山岡荘八の「織田信長」を読みながら、錦之助は、身体中の血が沸き上がるような興奮を覚えた。是が非でも信長がやってみたい。そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。小説の映画化権のことが気になって仕方がなかった。
「えい、こうなったら直談判してみよう」と錦之助は思った。
これまで錦之助は、子母澤寛、長谷川伸、村上元三といった作家を自ら訪問し、原作の映画化を願い出て快諾を得てきた。プロデューサーに任せるのではなく、原作者に自分が直接会いに行って、情熱を吐露し、誠意を尽くして交渉するのが錦之助の流儀であった。常に前向きで自信もあり、初対面の大家でも人気作家でも物おじすることがなかった。
山岡荘八は長谷川伸が主宰する新鷹会(しんようかい)の主要メンバーだった。これは、長谷川を慕う大衆小説の作家たちが月一回長谷川邸に集まって、自作の小説を発表し、批評しあって切磋琢磨するという勉強会であった。土師清二が顧問格で、山岡のほかに山手樹一郎、村上元三、大林清、長谷川幸延、戸川幸夫といった面々が会員で、のちに池波正太郎、平岩弓枝も参加している。
長谷川伸は、人望があって面倒見もよく、戦前からずっと後進の作家たちの育成に尽力していた。戦後は本格的な史伝に取り組み、股旅物の芝居を書くことはなかったが、戦前に書いた名作の数々は、GHQの規制がなくなると、再び舞台で上演され、映画でも次々にリメイクされた。長谷川伸は自分の旧作の主人公を演じたいと望む若手の役者たちにも暖かい目を向けたが、なかでも錦之助に大きな期待をかけていた。錦之助が「越後獅子祭」の片貝半四郎をやりたいと言ってきた時にも喜んで承諾し、激励したほどだった。
長谷川に続き、新鷹会の幹事役でベストセラー作家の村上元三も進んで錦之助を応援し、朝日新聞に連載中の「源義経」を錦之助主演で映画化することにオーケーを出していた。
山岡荘八は、山手樹一郎、村上元三に比べ、戦後の再スタートが遅れ、昭和20年代はヒット作もなく、二人の後塵を拝していた。昭和25年まで公職追放され、現代物や少年小説を細々と書いて糊口を凌いで来たが、その後もメジャーの新聞や雑誌に小説を連載することがなく、不遇をかこっていた。映画化された小説もほとんどなかった。
熱血漢で酒好きの山岡は、書斎に積み上げた戦国時代の史料を前に朝から酒杯を傾け、徳川家康の壮大なロマンの構想を練っていた。前回書いたように、山岡が地方紙夕刊に「徳川家康」を連載し始めるのは昭和25年からである。昭和30年には、すでに「徳川家康」が数巻単行本化され、山岡もようやく多くの読者から再認識され始めた。「織田信長」は第一巻の単行本が発行されたばかりだった。
思い立ったら吉日、錦之助は入院中の慶応病院から山岡荘八の家へ電話をかけた。山岡と面識のある父の時蔵に番号を教えてもらったのである。
錦之助から電話をもらって、山岡は驚いたが、ぜひお会いしましょうと答えた。山岡はあの売り出し中のスターがいよいよ俺のところへもやって来るのかと思い、楽しみになった。師匠の長谷川伸からも同輩の村上元三からも錦之助の評判は聞いていたし、実は錦之助の主演作も何本か見て、親戚の若者に対するような身近な親しみを感じていたのだ。
錦之助は退院すると、飛ぶようにして山岡荘八の家を訪ねた。世田谷の梅ヶ丘にある庭の広い古い家だった。
玄関に出た山岡の奥さんが慌てて、
「ホンモノの錦ちゃんが見えましたよ」と、二階の書斎へ声をかけた。
山岡は、人なつっこそうな笑顔で錦之助を迎え、客間へ案内した。頭に鉢巻のようなものをしていた。エジソンバンドである。磁気を帯びたキャタピラー状の金属板が付いた健康器具で、嘘かまことか、これを巻くと頭がすっきりするとか頭がよくなるとか言われていた。当時学生たちの間で流行した勉強用具でもあり、山岡は執筆中、常にこれを愛用していた。
壮年期の山岡荘八 頭にエジソンバンドをしている
山岡とは初対面の錦之助は、一風変わった先生だなと思った。太い眉毛に亀のような丸い目、鼻の下には口髭をたくわえ、もじゃもじゃ頭にエジソンバンドを締め、着物の両袖を上腕までめくり上げている。
山岡荘八はこの時48歳、新潟出身の苦労人で、たたき上げの文士であった。高等小学校を中退し13歳で上京、印刷所の活字拾いから、編集者を経て、物書きになった。新潟と言えば越後、戦国時代は上杉謙信の領地であるが、山岡の風貌は、謙信ばりの武将というより、野武士か歩兵のようだった。
錦之助はスーツ姿であった。山岡は、颯爽とした錦之助を見て、目を細めた。どこか少年の面影を残し、元服したばかりかと見まがうような初々しさである。モダンボーイだが、気品があり、戦国時代の名家の若大将が現代に生まれ変わったかのではないかといった錯覚すら覚える。
山岡は、「まっ、どうぞ」と愛想よく座布団を勧めた。
錦之助は「ありがとうごじます」と言いながら、座布団をよけ、その傍らに正座すると畳に両手をついて挨拶した。山岡もあわてて座り直し、深々と頭を下げる。
錦之助は顔を上げると単刀直入に話を切り出した。
「実はきょう、お願いがあって伺ったのですが……」
「ほほう」と言って、山岡は頷くと、錦之助のほうを見た。
手提げのバッグから「織田信長」の単行本を取り出すと、錦之助は両手で本を目の前に差し上げ、
「先生のご本、読ませていただきました。感動しました」と言う。
山岡は、ニコッとして、続く言葉を待った。
錦之助は目をキラキラ輝かせながら、
「このご本、ぜひ私にください。東映にではなく私個人にください。映画でこの信長をやってみたいのです。真剣に取り組みます。お願いします」と、本をさらに高く掲げて、頭を下げた。
山岡は、錦之助のストレートな申し出に驚いた。と同時に、その情熱と自信に圧倒された。剣道でいえば、試合が始まってアッという間に一本取られた感じで、「参った!」という心境だった。山岡は、即答した。
「よし、君にあげましょう」
「えっ、ほんとうですか!」
「じゃあ、新潟のうまい酒があるんで、祝杯でもあげないか」
山岡荘八はこの日以来、錦之助が好きになり、支援者になった。そして、自分の書いた若き信長のイメージは錦之助にぴったりだと感じるようになった。その後は錦之助をイメージしながら「織田信長」を書き続けていった。
山岡の大作「徳川家康」(昭和40年、伊藤大輔監督)が東映で映画化された時も、信長役は錦之助であった。後年(昭和46年)、山岡荘八はNHKの大河ドラマのために「春の坂道」を書き下ろすが、主人公の柳生宗矩は錦之助をイメージして描いたものだった。NHKに主演は錦之助にするように指定したのも山岡自身であった。錦之助が東映を辞め、活躍の場をテレビと舞台に移してからも、山岡荘八は錦之助を支援し続けたのである。
山岡は、映画「織田信長」の製作に際して、こんな文章を寄せている。
――不世出の大天才であった織田信長は、美男としても有名だった。精悍で、竹を割ったような淡白な性格は、錦之助君にはピッタリそのまま絵になると思う。映画化の話があった時から、若い信長のイメージを錦之助君に求めていただけに、今度の配役についても、私の描いた信長が、映画の上で再現されるという確信があり、原作者として実に心たのもしいものがある。錦之助君の信長によって、この映画「織田信長」が若い世代にアッピールすることを期待している。
「えい、こうなったら直談判してみよう」と錦之助は思った。
これまで錦之助は、子母澤寛、長谷川伸、村上元三といった作家を自ら訪問し、原作の映画化を願い出て快諾を得てきた。プロデューサーに任せるのではなく、原作者に自分が直接会いに行って、情熱を吐露し、誠意を尽くして交渉するのが錦之助の流儀であった。常に前向きで自信もあり、初対面の大家でも人気作家でも物おじすることがなかった。
山岡荘八は長谷川伸が主宰する新鷹会(しんようかい)の主要メンバーだった。これは、長谷川を慕う大衆小説の作家たちが月一回長谷川邸に集まって、自作の小説を発表し、批評しあって切磋琢磨するという勉強会であった。土師清二が顧問格で、山岡のほかに山手樹一郎、村上元三、大林清、長谷川幸延、戸川幸夫といった面々が会員で、のちに池波正太郎、平岩弓枝も参加している。
長谷川伸は、人望があって面倒見もよく、戦前からずっと後進の作家たちの育成に尽力していた。戦後は本格的な史伝に取り組み、股旅物の芝居を書くことはなかったが、戦前に書いた名作の数々は、GHQの規制がなくなると、再び舞台で上演され、映画でも次々にリメイクされた。長谷川伸は自分の旧作の主人公を演じたいと望む若手の役者たちにも暖かい目を向けたが、なかでも錦之助に大きな期待をかけていた。錦之助が「越後獅子祭」の片貝半四郎をやりたいと言ってきた時にも喜んで承諾し、激励したほどだった。
長谷川に続き、新鷹会の幹事役でベストセラー作家の村上元三も進んで錦之助を応援し、朝日新聞に連載中の「源義経」を錦之助主演で映画化することにオーケーを出していた。
山岡荘八は、山手樹一郎、村上元三に比べ、戦後の再スタートが遅れ、昭和20年代はヒット作もなく、二人の後塵を拝していた。昭和25年まで公職追放され、現代物や少年小説を細々と書いて糊口を凌いで来たが、その後もメジャーの新聞や雑誌に小説を連載することがなく、不遇をかこっていた。映画化された小説もほとんどなかった。
熱血漢で酒好きの山岡は、書斎に積み上げた戦国時代の史料を前に朝から酒杯を傾け、徳川家康の壮大なロマンの構想を練っていた。前回書いたように、山岡が地方紙夕刊に「徳川家康」を連載し始めるのは昭和25年からである。昭和30年には、すでに「徳川家康」が数巻単行本化され、山岡もようやく多くの読者から再認識され始めた。「織田信長」は第一巻の単行本が発行されたばかりだった。
思い立ったら吉日、錦之助は入院中の慶応病院から山岡荘八の家へ電話をかけた。山岡と面識のある父の時蔵に番号を教えてもらったのである。
錦之助から電話をもらって、山岡は驚いたが、ぜひお会いしましょうと答えた。山岡はあの売り出し中のスターがいよいよ俺のところへもやって来るのかと思い、楽しみになった。師匠の長谷川伸からも同輩の村上元三からも錦之助の評判は聞いていたし、実は錦之助の主演作も何本か見て、親戚の若者に対するような身近な親しみを感じていたのだ。
錦之助は退院すると、飛ぶようにして山岡荘八の家を訪ねた。世田谷の梅ヶ丘にある庭の広い古い家だった。
玄関に出た山岡の奥さんが慌てて、
「ホンモノの錦ちゃんが見えましたよ」と、二階の書斎へ声をかけた。
山岡は、人なつっこそうな笑顔で錦之助を迎え、客間へ案内した。頭に鉢巻のようなものをしていた。エジソンバンドである。磁気を帯びたキャタピラー状の金属板が付いた健康器具で、嘘かまことか、これを巻くと頭がすっきりするとか頭がよくなるとか言われていた。当時学生たちの間で流行した勉強用具でもあり、山岡は執筆中、常にこれを愛用していた。
壮年期の山岡荘八 頭にエジソンバンドをしている
山岡とは初対面の錦之助は、一風変わった先生だなと思った。太い眉毛に亀のような丸い目、鼻の下には口髭をたくわえ、もじゃもじゃ頭にエジソンバンドを締め、着物の両袖を上腕までめくり上げている。
山岡荘八はこの時48歳、新潟出身の苦労人で、たたき上げの文士であった。高等小学校を中退し13歳で上京、印刷所の活字拾いから、編集者を経て、物書きになった。新潟と言えば越後、戦国時代は上杉謙信の領地であるが、山岡の風貌は、謙信ばりの武将というより、野武士か歩兵のようだった。
錦之助はスーツ姿であった。山岡は、颯爽とした錦之助を見て、目を細めた。どこか少年の面影を残し、元服したばかりかと見まがうような初々しさである。モダンボーイだが、気品があり、戦国時代の名家の若大将が現代に生まれ変わったかのではないかといった錯覚すら覚える。
山岡は、「まっ、どうぞ」と愛想よく座布団を勧めた。
錦之助は「ありがとうごじます」と言いながら、座布団をよけ、その傍らに正座すると畳に両手をついて挨拶した。山岡もあわてて座り直し、深々と頭を下げる。
錦之助は顔を上げると単刀直入に話を切り出した。
「実はきょう、お願いがあって伺ったのですが……」
「ほほう」と言って、山岡は頷くと、錦之助のほうを見た。
手提げのバッグから「織田信長」の単行本を取り出すと、錦之助は両手で本を目の前に差し上げ、
「先生のご本、読ませていただきました。感動しました」と言う。
山岡は、ニコッとして、続く言葉を待った。
錦之助は目をキラキラ輝かせながら、
「このご本、ぜひ私にください。東映にではなく私個人にください。映画でこの信長をやってみたいのです。真剣に取り組みます。お願いします」と、本をさらに高く掲げて、頭を下げた。
山岡は、錦之助のストレートな申し出に驚いた。と同時に、その情熱と自信に圧倒された。剣道でいえば、試合が始まってアッという間に一本取られた感じで、「参った!」という心境だった。山岡は、即答した。
「よし、君にあげましょう」
「えっ、ほんとうですか!」
「じゃあ、新潟のうまい酒があるんで、祝杯でもあげないか」
山岡荘八はこの日以来、錦之助が好きになり、支援者になった。そして、自分の書いた若き信長のイメージは錦之助にぴったりだと感じるようになった。その後は錦之助をイメージしながら「織田信長」を書き続けていった。
山岡の大作「徳川家康」(昭和40年、伊藤大輔監督)が東映で映画化された時も、信長役は錦之助であった。後年(昭和46年)、山岡荘八はNHKの大河ドラマのために「春の坂道」を書き下ろすが、主人公の柳生宗矩は錦之助をイメージして描いたものだった。NHKに主演は錦之助にするように指定したのも山岡自身であった。錦之助が東映を辞め、活躍の場をテレビと舞台に移してからも、山岡荘八は錦之助を支援し続けたのである。
山岡は、映画「織田信長」の製作に際して、こんな文章を寄せている。
――不世出の大天才であった織田信長は、美男としても有名だった。精悍で、竹を割ったような淡白な性格は、錦之助君にはピッタリそのまま絵になると思う。映画化の話があった時から、若い信長のイメージを錦之助君に求めていただけに、今度の配役についても、私の描いた信長が、映画の上で再現されるという確信があり、原作者として実に心たのもしいものがある。錦之助君の信長によって、この映画「織田信長」が若い世代にアッピールすることを期待している。