『ひよどり草紙』が全国の松竹系映画館で封切られたのは、翌昭和29年2月10日であった。
「美空ひばり初の恋愛もの。相手役は映画初出演、歌舞伎界の貴公子中村錦之助」といった前宣伝が効果を上げ、吉川英治原作の知名度もあって、この映画は爆発的とまではいかぬまでも、予想以上のヒットとなった。
作品自体もうまくまとまり、上々の出来栄えだった。『ひよどり草紙』は今見ても、ひばりと錦之助のういういしさが横溢し、清新で純粋で、素晴らしい青春純愛映画である。
錦之助が初登場するのは、浅草の観音さまの本殿の前にひばりと仲良く並んで、願をかけて拝むシーン。錦之助が手を合わせて拝むのをやめ、隣りのひばりを盗み見ると、ひばりはまだ拝んでいる。錦之助は、あわてて拝み直す。せっかちな錦之助と、ひばりの落ち着きぶりとがよく表され、何度見てもほほえましいシーンである。
「早苗どのは、ずいぶん長く拝むんだなあ」(錦之助の映画初セリフ)
「あら、ちっとも長くないわ。たった三つお願いしただけですもの」
「三つも! ずいぶん欲が深いんだなあ」
錦之助は興味津々、ひばりの三つの願い事を聞きたがる。
一つ目は父親が無事お役目を果すこと、二つ目は紅ひよどりを見ること、とひばりが言う。
「三つ目は?」と錦之助。
「言えない」
「そうだ、拙者もお願いしよう」
またあわてて錦之助が拝み直す。
「なにをお願いしたの」
今度はひばりが興味津々、錦之助に尋ねる。
次のセリフ、これを錦之助がさらっと言うところが何ともすがすがしい。
「早苗どのがおばあちゃんになるまで、達者で、幸せで……」
「まあ、でも短かったわね」
その後、ひばりが三つ目の願い事を錦之助に明かす。
「燿之助さまが幸せで、おじいさんになるまで達者でいられますようにって」
「ハハハ、ありがとう。さあ帰りましょう」
二人のこのやりとりを聞くと、私は胸がじーんと熱くなってしまう。ひばりも錦之助も、おばあちゃん、おじいちゃんになるまで、末永く幸せで達者ではいられなかったからだ。二人は婚約寸前まで行って、願い叶わず、その後、生涯の友としてそれぞれの道を歩んでいく。
『ひよどり草紙』は、十代の少年少女たちが夢のようなロマンスを若いアイドルに託して擬似体験する青春純愛映画のはしりであった。ひばりが美少年スター石浜朗(当時十八歳)と戦後初の『伊豆の踊子』(野村芳太郎監督 松竹大船作品)を撮るのはこの直後であるが、その後『伊豆の踊子』が、日本の高度成長期にあって人気アイドルによる青春純愛映画のステロタイプとして、四度もリメイクされていくのは周知の通りである。『ひよどり草紙』は時代劇であったため、再映画化されずその役割を果さなかったが、フレッシュなアイドルによる青春純愛路線の先鞭をつけたことは間違いない。
『ひよどり草紙』のヒットは、明らかに美空ひばりの人気とひばりを支える若いファン層によるものだった。この映画で錦之助は、ひばりファンをごっそり自分のファンに変えてしまうほどの人気スターには成り得なかった。『ひよどり草紙』を見て、錦之助ファンになった少女(少年)も数多くいたであろうが、まだ一部にすぎなかった。この頃すでに映画館に未成年の少年少女が集り始め、映画によっては観客層が急激に低年齢化する兆候はあった。『ひよどり草紙』もそうだし、『伊豆の踊子』のヒットもその兆候であった。が、低年齢層の観客動員を単発ではなく、持続的かつ常習的にし、いわゆる「ジャリ集め」に拍車をかけていく作戦に最初に出たのは、松竹でも大映でも東宝でもなく東映であった。
東映は昭和二十九年一月第四週に東映娯楽版と称した子供向きの中篇『真田十勇士』三部作を一挙公開し、二月第二週(『ひよどり草紙』公開と同時期)から娯楽版(『謎の黄金島』三部作)と本篇を抱き合わせて二本立て路線を敷き、低年齢層の観客動員にも照準を合わせ始めていた。東映はまさに機を見るに敏であった。が、いかんせん少年少女たちがファンになれるような若き時代劇スターがいなかった。東映のプロデューサーたちはマキノ光雄を先頭に、血眼になって若きスター候補を探していた。最初に見つけたのが東千代之介であった。
『ひよどり草紙』公開後のこの時点で、新芸プロの福島通人も旗一兵もそうした動向を重視していなかった。錦之助も、目の前のことで精一杯だった。まさか、その約三ヵ月後に自分がが、ひばりファンとは違った少年少女の観客層にアピールし、桁違いに多くのファンをつかみ、一躍人気スターに昇りつめようなどとは、夢にも思わなかったにちがいない。新芸プロの福島も旗も、先見の明がなかった。錦之助を使って、ひばりファンとは違った低年齢層のファンを呼び集める時代劇を製作しようとなどは思いもしなかった。たとえそうした企画が頭をかすめたにしても、新芸プロの自主製作ではヒットさせる自信もなかったであろう。
『ひよどり草紙』が終って、福島も旗も錦之助の処遇に頭を悩ませた。ひばりの相手役に錦之助を歌舞伎界から引き抜いたものの、錦之助をいつもひばりの相手役に使うわけにもいかない。錦之助に一番向いているのは、やはり時代劇である。彼自身もそれを望んでいる。錦之助は松竹演劇部と揉めて歌舞伎界とは縁を切って新芸プロに身を委ねた。戻るところがないから、映画俳優としてかんばると本人は張り切っているが、回りの評判は今一つパッとしなかった。映画関係者の誰に聞いても、「売れないんじゃないか」と言う。甘い顔立ちで強烈な個性がないし、体つきも貧弱に見えたのだろう。二十一歳の錦之助に、三船敏郎のような野性味や鶴田浩二のような大人の男の色気を求める方が無理な話であった。誰も、錦之助の潜在的なスター性を見抜くことができなかった。福島通人は錦之助を新芸プロの所属にすることは保留にして、しばらく様子を見ようと思った。
「美空ひばり初の恋愛もの。相手役は映画初出演、歌舞伎界の貴公子中村錦之助」といった前宣伝が効果を上げ、吉川英治原作の知名度もあって、この映画は爆発的とまではいかぬまでも、予想以上のヒットとなった。
作品自体もうまくまとまり、上々の出来栄えだった。『ひよどり草紙』は今見ても、ひばりと錦之助のういういしさが横溢し、清新で純粋で、素晴らしい青春純愛映画である。
錦之助が初登場するのは、浅草の観音さまの本殿の前にひばりと仲良く並んで、願をかけて拝むシーン。錦之助が手を合わせて拝むのをやめ、隣りのひばりを盗み見ると、ひばりはまだ拝んでいる。錦之助は、あわてて拝み直す。せっかちな錦之助と、ひばりの落ち着きぶりとがよく表され、何度見てもほほえましいシーンである。
「早苗どのは、ずいぶん長く拝むんだなあ」(錦之助の映画初セリフ)
「あら、ちっとも長くないわ。たった三つお願いしただけですもの」
「三つも! ずいぶん欲が深いんだなあ」
錦之助は興味津々、ひばりの三つの願い事を聞きたがる。
一つ目は父親が無事お役目を果すこと、二つ目は紅ひよどりを見ること、とひばりが言う。
「三つ目は?」と錦之助。
「言えない」
「そうだ、拙者もお願いしよう」
またあわてて錦之助が拝み直す。
「なにをお願いしたの」
今度はひばりが興味津々、錦之助に尋ねる。
次のセリフ、これを錦之助がさらっと言うところが何ともすがすがしい。
「早苗どのがおばあちゃんになるまで、達者で、幸せで……」
「まあ、でも短かったわね」
その後、ひばりが三つ目の願い事を錦之助に明かす。
「燿之助さまが幸せで、おじいさんになるまで達者でいられますようにって」
「ハハハ、ありがとう。さあ帰りましょう」
二人のこのやりとりを聞くと、私は胸がじーんと熱くなってしまう。ひばりも錦之助も、おばあちゃん、おじいちゃんになるまで、末永く幸せで達者ではいられなかったからだ。二人は婚約寸前まで行って、願い叶わず、その後、生涯の友としてそれぞれの道を歩んでいく。
『ひよどり草紙』は、十代の少年少女たちが夢のようなロマンスを若いアイドルに託して擬似体験する青春純愛映画のはしりであった。ひばりが美少年スター石浜朗(当時十八歳)と戦後初の『伊豆の踊子』(野村芳太郎監督 松竹大船作品)を撮るのはこの直後であるが、その後『伊豆の踊子』が、日本の高度成長期にあって人気アイドルによる青春純愛映画のステロタイプとして、四度もリメイクされていくのは周知の通りである。『ひよどり草紙』は時代劇であったため、再映画化されずその役割を果さなかったが、フレッシュなアイドルによる青春純愛路線の先鞭をつけたことは間違いない。
『ひよどり草紙』のヒットは、明らかに美空ひばりの人気とひばりを支える若いファン層によるものだった。この映画で錦之助は、ひばりファンをごっそり自分のファンに変えてしまうほどの人気スターには成り得なかった。『ひよどり草紙』を見て、錦之助ファンになった少女(少年)も数多くいたであろうが、まだ一部にすぎなかった。この頃すでに映画館に未成年の少年少女が集り始め、映画によっては観客層が急激に低年齢化する兆候はあった。『ひよどり草紙』もそうだし、『伊豆の踊子』のヒットもその兆候であった。が、低年齢層の観客動員を単発ではなく、持続的かつ常習的にし、いわゆる「ジャリ集め」に拍車をかけていく作戦に最初に出たのは、松竹でも大映でも東宝でもなく東映であった。
東映は昭和二十九年一月第四週に東映娯楽版と称した子供向きの中篇『真田十勇士』三部作を一挙公開し、二月第二週(『ひよどり草紙』公開と同時期)から娯楽版(『謎の黄金島』三部作)と本篇を抱き合わせて二本立て路線を敷き、低年齢層の観客動員にも照準を合わせ始めていた。東映はまさに機を見るに敏であった。が、いかんせん少年少女たちがファンになれるような若き時代劇スターがいなかった。東映のプロデューサーたちはマキノ光雄を先頭に、血眼になって若きスター候補を探していた。最初に見つけたのが東千代之介であった。
『ひよどり草紙』公開後のこの時点で、新芸プロの福島通人も旗一兵もそうした動向を重視していなかった。錦之助も、目の前のことで精一杯だった。まさか、その約三ヵ月後に自分がが、ひばりファンとは違った少年少女の観客層にアピールし、桁違いに多くのファンをつかみ、一躍人気スターに昇りつめようなどとは、夢にも思わなかったにちがいない。新芸プロの福島も旗も、先見の明がなかった。錦之助を使って、ひばりファンとは違った低年齢層のファンを呼び集める時代劇を製作しようとなどは思いもしなかった。たとえそうした企画が頭をかすめたにしても、新芸プロの自主製作ではヒットさせる自信もなかったであろう。
『ひよどり草紙』が終って、福島も旗も錦之助の処遇に頭を悩ませた。ひばりの相手役に錦之助を歌舞伎界から引き抜いたものの、錦之助をいつもひばりの相手役に使うわけにもいかない。錦之助に一番向いているのは、やはり時代劇である。彼自身もそれを望んでいる。錦之助は松竹演劇部と揉めて歌舞伎界とは縁を切って新芸プロに身を委ねた。戻るところがないから、映画俳優としてかんばると本人は張り切っているが、回りの評判は今一つパッとしなかった。映画関係者の誰に聞いても、「売れないんじゃないか」と言う。甘い顔立ちで強烈な個性がないし、体つきも貧弱に見えたのだろう。二十一歳の錦之助に、三船敏郎のような野性味や鶴田浩二のような大人の男の色気を求める方が無理な話であった。誰も、錦之助の潜在的なスター性を見抜くことができなかった。福島通人は錦之助を新芸プロの所属にすることは保留にして、しばらく様子を見ようと思った。