錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

近況いろいろ(12月中・下旬)

2013-12-31 14:36:23 | 錦之助ファン、雑記
 疲れが取れて、元気が出て来た。測ってはいないが、7キロ減った体重も数キロ増えて、顔も少し丸みを帯びて来たような気がしている。
 この2週間、仕事場にゴロゴロして、本を読んだり、DVDを見たり、少しだけ経理の仕事をして、食っちゃ寝てばかりいた。経理というのは、会社の決算が11月締めなので、1年間ほったらかしにしていた収支をパソコンに打ち込む作業だが、2時間続けると飽きてしまう。来年の1月末日までに税務署へ決算書を提出しなければならないので、少しずつやっている。読書は、岡本綺堂の怪談小説と随筆、佐藤春夫の「退屈読本」、藤沢周平の短篇時代小説など。年賀ハガキも作成し、すでに80人ほどに書いて、送った。
 まあ、そんな次第で、家に籠っていたが、たまには街へ出て、芝居を見たり、映画を見たりもしていた。
 阿佐ヶ谷のザムザで寺山修司の「田園に死す」を観て、国立劇場で「知られざる忠臣蔵」を観た。前者は、出演の川上史津子さんに誘われて、後者は、成澤昌茂作「主税と右衛門七」が目当てだった。
 「主税と右衛門七」は、成澤さんが五十数年前に書いた歌舞伎の処女作で、萬之助(現吉右衛門)と染五郎(現幸四郎)が演じた芝居だそうで、成澤さんも思いもかけぬ再演をことのほか喜んでいたので、見に行った。しかし、本は良いのに実際の芝居はまあまあで、主税役の隼人くんも固くて、やや失望した。正直、ああいう役は、まだ無理なんじゃないかと感じた。教わった型を忠実にこなしているだけで(多分お父さんの二代目錦之助に教わったのだろう)、哀感が伝わって来ないのだ。矢頭右衛門七役の歌昇(現又五郎、先代歌昇の息子)は、23歳の若さにしては有望で、注目して見た。彼はまだまだ伸びるような気がした。内蔵助は歌六だったが、もう少し洒脱でくだけた感じを出したほうが良かったのではあるまいか。右衛門七の恋人役は、息子の米吉で、商家の娘役だったが、目立つほどの可愛らしさがなく、声もしぐさも今一歩で、女形はどうなんだろうと感じた。



 メインは、吉右衛門の「弥作の鎌腹」で、初代吉右衛門、そしてその父の三代目歌六の当たり役だったということは知っていたが、予備知識はそれだけで、先入観なしに今回初めて見た。吉右衛門が時々セリフをわざとモグモグと、しかも早口で言うところが良くないと思ったが、人物造型を工夫してしっかり演じていたので、ゆったりと鑑賞できた。仇敵師直(もろなお)を「もろこし」と言って、笑いを取ろうとしたが、受けなかった。千崎弥五郎役の又五郎も生真面目に演じていて良かったし、弥作の女房を演じた芝雀も味があって、脇役が欠乏している現歌舞伎界では得難い役者だと感じた。「弥作の鎌腹」は、喜劇が悲劇に転じる凝ったストーリーで、地味でスペクタクル性のない芝居だったが、ユーモラスで大変面白かった。ただ、国立劇場は後ろの席だと(それでも9200円の一等A席だった)役者の声が聞き取りにくく、下座音楽が大きすぎて音響のバランスが悪いと感じた。役者の口跡も悪いので声が通らないのだろうが、この劇場は役者の声を隠しマイクで拾っているのだろうか。前に来た時はずっと前の特等席だったが、その時もそれを感じた。二代目錦之助が怪我をした染五郎の代役を勤めた公演だったが、二代目の声はよく通るのだが、幸四郎のセリフが聞き取りづらかった。幸四郎も年を取ったなと感じた。
 三番目の「忠臣蔵形容画合(すがたのえあわせ)」は、踊りのたくさん入った見世物的歌舞伎だった。最後に二代目錦之助が寺岡平右衛門役で登場した。初めは人形浄瑠璃を模して、首振り芝居をやり、そのあと血の通った人物になって所作を行い、セリフを言うのだが、大変良かった。もちろんお世辞抜きでだ。ただ、この公演ではこの一役だけで、播磨屋(つまり吉右衛門の一派)に転じた歌六と又五郎に比べ、萬屋を守っている二代目錦之助は冷遇されているような気がしてならない。一所懸命、いい芝居をやっているのだから、一公演で二、三役はやってほしいと願う。

 映画は、無声映画を4本観た。
 14日(土)は、無声映画伴奏ピアニストの柳下美恵さんの催しで、場所は本郷中央教会。帝政ロシア時代に作られた映画を2本。『瀕死の白鳥』と『1002回目の計略』。柳下さんに会うのは約2年ぶりで、打ち上げの会にも参加して、知り合いも増え、楽しい時を過ごした。
 29日(日)は、毎年恒例の弁士の澤登翠さんのリサイタルで、紀伊國屋ホールへ行ってきた。ほぼ満席で、澤登さんの衰えない人気のほどが窺えた。9分の『弥次喜多』(大河内と河部五郎)のあと、佐藤忠男氏のトークがあり、大作『笑う男』を上映。ドイツ人の監督パウル・レニがアメリカで作った1928年の映画。フランスの文豪ヴィクトル・ユゴーの同名小説の映画化で、17世紀の英国を舞台にした作品。原作はもっと悲惨で凄絶なんだろうなと思った。途中からストーリーがお決まりのアメリカ的な理想主義の恋愛話になってしまい、不満を感じた。澤登さんの活弁も字幕にない部分を潤色しすぎて、やや疑問に思った。終って、例年のように石森史郎さんのシナリオ塾の門下生たちとトンカツ屋で忘年会。座敷に入りきらず、私は知人とテーブル席に着く。時代小説を書いている飯島一次さんに久しぶりに会ったので、彼も誘い、同世代5人で歓談。話が合うので、楽しかった。

 ほかに、22日(日)は、銀座の王子製紙のホールへ佐々木真さんのフルートのコンサートを聴きに行って来た。佐々木真さんは東映の佐々木康監督の長男で、70歳を超えても現役奏者として活躍しているので、偉いもんだと感服する。曲目はバッハ、ヘンデル、シューベルトなど。熱演で、最後は拍手が鳴り止まず、アンコールに「きよしこの夜」を演奏してくれた。私は奥さんの康子さんと親しくさせていただいているのだが、受付にいらしたので、ちょっとだけ話をした。送っておいた「錦之助伝」はすでに読んでくださり、お褒めの言葉とお礼を言われた。お礼は、ページを割いて佐々木康監督のことを良く書いたことに対して。

 この間、有馬稲子さんのホームページ(「喜望峰」という)を覗いたら、ご自分の今年の重大ニュースという記事を書いていらして、「錦ちゃん祭り」で私が聞き手をやったトークのことと「錦之助伝」の褒め言葉があった。嬉しかった。
 ご覧になりたい方は、以下をクリックしていただきたい。

https://sites.google.com/site/arimainekoschedule/
 

 有馬さんは来年の新文芸坐での有馬稲子特集を楽しみにしていて、さかんに私に発破をかけていたが、先日新文芸坐の矢田さんからも電話があり、結局私が推進役になって3月に特集を組むことになりそうだ。先日も有馬さんから電話があり、1月20日に「徹子の部屋」に出て、宣伝したいので、それまでにちゃんと決めてほしいとのご要望。気の早い有馬さんは、上記のホームページにもうその予告も出している。10日間で上映作品20本、有馬さん自薦の作品10本は、チラシにご自身のコメントを書いていただこう。トークショーも有馬さんと誰かとの対談にしたら、面白いだろうなと私は考えている。

 いやはや、来年早々から、また忙しくなりそうだ。会社の決算、有馬稲子特集の企画、「錦之助伝」下巻の準備など。
 それと、「錦之助祭り」のトークショー5日分の録画DVD(東映OBのキャメランマン宮坂健二さんが撮影・編集してくれた)を錦之助映画ファンの会で希望する方々へ配布する(ただし、制作費の分担とダビング代・送料込みで有料)という通知を会員全員に出し、その発送もしなければならない。三島ゆり子さん、北沢典子さん、入江若葉さん、金子吉延さんには、すでにDVDを観てもらい、連絡を取って許可はいただいている。ただし、会員に限り配布という条件付き。
 また、私が企画している映画(仮題「ガラクタ区お宝村物語」)も何とか実現へ向けて進めようと思っている。
 ともかく、来年はやるべきこと、やりたいことも多く、大変な一年になりそうな予感がしている。

 

小川陽子さんを偲ぶ

2013-12-24 12:19:48 | 錦之助ファン、雑記
 12月17日(火)の朝、小川陽子さんが心不全で亡くなった。
 訃報を知ったのは夜、インターネットのヤフーのニュースだった。
 信じられなかった。あんなに元気で張り切っていらしたのに、と思った。朝、方南町の自宅でお風呂に浸かっている時に心臓発作に襲われ、一人ぼっちで亡くなったという。聞くところによると、前の日は、映画の試写を見て、人形町でみんなと楽しく夕食を取って帰られたそうだ。亡くなる直前の陽子さんの心境は、「まだ死にたくない、どうして?!」という無念の思いだったにちがいない。73歳、まだ亡くなるには早すぎる年齢であった。



 この数ヶ月間、獅童さんの活躍ぶりはめざましく、次から次へと来る仕事のマネージメントをなさっていた陽子さんも、目が回るほど忙しかったようだ。自宅の中村獅童事務所では、チラシの郵送や切符の手配なども陽子さんが陣頭指揮されていたし、10月新橋演舞場の「大和三銃士」、11月明治座の「瞼の母」の公演期間中は、毎日のように劇場に通って、お客さんの接待をなさっていたと聞く。とくに獅童さんが座長を勤めた「大和三銃士」は大好評で、陽子さん自身、感動され、大変興奮していたのを憶えている。10月の半ばに陽子さんと電話で話した時、「素晴らしいから、あなたも絶対観てよ」と声を弾ませていた。その言葉が今でも耳に残っている。結局、私は「錦之助伝」の完成に追われ、どうしても行けなかったのだが、今では徹夜をしてでも観に行けばよかったと後悔している。
 11月が終って獅童さんの仕事が一段落し、12月の歌舞伎座公演が始まって、きっと陽子さんは一安心なさったのだろう。と同時に疲れが一気に出たのではないか。また、夏に自宅を改装して、陽子さんが企画主催する「よろず寺子屋」を始めた矢先でもあった。料理、書道、華道、俳句の教室で、まず料理教室を開講していた。
 11月末に電話で話した時には、「今度、寺子屋で錦之助の会をいっしょにやろうね」と言って、私を寺子屋のスタッフに引っ張り込もうとなさっていた。
 私はこれまで何度も陽子さんから中村獅童事務所の手伝いをしてほしいと頼まれていたが、その都度、「ぼくは錦ちゃんのことだけで精一杯なんで…」と言って、はぐらかしていた。しかし、もう陽子さんがこの世にいないと思うと、何か少しでもお手伝いをしてあげれば良かったのに、薄情なことをしたなと胸が痛む。以前、お宅に伺った時には、事務所に私専用の机まで用意してくださり、「あなた、ここで自分の仕事しなさいよ」とまで言ってくれた。

 私が陽子さんと知り合いになったのは、平成21年2月のことなので、お付き合いはそれほど長い期間ではない。十三回忌の「錦之助映画祭り」では、チラシ配布に全面的に協力していただいた。錦之助さんのご親戚や東映関係者の氏名と住所を教えてくださったのも陽子さんだった。第一回目の新文芸坐での錦之助映画祭りに獅童さんの名前で胡蝶蘭を贈ってくださった。それから、電話で度々お話することになったのだが、陽子さんは評判通りのステージママで、「獅童命」のような方だった。気丈で、感激屋、つまり感情の起伏が激しい人で、話している途中で、泣き出しそうになることもあった。歯に衣を着せずに、ズバズバ物を言い、人の悪口を言うこともあった。私が「そんなことを言っていいんですか」と言うと、「いいのよ、ホントなんだから」と言って、平気な顔をなさっていた。ずいぶん好き嫌いの激しい方だなと思った。
 また、非常に義理堅い人だった。私が錦之助映画ファンの会の会誌「青春二十一」を作ってお送りするたびに、お礼の電話をいただき、お返しに獅童さんの出演している舞台の切符をくださったこともあった。「恋飛脚大和往来」「白浪五人男」の時と「忠臣蔵」の時である。二回とも無料で見せてもらったのだが、劇場では陽子さんにお会いできず、そのまま帰ってきたのを憶えている。そのあと、電話で感想も申し上げずに、済ましてしまったので、きっと陽子さんはあとで怒っていたかもしれない。

 方南町のお宅へ伺って、初めて陽子さんにお会いしたのは、去年の夏のことである。私が仕事場を杉並区和泉の自宅に移したので、昼過ぎにぶらっと挨拶に行ったのだった。歩いて15分、自転車なら5分ほどで行ける近さなのである。
 その時、陽子さんは私が突然やって来るとは思いもせず、多分宅急便の配達人と間違えたらしい。玄関のチャイムを鳴らすと、バスタオル一枚の裸で、洗い髪のまま出て来た。こっちもびっくりしたが、私の顔を知らない陽子さんもびっくりした。私を押し売りでも見るような不審な目つきで見て、「あなた、だれ?」とおっしゃったのを今でも憶えている。自己紹介すると、「今、お風呂に入ってたのよ。ちょっと待って」「道でタバコ吸ってますから、どうぞごゆっくり」という会話があって、陽子さんは引っ込んだが、そのあと私は15分ほど待たされた。陽子さんが浴室で裸のまま亡くなったと聞いて、私は初対面の時の陽子さんが思い出されてならない。

 陽子さんに最後にお目にかかったのは、今年の9月半ばだった。お宅へ伺うと応接室に案内され、1時間ほどいろいろなことを話した。私は、「錦之助伝」の原稿を持って行って、ざっと読んでくださいとお願いするために参上したのだが、陽子さんは、「読まなくても大丈夫よ。ちゃんと調べて書いたんでしょ」と言うと、最近の獅童さんの活躍ぶりを嬉々として話された。「離婚してからずっと低迷していたけど、獅童がやっと復活したのよ…」と言いながら、声を詰まらせ、目に涙を浮かべていた。帰り際に獅童さんの記念写真集と雑誌、それにビニール袋一杯に干しシイタケと炒り豆をくださった。シイタケと豆はあれからずっと少しずつ食べ、今でも食べている。後日、お宅へ電話すると、陽子さんは「錦之助伝」を読んでくださっていて、「錦ちゃんファンじゃなきゃ書けない本だわね。いいんじゃない」と褒めてくれた。



 12月19日(木)、陽子さんのお通夜へ行った。一日中冷たい雨が降っていて、肌寒い日だった。お通夜は、午後10時開始だった。獅童さんをはじめ、歌舞伎関係者が皆、公演が終ってから駆けつけるということで、遅い時刻になった。場所は、南青山の梅窓院。5年前の10月、ご主人の小川三喜雄さん(錦ちゃんの兄)の葬儀をしたのと同じお寺だった。その時も私はお通夜だけ出席したが、あれから5年余りの間に、ずいぶん多くの錦之助関係者の方たちが亡くなられた。
 陽子さんのお通夜は、遅い時間にもかかわらず大勢(約800名)の方が駆けつけ、焼香の列は、雨の降りしきる外まで延々と続いていた。陽子さんはこんなに多くの人から慕われていたのかと思うと、胸がじーんと熱くなった。


近況報告(12月上旬)

2013-12-13 00:02:42 | 錦之助ファン、雑記
 12月第一週は、電話で書店営業。上映会の期間中はまったく出来ず、中断していたのでその続き。
 毎日午後1時過ぎから3時間ほど行なう。担当者が不在だったり、接客中で電話に出られないことも多く、空振りばかりで、嫌になってくる。1冊しか注文をくれない書店も多かった。それでも、紀伊國屋書店とジュンク堂には、ほぼ全店舗に置いてもらった。
 3冊以上、注文をとった書店は以下の通り。
 ジュンク堂岡山店(3冊)、三省堂名古屋高島屋店(3冊)、宮脇書店高松本店(3冊)、紀伊國屋玉川高島屋店(3冊)、紀伊國屋徳島店(3冊)、丸善ラゾーナ川崎店(3冊)、丸善多摩センター店(3冊)、カルコス岐阜本店(3冊)。
 11月に納品した分が完売になり、追加注文をもらった書店は、紀伊國屋新宿本店(7冊完売で5冊補充)、丸善&ジュンク堂梅田店(3冊完売で10冊補充)。
 とはいうものの、全般的に「錦之助伝上巻」の売れ行きはボチボチである。
 ジュンク堂と丸善のホームページで「錦之助伝」の販売状況を検索してみたところ、歌舞伎コーナーに置いてある店が数店あって驚いた。上巻は歌舞伎時代の話が三分の二を占めているとはいえ、錦之助の伝記が歌舞伎のジャンルに入れられてしまうとは思わなかったし、著者としては心外である。若い書店員は、錦之助が映画スターだったことを知らないのだろう。帯に載せた二代目錦之助さんの言葉もこの本が歌舞伎コーナーに置かれる原因になったようだ。
 土曜日に三省堂の神保町本店へ行ってみると、歌舞伎コーナーに4冊平積み。ここに置いても売れないことはないと思うが、担当者に映画コーナーに移動するように依頼。三省堂本店へは5冊配本したので、1冊売れていたが、実はこの1冊を買った人が先日判明し、予期せぬ嬉しい事態に発展することになる。結局、歌舞伎コーナーに置かれたことが、ツキを呼ぶことになったのだから、面白いものだ。
 
 12月第二週。
 12月9日(月)午後、ある人を介して映画プロデューサーの中沢敏明氏に会い、恵比寿のコーヒー店で1時間ほど歓談。私がシナリオを書いて企画中の映画『ガラクタ区お宝村物語』の製作の件。中沢さんは『おくりびと』を製作して大ヒットさせた大物プロデューサーである。最近製作した『おしん』が不発で、がっかりしていたが、来年は挽回を期して頑張るとおっしゃっていた。中沢さんとはこの日が初対面で、彼が私の映画に協力するかどうかも不明だが、今度いっしょに食事をしましょうと約束して別れる。帰宅後、すでに私の映画のプロデューサーを買って出てくれている永井正夫氏(森田芳光監督作品『失楽園』『武士の家計簿』の製作者)に電話。私が主役にどうかと思っている有名俳優へぜひ出演交渉をしてほしいと頼む。

 12月10日(火)、介護施設にいる私の母が風邪を引いて熱があるという連絡をもらったので、会いに行く。母は94歳で、数年前からボケてしまっているが、私が息子であることは憶えていて、大変喜ぶ。熱も下がり、食欲も出て来たと介護師さんから聞いて、ほっとする。
 夕方、雑誌「演劇界」の女性編集者のKさんという方から電話をもらう。「錦之助伝」を新刊のおすすめの一冊として紹介したいとのこと。「演劇界」は歌舞伎雑誌なので、意外な申し出に驚く。話を聞くと、彼女は三省堂本店で「錦之助伝」を買って、興味深く読んだという。
 こんなこともあるんだなあ! 歌舞伎コーナーに置いてなければ、彼女の目に留まらず、買わなかったにちがいない。書店に置かれた本というのは誰が買って読むか分からないし、本にも運の強さというものがあって、人との縁を結ぶから本当に不思議なものだ。これまで私が出した本にも2冊ほど強運の本があって、1冊は「ダジャ単」で、もう1冊は「やさしいドイツ語カタコト会話帳」である。「ダジャ単」はテレビ番組のディレクターが買って、テレビで紹介されたことが二度ある。フジテレビの朝の「とくダネ!」ではキャスターの小倉さんが紹介してくれ、また、日テレの「ぶらり途中下車の旅」では、「ダジャ単」といっしょに私まで出演した。「カタコト会話帳」の方は、6年前にあの堀北真希ちゃんがスイス旅行の番組で会話の手引書として使ってくれた。その時、私は堀北真希を知らず、若い人たちから時代遅れだと馬鹿にされたが、以来私は彼女のファンになった次第。
「錦之助伝」も出版早々幸先がいい。Kさんが本を一冊寄贈してくださいというので、明日、貴社のある神保町へ行くので、タンゴ喫茶ミロンガで待ち合わせ、手渡しすることにする。
 脚本家の石森史郎さんから手紙を、沢島忠監督からハガキをいただく。石森さんも沢島監督も「錦之助伝」を大変褒めてくださった。
「なんだか錦之助サンの夢を見そうです。感無量の境地です」(石森さん)
「丹念な下しらべが光っています。下巻が大変です。どうぞ御自愛の上、おきばり下さい。感謝」(沢島監督)
 大学時代からの私の友人がブログで「錦之助伝」を取り上げ、感想を書いてくれた。持つべきものは友である。彼の評は、さすがに的確で私にとって最高の賛辞だった。曰く、
――この本の魅力を一言でいえば、「愛情の込もった料理が美味しいように、愛情のある本は面白い!」である。

 12月11日(水)午後4時、タンゴ喫茶ミロンガで演劇界の編集者のKさんに会う。若くて(25,6歳?)、超美人なので驚く。ボーイッシュな髪型で、明朗快活、心から歌舞伎を愛している女性だった。30分ほど歓談。紹介文は140字程度らしいが、Kさんが書いてくれるという。幸せな気分になる。