錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『浪花の恋の物語』

2006-03-28 06:07:45 | 浪花の恋の物語


 『浪花の恋の物語』(昭和34年9月中旬公開)は、悲しくも美しい映画である。男と女の添い遂げられない恋が、せつなく悲しい。そして、いちずに思い続ける心が、穢れなく美しい。これは男と女の悲恋の美しさをあざやかに描いた映画だと言えよう。
 原作は、近松門左衛門の人形浄瑠璃「冥途の飛脚」と歌舞伎の「恋飛脚大和往来」。梅川・忠兵衛の有名な話である。舞台は大阪。飛脚問屋「亀屋」の養子忠兵衛は、初めて登った廓で遊女梅川に惚れてしまう。挙句の果ては身請けするため、封印切り (依頼主の金に手を付けてしまうこと)という大罪まで犯して梅川を連れ出し、生家のある田舎の村へと駆け落ちしていく。
 この梅川・忠兵衛の悲恋物語を、名シナリオライター成澤昌茂が血の通った脚本に書き起こし、巨匠内田吐夢が色あでやかで見事な映画作品に仕上げた。ともすれば取っ付きにくい古典的な様式美の世界を、だれが見ても感動する映像美の世界に移し変えた。さすが内田吐夢である。さらに言えば、劇中の登場人物は、黒子に操られた人形ではなく、生身の俳優。下手をすれば、安っぽい田舎芝居になりかねないが、あにはからんや、この映画は演劇的にも完成度の高い作品になっている。内田監督の演出が冴えわたり、出演者もみな適役で最高の演技を繰り広げている。
 忠兵衛役の錦之助が良かったことは言うまでもない。錦之助はこの作品で新境地を開いたとも言える。チャンバラのヒーローが一転して、遊女に溺れる生真面目な町人役を演じたのである。いわば硬派の剣士・武将から、女に身も心も捧げる軟派の色男になったわけだ。上方弁を話すのも新たな挑戦であったにちがいない。
 梅川役の有馬稲子は体当たりの演技だった。しっとりと落ち着いた情の厚い女が男に惚れて次第に変わっていく。その狂わんばかりの女のさがを表現していた。近松門左衛門役の片岡千恵蔵は貫禄十分(ただ下膨れの顔がいつも気になる)。ほかに忠兵衛の養母に田中絹代、同業の親友に千秋実、廓の強欲な主人に進藤英太郎、廓のやり手ばあさんに浪花千栄子、梅川に横恋慕するイヤらしい金持ちに東野英治郎など、芸達者ばかり。若い花園ひろみも箱入り娘役で出ていた。

 『浪花の恋の物語』は、様式的な枠組みのなかに、斬新なアイデアを取り入れ、工夫した構成になっていた。面白いのは、近松役の千恵蔵が所々で現れ、狂言回しのような役割を演じていたことだ。芝居作者として忠兵衛と梅川に関心を寄せ、二人の様子をたえず見守っているのだが、あえてこのような傍観者的な視点を加えたことが、映画に奥行きを与えていた。破滅に向かう二人の恋がまるで遠近法で描かれた絵のように見えたからである。
 何と言っても、この映画のクライマックスが秀逸だった。二人は駆け落ちして、忠兵衛の父親の住む田舎の村へと逃げていく。雪の中、追っ手が迫り、難をのがれ飛び込んだ民家。決して離れまいと固く抱き合う二人。このシーンは胸を打つ。そのあと、近松のもとへ二人が追っ手に捕まったという知らせが届く。父親に会えなかったのだ。それを憐れむ近松の顔のアップ。
 その後に続くシーンは観る者の意表を突くものだった。拍子木の音が鳴ると、まるで幻想の世界に変わったかのように、歌舞伎風に道行(みちゆき)を舞いながら忠兵衛と梅川が登場するのだ。この錦之助の美しいこと!するとまた現実に戻って、廓に連れ戻された梅川が頭に黒い布をかぶされて廊下を引きずられていく。部屋でかぶりを取った梅川の亡者のような顔。その顔に二人が捕まって無理矢理引き裂かれる残酷な記憶がよみがえる。我に返った梅川。庭の井戸に飛び込んで死のうとするが、近松に阻まれてしまう。死ぬことさえ許されないと泣き崩れる梅川。
 最後は、近松の真正面のバスト・ショットから、カメラが後ろへどんどん引いて行く。舞台を見ている満員の観客。ここからまた幻想的シーンで、梅川が一人美しく舞っている。それが人形に替わって、浄瑠璃の大詰めの場面が映し出される。劇中では忠兵衛が父親に会える結末になっている。この20分余りの、虚構と現実が交錯するラストは素晴らしく、息をのんで見とれてしまう。(2019年2月5日一部改稿)