によって、あなた様が放逸のお心を改め、能力ある者を生かし、へつらう者を退け、庶民を慰めいたわり、寛容さと純朴さを忘れずにいていただければ、織田家子孫の永遠の瑞祥は疑いありません)
恐惶再拝。(敬白)

 平手政秀は、織田信秀、信長の二代にわたって織田家に仕えた重臣であった。信長より40歳も年上で、信長が誕生した頃(1534年)からのお守役で、信長が14歳で初陣した時には後見役を務めた。斎藤道三の娘濃姫を信長の嫁にするのを画策したのも政秀だった。信秀は元服した信長に那古野城を譲り、自らは末森城に移るが、間もなく病死する(1551年)。
 その後、兄弟間の血族の争いが続く。
 平手政秀が諌死するのは、1553年初めのことだった。享年62歳。この時、信長は20歳。
 桶狭間の戦いが、1560年で、その7年後であった。

 

『紅顔の若武者 織田信長』(その2)

2006-08-21 07:46:40 | 織田信長

<濃姫の高千穂ひづる>

 『紅顔の若武者・織田信長』は、錦之助の素晴らしさはもちろんのこと、共演者も最高で、作品的にも傑作だった。
 まず、濃姫を演じた高千穂ひづるが魅力的だった。利口で気が強そうなのだがそうでもなさそうで、美しい上にしかも可愛らしいところのある不思議な魅力を振りまいていた。こういう女性は、何を隠そう、私の好みのタイプでもある。
 濃姫は斉藤道三の娘で、いざとなれば信長を殺せという父の命を受け、短剣を忍ばせて信長に嫁いだのだが、次第に信長に魅せられていく。信長も徐々に濃姫に心を許すようになり、政略結婚で夫婦になった二人が互いに愛し始める。戦国乱世のこの稀に見るラヴ・ストーリーが映画の本筋になっているのだが、これが実に良いのだ。錦之助と高千穂ひづるの組み合わせは申し分なく、この二人の場面はどれも良かった。濃姫の膝枕で寝てしまった信長を濃姫がいとおしがる場面、信長の死を覚悟して白装束で待っていた濃姫が帰って来た正装姿の信長を出迎える場面、二人が身を寄り添い合って将来を展望するラスト・シーンなどは、すっかり見惚れてしまった。
 次に、信長の重臣平手政秀を演じた月形龍之介が絶品だった。この月形の姿は目に焼きついて離れない。錦之助と月形の二人が演じた名場面は、本当に数多いが、信長と平手政秀は、家光と彦左衛門の主従関係とは味わいが違い、甲乙付けがたい見事な共演だったと思う。月形の政秀が最後に信長の居る部屋へやってきて、信長のいれた茶を飲みながら、二言三言言葉を交わし、寂しげに帰っていくまでのシーンは胸を打つ。政秀は切腹して信長に諫言するのだが、このあたりは映画中盤のクライマックスである。錦之助の信長が川に飛び込んで、死んだ政秀を悼んで慟哭するシーンも印象的だが、その前のシーンで政秀の亡骸を前にして嘆き悲しむ信長に対し、政秀の妻の松浦筑枝が切々と遺書を読み上げるところはとくに感動する。
 斉藤道三を演じた進藤英太郎がまた良かった。道三は「マムシ」という異名を持つツワモノであるが、進藤英太郎の演技も絶妙であった。決して悪役ではなく、一癖も二癖のある性格に滑稽さ加えた愛すべき道三だった。会いにきた信長を殺そうとはするものの、立派な正装姿で自分の前に現れた信長を見て、急に態度を変え「婿殿」と呼ぶところなど、奥ゆかしくさえあった。
 信長の父織田信秀を演じた柳永二郎の演技も見落とせない。傍若無人な振舞いをする信長の本心を理解し、あくまでも信頼を裏切らない愛情ある父親を演じていた。
 
 最後にこの映画の製作スタッフとデータを付け加えておこう。企画はマキノ光雄と小川三喜雄(錦之助の兄)、山岡壮八の原作を結束信二が脚色し、監督は河野寿一、撮影坪井誠、音楽高橋半、美術吉村晃であった。昭和30年9月20日公開、白黒スタンダード、92分。
 残念ながらこの映画はビデオ化されていない。



『紅顔の若武者 織田信長』(その1)

2006-08-21 07:04:51 | 織田信長

 錦之助くらい織田信長を懸命に演じ、そして見事に演じ切った俳優はいなかったと思う。信長と言えば私には錦之助しか思い浮かばない。とくに若き日の信長を演じた錦之助は、エネルギッシュな魅力に溢れ、たくましさと気品があり、惚れ惚れするほどの若武者ぶりであった。「大うつけ者」と呼ばれた吉法師(きちほうし)時代から、天下を取ろうと決意し、立派な戦国武将・織田信長に成長するまでを演じた錦之助は、抜群に素晴らしい。信長、秀吉、家康の三人のなかで、日本人が最も魅力を感じる人物は、いつの世であれ、信長であるが、それは信長のイメージが、自由奔放で独創的、決断力に富む行動型で、積極果敢、しかも貴公子然としているからなのだと言える。これは信長を演じた錦之助のイメージとも重なっている。信長は錦之助がぴったりだし、錦之助が生きた信長像を造形したとさえ、私は思っている。
 錦之助の信長は、冷酷な暴君のような信長ではない。吉法師の頃は荒くれ者で愛情に飢えた反抗期のガキ大将のようであるが、信長として独り立ちしてからは、上に挙げた信長のイメージに加え、孤高なまでの気位と情愛の深さを感じる立派な信長であった。私は、信長と錦之助のイメージが重なっていると書いたが、信長を演じる以前の錦之助のイメージは違っていた。若い頃の錦之助は、少年っぽさが残る美剣士役や、時には気弱でナヨナヨした若者や女役すら演じたこともあって、凛々しさの中にあどけなさが感じられた。上品だが甘さのある魅力とでも言おうか、若い女性や子供たちにとってはそれがアイドル的な人気のもとにもなった。しかし、錦之助はそうした自分のイメージに満足しなかったのだと思う。
 錦之助は、男性的でたくましい信長を演じることによって従来のイメージを完全に払拭した。信長によって錦之助は、いわば蛹(さなぎ)からかえった蝶のように羽ばたいた。いや、蝶と言うのは、何か弱々しい気がする。ヒナから成長した鷲のようになって飛翔したと言った方が良いかもしれない。信長という、日本人の間では圧倒的な人気を誇る戦国武将を演じることは、錦之助にとって大きな意味があった。それは、単に映画俳優としてイメージチェンジするというだけでなく、燃えるような意欲と絶対の自信を身に付ける転機にもなった。日本映画界で人気・実力ともにナンバーワンになろうという野心、そうした天下取りの野心を信長を演じた錦之助は胸に秘めることになったとも言えるのではなかろうか。
 
 『紅顔の若武者・織田信長』(昭和30年)は、錦之助にとってまさに記念碑的な映画だったと思う。この作品は、錦之助が汚れ役に初挑戦したことで話題をまいた。雑誌で撮影現場を写したスナップを見た錦之助ファンが河野寿一監督のもとへ嘆願だか非難だか脅迫だか分からない手紙をたくさん送ったというのだから、驚く。要するに、錦ちゃんの美しいイメージを壊さないでほしいという文面だったらしい。河野監督は、もしこれで無様な映画を作ったら、外に出て歩けないと思ったと語っている。当時とすれば、それほど錦之助の信長は大胆な汚れ役だった。今観ても、よくぞここまでやったと私が思うほどだから、錦之助の意気込みも尋常ではなった。
 錦之助の初めての汚れ役は、こんな感じである。顔から何からむき出した肌全体に茶色のドーランを塗りたぐり、髪はぼうぼう、浴衣のような着物をだらしなく着て、帯は荒縄で、長い刀を突き立てるように差している。腰には瓢箪や袋をぶら下げ、着物の裾は乱れ、脛丸出しで、素足のまま。これが大うつけ者若き信長の格好であった。格好だけではない。言葉遣いも動作も粗暴だった。もちろん、錦之助は、こうした役作りを自分で工夫して演じた。荒削りで八方破れとも言える体当たりの演技に挑戦したのだった。
 ただし、である。もしこうした傍若無人な荒くれ者の信長だけで終わってしまったとしたら、ファンはブーイングを浴びせたかもしれない。しかし、この映画には心憎いばかりの鮮やかな演出が仕組まれていた。クライマックスで、これぞ錦之助といった晴れ姿の信長が颯爽と登場するのだ。これを観て、ファンはあっと驚いたにちがいない。息をのむほど美しい立派な信長なのである。この姿を最後に観客に見せるために、またそのコントラストを引き立てるために、わざわざ汚れ役を演じていたのではないかと思うほどなのだ。これでファンは納得し、また大いに満足したことは間違いない。それほどの素晴らしさだった。(つづく)