錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『宮本武蔵』(その九)

2007-04-22 19:05:57 | 宮本武蔵
 『宮本武蔵』第二部「般若坂の決斗」では、武蔵が宝蔵院の道場で槍使いの阿厳(あごん)と試合をするシーンと、般若坂ですさまじい決闘を繰り広げるラストシーンが、まさに息を呑む見せ場であることは言うまでもない。順序は逆になるが、まず第二部の副題にもなっている「般若坂の決斗」シーンから語ってみたい。

 奈良の般若野で、待ち伏せしていた牢人どもを(吉川英治は、「浪人」ではなく「牢人」という字を遣う)武蔵が次々に斬り倒していく場面は、第四部の「一乗寺の決斗」と甲乙つけがたいほど凄絶で、迫力満点だった。いや、瞬間的な迫力から言えば、「般若坂の決斗」の方が優っているかもしれない。なにしろ錦之助の武蔵の殺陣が素晴らしい。この時武蔵はまだ二刀流ではなく(二刀流開眼していなかった)、大刀一本で複数の敵に斬りかかっていく。敵は、武蔵を恨み、仕返しをしようとする不良牢人たちである。みな大して強い相手ではないが、束になっているので、あなどれない。武蔵が手ごわい敵だと思っていた宝蔵院の坊主たちは槍を持ってただ見守っていたにすぎないのだが、武蔵が戦わなければならない牢人は何人居たであろうか。二十数人は居たと思う。この多勢の敵に武蔵は一人で立ち向かっていく。
 武蔵の戦い方は実戦的である。複数の敵にいっぺんに斬りかかられてはやられてしまうから、逆に敵の一人一人を目標にこちらから襲いかかるわけだ。これは「一乗寺の決斗」で武蔵が吉岡一門七十三人を相手にする時も同じだった。一人を斬り倒すと、すぐに違う相手に斬りかかる。武蔵は一箇所に留まっていない。走り回って、敵をまるで蹴散らすかのように、敵の陣を分断し、常に一対一の戦いを仕掛けていく。武蔵は息を止めて、まず九人をまとめて斬り倒す。なんと九人である!その後、いったん敵から遠ざかり、丘の高い所に上がって気息を整える。(この時の錦之助の武蔵が、鳥肌が立つほどカッコ良い!)そして、また次の相手に挑みかかる。四人斬って、また息を整え、二人斬る。決闘が始まってこの間約二分、全部で十五人斬ったことになる。
 この一連のシーンは、観ているこちらも息が止まる。武蔵の息継ぎに合わせてこちらも息を吸っている。般若坂の決斗の場面は、時代劇映画の立ち回りシーンの白眉だと思う。内田吐夢の演出はもちろん、カメラワークもカット割りも見事、錦之助の殺陣も見事だった。殺陣師は足立伶二郎だが、非常にリアルな立ち回りになっていた。注目すべきことは、従来のチャンバラとは違い、一人一人の殺し方が実に丁寧なのだ。いや、丁寧と言っては語弊がある。太刀さばきが理にかなっていて無駄がないと言った方が良い。今までのチャンバラでは、斬られ役がいかにも斬られるために主役にかかってくる感じで、主役はただそれを刀で斬った風に見せかけていた。チャンバラは一種の舞踊みたいなものなので、主役の立ち回りが格好良ければ良いわけで、あとは斬られ役が大袈裟に斬られる動作をして、うまく殺されたように演技してくれる。内田吐夢は、舞踊のようなチャンバラ、うそ臭い殺陣は好まなかった。錦之助も若い頃から立ち回りには研究を続け、一作ごとに進歩を見せていたが、錦之助の研ぎ澄まされた殺陣が最高の到達点に達した作品は、『宮本武蔵』第二部だったのではないかと思う。
 
 般若坂の決斗シーンは、一対多数の立ち回りであったが、宝蔵院での阿厳との試合は、一対一の闘いだった。これほど武蔵の強さを見せつけた場面もなかったと思う。こんなことを書いてはどうかとも思うが、吉岡清十郎や伝七郎や佐々木小次郎との闘いよりも、武蔵の強さが際立って見えたのは、この阿厳との試合だったと私は思っている。阿厳を演じたのは山本麟一であるが、これがまた強そうで、凄い相手だったから余計にそう感じたにちがいない。聞くところによると、山本麟一は槍の使い手であるこの役を演じるにあたり、半年も槍の稽古に励んでからこの映画に臨んだのだという。闘志満々ではないか!
 武蔵と試合をする前に阿厳は長い棒を振り回し、道場の羽目板を突き破るのだが、このデモンストレーションが非常に良かった。彼の顔つきだけでも異様でコワモテなのに、棒を振り回すその迫力は真に迫り、本当に強そうなのだ。実はその前に阿厳が一人の牢人と試合をする場面があり、一撃で打ち倒された相手が床で痙攣を起こし、のた打ち回って絶命している。この牢人が死ぬ場面(俳優の名前は知らないが、名演だった!)を内田吐夢はじっくり撮って、さらに坊主たちにこの死体を引きずり出させて、床に落ちた血を拭き掃除までさせる。こうした懲り様は、さすが吐夢である。
 そうしたマニヤックな前置きがあって、武蔵は阿厳といよいよ試合に臨むのだ。さあ、始まるかという時に、道場の窓から、月形龍之介の日観が声をかける。「バカ!阿厳の大たわけ。相手は羽目板とは違うぞ。試合はあさってにしておけ!」このあたりの間も入れ方も心憎い。相撲の仕切り直しみたいではないか。逆上する阿厳。落ち着き払った武蔵。勝負は一瞬に決する。阿厳が棒を振り上げようとした瞬間、武蔵の木剣が襲いかかる。突くような一撃である。目にも留まらぬ速さとはこのことであろう。(私はDVDで何度もこの瞬間を観察しているのだが、阿厳の上半身のどこに木剣の一撃が加えられたのかが分からない。)阿厳は3メートルほど後ろに飛んで、コマのようにくるくる回りぶっ倒れる。「即死」だった。(これは試合の後、茶室で月形龍之介の日観が武蔵に語った報告である。)(つづく)




『宮本武蔵』(その八)

2007-04-22 16:51:19 | 宮本武蔵
 「青春、二十一、遅くはない!」
 これは、武蔵が姫路城を出て、人生の再出発をしようとする時に言うセリフである。錦之助はこのセリフを、決然とさわやかに、希望に胸ふくらませて言う。「二十一」とは、二十一歳のことである。なんだか現代の青春ドラマで遣いそうな言葉であり、時代劇のセリフにしては違和感を覚えなくもないが、逆にこれがとても新鮮で、効果的だから、耳に残るのだろう。『宮本武蔵』五部作には、武蔵のモノローグや自問自答の場面がストーリー展開の重要な節々にあり、そのどれもが印象的で感銘深い。第二部の初めで、颯爽とした武者姿になって姫路城を旅立つ時の錦之助の武蔵は、晴れ晴れとして、すがすがしい。天守閣の暗がりから解き放たれ、外界に出た時に見る青空のまぶしさ。沢庵和尚と別れて、武蔵は立ち止まり、腰に差した剣に目をやり、こう言う。
 「孤剣。これを魂と見て、常に磨き、どこまで自分を人間として高めうるか。たのむはこの一腰!」そのあとに続く言葉が、「青春、二十一、遅くはない!」なのである。この言葉、吉川英治の原作に書いてあるのかどうか、ずっと疑問に思っていたのだが、先日原作を読んでみて、ちゃんと書いてあることが分かった。ただ、原作では、武蔵の語った言葉ではなく、吉川英治が武蔵の心理を描出している地の文にあり、武蔵に対する吉川英治の励ましのような一文でもあった。
 
 タケゾウは姫路城主池田輝政から宮本の姓を、沢庵和尚から武蔵(むさし)を名乗るように言われ、いよいよ宮本武蔵になって、剣の道を志し自己修業に励もうと決意する。
 が、どうしたわけか、再出発へのこうした固い決意にもかかわらず、武蔵の足は花田橋の方へ向いてしまう。もしかしてお通さんがまだ待っているのではないか、と内心期待しながら、花田橋にたたずむ武蔵なのだ。この矛盾!そこがまた武蔵の人間的なところでもあり、心の優しさ、孤独に耐えられない弱さでもある。武蔵は花田橋でお通さんに再会する。が、一緒について行こうとするお通さんを振り切って、武蔵は一人、武者修行の旅に出なければならない。お通さんが旅支度をしている間に武蔵は「ゆるしてたもれ」と橋の欄干に小柄で彫り刻む。花田橋の上で泣き叫ぶお通さんを遠くから眺めている錦之助の武蔵。そのやるせない表情。武蔵はじりじりと後ずさりして、お通さんの方に背を向け、去っていく。

 『宮本武蔵』は、吉川英治の原作を読んでも、内田吐夢の映画を観ても、武蔵の意志の強さと心の弱さをしっかりと描いている。錦之助もこの強弱の二面性を見事に表現している。だからこそ、錦之助の武蔵が魅力的なのだと思う。
 武蔵は超人的ではない。極めて人間的である。初恋の相手のお通さんへの思いはいつまで経っても断ち切れない。城太郎を可愛がり、弟子にして連れて歩くのも、武蔵が心の優しい男だからである。お杉ばあさんからあんなにひどい仕打ちを受けても、武蔵はお杉ばあさんをいたわる。
 吉川英治の宮本武蔵は、鬼のような剣豪ではない。あくまでも人格形成の途上にある悩める若者である。剣は無類なほど強いかもしれないが、時として愛情のぬくもりを求めずにはいられない心の弱さを露呈する。自己に厳しく、剣の道を突き進もうとするが、そうした自分の生き方に疑問を持ち、自責の念に悩まされる。お通さんの愛情に応えたい気持ちは山ほどあるのだが、剣の修業のためには恋慕の念を押さえなければならず、煩悶する。
 錦之助の武蔵の素晴らしさは、吉川英治が造形した武蔵像を忠実に再現したばかりでなく、むしろもっとナイーヴに表現したことにあると思う。錦之助の武蔵に甘さや軟弱さはない。かといって、剛直とか剛毅とか言うと、そうでもない。もちろん、無骨でも朴訥でもない。(三船敏郎の武蔵は、剛直で無骨だった。)錦之助の演じた武蔵は、感受性豊かで何とも言えぬ人間的な暖かみがあった。お通さんや城太郎やお杉ばあさんに接した時に見せる優しいまなざしは言うもでもなく、闘う相手を倒した後でもどこか心の隅で後悔の念を残し、自省しなければいられない。相手の命を奪ったことに対し、常に良心の呵責を感じ続ける。宝蔵院で槍術の使い手の阿厳を倒した時も、般若坂で牢人たちを斬り殺した時もそうであり、殺しはしなかったが吉岡清十郎を倒した時も、また一乗寺下がり松で果し合いの名目人の少年を刺し殺した時もそうだった。巌流島で佐々木小次郎を倒した時ですら、舟の中で武蔵は血に染まった手を見つめて、 自責の念にさいなまれるのである。
 第二部以降、錦之助は、意識的に自分の個性を消して、武蔵を演じていたように思う。つまり、錦之助特有のからっとした明るさも感情表現の豊かさも隠し、修行中の武芸者らしく、あえて無表情の表情を浮かべ、感情を抑制した面持ちで通していた。そして、言葉を選んで話すといったセリフ回しを心がけていたと思う。背筋を伸ばし、挙措動作を崩さない錦之助の武蔵は、立っていても坐っていても歩いていても、若々しさの中に落ち着きと風格が備わり、観ていて惚れ惚れする。しかし、これはあくまでも心の平静を保っている時の武蔵であり、隙を見せない時の武蔵に限って言えることで、心が乱れた時や情愛があふれ出る時に見せる武蔵は、まったく違う。錦之助にしか表現できない微妙な心の動きをこめた表情をありありと見せる。それがまた素晴らしく、胸を打たれずにはいられなかった。(つづく)



『宮本武蔵』(その七)

2007-04-09 22:10:42 | 宮本武蔵
 『宮本武蔵』第一部の終わり近くである。峰の頂でお通さんと別れて、タケゾウは囚われている姉を助けに山牢へ行く。が、そこはもぬけの殻で誰もいない。そこで、引き返して、お通さんの待っている姫路の花田橋へ向かう。映画では、山道の岐路でタケゾウは沢庵和尚に出会う。真ん中に石の道しるべが立っていて、右の道が「花田橋」と書いてある。タケゾウは沢庵和尚から姉が無事であることを告げられ、「わしについて来い」という彼の言葉に従って、姫路城へ通じる左の道を歩いていく。結局、タケゾウは花田橋でお通さんとは会わずに、沢庵和尚に連れられて姫路城へ行き城主の池田輝政と会い、そのまま天守閣の一室に三年間幽閉されてしまうことになる。
 花田橋で再会する約束をしたのに、お通さんを置いてきぼりにして、タケゾウはずいぶん薄情な男だなーと私は思ったのだが、原作を読むとこの辺はちょっと違う。山牢に姉がいないことが分かると、タケゾウはすぐに花田橋へ行くことになっている。しかし、お通さんはそこに待っていない。タケゾウは落胆する。それでも数日間花田橋に通ってお通さんを探すのだが、会えない。姫路へ移されたと聞いた姉のことも気に懸けながら、姫路城下を菰(こも)を被ってうろうろしている時に沢庵和尚に出会うのだ。お通さんがなぜ花田橋にいなかったかと言うと、彼女は一人で峠を越えて姫路へ向かう途中、病気で倒れ山道のお茶屋で寝込んでしまう。ところが、そこに居るところを、追討の旅に出たお杉婆さんと権(ごん)叔父に見つかり、お通さんは危難を知って逃げ出す。そして、タケゾウと別れて20日目にようやく花田橋にたどり着く。それからずっと(970日)、橋のたもとにある土産物を売る竹細工屋で働きながら、タケゾウを待ち続けるのである。
 映画は、このすれ違いの部分を省いていたので、タケゾウが不実な男のように私には思えたわけである。が、映画は、限られた時間の中でこういう細かい部分まで描けないので、仕方がないとも言えよう。いや、こうしたまだるっこい箇所はばっさり切って、本筋をしっかり描き出すことに内田吐夢は力を傾けたのだろう。
 花田橋のすれ違いの経緯はともあれ、結局二人は、峠で別れて以来三年間も会えなかった。このことに変わりはない。むしろ、『宮本武蔵』第一部の鮮やかで印象的なラストシーンを語らなければならない。ここは、逆に原作にない場面を挿入し、映像的な構成によって最後を盛り上げていた。天守閣の一室で柱から血をしたたらせたり、赤松一族の亡霊を出して恨みを語らせたりする部分は、内田吐夢のハッタリっぽく、やり過ぎの感もいなめないが、花田橋のたもとの竹細工屋で茶杓(ちゃしゃく)を作っているお通さんの姿をありありと描いたところは余韻が残って素晴らしかった。気長に、そして幸せそうに待っているお通さんを観て、安心し、心なごむ気持ちになったのは私だけではあるまい。
 店の主人に扮した宮口精二の味のある演技とセリフがまた見事だった。茶杓の作り方を教えながらお通さんにそれとなく人の生き方も教え、暖かくお通さんを励ます宮口精二がなんとも言えず良かった。姫路城の天守閣に閉じこもって人間修業に励んでいるタケゾウのカットは短くして、花田橋のたもとで待っているお通さんのカットを長めに入れたのが実に効果的だったと思う。
 お通さんの様子を見に来た沢庵和尚が、遠くの天守閣を眺めながら、輪を描いて飛んでいるトビを見ているお通さんに「ほかに何かが見えないか」と尋ねる。お通さんは怪訝そうな表情をして素直に「何も見えない」と答える。お通さんはタケゾウが天守閣にこもっていることを知らない。沢庵和尚もあえてそれを教えようとしない。ただ、「今に分かる。待てば分かる」と希望的な言葉をかける。お通さんは嬉しそうにうなずく。この場面も良かった。
 
 さて、タケゾウは、三年間、姫路城の天守閣の一室に引き籠り、万巻の書を読みながら人間を磨き、宮本武蔵に変わっていく。最後の最後で、真正面から映し出された錦之助の変貌ぶりが凄かった。叡智の光に照らされたかのように徐々に顔かたちが見えてくるのだが、まるで仙人のように変身している。これにはびっくり仰天!錦之助得意の大変身である。あのタケゾウが、こんな立派な男になるのだろうか、といささか疑問に思わなくもないが、眼光鋭く、悟り切ったような顔つきになっているのだ。そして最後に「もののふの強さとは、こわいものの恐ろしさをよく知り、命を惜しみ、いたわらなければならない」ときっぱり言い放つ。これで第一部が終わる。『宮本武蔵』五部作を観ていて私はいつも思うのだが、この第一部のラストのタケゾウは、全作を通じて、いちばん悟りの境地に達した武蔵の表情になっていると感じる。まるで「五輪書」を書いてもおかしくない武蔵になっているような印象を私は覚えるのだが、皆さんはどう感じたのだろうか。