錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

初の現代劇『海の若人』(最終回)

2015-06-08 17:49:15 | 海の若人
 『海の若人』の錦之助は、現代のジャニーズ系の元祖ではないかと見紛うほどのアイドル的な魅力を発揮している。商船学校生を演じた他の俳優と比べても、段違いの若さと溌剌さで、スターの輝きを放っていた。とても22歳には見えず、十代の美少年のあどけなさが残っているように感じる。また、話し方も動作も自然で、本人が心配していたような時代劇臭さはまったく窺えない。
 美空ひばりは錦之助の相手役として申し分なかった。ひばりは歌だけでなく、演技も抜群にうまい。演技力に加え、アイドル性とスターの輝きを持った稀有な女優だと感じる。当時17歳とは思えないほど大人びていて、錦之助とは同学年のようだ。森永チョコレート・コンビとして宣伝に起用されるように、当時お揃いのカップルと言えた。
 クレジットタイトルでは、中村錦之助と美空ひばりが二枚看板として並ぶが、ひばりの名前の横に特別出演と書いてある。ひばりが主演ではなく助演だったので、東映が気を遣ったのだろう。あるいはひばり側の要望だったのかもしれない。ひばりの映画には歌が付き物であるが、『海の若人』で、ひばりが歌を唄う場面は一回しかない。錦之助と二人で丘に登る時に、ハイキングの歌(題名は不詳)をさらっと唄う程度である。むしろ錦之助の方が主題歌を唄うので、歌手をも兼ねていた。
 錦之助とひばりの二人の場面がやはりこの映画の見どころである。次に、錦之助と田代百合子の場面が面白く、そして、前回書いた錦之助と英百合子の場面が印象深い。

 青春ドラマに恋愛は欠かせないが、三角関係をどう描くかが映画のポイントになる。『海の若人』は、男と女二人の三角関係で、錦之助とひばりの純愛関係に芸者役の田代百合子が邪魔に入るという格好である。
 小道具として使われるのがパーカーの万年筆(当時のブランド物)で、これが誤解の原因になるのだが、この小道具の扱い方が面白いし、巧みであった。パーカーの万年筆で、ストーリーを転がしたのは舟橋和郎のシナリオ上の工夫である。ひばりが筆箱から兄のアメリカ土産だったパーカーを取り出して、帰っていく錦之助を追いかけ、プレゼントする場面から始まって、錦之助が田代百合子の部屋でパーカーを落とし、これが反対派の不良学生の手に渡って、問題にされる。錦之助とひばりが楽しいハイキングへ行ったあと、帰りのバスに田代百合子が乗り込んできて、錦之助に親しく話しかけ、「万年筆、お布団の中にあったのよ」と言う。ここで、ひばりがなんと錦之助に蹴りを入れるのだが、ひばりは錦之助に失望し、絶交を言い渡す。それからいろいろあって、疑惑が晴れ、最後は遠洋航海に出る錦之助の胸ポケットにパーカーが戻って、見送りに来たひばりに、錦之助がパーカーを見せながら、お守りがわりにして君のことは忘れないよ(言葉にはしない)といった態度を示し、ハッピー・エンド。
 田代百合子は、芸者役なのでずっと着物で通したが、色っぽさがないので、錦之助を誘惑する役としては今ひとつだった。喜多川千鶴あたりならぴったりだったという気もする。
 錦之助が重そうな田代をおぶって、夜の街路を歩いていくところから芸者屋での会話の場面、錦之助が二階からの梯子段から落っこちて(錦之助がこういうズッコケ芝居をするのは珍しい)、あわてて芸者屋から帰っていくまでのシークエンスが微笑ましく面白い。錦之助が玄関のたたきで田代をおろすと、足をくじいた田代が嘘っぽく「あっ、痛い」と言い、二階までかついでくれとせがむ。仕方なく、錦之助が背中を出し、ぶっきら棒に「どうぞ」と言うが、そのひと言が錦之助の地が出た普通のしゃべり方なのでおかしい。二階にあがると、布団が敷いてある。これが意味深で、やたら田代が錦之助を引きとめようとするのが誘惑のサインらしく、錦之助もドキマギし、この場面を見ている観客にもハラハラさせようという意図なのだが、全然そういう感じには描かれていない。シナリオも演出も、いやらしさを避けて、さらっと流していた。少年少女向けに作ったので仕方がなかったのだろうが、食い足りない気がしないでもない。
 錦之助がパーカーの万年筆を探しに再び田代の芸者屋を訪ねるシーンで、帰り際、錦之助がまたあわてて玄関のたたきでズッコケるところがあるが、これは、ギャグは手を変えて二度使うと、あとの方の笑いが増すという鉄則に従ったものだ。錦之助はまたズッコケ芝居をやらされたわけだ。
 『海の若人』には、面白いセリフや楽屋落ちもちりばめられていた。
 錦之助が食いしん坊だということから、天丼、蒲焼、おいなりさんという名前を出して、食べ物を想像させたところはユーモラスだった。
 いかがわしい成金のようなワルの役は星十郎だったが、役名が田岡というのには驚く。ひばりの後援者だった山口組の田岡組長を暗示したものなのか、あるいは偶然の一致なのか。
 ラストの船の中で、商船学校生の福島正剛が盲腸になって苦しむが、これは実際盲腸になった錦之助に当てつけたものである。
 ひばりの兄の結婚披露宴に、錦之助とひばりが出席して、仲良く並んで会話を交わす場面があるが、ここも二人の将来を示唆しているようで面白い。
 錦之助が芸者遊びをして、ひばりがやきもきし、寂しがるという映画の内容は、現実に近いことだったと思うし、この映画の二人の様子は妙にリアルだった。

 『海の若人』は、今見ると興味深く、映画自体もなかなか良く出来ていたと感じる。22歳の錦之助の素顔が見られる点でも貴重だ。シナリオも練れているし、監督の瑞穂春海も松竹のベテランらしく、手馴れた演出で、水準以上の青春ドラマに仕上げている。この善光寺のお坊さん監督は、足フェチらしく、ひばりの太い足首をアップで二度も写している。まあ、これはどうでもいい。港や海でのロケ撮影も生かされ、編集も、短期間で切羽詰って行なったとは思えないほど手際よくまとまっている。錦之助とひばりのシーンのカットつなぎも、省略法で小気味よい。特撮も当時としては頑張っていたと思う。

 どうしてこの映画がヒットしなかったのか不思議なのだが、錦之助ファンとひばりファンの両方に受けなかったというのが最大の原因だったと言われている。どちらのファンもティーンエイジャーが圧倒的に多かったが、『海の若人』は、まず、チャンバラ好きの少年ファンが見る映画ではなかったのだろう。男の子は颯爽としたチャンバラスターの錦之助が見たかったにちがいない。少女ファンは、憧れの錦ちゃんがひばりと仲良く共演するのを望んでいなかった。ファンの心理は複雑なのだ。ひばりと錦之助が接近すればするほど、反感が増したようだ。ひばりのファンも同様で、とくに女性ファンはひばりにレズビアン的な愛情を注いでいたと思うのだが、嫉妬に駆られて、錦之助との相思相愛ぶりを見たがらなかった。ファンの嗅覚は鋭く、ひばりと錦之助がプライベートでも親しくしているのを察知し、これみよがしに映画でも共演するのを毛嫌いしたのだろう。
 錦之助は後年、こう語っている。
――これは評判が良くなかった。私は現代ものに出ることになんの違和感もなかったのですが、ファンの方が抵抗を感じたようです。
「面白くない」「時代劇の方がずっといい」という投書が、ずいぶんありました。現代劇というより、ひばりさんとの共演が気に入らない人がいたようなのです。
ひばりさんのファン、私を応援してくださる人、それぞれイメージを描いていましたから、反感を買ったのですね。「ラブシーンは、目をつぶって見なかった」という投書があったくらいですから。(「わが人生悔いなくおごりなく」)


 映画を見ると分かるが、錦之助とひばりのラブシーンなどまったくない。それらしきものと言えば、二人でピクニックへ行き、丘の上でお弁当を食べるところである。
 思うに、錦之助ファンもひばりファンも女性たちは興味津々の気持ちで、この映画を見たはずだ。むしろ、二人のファンではない一般観客に敬遠され、受けなかったのだろう。

 結局、錦之助は、『海の若人』の失敗で、現代劇にはずっと出ることがなく、時代劇に専念することになった。東映時代、錦之助が現代人として洋服で登場するのは、『森の石松鬼より恐い』と『武士道残酷物語』の最初と最後の場面だけで、この2本も作品的には時代劇である。また、東映東京撮影所での錦之助の映画出演もこの1本に終わっている。東映東京は現代劇の若手人気スター不在のまま、ずっと映画を製作し続けていく。日活現代劇に石原裕次郎が登場し、デビューするのは、昭和31年5月公開の『太陽の季節』だったが、裕次郎ブームが沸き立つように起こるのはその一年後である。
 美空ひばりとの関係も以後、表沙汰にせず、潜行する形をとったようだ。その間、ひばりと錦之助の双方の関係者が二人の将来を憂慮し、二人の間に距離を置かせ、仲を引き裂くように仕向けていったのだと思う。ひばりは17歳、錦之助は22歳で、あまりにも若すぎたし、人気絶頂のトップスター同士の交際は、歌謡界・映画界にとってマイナス面が大きすぎたからだ。錦之助とひばりの共演作は、『おしどり駕篭』(昭和33年1月公開)まで2年8ヶ月あまりない。(終わり)




初の現代劇『海の若人』(その5)

2015-06-07 17:39:40 | 海の若人
 『海の若人』を私が初めて見たのは、9年ほど前である。東映ビデオを買って何度か見ていた。その後2009年11月に池袋の新文芸坐で錦之助祭りを催した時にフィルムセンターから35ミリプリントを借りて上映したが、スクリーンで見たのはこれが最初だった。錦之助映画ファンの会でニュープリントした『ゆうれい船 後篇』と二本立てだったが、じっくり鑑賞することができた。『海の若人』は、ビデオで見たときもいい映画だと感じていたが、スクリーンで見て、私は大変感動した。映画が素直すぎるほど純粋でひたむきだったからだと思う。私の隣の席で見ていた元東映女優の円山榮子さんも感動して、「すごくいい映画だった」とおっしゃって、涙ぐんでいたのを覚えている。
 最近、私は『海の若人』をビデオで一週間に3回見て、このブログを書いているのだが、これまで製作裏話ばかり書いて、映画の内容には触れなかった。今回は、ぜひこの映画の見どころについて書いておきたいと思う。


日本丸

 ファーストシーンとラストシーンは海に浮かぶ帆船「日本丸(にっぽんまる)」である。2,278トン、全長97メートル、最高マストの高さが46メートル。この大型帆船は、現在横浜のみなとみらいに保存展示されているが、昭和5年に建造・進水して以来、半世紀あまりの間、活躍したそうだ。『海の若人』は、駿河湾を航行する日本丸を撮影した映画として貴重なものである。航海記録によると、日本丸は、昭和30年この映画を撮った後、5月にアメリカへ向け遠洋航海に出発している。
 
 映画のあらすじは書かないが、この映画、主役の山里英一郎に扮した錦之助がほぼ出ずっぱりで、錦之助を中心にドラマが展開していく。錦之助が登場しないのは、5、6シーンほどで(山茶花究がやっている飲み屋のシーン、ひばり一人のシーン、ひばりと他の共演者のシーンなど)、数えてはいないが、数十シーンに錦之助が登場している。上映時間94分中、一時間以上は錦之助が画面に映っていたと思う。
 錦之助と二人だけでセリフのやりとりをする主な共演者は、女優から言うと、美空ひばり(女子高生)、田代百合子(芸者)、英百合子(錦之助の母親)で、中原ひとみ(飲み屋の娘)は錦之助とのからみがない。
 男優は、南原伸二(ルームメイトで親友)、福島正剛(親友)、船山汎(ライバルの学友)、宇佐美諄(教官)、高木二朗(先輩)である。商船学校の生徒たちとの場面は、実を言うと、あまり面白くない。男優では、福島正剛がちょっととぼけたキャラクターで良かったが、あとは人物描写が良くないのか、俳優がうまくないなのか(両方だろう)、惹きつけるところがなかった。重要な役なのに一番良くなかったのは南原伸二である。顔はいかついし、背も高く(錦之助より15センチほど高い)、タバコばかりすっていて、人を殴るし、よほど不良学生の役をやった方が良いと思った。前に出過ぎで、演技も固く、錦之助の引き立て役としては不適任だった。
 商船学校の寮の場面で特筆すべきは、集会で自治委員長に選ばれた錦之助が就任挨拶をするところだった。ワンカットの長回しで撮っているので、錦之助は長ゼリフを言うが、これがなかなかうまいのだ。錦之助の話によると、セリフを初めて巻き紙に書いて覚えたそうで、その後、錦之助はこの覚え方を習慣化していく。風呂場の壁に貼っても字が滲まないように、マジックインキで書くようにしたという。
 主題歌は木下忠司の作曲(クレジットにないので分からないが作詞も彼なのかもしれない)で、『喜びも悲しみも幾歳月』の曲調を応援歌風に明るくした名曲であるが、錦之助はこの歌を映画の中で4度も唄う。最初が寮の部屋、二度目が英(はなぶさ)百合子の前、三度目が嵐の船の中、最後がファイアーを囲んで寮生全員と、である。どうせならひばりの前でも唄えば良かったのにと思うが、それはともかく、錦之助はこの歌が好きだったようだ。朴訥な歌いぶりで実に良い。とくに、縁側の椅子に座っている英百合子のそばに、着物に着替えた錦之助が来て、唄う場面はじーんと胸が熱くなる。私は何度も聴いて、自分でも時々口ずさむほどなので、一番だけだが歌詞を覚えている。

おも舵、取り舵、とも綱、解いて、
錨を上げたら、出発だ
若い僕らの憧れ乗せた
船は海原越えていく

 錦之助とベテラン女優との共演は数多く、演技を越えて心が通い合う名演を何度も見せてくれたが、『海の若人』での英百合子との共演も素晴らしいものだった。英百合子(1900~1970)と言えば、映画史上記念碑的な無声映画の大作『路上の霊魂』(1921年 小山内薫指導、村田実監督)で令嬢役を演じて以来、創成期の松竹、東宝などで数々の映画に出演してきた大ベテランである。
 錦之助は英百合子を母親だと思って演じているうちに、いつのまにか息子に成りきってしまっていたのだと思う。受けの芝居をしている彼女の方も、錦之助をまるで本当の一人息子のように感じて、愛情を注いで演じていた。演じていたというより、錦之助を見て彼女が浮かべる表情、錦之助にかける言葉は、愛情に満ちた母親そのものになっていたとしか思えないほどだった。
 錦之助は女優、とくにベテラン女優との愛情交感のインタープレイ(相互交流の芝居)が抜群にうまいのだが、『海の若人』に出演した22歳の頃にはすでにそのノウハウを身につけていたことが分かる。初期の頃は、恋人役の若い女優に対しては、気恥ずかしさが抜けきらず、さらっと流して演じていたが(この映画でのひばりとの芝居がそうだ)、ベテラン女優に対した時は、心がほとばしるような意欲的な芝居をした。その最も早い時期での代表例が『海の若人』だったと思う(『紅孔雀』第一篇でも乳母役の松浦築枝との共演にその片鱗が窺われた)。『海の若人』は初挑戦の現代劇なので、余計難しかったのではないかと思うのだが、英百合子を相手に錦之助は、若いに似合わず、打てば響くとばかりに心をぶつける演技をしていた。狭心症で倒れ、床についている母親を見舞う場面、前述した母親のそばで歌を唄う場面がそうである。
 体当りの演技という言葉は、デビューから昭和30年代初めまでの錦之助の特徴としてよく使われたが、「心をぶつける演技」と言った方が適切なのではないかと私は思っている。錦之助は、相手との関係と自分の演じる人物の置かれた立場を十分理解したうえで、まず心から真意の伝わる演技をする。攻める演技とでも言おうか、相手役をインスパイアするのだ。これが相手の女優の心を開かせ、愛情が交互に伝わり合い、相乗効果を生むのである。
 『海の若人』では母親の英百合子が亡くなって、書き残した手紙を読んだあと、錦之助が大泣きに泣く場面があるが、ここは錦之助の一人芝居であるが、この場面も良い。それまでの母親との心の通い合いがしっかりと描かれていたからである。


初の現代劇『海の若人』(その4)

2015-06-06 22:39:22 | 海の若人
 沼津ロケでスタッフと出演者は、沼津の二流旅館に分散して宿泊していた。3月下旬に11日間と4月上旬に一週間である。沼津にはもっと良い旅館もあったが、旅館側がファンが押し寄せるのを迷惑がって、ロケ隊の宿泊を断ったというが、真相は分からない。予算の関係で製作サイドが安旅館を取らせたのかもしれない。
 錦之助は、最初、沼津の旅館に部屋を取ってもらったが、水の出が悪く、部屋も良くなかったので、一日だけ泊まると、翌日から伊豆長岡の旅館に変更している。ひばりと母の喜美枝は伊豆長岡温泉の一流旅館に宿泊したので、多分二人が錦之助を同じ旅館に呼び寄せたのだろう。
 ひばりがロケ撮影に参加したのは前後で5日足らずだったようだ。ひばりが沼津へ行ったのは多分一日だけで、ラストで遠洋航海に出る日本丸をみんなが突堤から見送るシーンを撮影する時であった。ひばりが一人で丘に登るシーンや、錦之助とひばりが二人でハイキングをするシーンなどは伊豆長岡で撮影された。
 前回紹介した岡部征純のブログによると、ロケ中止の日には毎晩のように宴会を開いたという話だが、これはひばりが伊豆長岡に泊まっていない3月下旬のことだった。さびしがり屋の錦之助は、俳優たちが泊まっている沼津の旅館に立ち寄って自分のポケットマネーで芸者を呼んで酒盛りをし、終わると車で伊豆長岡の旅館に帰ったようだ。
 商船学校生に扮した東映東京の俳優たちとは年齢も近く、東京人同士の仲間意識が芽生えて、錦之助も気が合い、いっしょにいるのが大変楽しかった。南原伸二(のち宏治)、船山汎(ひろし のち裕二と改名)、杉義一、福岡正剛、豊野弥八郎たちである。みんな昭和一桁生まれで、錦之助より5歳から3歳年上にすぎなかった。岡部正純(昭和10年生まれ)だけは自分で田舎者と書いているように、当時19歳で香川県坂出出身だった。

『海の若人』が封切られたのは昭和30年4月19日だった。4月17日に、嵐の中で船を漕ぐラストシーンのセット撮影を終えてクランクアップし、2日後に封切られるという、超スピード仕上げである。おそらく当時としては前代未聞の追い込みスケジュールで完成された。
 いったい映画の編集はどうしたのであろうか。この映画は10巻(缶に入れたフィルム・ロール10本)なので、何日か前からすでに撮影したフィルム9巻分は編集しておき、おそらく最後の1巻は4月17日に編集者が徹夜で仕上げたのであろう。編集は当時若手の祖田富美夫であった。上映プリント(数十館分)も9巻はすでに焼いておき、ラストの1巻だけ4月18日に焼いて、翌日の封切り日の朝までに全国大都市の東映系映画館へ搬送したのだと思う。
 企画から撮影終了までにいろいろな困難が生じ、大幅に予定が狂ったものの、どうにか封切り日に間に合って公開された『海の若人』であったが、映画の評判はあまり良くなかった。興行成績も予想に反し、振るわなかった。併映の娯楽中篇は『百面童子 完結篇』(東千代之介、伏見扇太郎ほか)だった。
 キネマ旬報に掲載されたデータによると、この2本立ての一週間の観客動員数は、新宿東映が12,736人(収容率60.8パーセント)、浅草常磐座が13,504人(収容率47.4パーセント)、3月に新築開館した大阪東映が9,123人(収容率不明)。本篇が東映東京の現代劇としては平均以上の動員数であったが、錦之助初の現代劇とひばりとの共演を売りにして、森永チョコレートが大々的に宣伝したわりには客足が伸びなかった。錦之助主演で2月に公開された『越後獅子祭り やくざ若衆』と比べると、新宿東映の動員数はほぼ同じだが、浅草常磐座では3000人ほど少ない。これは時代劇映画に関してだが、当時はまだ、浅草で受けないと、地方でも受けないと言われていた頃である。同じ年の1月に大ヒットした『勢揃い 喧嘩若衆』と『紅孔雀 第四篇』の2本立ては、新宿東映が18,827人、浅草常磐座が23,688人だったから、雲泥の差であった。


初の現代劇『海の若人』(その3)

2015-06-02 22:45:47 | 海の若人

沼津ロケでのスナップ。ひばりちゃんが錦ちゃんの学生帽をかぶっている。左側にお母さん(加藤喜美枝)。背後にガードマンのような恐いおじさんがいる。錦ちゃんはカラーをはずし、不良学生のよう。頭の帽子(キャップ)はなんだろう?

『海の若人』は撮影に一ヶ月かかった。クランクインは3月17日、沼津ロケから始まって、アップしたのは4月17日。東映の映画では大作並みの撮影期間であった。が、実際は3月下旬、ロケ地沼津で雨が続き、いわゆる天気待ちで待機し、撮影できずに無駄に過ごした日が何日もあったのだった。
 当時の錦之助の撮影日誌を一部引用すると、

 3月19日 雨降りの為、旅館で一日待機。
 3月20日 雨。沼津にて待機中、後援会の会員の人達約250名が着いたとの連絡あり。千本松原で記念写真。
 3月21日 雨の為、待機。仕事に来ていて、毎日待機々々とこんな思いをさせられるのは一番憂鬱なことだ。
 3月22日 現場まで行ったが、曇りがちの為、天気待ち。結局撮影中止。
 3月23日 今日も朝から雨の為、待機。午前十時、後援会の皆さんが雨にもめげず千本松原の旅館に着いたとの連絡があり、直ちに出向く。午後二時過ぎに帰ると、午後四時より、(沼津)西校において撮影との連絡がある。午後五時、撮影開始。1カットだけだったが、仕事をしていることに大変張り合いを感じた。
 3月24日 待機。
 3月25日 昼間中止。夜間、校庭にてファイヤー・ストームを囲んで学友達と歌うシーンの撮影。
 3月26日 今日もまた雨降り。沼津の本隊に連絡を取ると、直ちに東京へ引き上げとの命を聞き、東京に向かった。


 以上、日誌によると、3月17日にクランクインして撮影できたのは、この日(沼津の海岸での作業シーン)と翌日(清水港での日本丸の乗船シーン、ラストシーンである)の二日間だけで、19日から一週間はほとんど撮影できなかった。
 錦之助は26日の夜、東京三河台の実家に帰ると、翌27日のオフ日は午後駒沢球場で野球観戦、夕方銀座で『海の若人』の出演者たちと会食。夜、大阪行きの夜行列車「彗星」に乗ると、翌朝大阪に到着。この日(28日)は、新築開館した大阪東映で昼から三回舞台挨拶して、夕方伊丹空港から飛行機で帰京。
 3月29日から約1週間、東映大泉撮影所のセットで撮影。4月7日から再度沼津ロケ。1週間天気続きで、3月下旬に撮影予定だったシーンを撮り終わる。しかし、4月14日のロケ最終日は徹夜撮影で、翌日の昼に東京へ帰ると、午後からまた大泉撮影所で残りのセット撮影。最後の2日は追い込みで、16日は徹夜。全部撮影を終了したのは17日の夜10時であった。
 錦之助は過労のためダウン。慶応病院に再入院し、三日間静養して、眠り続けたという。

 これは余談だが、『海の若人』の出演者だった岡部征純さん(当時は本名の正純で、不良学生の一人を演じた)が、その50年後にインターネットにブログを立ち上げ、第一回「萬屋錦之介(中村錦之助)」(2005年9月4日の記)の中で、沼津ロケでの思い出を書いている。面白いので引用しておく(打ち間違えは訂正した)。

――その日も朝から雨。午前中待機するも雨上がらず、中止。
「ようし、天気祭りをやろう」と錦之助さんの奢りで出演している役者二十数名、旅館の大広間で芸者をあげて大宴会が始まるのです。キャメラ前では一言の台詞も碌に喋れない連中が、田舎者の私以外皆んな芸達者で、飲むほどに歌や踊りのかくし芸大会。芸者もびっくり。
 若手三人は一番下っ端なので玄関の二階、つまり表通りに面した騒音の激しい三人部屋でした。ところが、人気スター中村錦之助が沼津に宿泊していると言うので、春休みでもあり、百人あまりの女学生達が毎朝五時ごろから一斉に、せいので、錦ちゃんコール、玄関の二階に寝てる我々三人はたたき起こされるのです。寝不足、二日酔い、眼は真っ赤、ほとんど死んでいました。ところがロケ出発するも運が良いのか悪いのかその日もまた雨。ロケバスの中で熟睡、そして正午に中止決定。その夜も芸者あげての大宴会。流石の錦之助さんも財布の中身が底をつき、マネージャーに東映本社に前借りの電話を帳場でさせている。それを、我々三人が聞いてしまったのです。
 こう毎日散財かけては悪いから我々三人は体調が良くないと言って御遠慮しようと話が決まりました。そこへ錦之助さんの付き人が来て若旦那(錦之助)が三人足りないと言ってるよと呼びに来たので、今日は失礼しますとお断りしたら、今度は、マネージャーが来て若旦那が怒っているぞと、言い終わらないうちに階段をトントントンと上がって来て、当の錦之助さんが「何だ手前ら、俺の酒が飲めねえのか!」と、べらんめえの大きな声で怒鳴られ三人のチンピラ役者は腰をぬかし階段を転げ落ちんばかりに「只今、直ぐに!」と駆け降りました。
 毎晩の宴会の罰が当たり全日の雨で撮影が大幅に遅れ、その時、当代人気俳優中村錦之助、美空ひばりの共演なので森永ミルクチョコレートとタイアップ、封切日を五月何日と印刷して全国に発売してしまった為、封切を伸ばす事が出来ず、撮影所に帰ってからが大変でした。一週間一睡も出来ず徹夜徹夜で、監督はじめスタッフもA班B班C班と八時間の三交代、交代出来ないのは役者のみ、しかも商船学校のボート訓練中、台風に遭いボートが遭難するシーンで撮影所の中庭のプールにボードを浮かべ撮影するもナイトシーンなので夜が明けると直ちにセットに切り替え、その間にセットの隅で死んだように寝てる。寝られては困ると制作部がインスタントコーヒーを大きな薬缶で、ばんばん沸かし、もう嫌だと言うのに無理矢理飲まされ、胃はやられ、食事は喉を通らず、まるで徳川の拷問でした。(中略)
 めでたくクランクアップしてお別れの日に、(錦之助さんは)又東京の撮影所のメンバーと仕事がしたいと、時代劇の京都撮影所に帰られました。若いときからあれ程仲間、そして下っ端の私達に対する気づかい、勘の良い粋な演技、そして豪快さと繊細さを持ち合わせた魅力ある大スターでした。



初の現代劇『海の若人』(その2)

2015-06-01 00:05:37 | 海の若人
 映画『海の若人』は、昭和30年2月半ばにクランクインする予定で、準備が進められていった。が、決して順調には運ばなかった。
 キャスティング、監督の選定にも紆余曲折があったが、ロケ撮影に協力してくれるはずだった国立商船大学(静岡県清水市に本校があった)との交渉が難航した。結局、大学側とはシナリオ上の問題で決裂してしまう。そのため、練習用のヨット数隻の手配やら、ロケ現場の変更やらで、手間取ってしまった。また、その時期、清水港に停泊中だった大型帆船「日本丸」を映画の目玉として撮影に使うことに決めたが、その交渉や日程の調整も大変だった。
 さらに、主役の錦之助が1月末京都で『越後獅子祭り やくざ若衆』のクラックアップ3日前に急性盲腸炎を発病。応急処置をしてなんとか撮影を完了したが、すぐに帰京し、2月8日、東京信濃町の慶応病院に入院して手術するという不測の事態が起った。入院中はファンがたくさん見舞いに押しかけ、大騒ぎになり、慶応病院が病棟へのファンの立ち入りを禁止したほどだった。
 錦之助が退院したのは手術した2週間後であった。退院する4日前、兄の三喜雄が錦之助の病室を訪れた。
「どうだい、仕事できそうか?」
「うん。現代劇で良かったよ。チャンバラはまだ当分無理だから」
「早速でなんだけど、退院後のスケジュールを打ち合わせたいんだよ。それとホンができたんで」
 錦之助は三喜雄から『海の若人』の決定稿を手渡されると、ペラペラとめくった。配役表の先頭に山里英一郎=中村錦之助とあり、続いて、宮崎雪枝=美空ひばり、とあった。
 監督は瑞穂春海である。長野の善光寺のお坊さんの息子で、昭和15年、松竹大船で監督になり、以後ずっと松竹大船作品を撮り続けてきた。美空ひばりの出演作も4本撮って、ひばりとも福島通人とも気心の知れた監督であった。『父恋し』(昭和26年)、『あの丘越えて』(昭和26年、共演鶴田浩二)、『悲しき小鳩』(昭和27年、共演佐田啓二)『悲しき瞳』(昭和28年)である。が、昭和29年暮れに松竹を退社し、フリーになった。東映作品を監督するのは『海の若人』が初めてだった。

 美空ひばりは、お忍びで病院へ見舞いに来て、錦之助の元気そうな顔を見て安心した。ひばりは、何よりも『海の若人』でおよそ半年ぶりに錦之助と共演できることを楽しみにしていた。
 当初錦之助の相手役は、東映東京の新人女優天路圭子がやる予定だった。彼女は、昭和28年高校卒業後ミス平凡に選ばれ、同年10月東映に入社し、この頃現代劇でようやく良い役がついて、人気も出てスターになりかけていた。昭和29年12月に発売された「平凡」(昭和30年2月号)の「海の若人」連載第二回には、タイトルの横に東映映画化と書かれ、本文中の挿絵には、錦之助と天路圭子の顔写真がコラージュされた。
 ところが、急に美空ひばりが錦之助と共演したいと言って、雪枝の役を買って出たのである。ひばりは、松竹映画『娘船頭さん』を3月中に撮り終わって松竹との優先本数契約を果たすと、フリーになるつもりだった。『海の若人』に出ると2本掛け持ちになるが、ひばりは、大好きになった錦之助とまたいっしょに映画の仕事をすることを願ってやまなかった。前年の秋以降、共演作の企画は次々と流れていた。ひばりは、もう我慢しきれず、福島通人を通して、マキノ光雄に交渉させ、『海の若人』で錦之助と共演することを実現させたのだった。そのため、天路圭子は降ろされてしまった。その後、天路は東映を辞め、日活に移籍し、脇役を続けたが、後年映画監督になる斎藤耕一と結婚し、プロデューサーになる。
 ひばりの出演が決まって、福島通人が企画にも関わるようになり、監督に瑞穂春海を推薦した。新芸プロ所属の星十郎、山茶花究も出演することになった。
 錦之助は、退院した翌日、早速新芸プロの事務所を訪ね、福島通人から瑞穂監督を紹介され、簡単な打ち合わせをした。ひばりも駆けつけて、いっしょに錦之助の退院祝いをすると、大泉の撮影所へ行き、衣装合わせとキャメラテストをした。
 錦之助が初の現代劇『海の若人』で演じる役は、山里英一郎という商船学校の優等生。ひばりは、山里が尊敬する先輩の妹で、高校生の雪枝の役であった。もちろん、錦之助とひばりが共演する以上、現代劇であっても純愛ものである。ただし、錦之助は詰襟の学生服、ひばりはセーラー服を着る。二人は撮影所で衣装を着ながら、互いにふざけ合い、はしゃいだ。
 その後、錦之助は一週間、熱海の旅館で静養した。『海の若人』のクランクインは、1ヶ月遅れた3月17日のことであった。(つづく)