錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『最後の博徒』(その2)

2006-12-29 18:49:06 | 日本侠客伝・最後の博徒
 タイトルの『最後の博徒』というのは、松方弘樹が扮した主役の荒谷政之のことで、映画はやくざの仁義を通した彼の一代記みたいなストーリーだった。広島の呉市での少年時代から始まって、石岡組の舎弟になり、大戦後、新興やくざ・山辰組との抗争に巻き込まれながらも、筋金の入ったやくざとして、男を上げていく。荒谷は呉の一匹狼・加納良三(千葉真一)とも親交を結ぶが、加納は山辰親分(成田三樹夫)にうまく利用され、石岡親分(梅宮辰夫)を襲って刑務所に入れられてしまう。その間、山辰組の策謀にあってついに石岡親分が殺されてしまう。殴りこみに行った荒谷も警察に捕まり、刑務所へ。出所後、荒谷は加納と手を組んでその仕返しをしようとするのだが、血で血を洗う抗争を終わらせようと仲裁に入った大親分(萬屋錦之介)に説得されて、二人とも仕返しを断念。荒谷は広島を出て、大阪へ行き、菅田組の親分(鶴田浩二)と兄弟分の契りを結んで、今度は兄貴分菅田のために一肌脱ぐ。そんなあらすじだった。
 詳しく調べたわけではないが、『仁義なき戦い』の登場人物とダブっているやくざが出てきたと思う。『仁義なき戦い』で菅原文太が演じた主役の広能昌三がこの映画では千葉真一の加納良三で、金子信雄がユニークに演じた新興やくざの親分・山守義雄が、成田三樹夫の山辰信男になっていたようだ。名前も役柄も似ていたので、そう思った。
 ところで、錦之助が登場するシーンはわずか三箇所。錦之助の役は、清島春信というやくざの親分で、なんだか浮世絵師みたいな名前だった。どこの地域の親分かは分からなかったが、古いタイプの侠客といった感じだった。最初に錦之助が出てくるのは、石岡親分の葬儀の時で、正装の着物を着て単身現れ、親族に挨拶すると、どことなく寂しげに去っていた。風格がある立ち姿だったが、やつれている印象は拭えなかった。この時、錦之助が言葉を交わした相手役が日高澄子で、彼女は石岡親分の年老いた母親役だったが、私の頭にはこの二人の昔の場面がよぎった。思えば、『花と龍』で、どれら婆さんの島村ギンを演じていたのが日高澄子で、また、古くは名作『弥太郎笠』で、錦之助の弥太郎と恋仲だったお雪(丘さとみ)の憎憎しい継母役が彼女だった。この継母役の日高澄子は大変印象的で、年増の色気と妖しい魅力を振りまいていた姿が私の目に焼きついている。『最後の博徒』に出演した時の日高澄子は、それから25年も経っていたが、老いてなお健在であり、素晴らしい演技を見せていた。多分、この映画で、彼女に注目した人も少ないと思うので、ぜひここに書いておきたい。
 次に、錦之助が登場するのは、あらすじにも触れたが、山辰を殺そうと血気はやる荒谷(松方弘樹)と加納(千葉真一)の隠れ家へ、抗争の仲裁にやって来る場面だった。この場面の錦之助はさすがに見せ場だけあって、気迫に満ちていた。やはり単身現れ、もちろん着物姿だったが、二人の前にどっかりと腰を下ろし、諄々と説得するのだが、荒谷は承知したものの、加納の気がおさまらない。そこで、錦之助が、自分を撃ち殺してから行けと加納に迫る。この場面の錦之助のにらんだ表情が、凄かった。ここを観ただけでも、この映画を観る価値があると思ったほどである。松方弘樹も千葉真一もチンピラに見えてしまうのだから、病後とはいえ、錦之助の貫禄は段違いだった。
 第三のシーンは、その足で錦之助が山辰組へ乗り込み、親分(成田三樹夫)に会長職を辞めて引退するように迫る場面だった。ここは意外にあっさりとしていて、成田三樹夫も恐れをなし、錦之助の顔を立ててすぐに承知する。
多分、錦之助の出番はトータルで10分かそこらだったと思うが、他の出演者たちとの格の違いを見せていた。
 この映画の後半では、錦之助に代わって、鶴田浩二が登場するが、それこそ昔日の面影がなく、やつれ果てていた。言い忘れていたが、『最後の博徒』は、鶴田浩二の最後の出演映画だった。すでにガンに冒されていたのだろう。鶴田浩二が亡くなるのは、この映画の一年半後、62歳だった。鶴田は錦之助より8歳年上で、錦之助が東映を去った後、高倉健や池部良とともに東映仁侠映画を全盛に導いた頃のことを思うと、この映画の鶴田は、見るに忍びない姿だった。



『最後の博徒』(その1)

2006-12-29 18:39:42 | 日本侠客伝・最後の博徒

 『最後の博徒』を観た。山下耕作監督、松方弘樹主演の東映やくざ映画である。萬屋錦之介が特別出演している映画でもある。この間までずっと山下耕作監督、錦之助主演の『花と龍』二部作について書いていたのだが、約二十年経ってこの二人が東映のやくざ映画で一緒に仕事をしたことに私は興味を感じていた。それで観ようと思ったわけで、ほかに大した理由はない。
 実を言うと、この映画はこれまで観ないで通してきた。あえて観たいとも思わなかった。錦之助が主役の映画でないと、どうも私は満足できない。萬屋錦之介が特別出演の映画は、あまり観る気がしないというのが私の本音である。ところが、先日ツタヤへ行ったら、たまたまこの映画のDVDが目に留まったので、借りてしまった。
 この映画は、錦之助(錦之介と書くべきところだが、錦之助の名で通させてほしい)が出演した144本の映画の中で、最後から二番目の映画だった。つまり143本目の映画ということになる。最後の映画は『千利休 本覺坊遺文』で、これは東宝映画なので、東映の映画に錦之助が出演したのは、『最後の博徒』が最後だった。それにしても、錦之助の最後の東映映画が現代劇で、しかも実録物のやくざ映画だったとは……、感慨深いどころか、むしろ私は胸をかきむしられる思いがする。ラストになった144本目の『千利休 本覺坊遺文』は、東宝映画にしろ、時代劇だったことがせめてもの救いだった。それに、錦之助の出番も比較的多かったのは良かった。が、何としても最後は東映の時代劇に錦之助を主演させ、有終の美を飾らせてあげたかったと思う。それも今となっては、詮方ないことである。
 聞くところによると、晩年の錦之助は堺屋太一原作の『鬼と人と』を映画化する企画を進めていたのだそうだ。監督と主演を錦之助自身がやるという凄い企画だったらしいが、製作会社が見当たらず、お流れになってしまった。もしこの映画を東映で作っていたとしたら……また、錦之助の東映に対する計り知れないほど偉大な功績からすれば、東映が製作会社として真っ先に名乗りを上げるのが当然だったのに……、などと私は思うわけであるが、これも今さら悔やんでも仕方がないことである。結局、錦之助は平成6年に『鬼と人と』を自らの演出で大阪の新歌舞伎座の舞台に掛け、主役の明智光秀を演じた。そして、これが最後の舞台となった。
 
 話がとんだ方向に逸れてしまった。『最後の博徒』について、感想を述べよう。
 この映画、二時間余りの長い映画であるが、それほど退屈せずに私は観ることができた。ずいぶん静かでおとなしいやくざ映画だなと感じた。アクションも少なく、殺しの場面など凄惨さがなく、どちらかと言えば、古いタイプのやくざ映画だった。山下耕作が監督した映画なので、どことなく情感が漂い、それがかえって私には良かったのかもしれない。ただ、見方によっては、何も新しいところのない気の抜けた東映やくざ映画でもあった。エネルギーも迫力もなかった。やくざ映画としては「たそがれ」のよう作品、いや、日が暮れた後の「残照」のような作品だったと言うべきか。
 データを見ると、この映画が作られたのは1985年(昭和60年)で、深作欣二監督のあの『仁義なき戦い』に代表される過激な実録やくざ路線が始まるのが1973年(昭和48年)だから、それからなんと12年も経っていた。しかもこの映画は、『仁義なき戦い』シリーズと同じく、広島やくざの抗争を描いたものなのだが、内容的には、「仁義なき」戦いではなく、広島にも実は「仁義ある」やくざがいたのだ、といったノスタルジックな話に過ぎなかった。この映画の前年、ほぼ同じスタッフで作った『修羅の群れ』というやくざ映画があって、これが意外にヒットしたので、その二番煎じに作った映画が『最後の博徒』だったようだ。『修羅の群れ』は、私もずいぶん前にビデオを借りて観たことがある。こちらは確か横浜のやくざの話で、配役も豪華だった。主演はやはり松方弘樹だったが、鶴田浩二、若山富三郎、菅原文太、北大路欣也も出演していたと思う。二番煎じの『最後の博徒』は、やや手薄な配役陣だということもあって、萬屋錦之介を担ぎ出したのではないか、と私は邪推したくなるが、真相はどうだったのだろう。(つづく)



『日本侠客伝』(その2)

2006-10-30 23:37:50 | 日本侠客伝・最後の博徒
 『日本侠客伝』は、監督のマキノ雅弘にとっても、主演の高倉健にとっても、特別出演の錦之助にとっても、ターニング・ポイントになった映画である。大袈裟に言えば、この映画によって三人のその後の映画人生が大きく変わってしまった。
 マキノ雅弘の著書『映画渡世・地の巻』を読まれた方はご存知かと思うが、この映画はもともと企画段階では錦之助が主演する予定だった。ところが、錦之助が主演していた前作『鮫』(田坂具隆監督)のクランクアップが大幅に遅れたために、『日本侠客伝』の撮影スケジュールがずれ、錦之助の歌舞伎座公演(中村時蔵追善公演)と重なることになってしまった。そこで急遽脚本を書き直し、主役には錦之助の推薦もあって高倉健を使い、錦之助は助演にまわることになった。錦之助の撮影日数はわずか4日で、公演が終わってからもう1日だけ撮影に付き合ってもらい、映画を完成したのだという。結局この映画の後、あれだけ仲の良かったマキノ雅弘と錦之助は喧嘩別れすることになってしまった。
 また、高倉健はこの映画で自分の進むべき道を見出したようである。マキノ監督も錦之助と袂を分かった後は、高倉健を主役に据え『日本侠客伝』や『昭和残侠伝』のシリーズ作を精力的に撮り続けていくことになる。そして、高倉健はその間『網走番外地』のヒットシリーズにも恵まれ、一躍東映映画の金看板にのし上がっていく。藤純子もその後東映の最後の女優スターに成長していくことはご承知の通りである。
 一方錦之助は、任侠路線よりも芸術的な時代劇にこだわったため、東映での居場所がなくなっていき、この映画の上映後二年も経たずしてついに東映を離れることになる。それからは苦難の道を歩むわけだが、やはり錦之助は東映の映画の方がぴったり来る。東宝なんかの時代劇より、東映の任侠映画の方に出演した方がずっとサマになっていたと思うのだが…、これも後の祭りだった。
 『日本侠客伝』を観て私はいつも思うのだが、錦之助の着流しのやくざ姿は本当にカッコ良い。もちろん、演技も最高である。カツラをかぶらない明治・大正期のやくざを演じた錦之助にも私はたまらない魅力を感じるのだ。だから、錦之助が東映を辞めずにもっと任侠映画にも出演していたらどんなに素晴らしい映画が生まれたことだろう、と残念に思わざるをえない。
 
 最後に、『日本侠客伝』の製作スタッフや助演者のことを付け加えおこう。プロデューサーは俊藤浩滋(藤純子の父親)と日下部五朗で、東映の任侠路線と実録やくざ映画を推進する立役者になった二人。脚本は、笠原和夫、野上龍雄、村尾昭。この三人もこの映画の後任侠やくざ映画の脚本を書きまくった作家たちである。撮影は大ベテラン三木滋人、美術が鈴木孝俊、音楽は斉藤一郎。助演者はすでに挙げた俳優のほかに、田村高廣、松方弘樹、大木実、ミヤコ蝶々、南都雄二、藤間紫、伊井友三郎、品川隆二、安部徹、天津敏だった。田村高廣は、『花と龍』の方が役柄も重要で、引き立っていたが、この映画でも印象に残る演技をしていた。松方弘樹も熱演していた。大木実は高倉健の弟分でこの映画では良い役だった。品川隆二は男気のある沖山組の代貸しで、組のあくどいやり方に悩む複雑な役柄だったが、好演していた。



『日本侠客伝』(その1)

2006-10-30 22:43:17 | 日本侠客伝・最後の博徒

 マキノ雅弘の手にかかると、やくざ映画も恋愛映画になってしまう。そこがマキノ作品の良さでもあるが、時代劇や任侠映画のファンの中にはそれを嫌う人も多い。カッコ良いヒーローは、硬派でなければならず、女に恋心を寄せたり、女に未練がましい態度をとることは好ましくないというわけだ。そこで、マキノ監督の思い入れたっぷりな男女の描写を長ったらしく感じるのだろう。アクションや立ち回りが好きな映画ファンは、どうも彼の映画を甘ったるく感じるようだ。その気持ちも私は分からないわけではない。マキノ雅弘は、良く言えば、フェミニスト、悪く言えば、軟派である。だからかどうかは知らないが、とりわけ女優の演技指導は熱心で、自ら実演し手取り足取り教えていたそうだ。確かにマキノ監督の映画は、女優の扱い方が巧みである。私は硬派のチャンバラ時代劇も好きだが、恋愛映画も大好きなので、マキノ監督が描く男と女のしっとりとした場面も好きで、いつも感心して観ている。錦之助の出演作で言えば『遠州森の石松』も『弥太郎笠』も本質的には恋愛映画で、錦之助と丘さとみの二人のシーンが(といってもキス一つない)実に印象的で目に焼きついている。この二作はどちらも明るい純愛ストーリーだった。
 『日本侠客伝』(1964年)は、時代劇ではなく、60年代後半に大流行する東映任侠路線のはしりとも言うべき作品で、後にシリーズ化するその第一作だった。が、やはりマキノ監督ならではの恋愛色の濃い映画だった。ただ、男と女の情愛がぐっと深まった作品で、錦之助と三田佳子が夫婦になって絶妙の共演をしている。
 ストーリーは、昔気質のやくざの木場政組と新興勢力のあこぎな沖山組との争いで、任侠映画のパターン通りの筋書きである。が、この映画には、男女のカップルが三組も出て来る。しかも、このカップルはどれも違った男女関係なのである。
 まず、木場政組の長吉(高倉健)とおふみ(藤純子)は許婚で相思相愛の仲。健さんが五年間の兵役を終えて帰ってくるまで、健気にずっと待っていたのが藤純子で、清純な二十歳そこそこの生娘役。
 次に、錦之助が扮する清治は木場政組の客分で、どこかの親分の女だったお咲(三田佳子)と駆け落ちして一緒になったという設定。逃げてきた二人をかくまい、丸くおさめたのが木場政の親分だった。それから木場政組の客分になっていたのだが、女房の三田佳子は、二人でタバコ屋でもやりながら平穏に暮らしたいと願っている。二人の間には五歳の娘がいる。しかし、親分が病死した後、錦之助は木場政組のため一肌脱いで命を懸けることになる。
 三組目が、木場政組の身内・赤電車の鉄(長門裕之)と辰巳芸者の粂次(南田洋子)である。長門と南田は日活時代大恋愛して、本当に夫婦になっただけあって、息もぴったり。監督が長門の叔父のマキノ雅弘と来れば、ツーカーの間柄でもある。(この映画には長門の弟の津川雅彦もチンピラ役で出演している。)芸者の南田は幼馴染の健さんにぞっこん惚れていて、最初は長門の片思いだったが、長門の男気と情にほだされて、南田が好きになるといった関係である。
 つまり、一つの映画の中に、三組の男女が現れ、それぞれの心の通い合いがストーリーの上で大きなウエイトを占めている。そんなやくざ映画も珍しいが、この映画を観て感心するのは、これらの男女の情愛の描き方が実にきめ細やかなことである。まさにマキノ雅弘一流の芸当だと言ってよい。

 私はこの映画を映画館で二度、ビデオでは10回以上観ているが、何度観ても、胸にじーんと来る。とくに、長門裕之が惚れた南田洋子のために尽くすだけ尽くして、南田の心を射止めた直後に闇討ちに合い、錦之助の腕の中で死んでいく場面は、可哀想で見ていられない。それと、錦之助が単身殴り込みをかける決意をして、うらぶれた家の部屋で恋女房の三田佳子と幼い娘と別れる場面は目頭が熱くなる。錦之助の憂いのある表情がなんとも言えず、胸がかきむしられる。錦之助と三田佳子の共演は他にもあるが(『鮫』と『冷飯とおさんとちゃん』)、この映画で錦之助の相手役を務めた三田佳子は素晴らしく、いちばん好きである。また、幼い娘役に、藤山寛美の娘で子役時代の藤山直美が出て名演をしているが、錦之助に強く抱きしめられて、「痛いよぉ」と言いながら、錦之助の涙を小さな手で拭う場面は、見ていてこっちまで涙が流れる。
 高倉健と藤純子のことにも触れておこう。この二人は『日本侠客伝』で初めて共演し、恋人役を演じることになったのだが、まったく違和感を覚えなかった。二人の共演はその後何作あったか数え切れないほど多いが、健さんの相手役にはやはり藤純子が最適だったと思う。藤純子もまだ東映映画でデヴューして(昭和38年6月)、一年余りにすぎなかったのに、マキノ雅弘の秘蔵っ子として鍛えられただけあって、演技もしっかりしていた。高倉健は当時33歳、まだ若いがきりっとしていて、役の上でも先輩スター錦之助を立てていた。錦之助が沖山組へ殴り込みに行ったことを知り、身柄を引き取りに乗り込むところは凄みがあって圧巻だった。(つづく)