マキノ雅弘という監督は、恋愛映画の名手だった。現代劇ではない。時代劇や明治物の恋愛映画である。この人の手にかかると、任侠物、股旅物といったジャンルの作品でも、極めて日本的な、プラトニックな恋愛映画に仕上がってしまう。いや、仕上げてしまうと言ったほうが良いかもしれない。
やくざ映画の主題といえば、渡世の義理とか男の任侠道とかであろうが、彼はこうした主題よりむしろ、やくざな男と市井の女(堅気の娘でも芸者でも遊女でもよい)との間に芽生える恋心や、惚れた男と女同士の心の通じ合いや絆といったものが好きで、これをいかに情感たっぷり表現するかに苦心していたようだ。それは、欧米的な"love affair"(情事)という概念とは程遠く、また現代の日本人の恋愛観とも異次元にある、古い日本的な恋愛の理想形というものだった。
『清水港の名物男 遠州森の石松』(昭和33年6月末公開)は、マキノ雅弘が監督し、錦之助が主演した映画のなかで、『弥太郎笠』(昭和35年)と双璧をなす恋愛映画の名作になっている。
錦之助が森の石松を演じるのはこれが二度目。錦之助の石松は、それほどそそっかしい性格でもなく、馬鹿正直で単純な男でもない。純粋だが大変物分りが良く、ロレツもよく回り、気風も良い、要するに大変格好良いのだ。従来の石松のイメージ(たとえば森繁久弥の石松)とはまったく違う、粋な石松なのである。マキノ監督は、こうした錦之助の石松だからこそ、石松が主役のこの作品を恋愛映画に仕立てたのかもしれない。
もちろんこの映画は、講談や浪曲の「清水次郎長伝」にある名場面「石松の金毘羅代参」の部分を描いたものだ。次郎長が女房のお蝶と豚松を喧嘩に巻き込み死なせてしまった後、刀を金毘羅さまへ奉納するため子分の森の石松を使いにやる。石松は無事奉納を済ませ、帰途につくのだが、途中、地元の親分から香典に二十五両をもらい、その後友達の七五郎夫婦の家に立ち寄る。この金がもとで、石松は都田兄弟のだまし討ちに会い、お堂のそばで無残にも殺されてしまう。このくだりである。
村上元三の「次郎長三国志」では終わり近くに描かれ、連綿として続く群像ドラマの山場になっているところだ。マキノ監督はこの原作を九部作のシリーズとして東宝で映画化しているが、「石松の金毘羅代参」は、第八部『海道一の暴れん坊』に相当し、マキノ監督のアイディアで原作にはない潤色がほどこされている。石松と遊女夕顔の話とラストの石松開眼である。錦之助はマキノ監督から『次郎長三国志』のシナリオを借りて読み、石松をやりたいから第八部をぜひ再映画化してほしいと懇願したという。それで製作されたのがこの『遠州森の石松』である。そして、このリメイク版では「金毘羅代参」の筋立てを大きく変え、話の中心を石松と夕顔とのロマンスに絞って作り変えたのだった。
この映画のハイライトは、金毘羅参りを終えた石松が廓で夕顔という遊女(丘さとみ)と一夜を共にするシーンである。ここには、恋愛映画にはお決まりの接吻や抱擁もなく、ただ、石松の寝ている蚊帳の中へ夕顔がそっと入るというだけである。とはいえ、ここまでに至る展開が素晴らしく、この場面でいやがおうにもヴォルテージが高まるよう、巧妙に仕組んだカットが積み重ねられている。
まず、金比羅代参にあたり、石松は「飲む、打つ、買う」の「買う」だけ許されて旅に出るのだが、讃岐の女は情が厚くてイイ女、たっぷり楽しんでこいと仲間のみんなから八両二分の餞別をもらう。途中で石松は小政(東千代之介)と知り合う。そして小政から、惚れた女ののろけ話を聞かされる。藤の花が咲き誇る川辺で語り合う錦之助と千代之介の場面がなかなか良い。小政の女はお藤といい、濡れているような目に彼は惚れたと言う。「この女がいるから、オレは死ねない。オレが生きていてこそ、咲いてる花よ」とまで小政から言われ、石松は羨ましくなる。おみなえし(女郎花)でもいいから、女に惚れてみたい。
すっかりその気になって、石松は旅を続ける。金比羅様に刀を納めると、石松は一目散に花街へ行き、とある廓へ入る。そこで夕顔という女に一目惚れしてしまうのだ。この辺のうきうきした錦之助の石松がとても良い。上がりかまちに寝転がって下から片目で女を覗き込むと、本当に濡れたような目をした(撮影に苦心の跡が!)可愛らしい夕顔が坐っているのだ。丘さとみの夕顔もおぼこ娘のようでういういしい。そしてこの遊女にぞっこん惚れた石松は、廓に上がると八両二分をすっかり女に預け、しばらくおまえに惚れさせてくれと懇願する。
湯殿で、戸を隔て、石松と夕顔が語り合うシーンは思い入れたっぷりで、ロマンチックである。夕顔がつかう讃岐弁も奥ゆかしい。石松の問いかけに「なんじょー」「そうじょー」と「じょー」を付けて答えるのだ。夕顔が石松の純粋さに心を打たれ、次第に好きになっていく経緯が見事に描かれていく。
「これまで惚れた男はいなかったのか」という石松の問いかけに、
「惚れる?ウチ、まだ惚れるってどんなことだか知らんの。おまはん、知っているんだったら、教えてくれん?」
その言葉に石松が、
「惚れるってことを知らねえで、女になっちゃったんか」とひとりごつ。
私が大好きなシーンである。
ほかにも見どころたっぷりの場面が多く、書いているときりがない。廓で泊まった日の翌朝、庭に揃った遊女たちの前で、石松がやまがの猿と悪口を言ったことを詫び、二階の欄干で猿まねを演じてみせる場面など、錦之助ファンならたまらなく、絶対見逃せないところである。
共演者で言えば、石松を迎える親分の見受山鎌太郎を演じた志村喬が良かった。志村喬は旧作『次郎長三国志 第八部』でも同じ役をやって森繁の石松を引き立てているが、この映画では、錦之助と初共演。二人のやりとりも見どころになっている。志村喬の一つ一つの言葉には温情がこもり、石松を教え諭す演技もさすがで、観る者をぐっと引き込んでしまう。彼の存在感は格別である。娘役の中原ひとみも明るく、まさに適役だった。石松が別れ際にもらった夕顔の手紙を鎌太郎の家で読ませるシーンもこの映画の名場面と言えるだろう。
後半はお園役の長谷川裕美子がいい。槍を持って都田兄弟を追っ払う場面は長谷川の見せ場。旧作の越路吹雪とはまったく違った感じで、鉄火肌というより、美しくて気風が良い女であった。頼りない夫の七五郎を支える世話女房ぶりもぴったりだった。
この映画のラストは、都田一家に石松が襲われ、斬り合いをするシーンである。この場面の描写は普通しつこいほど凄惨に描かれることが多いが、この映画はまったく違っていた。錦之助を格好良く見せることに終始しているように思えた。錦之助は侍のような立ち回りをする。傷は負うものの、殺されるところは描かない。見せ場はやはり、最後に石松の片目が開いて、両目になるところだ。旧作でも「石松開眼」で有名になったシーンだが、なんとも言えない美しい表情の錦之助の顔のアップでこの映画はここでぷっつりと終わる。あとは観客の想像にお任せといったような終わり方で、ここまで描いたらもう十分だろうといったマキノ監督の自信のほどが察せられた。