錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『源氏九郎颯爽記』(その十五 最終回)

2008-04-09 16:18:54 | 源氏九郎颯爽記・剣は知っていた
 『秘剣揚羽の蝶』には、一方で冴姫と源氏九郎との騎士道的で秘め事のようなロマンスがあり、また一方で喜乃と初音の鼓との悲恋のヒューマンドラマがある。冴姫も喜乃もどちらも片思いなのだが、映画ではこの二組の男女の関係が複線的に描かれていて、最後はこの関係が見事に収束して終わる。普通、娯楽時代劇では主人公に思いを寄せる姫や娘は飾り物のようで軽い扱いが多いのだが、伊藤大輔は実にきっちりと描いていたと思う。この映画を観ていて私は二人の娘の恋の行く末がとても気になって仕方がなかった。
 この娘二人が水鏡で自分の運勢を占うシーンは、とくに印象深かった。「月蝕の晩に水鏡を観ていて、好きな男の顔が映れば、その男と添い遂げるか、その男のために死ぬか、そのどちらかになる。ただ、その時、人に見られてはならない。」喜乃は年上の夜鷹の女からこの話を聞いてすっかり信じ込み、人目を忍びながら桶に入れた水をじっと見つめる。北沢典子の真剣な表情が可愛らしかった。喜乃は誰もいない古井戸へ行き、紙切れを燃やして井戸の中を覗き込む。すると、驚いたことに、初音の鼓の姿が現れるのだ。一方、冴姫も屋敷の縁側で桶に水を入れ、同じ占いをしている。しかし、源氏九郎の姿は浮かばない。その時屋根の上から初音の鼓が現れ、水鏡を覗いているところを見られてしまう。
 こうした月にまつわる俗信は本当にあったのかどうか。時代考証に努める伊藤大輔のことだからきっとこうした俗信を知っていて、それを映画に取り入れたのだろう。先日伊藤大輔の『治郎吉格子』(長谷川一男主演)を観たが、その中でも「月が暈を着ている夜に(男と女が)出来ると、腐れ縁になる」といった月に関する俗信を巧みに使っていた。
 時代劇に月夜は欠かせぬ背景であり、月のカットはよく出てくるが、大概お決まりの描き方で、陳腐なことが多い。しかし、この映画で扱われる月のモチーフはユニークで大変効果的だったと思う。
 そして最後は、この占いどおり、喜乃は初音の鼓(源氏九郎)のために命を落とす。しかし、死ぬ間際のほんの一瞬ではあるにせよ、好きな男と添い遂げることができた。そう思って私は観ている。これは前回も書いたが、感動の名場面である。

 そろそろ『源氏九郎颯爽記』も終わりにしたい。が、ここで、錦之助の殺陣については是非とも触れておかなければならない。
 東映時代に錦之助のチャンバラが最高の到達点を見せる作品は、『源氏九郎颯爽記・秘剣揚羽の蝶』(1962年3月)と『宮本武蔵・般若坂の決斗』(1962年11月)だと思う。この二本の映画はともに昭和37年の製作で、後者は内田吐夢の監督作品である。殺陣師はどちらも足立伶二郎だが、源氏九郎と宮本武蔵はまったくタイプの違う主人公であり、したがってその殺陣も対照的だった。が、両者甲乙つけがたいほど素晴らしい。源氏九郎の殺陣は壮麗にして凄絶、型に入って型を崩す感じを受ける。「静」から「動」になだれ込むとでも言おうか。宮本武蔵の殺陣は俊敏にして壮烈、逆に型を崩して型に入る感じがする。こちらは「動」から「静」に落ち着く。平たく言えば、源氏九郎はスタイリスト(剣士)の太刀さばきで、宮本武蔵はファイター(闘士)の太刀づかいである。
 『秘剣揚羽の蝶』には源氏九郎の立ち回りが三度ある。
 タイトルの前にプロローグのように登場する立ち回りは、一種のデモンストレーションで、小手調べといったところか。夜の枯野で、源氏九郎が十数人の黒覆面に囲まれ、斬り合う場面。キャメラは上方から俯瞰気味にロングで枯野を捉える。長回しで、ゆっくり近づいていく。バックには琴の調べと風の吹く音が入る。九郎は最初大刀一本で敵を数人斬り倒す。途中で二刀を抜いて、斬る。九郎はほとんど後姿で、最後に秘剣揚羽の蝶に構えてこちらを向く。ビデオではビスタサイズに変えてあり、映像も暗くてひどい。映画館のスクリーンで観ないとその良さは分からないと思う。
 二度目は、能の舞いのような立ち回り。バックに流れる音楽も能楽の鼓と笛。様式美あふれる殺陣である。十数人の浪人と斬り合う場所はプロローグと同じ夜の枯野である。この場面は遠くから舞台を鑑賞しているような錯覚を覚える。観ていて背筋がぞくぞくしてきたのは私だけではあるまい。
 最後は、迫真の立ち回り。悪の幕閣が放った刺客たちとの斬り合い、それに続く戸上城太郎の怪剣士左源太との闘いは、チャンバラ史上の白眉だと思う。チャンバラというより剣戟、いや激闘である。数分間は、音楽もなく、刀が空を切る音や肉を斬る擬音もない。音と言えば、物がぶつかったり倒れたりする音だけ。この立ち回りは息詰まるほどの凄さである。クライマックスの煮詰まった沸点で、エネルギーが噴出するように激闘が展開する。迫力満点だった。
 喜乃が短銃で撃たれて、ついに九郎の怒りが爆発する。撃ったのは悪商の愛妾(長谷川裕見子が珍しく悪役だった)で、九郎は飛びかかるようにしてこの女を斬る。背中を斬り下ろし、さらに返す刀で横なぎに斬りつける。裂けた顔から血を流して倒れる長谷川裕見子を見て、私はびっくりした。錦之助の主人公はめったに女を斬り殺すことはないのだが、この映画は例外中の例外だった。(錦之助が女を斬るのは、私の記憶では、『隠密七生記』と『鮫』だけだったと思う。)ここまで来ると、演出している伊藤大輔が本気で怒り、過激になったとしか思えない。
背中一面に刺青を彫った源氏九郎がもろ肌脱ぎ、攻撃に転じて敵に襲い掛かる。そのすさまじさ!鍔迫り合いで左源太を井戸まで追い詰め、腹を小刀で突き刺し、大刀を振り下ろす。斬られた左源太の体は井戸の中にまっ逆さまに突き落とされる。あとには、黒い鉄の義手がつるべの綱を握ったまま腕ごと切り取られ、不気味にぶら下がっていた。
 錦之助の素晴らしい殺陣と伊藤大輔の鬼気迫る演出が見事にぶつかり合って生まれた類のない立ち回りシーンであった。(終わり)



『源氏九郎颯爽記』(その十四)

2008-04-08 14:40:53 | 源氏九郎颯爽記・剣は知っていた
 この映画には原作と同じく遠山金四郎(丹波哲郎)が登場するが、伊藤大輔はこうした幕府という権力体制側の手先のような人物はきっと虫が好かなかったにちがいない。これほどいい加減に描いた遠山の金さんも珍しいが、丹波哲郎もミスキャストで、悪家老のようにしか見えなかった。また、腕をめくり上げた時の彫り物のちゃちなことにも驚いた。時代劇のヒーロー、遠山の金さんもかたなしで、初音の鼓=源氏九郎の引き立て役、あるいは道化役として伊藤大輔が故意的に描いたとしか思えない。ついでに言えば、伊藤大輔は水戸黄門が大嫌いで、「権力の臭いがぷんぷんしてくると腹が立ってたまらない」と語っている。

 ところで、『秘剣揚羽の蝶』の見どころは、二組のドラマチックな純愛ロマンスと殺陣の素晴らしさにある。(殺陣については次回に語ることになるだろう。)
 伊藤大輔の手にかかると、純愛も何か叙事的で(叙情的ではない)、女の一念とか悲願とかが凝縮された形で表現される。そして、エロティックな妖気が漂うところがある。この映画には、冴姫の大川恵子が将軍の夜伽に召される時の空想シーンがあって、全裸にされボディチェックを受けるところなど、なかなかのもんだった。後ろ姿だけなのだが、冴姫が薄く透き通った紗のような寝巻きを脱がされて、将軍の寝間に入っていくところは、私にとっては生涯忘れえぬ場面である。小学生の頃、この映画を封切りで観て、異常な興奮を覚えたからである。私が生まれて初めて見た女性のヌードシーンだった。大川恵子が吹き替えだったことなど、ガキの私は知るよしもなかった。今観るとそれほどたいしたことはない。むしろその後に続くカットの方がエロティックに思える。大川恵子が、口に含んだブルー色の丸薬(オピウムガンとかいう毒薬だった)を舌の上に乗せて出すところである。ここは吹き替えではない。大川恵子の裸は胸から上しか見えないが、放心したようなうつろな表情でたらこのような肉厚のベロを出す。このアップのカットがなまなましくて良い。
 変なことを書いてしまった。純愛ロマンスの話に戻ろう。
 この映画で胸を打つのは、何といってもラストシーンである。源氏九郎がいまわの際の喜乃(北沢典子)を抱き起こし、「わしは、一生、妻を、持たぬ」と口の動きで伝えるところが最高に良い。「う、れ、し、い」と声にならない声を懸命に発する北沢典子が可憐で可哀想で……もう堪らない。伊藤大輔は、下層民の中に喜乃という聾唖の娘を登場させ(この娘も原作にはない)、この純真な生娘に初音の鼓を慕わせ、また初音の鼓も彼女に優しく接し、彼女を可愛がるという関係を描き出した。これが秀逸だった。映画の内容が俄然ヒューマニスティックで感動的なものになったからだ。
 それと、話が前後したが、この映画では公卿の美しい娘・冴姫(大川恵子)が将軍家に輿入れする設定になっている。(原作で大奥に側妾として上がるのは越後長岡藩の藩主の娘だった。)冴姫は貧乏公家の娘であるがゆえに将軍の淫楽のため金で買われ、将軍の生贄(いけにえ)にされる。聾唖の喜乃も悲しい宿命を背負った悲運の娘(多分捨て子なのだろう)であるが、冴姫も悲運のヒロインである。が、冴姫は意志の強い女で、将軍を毒殺し、自分も自害しようといった悲愴な覚悟を抱いている。そして、この高貴な冴姫は源氏九郎に一目惚れしてしまう。奪われた献上品(古今伝授の巻物三巻)を九郎が取り返して、自分のところへ持って来てくれるのを心待ちにしている。(古今伝授三巻を九郎が奪い返して冴姫に手渡すという筋立ては、この二人が逢瀬を重ねる口実として伊藤大輔が考え出したアイデアだった。)
 冴姫の九郎への思いは次第に募っていく。そして、三度目に九郎が寝間に忍び込んで来た時に、冴姫は九郎に強烈なラヴコールを送るのだった。この場面は、この映画のハイライトの一つであり、私の好きな場面でもある。
 まず、九郎が身を隠すため冴姫の寝ている布団の中にもぐり込む。男女同衾である。布団の中に身を潜めているうちに、姫の方がムラムラ来て、物欲しげそうな目を九郎に向ける。この時、錦之助の困っちゃったなーという顔のカットが挿入されるのでご覧あれ。次に、冴姫は決然として「私の操、純潔をあなた様に捧げる」みたいな言葉を言う。なんと帯を解き桜色の寝巻きを脱ごうとするのだ。ここでは、あっけに取られ呆然として見ている錦之助の正座姿が映し出される。この濡れ場にならないラヴシーン、あまり色気のない大川恵子が演じるからかえって良いのだと思う。彼女の上気した顔といい、恥ずかしいのに一生懸命やっているところに大変好感が持てるのだろう。(これは私の個人的意見なので、どうぞお聞きのがしを!)一番盛り上がった瞬間、邪魔が入る。九郎はあやういところで難(?)を免れ、冴姫も調子が狂い、穴があったら入りたい心境だったであろう。

 ついでに、桜町弘子の八重も、九郎に対しすごい迫り方をした。九郎を親の仇敵だと思っているので、槍を振り回して、九郎にかかってくる。九郎は八重が肌身離さず持っている書状が見たいので、ごめんと言って当て身を食らわせ、八重が気を失ったところで、胸に手をつっ込み、書状を取り出して読む。八重を起こして、無礼を詫びると、胸に手をつっ込まれ素肌を触られたことは、身を汚されたことと同じだと言って、急に八重が開き直る。九郎に、殺すか、結婚するか、もしくは自害するかの選択を迫るのだった。この場面、観ていてびっくりするが、きっと八重も九郎に一目惚れして、プロポーズを迫ったと思うのだが、どう解釈すれば良いのだろうか。(この場面はそっくり原作にもあったが、どう書いてあったか確かめていない。ただし、八重が左源太に殺されることにはなっていなかったと思う。)(つづく)


『源氏九郎颯爽記』(その十三)

2008-04-08 01:52:00 | 源氏九郎颯爽記・剣は知っていた

 『源氏九郎颯爽記 秘剣揚羽の蝶』の記事が中途半端になったまま、だいぶ日が経ってしまった。4ヶ月近くになるだろうか。もう忘れたころになって書き継ぐのも気が引けるが、このまま終わらせるわけにもいかない。あと三回ほど書いて、『源氏九郎颯爽記』は締めくくるつもりなので、ご容赦願いたい。

 さて、第三作『秘剣揚羽の蝶』は、伊藤大輔が脚色・監督しただけあって、中身が濃く見ごたえのある時代劇に仕上がっていた。単純明快な勧善懲悪の娯楽時代劇とは違い、ストーリーが複雑で、登場人物も多く、ぼーっと見ていたのでは話の筋も人物関係も分からなくなってしまうほどである。
 私はこの2年間に『秘剣揚羽の蝶』をスクリーンで5回、ビデオで5回ほど観ているが、数回観てやっとこんがらがっていた糸がようやくほどけてきた感じである。伊藤大輔が狙った意図も理解できるように思えてきた。
 私はここでこの映画と柴田錬三郎の原作を比較するつもりはないが、よくもまあ、ここまで大胆に原作を変えたものだというのが正直な感想である。原作と同じ場面は数箇所しかない。約九割は伊藤大輔のオリジナルだと言ってよい。登場人物もずいぶん違うし、新たな人物をたくさん加えている。ここでは伊藤大輔が脚色したこの映画のオリジナルな部分で、とくに重要な部分についてだけ触れておきたい。
 いかにも伊藤大輔好みに作り変えたと思う点は、江戸の廃寺の一隅に下層民たちの巣窟を設定したことである。人形遣い、偽造職人、ニセ盲人、易者、そして夜鷹も混じった集団で、その頭領を「初音の鼓(はつねのつづみ)」というやくざ者にして、この役を源氏九郎と同等のもう一人の主役にして錦之助に演じさせた。錦之助の一人二役である。もちろん、これらの下層民も初音の鼓というやくざも原作には登場しない。初音の鼓というのはあだ名で、背中一面にその彫り物があることからそう呼ばれているのだが、本当の名前は分からない。頬に刃物で切られたひきつり傷があるが、錦之助が演じると江戸っ子のイナセなお兄いさんになる。この男、イカサマ博打をやる道中師でもあるが、実は幕府の公金を横領している豪商の悪事を暴き、権力者たちの腐敗した金権政治を正そうとする一種の義賊である。鼠小僧次郎吉に少し似ているが、初音の鼓は一匹狼のアウトローではなく、仲間の小悪党を指揮し悪辣な権力者を懲らしめる貧民のヒーローに仕立てている。
 映画を観ていると、初めは錦之助が源氏九郎とはまったく違うやくざの役をやっていると思うのだが、そのうち、つながりがあることが判明し、終わり近くになってやっと、九郎と初音の鼓が同一人物であるという種明かしをされる。源氏九郎は神出鬼没で不可思議な人物であるが、初音の鼓も謎めいた人物なのだ。この二人の主役が別々に行動し、二つのストーリーが複線的に展開するので、観ている方は頭が混乱してくる。一度観て、結末を知った後にまた観直せば、混乱はなくなるが、それでも、源氏九郎が初音の鼓に化けていたのか、初音の鼓が源氏九郎に化けていたのか、そのどちらなのか判然としない気がするのだ。ただ、ラストシーンを見る限りでは、白装束の源氏九郎が家来になった半次(多々良純)を連れて旅に出るので、やはり源氏九郎が真の姿、初音の鼓が仮の姿だったようだ。これは細かいことだが、源氏九郎が総髪で登場するのも(前二作では髷を結っていて、こちらの錦之助の方が美しく凛々しかったと思う)、また白い着物の下に白い長袖のアンダーシャツ(?)を着ていたのもこれで合点がゆく。腕の彫り物を隠していたのだ。
 まあ、それはともかく、原作では南町奉行の遠山金四郎が町人に変装して登場したり、売れっ子の女形歌舞伎役者がお役者小僧という盗賊に化けて活躍し、さらにこのお役者小僧が遠山の金さんの腹心の与力だったりする種明かしがあるが、伊藤大輔はこうした小細工が気に入らず、源氏九郎という主人公そのものを変身させてしまった。遠山の金さんをヒントにしたのだろうが、これは、伊藤大輔にしかできない芸当で、彼独特の発想によるものである。しかし、これが成功したかどうかは別問題である。(私はやや無理だったと感じているが……。)伊藤大輔の狙いとしては江戸の下層階級をどうしても映画に登場させたくなり、それで、まさか源氏九郎をその中に置くことはできないので、初音の鼓というやくざを創作し、彼に弱者の味方という大役を買わせたのだろう。こうすることによって、源氏九郎が血も涙もある人間的なスーパーヒーローになったとも言えるが、何か怪傑源氏九郎になってしまったような印象も残った。(つづく)



『源氏九郎颯爽記』(その十二)

2007-12-05 14:15:10 | 源氏九郎颯爽記・剣は知っていた
 柴田錬三郎の『源氏九郎颯爽記』には、正編と続編がある。講談社文庫にその二冊(1980年と1981年初版)があって、続編の方は、『秘剣揚羽蝶』がタイトルで「源氏九郎颯爽記」が副題になっている。が、現在は二冊とも絶版のようだ。ただ、講談社文庫には、正編の補足とも言える二章分が欠けているので、不完全である。それは、映画で言うと、加藤泰監督の第二作が下敷きにした「白狐二刀流」と「終景」という章で、内容的には、源氏九郎が福原揚羽の院のある孤島を訪ねた後の話だが、これは兵庫の町が舞台でそれまでの正編とは独立したストーリーになっている。だから、この二章は正編に欠けていても問題はない。しかし、加藤泰監督の第二作を原作と比較してみたいと思う時には、講談社文庫にはその部分がないので、不都合である。
 『源氏九郎颯爽記』の文庫本にはあと二種類、春陽堂版(1972年初版)と集英社版(1994年初版で二冊)がある。やはりどちらも絶版である。私は集英社版を持っていないが、春陽堂の文庫本は、正編と続編、それに講談社文庫では欠けている二章も入っている。ただし、二段組で活字が小さく、私のような老眼の者には読みにくい。それに全部を一冊にまとめている本なので、本文が510ページもあって大変部厚い。
 『源氏九郎颯爽記』は、月刊誌の「面白倶楽部」に1957年に連載され、一応完結して、同年光文社より単行本が発行された。その後、他の雑誌(「週刊平凡」など)に源氏九郎を主人公とする短編のシリーズが五編書き継がれたようだ。「白狐二刀流」(「終景」を含む)、「花の幻」「秘剣の宴」「夢の舞曲」「血汐櫛」である。そして、「花の幻」以降が続編となってまとめられた。

 錦之助の「源氏九郎シリーズ」の第三作『秘剣揚羽の蝶』は、『源氏九郎颯爽記』の続編の第一章「花の幻」を伊藤大輔が脚色し監督した映画であった。
 伊藤大輔と言えば、時代劇映画の巨匠として、時代小説家たちからも一目も二目も置かれる存在だった。丹下左膳が登場する『新大岡政談』の原作者林不忘は、伊藤大輔と大河内伝次郎のコンビが連作する映画を観て唖然とし、新聞の連載が書きづらくなってしまったという。あまりにも鮮烈な丹下左膳のイメージを作り上げてしまったからだそうだ。なにしろ伊藤大輔は強烈な個性の持ち主であり、反逆精神と反権威主義の塊のような映画作家である。原作を換骨奪胎し、常に自分の個性を前面に打ち出した過激な映画を作っていたので、原作者には敬遠されていたほどである。柴田錬三郎がどうだったかは知らないが、大正6年生まれの柴錬にとって伊藤大輔は時代劇の大先輩であり、きっと少年の頃彼の映画を観て感動した体験を持っていただろうから、巨匠が自分の原作を映画化してくれることを喜んだにちがいない。伊藤大輔の談話によると東映の企画者に彼は「煮て食おうが焼いて食おうが好きなように料理してよい」と言われたそうだ。これはもしかすると柴田錬三郎自身の言葉であったかもしれない。
 この映画も、伊藤大輔は原作を大幅に変更している。これは私の正直な感想であるが、原作の「花の幻」の章よりも映画の方がずっと内容が深まったと思う。ストーリーは複雑で多少難解になったことは確かである。しかし、源氏九郎のカッコ良いイメージは崩さずに、貴賎さまざまな人物を登場させ、その人間絵図を躍動的に描いていた。さすが伊藤大輔である。(つづく)



『源氏九郎颯爽記』(その八)

2007-11-19 15:35:21 | 源氏九郎颯爽記・剣は知っていた
 「地に足の着いたリアリズムと言おうか。映画を絵空事や奇麗事で終わらせず、出来る限り虚構を廃して、生活者の視点で描く。加藤泰の映画に顕著な特徴は、なまなましい生活臭であり、現実的な人間の素顔である。」
 これは私が以前『風と女と旅鴉』について書いた文の一節であるが、素材はまったく違うが『源氏九郎颯爽記』にも、加藤泰のこうした傾向ははっきり現れていたと思う。
 第一作『濡れ髪二刀流』は、加藤泰が源氏九郎を慕う女の生き方に重点を置いて描いたとはいえ、生活者の視点もずいぶん映画の中に取り入れていた。たとえば、長屋風景とその住人たちのおしゃべりがそうだ。ここは江戸下谷の長屋という設定だった。
 私は、原作にもない日常茶飯事的な風景を面白く思って観ていたが、こうした場面をなぜこれほどまで大きく扱うのか、内心少し疑問に思わなくもなかった。しかし、加藤泰はどうしてもこれを描きたかったのだろう。描きたいから描く。描かないわけにはいかない。そういうことなのだろう。
 『濡れ髪二刀流』で、源氏九郎が亡くなった大坪左源太(清川荘司)の家を訪ね、長屋のみんなが集まって、故人の思い出話をする場面がある。夫婦喧嘩を仲裁してくれたとか、かぼちゃが嫌いだったとか、そういうセリフを住人に語らせたのも加藤泰らしさと言えるだろう。映画の中ではファーストシーンにだけ登場し、斬られて死んだ左源太という浪人が実はどういう人間だったのか、あえて補おうとした。彼が真面目な善人だったとフォローしてやらなければ、あえなく果てた彼も決して浮ばれないだろうと加藤泰が思っていたかどうか。それは私には分からない。が、加藤泰の人間を見るやさしさが現れていたのではないかと思う。
 長屋のセットも凝っていた。とくに家の外の様子がきちんと描かれていた。画面では、奥の方まで丁寧すぎるほど点景を添えていた。竹馬に乗って遊んでいる子供もいた。犬もいた。わざわざ女たちの井戸端会議の場面を加えたり、雨が降って来て洗濯物をしまいこむ女たちの情景なんか、短いカットではあったが、挿入していた。
 『濡れ髪二刀流』を観ていると、源氏九郎は「掃き溜めに鶴」といった印象を受ける。九郎が全身真っ白の衣装のままで、汚い貧乏長屋に逗留するのだから、違和感があったものの、貴種流離譚にしてはかなり変わっているなと思った。そこへまた綺麗な着物を着た織江もやって来てここへ居ついてしまう。長屋の女房の一人は、赤木春恵が扮していたが、彼女を中心に二人のことが女たちの話題の的になるところも落語のようでいかにも加藤泰らしかった。
 加藤泰という映画作家には、常に市井の人々の生活を描きたいという思いが強くあって、それを何が何でも映画の中に挿入するこだわりがあったのだと思う。彼は、チャンバラも好きだが、生活感を映画に盛り込みたいという意欲も強かった。
 加藤泰は、伊藤大輔に憧れて時代劇を作るようになった監督である。後年、『王将』で伊藤大輔の助監督をやったり、一緒に本を作ったりして(『時代劇映画の詩と真実』)、その私淑ぶりは並々ならぬほどだった。が、その一方で叔父の山中貞雄の映画にも大きな影響を受けている。加藤泰の遺作ともいうべき著書が山中貞夫論だった。
 加藤泰の映画を観ていると、伊藤大輔のような過激な反逆精神や痛烈な批判性は薄く、むしろ人間愛護的なやさしさを私は感じる。悪を完膚なきまでに暴いたり、悪人に対し怒りに燃えて懲罰するような厳しさは、彼の映画には感じない。小悪党はたくさん出てくるが、結構人間的である。悪の権化みたいな大物は登場しない。彼の映画には山中貞雄的な人間観と作風が溢れているように思う。人間の暮らしぶりから等身大の人間を描こうとするわけである。だから、悪党でも性善説的な見方で描くことになる。彼は東映時代劇の勧善懲悪的なストーリーのようにパターン化した悪役は描きたくなかったのだろう。『濡れ髪二刀流』には、悪役として磐城屋という豪商(佐々木孝丸)とその番頭・狐小僧(三島雅夫)が出てくるが、それほど悪いヤツでもない。老中(小沢栄太郎)とその一派も何を企んでいるのかよく分からず、悪の中心であるはずのこの老中も何だかちっぽけな男に見えてならなかった。
 加藤泰の映画は、東映時代劇の中では異端視されていた。東映幹部の受けも悪かったようだ。が、それは、『源氏九郎颯爽記』のような貴種流離譚を映画化するにしても、定式化した単純な娯楽時代劇のようには映画を作らなかったためである。その点、加藤泰は天邪鬼であった。
 描いたいものを描くということにかけて、加藤泰は頑固一徹であった。第二作『白狐二刀流』は、第一作のそうした傾向をさらに押し進めたのだと思う。(つづく)