錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~『ひよどり草紙』(その4)

2012-11-30 21:07:35 | 【錦之助伝】~映画デビュー
 『ひよどり草紙』が全国の松竹系映画館で封切られたのは、翌昭和29年2月10日であった。
 「美空ひばり初の恋愛もの。相手役は映画初出演、歌舞伎界の貴公子中村錦之助」といった前宣伝が効果を上げ、吉川英治原作の知名度もあって、この映画は爆発的とまではいかぬまでも、予想以上のヒットとなった。



 作品自体もうまくまとまり、上々の出来栄えだった。『ひよどり草紙』は今見ても、ひばりと錦之助のういういしさが横溢し、清新で純粋で、素晴らしい青春純愛映画である。
 錦之助が初登場するのは、浅草の観音さまの本殿の前にひばりと仲良く並んで、願をかけて拝むシーン。錦之助が手を合わせて拝むのをやめ、隣りのひばりを盗み見ると、ひばりはまだ拝んでいる。錦之助は、あわてて拝み直す。せっかちな錦之助と、ひばりの落ち着きぶりとがよく表され、何度見てもほほえましいシーンである。

早苗どのは、ずいぶん長く拝むんだなあ」(錦之助の映画初セリフ)
「あら、ちっとも長くないわ。たった三つお願いしただけですもの」
「三つも! ずいぶん欲が深いんだなあ」
 錦之助は興味津々、ひばりの三つの願い事を聞きたがる。
 一つ目は父親が無事お役目を果すこと、二つ目は紅ひよどりを見ること、とひばりが言う。
「三つ目は?」と錦之助。
「言えない」
「そうだ、拙者もお願いしよう」
 またあわてて錦之助が拝み直す。
「なにをお願いしたの」
 今度はひばりが興味津々、錦之助に尋ねる。
 次のセリフ、これを錦之助がさらっと言うところが何ともすがすがしい。
早苗どのがおばあちゃんになるまで、達者で、幸せで……」
「まあ、でも短かったわね」
 その後、ひばりが三つ目の願い事を錦之助に明かす。
燿之助さまが幸せで、おじいさんになるまで達者でいられますようにって
「ハハハ、ありがとう。さあ帰りましょう」



 二人のこのやりとりを聞くと、私は胸がじーんと熱くなってしまう。ひばりも錦之助も、おばあちゃん、おじいちゃんになるまで、末永く幸せで達者ではいられなかったからだ。二人は婚約寸前まで行って、願い叶わず、その後、生涯の友としてそれぞれの道を歩んでいく。
 
 『ひよどり草紙』は、十代の少年少女たちが夢のようなロマンスを若いアイドルに託して擬似体験する青春純愛映画のはしりであった。ひばりが美少年スター石浜朗(当時十八歳)と戦後初の『伊豆の踊子』(野村芳太郎監督 松竹大船作品)を撮るのはこの直後であるが、その後『伊豆の踊子』が、日本の高度成長期にあって人気アイドルによる青春純愛映画のステロタイプとして、四度もリメイクされていくのは周知の通りである。『ひよどり草紙』は時代劇であったため、再映画化されずその役割を果さなかったが、フレッシュなアイドルによる青春純愛路線の先鞭をつけたことは間違いない。
 『ひよどり草紙』のヒットは、明らかに美空ひばりの人気とひばりを支える若いファン層によるものだった。この映画で錦之助は、ひばりファンをごっそり自分のファンに変えてしまうほどの人気スターには成り得なかった。『ひよどり草紙』を見て、錦之助ファンになった少女(少年)も数多くいたであろうが、まだ一部にすぎなかった。この頃すでに映画館に未成年の少年少女が集り始め、映画によっては観客層が急激に低年齢化する兆候はあった。『ひよどり草紙』もそうだし、『伊豆の踊子』のヒットもその兆候であった。が、低年齢層の観客動員を単発ではなく、持続的かつ常習的にし、いわゆる「ジャリ集め」に拍車をかけていく作戦に最初に出たのは、松竹でも大映でも東宝でもなく東映であった。
 東映は昭和二十九年一月第四週に東映娯楽版と称した子供向きの中篇『真田十勇士』三部作を一挙公開し、二月第二週(『ひよどり草紙』公開と同時期)から娯楽版(『謎の黄金島』三部作)と本篇を抱き合わせて二本立て路線を敷き、低年齢層の観客動員にも照準を合わせ始めていた。東映はまさに機を見るに敏であった。が、いかんせん少年少女たちがファンになれるような若き時代劇スターがいなかった。東映のプロデューサーたちはマキノ光雄を先頭に、血眼になって若きスター候補を探していた。最初に見つけたのが東千代之介であった。
 『ひよどり草紙』公開後のこの時点で、新芸プロの福島通人も旗一兵もそうした動向を重視していなかった。錦之助も、目の前のことで精一杯だった。まさか、その約三ヵ月後に自分がが、ひばりファンとは違った少年少女の観客層にアピールし、桁違いに多くのファンをつかみ、一躍人気スターに昇りつめようなどとは、夢にも思わなかったにちがいない。新芸プロの福島も旗も、先見の明がなかった。錦之助を使って、ひばりファンとは違った低年齢層のファンを呼び集める時代劇を製作しようとなどは思いもしなかった。たとえそうした企画が頭をかすめたにしても、新芸プロの自主製作ではヒットさせる自信もなかったであろう。

 『ひよどり草紙』が終って、福島も旗も錦之助の処遇に頭を悩ませた。ひばりの相手役に錦之助を歌舞伎界から引き抜いたものの、錦之助をいつもひばりの相手役に使うわけにもいかない。錦之助に一番向いているのは、やはり時代劇である。彼自身もそれを望んでいる。錦之助は松竹演劇部と揉めて歌舞伎界とは縁を切って新芸プロに身を委ねた。戻るところがないから、映画俳優としてかんばると本人は張り切っているが、回りの評判は今一つパッとしなかった。映画関係者の誰に聞いても、「売れないんじゃないか」と言う。甘い顔立ちで強烈な個性がないし、体つきも貧弱に見えたのだろう。二十一歳の錦之助に、三船敏郎のような野性味や鶴田浩二のような大人の男の色気を求める方が無理な話であった。誰も、錦之助の潜在的なスター性を見抜くことができなかった。福島通人は錦之助を新芸プロの所属にすることは保留にして、しばらく様子を見ようと思った。



中村錦之助伝~『ひよどり草紙』(その3)

2012-11-29 19:26:55 | 【錦之助伝】~映画デビュー
 ひばりは、『ひよどり草紙』に出演するまでにすでに四十本以上の映画に出ていた。ひばりは、映画界の先輩として、映画初出演の錦之助に撮影中、いろいろ細かいことを親身になって教えた。自分の撮影がない時でも、錦之助のことが心配になって、わざわざロケ現場へ出向いた。スタッフとトラブルを起こしはしないか、立ち回りで怪我をしまいかなどと錦之助のことが気になって仕方がなかった。ひばりは、この時、自ら縫って作った可愛らしいポーチにメンソレータムや赤チンやガーゼなどを入れて、錦之助に手渡したほどだった。
 ひばりがこれまで映画に出て、共演した男優と言えば、自分よりずっと年上のオジサンが多かった。嵐寛寿郎、高田浩吉、岡春夫、若原雅夫、川田晴久などで、比較的若い佐田啓二、鶴田浩二、片山明彦でも十歳以上年上だった。北上弥太郎だけは昭和一ケタ生まれで例外だったが、世慣れていてひばりが好きになれるタイプではなかった。
 ひばりが小さな胸をときめかせ、初めて恋をしたのは『あの丘越えて』で共演した鶴田浩二だったが、鶴田の方がひばりを恋愛相手とは見ず、妹のように可愛がるだけだった。
 錦之助は二十一歳、ひばりより五歳年上に過ぎない。歌舞伎界の御曹司で血統もよく、最初は坊ちゃん育ちのなよなよしたヤサ男と思ったところが、すかっと竹を割ったような男らしい性格でズバズバ物は言う、軽口は叩く、憎まれ口はきくはで、口喧嘩もするが、その飾り気のないやんちゃな人柄に、ひばりは錦之助がすっかり気に入ってしまった。母の喜美枝も同じで、錦之助といると話が弾み楽しくてならなかった。
 クランクインして間もなく、撮影が終るとひばり母娘は常宿にしている高級旅館へ錦之助を呼んで、一緒に鍋料理を食べ、酒を飲みながら夜遅くまで歓談するほどになった。
 錦之助はひばりのことを「ずいぶん気遣いの細かい人だな」と思った。食事中、グラスのウィスキーが空きかかると、すぐにオンザロックを作って、出してくれる。「何が好き?」と言いながら、食べ物も小皿にとって勧めてくれる。至れり尽くせりの供応ぶりだった。五歳も年下の少女とは思えないほどで、姉さん女房のようであった。ひばりの方でも錦之助は世話の焼き甲斐があった。強がりばかり言っているくせに錦之助は甘えん坊でどこか頼りないところがあり、そこが魅力的だった。二人は実に相性が合ったのである。
 悲愴な覚悟で単身、映画界に乗り込んできた錦之助にとって、ひばり母娘の親切は、心細さを忘れさせてくれる支えになった。単に感謝の気持ちからではなく、錦之助は、ひばりも母の喜美枝も身内のように好きになり、信頼するようになった。

 映画の撮影中、錦之助が親しくなったのはひばり母娘だけではなかった。新芸プロ所属の川田晴久、堺駿二、山茶花究も、何かと錦之助に気を遣ってくれた。錦之助のことを「若旦那」と呼んで、いろいろ面倒を見てくれる。錦之助は映画界には入ってまでも若旦那と呼ばれることに抵抗はあったが、彼らの好意をありがたく受け入れようと思った。共演者でベテラン俳優の保瀬英二郎は、錦之助のコーチを買って出て、メークの仕方からキャメラの前で注意すべきことまで、事細かに教えてくれた。監督もスタッフもみんな錦之助に暖かく接してくれた。
 クラックインしてから約三週間、錦之助は無我夢中だった。
 ラッシュを見ると、恥ずかしいことだらけだった。歌舞伎では自分の演じた姿を見ることもできず、セリフを録音して後から聞くこともなかったが、映画は全部それを撮影録音し、演じた自分を醒めた目で観察することができる。ひばりや共演者はみんな自分の個性を発揮し、さすがだと感じた。それに引き換え、自分はと言えば、拙さばかりが目立って、穴があったら入りたい心境だった。
 ずっと女形をやっていたせいなのだろうか。まず声が高いのが気になった。それに早口である。ラリルレロの発音がダヂヅデドに聞こえる。セリフも棒調子だ。目もどこを見ているのやら、あらぬ方ばかり見ていて、定まらない。チャンバラも下手だ。地に足が着いていなし、刀を振り回しているだけで、間が取れていない。
 錦之助は、ラッシュを見て、本当にこのまま映画俳優として続けていかれるのかどうか、自信が揺らぎ、自分の将来が不安になった。だが、そんなことは言っていられない。歌舞伎界を飛び出して、あれほど自分が望んだ道に入って、その一歩を踏み出しのだ。これから人の何倍も勉強し、映画俳優として絶対モノになってやる、と固く心に誓った。



中村錦之助伝~『ひよどり草紙』(その2)

2012-11-27 14:04:18 | 【錦之助伝】~映画デビュー
「ひばりちゃんの今度の相手、カブキの中村時蔵のボンで錦之助ちゅう名前やそや」
 京都の下加茂撮影所で働く人たちは、中村時蔵と言ってもピンと来ない人の方が多かった。「それ、どこのだれや?」といった具合である。時蔵の芝居を見たこともなければ、顔も知らない人が大半であった。まして、その倅の錦之助など知っている者は皆無に近かった。
「錦之助? 聞いたことあらへんな」
 カブキから映画にまた若いモンを引っ張ってきたといった印象しかなかったであろう。映画の現場では錦之助の家柄も過去の経歴も、見向きもされない履歴書の数行にすぎず、無価値同然だった。
 錦之助自身も語っているように、錦之助は「すっぽり裸にされ、完全に自由のからだになった」。父時蔵のこともよく知らず、自分がどこの馬の骨だかも分からない人たちの間に入って、映画作りの上で重要なパートをになうことに、錦之助は言い知れぬ自由と生まれ変わったような気分を抱いた。錦之助は幼児の頃からずっと身に付けてきた古い衣裳を剥ぎ取られ、真っ裸にされて、まるで知らない映画の現場へ投げ込まれたのである。
 撮影初日、錦之助は朝早く撮影所の楽屋へ入った。メーキャップは自分でやった。頭は結髪さんがつくってくれた。まあ、慣れているのは着物を着ることだけだった。鏡の前に立つと、なかなか格好のいい前髪の若武者筧燿之助である。が、颯爽と出て行く先は檜の舞台ではなく、ゴミゴミした撮影所内の土の上だった。仕度を終え、スタジオに連れていかれる時は、手術室にでも運ばれていくような気持ちだった。
 カメラに向かっての最初のワンカットは、筧燿之助が剣術の道場で凛々しくたすきを結ぶところだった。錦之助は目をどこに置いてよいか分からなかった。すかさずカメラの後ろに立った内出監督から注意の言葉が飛んだ。
メセンはここ、ここ!」
 メセンという言葉が分からなかった。なんのことはない、視線のことだった。
 ほかにも現場用語で分らない言葉がたくさんあった。ピーカン(快晴)、中抜き(カットを飛ばして撮ること)、なめる(画面に入れること)、わらう(画面からはずすこと)など。
 一番困ったのは、覚えてきたセリフを撮影現場で変更されることだった。覚えたセリフが邪魔になって仕方なく、セリフの方ばかりに気をとられて、演技のほうがお留守になってしまうのだった。
 撮影所ではスタッフがみんな実によく働いているのに錦之助は目をみはった。まるでこま鼠のように動き回っている。みんな忙しく働いているが、楽しそうで生き生きしていた。現場の人たちには、映画を作ることが嬉しくて仕方がない様子である。みんな、映画作りにあふれんばかりの情熱を注いでいるのだ。自分も全力を尽くして、みんなの中に加わろうと錦之助は思った。
 錦之助にとって何よりも解放感を覚えたことは、スタッフのみんなが上下関係や年齢差があるにもかかわらず、まるで対等のようにぞんざいな口をきき合い、冗談を言って高笑いしていることだった。錦之助は彼らの乱暴な会話を聞いて、今にも喧嘩でもはじまるのではないかと思った。が、撮影がすめば、お互いにっこりと笑い合ってみんな走って次の場所に移動するのだった。身分や礼儀作法に厳しく、人と人とが打ち解けない歌舞伎の世界とはまったく違っていた。ここでなら思ったこともズバズバ口に出せるし、気の利いたシャレも言える。冗談好きで明るい錦之助にとってこんな気楽なことはなかった。

 美空ひばりと母の喜美枝とも錦之助はすぐに打ち解けて話せるようになった。
 とくに母の喜美枝は、元魚屋のおかみさんだけあって、言葉遣いは悪いが、江戸っ子気質で、あけっぴろげだった。喜美枝は、ブロマイドで見た錦之助の甘いマスクに抱いたイメージと実際の錦之助の話し振りや態度にギャップを感じたようだが、二、三度度会って話してみるうちに、錦之助の竹を割ったような人柄と他人思いで人情のある性質がすっかり気に入ってしまった。



 ひばりも同じだった。ひばりは人見知りで、赤の他人にはウサギのような警戒心を持つタイプだったが、この人は感じが良いと思ってしまえば、気さくに話すし、あれやこれやと世話を焼くことが大好きだった。映画界に入ったばかりの錦之助がまごまごしているのを見て、ひばりは居ても立ってもいられなくなった。むくむくと世話好きの親切心が涌いてきた。
「ボンボン、ここはこうした方がいいわよ」
「さあ、これで額の汗、ふいて」
「ほら、あたしの目をちゃんと見て」
「うん、すてき」
 美空ひばりは、共演者である錦之助のファンになってしまった。歌舞伎役者の錦之助のファンは、もちろんたくさんいたであろうが、映画俳優中村錦之助のファンでその正真正銘第一号は、美空ひばりであった。


中村錦之助伝~『ひよどり草紙』(その1)

2012-11-26 03:28:22 | 【錦之助伝】~映画デビュー
 京都に着くと、錦之助は松竹関係者に連れられ、まず太秦にある松竹京都撮影所へ見学に行った。錦之助は松竹演劇部を除籍になったとはいえ、映画デビュー作の『ひよどり草紙』は松竹配給でもあり、また松竹映画の出演が圧倒的に多い美空ひばりの相手役ということもあって、松竹関係者もいろいろ便宜をはかってくれた。映画の世界、とくに撮影現場では右も左も分からない錦之助である。映画がクランクインする前に、実際の現場を見て少しでも勉強しておこうというのは錦之助の希望でもあった。
 そこではちょうど、『股旅しぐれ』(小林桂三郎監督)という映画の撮影中だった。セットでは主演の若杉英二と桂小金治が酒場のシーンを撮っていた。錦之助は、映画の撮影現場というものを初めて見た。これまで数多くの映画を見て、映画の作り方はある程度想像していたが、実際それを見て、やはり驚いた。歌舞伎の芝居とはまったく勝手が違うと感じた。錦之助はその時の驚きをこう語っている。

――セリフが区切られて、部分部分が細切れに撮影されてゆくのも珍しく、カメラのまわる音も異様なものに聞こえました。大写しなどで、あの前でひとりで演技することになったら、どんなにこわいだろう、とひとごとでなく思ったりしました。

 後年、錦之助は「ミッチェルの前にいるのがいちばん好き」と常に語るようになった。ミッチェルとは古くから使われてきたアメリカ製の映画撮影用カメラであるが、錦之助も最初はカメラをこわいと思ったのだった。

 『ひよどり草紙』のクランクインは十二月に入ってすぐだった。
 撮影所は太秦ではなく、鴨川のほとり、下鴨神社の近くにある下加茂撮影所であった。松竹京都撮影所は昔からずっとここにあったのだが、昭和25年の大火災の後、太秦へ移転してしまい、下加茂撮影所は松竹系列の京都映画株式会社が買い取り、貸しスタジオも兼ねていた。戦前は松竹時代劇の製作拠点で、その昔十九歳の林長二郎長谷川一夫)が『稚児の剣法』で華々しくデビューしたのもこの撮影所からであった。錦之助が生まれる五年前の昭和二年のことである。錦之助は奇しくもあの時代劇の美青年スターと四半世紀を経て同じ出発地点に立ったのである。デビューして一時期、錦之助が長谷川一夫の再来と言われたのも故なきことではなかったが、それについては後述する。
 ところで、新芸プロは、福島通人が美空ひばりのために作った芸能プロダクションだったが、この頃は、川田晴久田端義夫堺駿二山茶花究星十郎神楽坂はんこといった芸能人も抱え、発展の一途にあった。旗一兵を製作部長にすえて映画製作にも乗り出していた。美空ひばりの主演映画はヒットすることほぼ間違いない。そこで、ひばり主演でこれぞという企画を自主製作して映画会社の松竹(のちに新東宝)に配給だけ任せる方式をとり始めた。その方が収益もはるかに上がるからだった。福島通人がその賭けに出た自主製作第一回作品が昭和二十七年十一月公開の『リンゴ園の少女』(島耕二監督 松竹配給)である。この映画は予想以上のヒットにはならなかったが、主題歌「リンゴ追分」は売上げ70万枚という空前の大ヒットとなり、厖大なの収益を上げた。美空ひばりは横浜間坂にひばり御殿を建て、新芸プロの事務所は京橋から銀座四丁目に進出した。ひばりの歌で当て、映画でも当てるのが、新芸プロの経営方針になった。
 新芸プロは、美空ひばりの出演しない映画も製作した。関西歌舞伎界の若手坂東鶴之助(のちの中村富十郎)を桶屋の鬼吉役で映画デビューさせた『次郎長一家罷り通る』(昭和28年9月公開 堀内真直監督 松竹配給)がそれである。この映画は、新芸プロ所属の川田晴久、田端義夫、堺駿二らが出演した喜劇だった。福島通人と旗一兵は、錦之助を誘う前に、鶴之助を映画界入りさせることにも成功し、歌舞伎の若手役者を映画出演させることには手慣れていたというわけである。しかし、福島と旗が坂東鶴之助を『ひよどり草紙』で美空ひばりの相手役に選ばなかったことは彼らの慧眼であったと言えるだろう。一方、錦之助は、関西歌舞伎の若手の中では、雷蔵のほかに鶴之助とも大変仲が良かった。だから、錦之助は映画出演に関し、鶴之助からいろいろ話を聞いていたのではないかと思う。
 また、新芸プロは映画会社ではないから、自前の撮影所があるわけではなく、自主製作の場合はどこかの撮影所を借り、また監督やスタッフや俳優なども他社から招いて製作に当たっていた。
 そこで、『ひよどり草紙』は、時代劇でもあり、京都の下加茂撮影所を借り受け、監督には松竹京都から新進の内出好吉を指名して製作に入ったのだった。内出好吉は当時四十二歳、戦前に松竹京都に入社し、戦後は伊藤大輔、大曾根辰夫の下で助監督を務め、昭和26年12月、監督に昇進するや嵐寛寿郎主演の『薩摩飛脚』を放って、一躍脚光を浴びた。GHQによる時代劇統制が解除された後に頭角を現した苦労人の新進監督の一人であった。その二作目、市川右太衛門主演の『月形半平太』(昭和27年5月公開 松竹京都)では共演者の美空ひばりや歌舞伎界から転じた北上弥太郎とも仕事をしていたので、『ひよどり草紙』の監督には最適の人選であった。共演者には、新芸プロ専属の川田晴久、堺駿二、山茶花究、ほかに花柳小菊嵯峨美智子澤村国太郎戸上城太郎香川京介らを揃えた。

 クランクインする前に錦之助は下加茂撮影所で内出好吉監督と会い、衣裳合わせを行い、カツラ合わせもした。単身ここに乗り込んできたが、不安だった。歌舞伎座の舞台裏とは違い、ここでは自分がよそ者のように感じた。楽屋には父も兄たちも、播磨屋の門人たちも誰もいない。心細かったが、そんなことなど言っていられなかった。裸一貫でがんばるしかないと錦之助は思った。



中村錦之助伝~映画界入り(その6)

2012-11-19 01:30:47 | 【錦之助伝】~映画デビュー
 十一月十五日の日曜の朝、歌舞伎座の子供かぶき教室で「鬼一法眼三略巻」(きいちほうげんさんりゃくのまき)の三段目「菊畑」が上演された。菊の花が咲き誇り、紅葉の枝と泉水を配した絢爛たる舞台で、錦之助は、虎蔵という名の若衆に身をやつした牛若丸を颯爽と演じた。嵐のような五日間が去り、心は快晴の秋日和のように晴ればれとしていた。あと十日もすれば歌舞伎とは訣別する。が、まったく後悔はなく、新たな希望に燃えていた。
 本興行の「菊畑」では、吉右衛門の鬼一法眼、勘三郎の虎蔵実は牛若丸、幸四郎の智恵内実は鬼三太、歌右衛門の皆鶴姫、中車の笠原湛海という豪華な配役で、錦之助は、芝雀、慶三、訥升、それに若い染五郎とともに侍女の役であった。
 この日の子供かぶき教室では同じ「菊畑」を若手によって上演し、錦之助は牛若丸に選ばれていた。高砂屋福助の鬼一法眼、慶三の鬼三太、訥升の皆鶴姫、中村時十郎の湛海という配役であった。

 錦之助は初日からこの二週間、勘三郎の牛若丸を見て、演じ方のすべてを学んだ。自分にまた同じ役をやらせてくれた叔父の勘三郎には錦之助は感謝の気持ちでいっぱいだった。舞台にいる時は、無心で勘三郎の演技を学びとろうとしていた錦之助も、きのうの舞台では、勘三郎の牛若丸を見ている間、彼の顔が浮んでならなかった。目を真っ赤にして、「錦ちゃん、ほんとに行っちゃうのかよ」と言った時の勘三郎の顔である。その前に映画入りのことはすでに勘三郎にも話していた。「錦ちゃんの好きなようにすればいいんだよ」と言ってくれた。だが、きのうの朝、勘三郎の楽屋へ挨拶に行って「二度と歌舞伎には戻らない覚悟で映画入りを決めました」と言うと、勘三郎は名残り惜しそうな顔をして、目を真っ赤にしてそう言ったのだった。勘三郎は子供かぶき教室でやる「菊畑」の最後の仕上げも見てくれた。その時は真剣な顔付きで、いつものように厳しい叱声を飛ばした。
 子供かぶき教室の「菊畑」で錦之助が演じた牛若丸は好評であった。

 錦之助の映画界入りが決まって、父時蔵と母ひなは、迷いが吹っ切れたように明るく前向きになった。二人とも暇をぬって関係者たちに連絡をとり、ひなは挨拶回りに奔走した。兄の歌昇と芝雀も、歌舞伎を辞めた元・獅童の三喜雄も、弟の賀津雄や四人の姉妹も、そして家族同様にしている婆やもお手伝いさんも門弟たちも、みんな錦之助の門出を祝福し、錦之助を励ましてくれた。いろいろな忠告もしてくれた。錦之助は涙がにじむほど嬉しかった。
 そして、十一月二十六日。歌舞伎座公演の千秋楽であった。錦之助は、この一日を悔いなく勤め上げた。「盛綱陣屋」の四天王、「娘道成寺」の坊主、「明治零年」の新撰組隊士、「菊畑」の侍女、「ゆかりの紫頭巾」の新造であった。吉右衛門、時蔵、勘三郎、そして幸四郎、歌右衛門を、錦之助が同じ舞台に上がって見るのもこれが最後だった。歌舞伎の先輩や仲間の役者たちにも別れを告げる日だった。
 錦之助は十一月二十日に二十一歳になっていた。
 青春の真っ只中であった。いよいよ映画という未知の世界へ足を踏み入れるのかと思うと興奮し、心が躍った。映画の脚本は新芸プロからもらい、もう何度も読んでいた。自分の台詞はすっかり覚えてしまった。
 錦之助が大きな旅行鞄を持って京都駅に降り立ったのは、十一月も最後の肌寒い日であった。