錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『冷飯とおさんとちゃん』(その2)

2006-05-01 04:40:15 | 冷飯とおさんとちゃん
 『冷飯』も『おさん』も主人公の錦之助が歩いていく背中のショットから映画が始まるが、第三話『ちゃん』もそうだった。が、この話の主人公重吉はへべれけに酔っ払っている。千鳥足で、長屋の路地をふらふらしながら歩いていく。家の前にたどりつくと重吉は大声を上げる。「ゼニなんかない、よーだ。みんな飲んじゃった、よー。」この映画は出だしから、衝撃的なのだ。
 第三話の『ちゃん』は、実に重厚でコクのある作品だった。飲んだくれの火鉢職人が、女房と四人の子供をかかえる「とうちゃん」である。貧乏人の子沢山だが、女房(森光子)はしっかり者、縫い物の内職をして、家計を支えている。重吉は、昔気質の職人で、時勢に取り残され、伝統的だが売れない火鉢を作り続けている。職人の意地はあっても、稼ぎは悪く、金は酒に遣ってしまう、そんな甲斐性なしの自分に重吉は嫌気がさす。そして、とうとう、夜中に一人家出をはかる。そんなみじめな話だが、これがまた胸にじーんと来る。亭主の夜逃げを見つけた女房が重吉に膝を突き合わせるようにして、こんこんと説く。子供もみな起き出し、「ちゃん」と一緒について行くと言って、重吉を励ます。このクライマックスの場面で、私は思わず落涙!してしまった。
 この作品は、貧しさをものともせず、たくましく生きる女房と明るい子供たちが「ちゃん」を暖かく囲む、そんな理想的な家族愛を描いている。この映画は三部作のなかで最も原作に忠実であった。原作も素晴らしいが、映画はその良さを十二分に生かしきり、原作に勝るとも劣らぬ出来ばえだった。ラスト・シーンは明らかに映画の方が優れていた。重吉が家出を企てた日から何日か経って、再び、長屋の路地を酔っ払って歩いていく。重吉の背中が映し出されるファースト・シーンとまったく同じなのだ。クダまで同じで、「ゼニなんかない、よーだ。みんな飲んじゃった、よー。」観る者は、重吉が性懲りもなく、また飲んだくれになったと思う。ところが、違う。重吉は嬉しいことがあって、酒を飲んだのだった。戸口で女房に地べたに坐れと命じ、重吉は柳橋の商家で自分の火鉢が認められ、注文がたくさん入ったことを打ち明ける。これは原作にはない見事なハッピー・エンドだった。「映画はこうでなくちゃ」と私は思った。

 『冷飯とおさんとちゃん』は、善人ばかりが登場し、内容があまりにも理想主義的だと批判する人もいるかもしれない。しかし、こうしたひた向きさと求道者精神こそ、田坂具隆の真骨頂だと私は思っている。そして、だれがなんと言おうと敢えて理想主義的な映画を作ろうした彼の信念と意気込みに私は打たれてしまう。今はだれ一人こうした映画を本気で作ろうとしない。また作ることもできなくなってしまった。高い理想を失い、人道精神も地に落ちた現代の日本であるからこそ、田坂作品が輝きを増すと私は思っている。田坂具隆は山本周五郎のヒューマニスティックな人生観と波長が合った人であり、周五郎の世界を鮮やかに表現できる映画監督だった。これが黒澤明だとまったく違ったことになる。黒澤も周五郎の作品が好きだったらしく、『赤ひげ』『どですかでん』などを映画化しているが、黒澤作品はダイナミックだが、登場人物は類型的で、人情の機微を表現するのは不得手だったと思う。
<山本周五郎>

 
 ここで、三役に扮した錦之助の名演について、私の感想を書いておこう。
 第一話『冷飯』で錦之助が扮した柴山大四郎は、末っ子の甘えん坊、自由奔放でのんきだが、仕事もなければ、嫁ももらえないという冷飯食い。錦之助の演技には浮き世離れしたおおらかさとモラトリアムの悲哀の両方がにじみ出ていた。古本の収集に熱を上げているところなども面白いが、とくにほほえましかったシーンは、高級料理屋へ行って、お品書きの言葉がよく分からず、女中(宮園純子が良い!)にいちいち尋ねるところだ。第二話『おさん』の主人公参太は、ぐっと抑えた演技で、女にもてそうな、無愛想だが優しい男らしさがあった。また、悩みを内に秘めた男の暗い影もうまく表現していた。第三話『ちゃん』の重吉の飲んだくれの演技は、これが錦之助の地なのかと思うほどだった。酒飲みの演技は、下戸の方がうまいとはよく言うことだが、若い頃から酒好きで酔っ払って祇園の街を練り歩いたという錦之助である。が、この酔っ払いの演技を見ていると下戸の方がうまいという定説もウソだなと思う。また、錦之助は二日酔いの演技もうまかった。酒を飲んで帰った翌日の重吉の後悔したような、やるせない表情がとくに良かった。
 この映画で錦之助が演じた役柄は、錦之助個人の実人生と微妙に重なっているところも多々あったように思える。こうした映画の見方はやや邪道であるが、一応それにも触れておこう。第一話の大四郎同様、実際に錦之助は四男坊で、母親っ子。歌舞伎界の名門一家のいわば冷飯食いだった。有馬稲子とのすれ違いの夫婦生活が、第二話のようであったかどうかは知らないが、うがった見方をしたくなる気にもなる。第三話は、錦之助のその後の人生を予見しているようで、どうしても錦之助の独立プロが倒産した後のことを思い浮かべてしまう。女房は淡路恵子で、四人の子供をかかえて、窮乏生活を送るところも暗示的である。時代劇も衰退し、錦之助の名演技も発揮する場所がなくなって行った経緯は、重吉の報いられない悲哀を感じさせるものがあった。
 
 最後に共演者について。この映画にはミス・キャストは一人もいないと思った。というより、各共演者が登場人物に成りきった演技をしていると、もうその人物はこの男優この女優でなければならなかったと後から思い込ませてしまう、と言った方が適切だろう。この映画、東映の枠を越え、あっちこっちから、よくもまあ芸達者を集めたものだという感じなのだ。たとえば、第一話の大四郎の母親は、武家の母親の落ち着きと寛大さを備えた木暮美千代でなくてはならず、すぐ上の兄でおしゃべりな三男坊はお調子者の小沢昭一でなければならず、中川八郎兵衛はからっと明るい千秋実でなくてはならないと思ってしまう。可憐な桔梗みたいな娘は入江若葉で決まり。ただ、若葉さん、セリフがあるのは最後の最後。錦之助と祝言を挙げた後で、可哀想に彼女は眉を剃り、お歯黒だった。冷飯の先輩、大四郎の叔父役は苦みばしった花沢徳衛がはまっていた。第二話の淫乱タイプのおさん役は悪いけれどもやっぱりブリッ子の元祖三田佳子で、しっとりとした情感溢れるおふさ役は東映女優には見当たらず、どう見ても新珠三千代が適役だった。彼女が錦之助の寝ている床に足から潜り込むところなど、もうゾクゾクしてしまった。おさんに惚れて、骨抜きにされる男が大坂志郎で、すさんだ表情が良かった。第三話のしっかり者の女房は絶対に森光子、飲み屋の女将は気丈で情熱的な渡辺美佐子でなければならない。どろぼう役は、三木のり平。とぼけた味がなんとも言えなかった。そして、四人の子役がみな良かった。とくに長男の伊藤敏孝がうまく、末娘の藤山直子(藤山寛美の娘、現在の藤山直美)がなぜか関西弁で愛嬌たっぷり、本当にお上手だった。(2019年2月6日一部改稿)

*『冷飯とおさんとちゃん』が東京千石にある三百人劇場で近日公開されます。「田坂具隆の映画特集」の一本としてですが、ほかにも錦之助主演の映画では『ちいさこべ』と『鮫』も上映されますので、東京首都圏にお住まいの方はお見逃しなく!(注:2006年5月1日にこの記事を書いた時の呼びかけ。懐かしい!)


『冷飯とおさんとちゃん』(その1)

2006-04-30 21:47:23 | 冷飯とおさんとちゃん


 江戸時代のありふれた市井の人々の喜びと悲しみのドラマ。チャンバラのない時代劇だが、見ていて、心が洗われ、しみじみとした気分になる。『冷飯とおさんとちゃん』(昭和40年4月中旬公開)は、そんな映画だ。私はこの映画が好きで、ビデオでも映画館でも、もう何度も観ている。山本周五郎が書いた短編を三つ選び、鈴木尚之が脚本を書き、田坂具隆が監督したオムニバス映画で、3時間の大作である。主人公はそれぞれ、武家の四男坊(柴山大四郎)、若妻を慕う大工(参太)、貧しい火鉢職人(重吉)で、そのすべてを錦之助が演じ分けている。
 軽快なユーモアとほのぼのとした人間愛を感じる第一話『冷飯』、夫婦の性愛と離別の悲劇を内省的に描いた第二話『おさん』、貧乏暮らしの職人の意地と心暖まる家族愛をテーマにした第三話『ちゃん』。どれもが粒揃い名作に仕上がっている。「田坂監督の映画はいいなあ」とつくづく感じる。彼の映画はまさに底光りする職人芸である。もちろん、「錦之助って名優だなあ」といつもながらに感心する。主役がいいと、共演者も生きてくる。この映画は女優陣の競艶でもある。木暮実千代、入江若葉、三田佳子、新珠三千代、森光子、渡辺美佐子、みんな良い。

 山本周五郎の原作は、すべて新潮文庫に入っている。「おさん」は、短編集のタイトルにもなっていて、「ひやめし物語」と「ちゃん」は、「大炊之介始末(おおいのすけしまつ)」という短編集に収録されている。もともと私は、原作と映画を比べることにあまり関心がなく、原作は原作として、映画は映画として鑑賞する主義なのだが、『冷飯とおさんとちゃん』は原作と比べてみようという気になった。映画が素晴らしかったからだ。原作を読みながら、ところどころで映画のシーンを思い浮かべた。セリフや情景を忠実に再現しているところもあれば、映画にはあったが、原作には書かれていない部分も多々ある。そして、比べているうちに面白くなってきた。半日かけて三作とも読み終えたが、細かいところで、腑に落ちない点があり、そこでまたビデオで映画を見直してみた。結局、二日がかりで、多分15時間以上、この作品を研究(?)することになってしまった。

 第一話の『冷飯』。映画では場所の設定がなかった。江戸ではないどこか地方の城下町だと思っていたが、原作を読むと、「百万石」と「香林坊」が出てくるので、金沢だと判明。この映画はすべてセット撮影でもあり、土地柄はあまり重視していなかったのだろう。
 私の興味は、映画で印象的だった部分が、原作にあるのかないのか、またどう書いてあるのか、ということにあった。たとえば、肌襦袢の襟元に縫いこんだ一両小判の扱い。映画では重要なモチーフとして生かされているが、原作では軽く触れてあるに過ぎない。映画の初めの方で、主人公の大四郎が着替える襦袢に母親(木暮実千代)が小判を入れ替える場面があり、次に、兄三人が大四郎に一両ずつ小遣いをやるところでは次男が襟元から小判を出す場面がある。そして、大四郎が料理屋で拾った財布を中老の中川八郎兵衛(千秋実)の家へ届けに行って、金が足りないと中川に難癖をつけられ、やむなく大四郎がなけなしの小判を出すことになる。原作ではここで初めて「肌付の金一枚」が出てくる。映画ではこの一連の描写が大変面白いのだが、これらはすべて創意工夫だった。原作には兄三人が小遣いを出し合う場面もなく、これは細かいことだが、中川が足りないと言う金額も違っていた(原作では一両二分一朱、映画では三両一分で、ちゃんと金額の辻褄を合わせていた)。また、大四郎が通りで出会い、一目惚れした娘(入江若葉)を桔梗の花にたとえるところがあるが、これは原作にもある。ただ、映画では中川八郎兵衛の娘の名前が菊乃で、どちらの娘と結婚しようかと大四郎が一瞬迷うところで、桔梗の花と菊の花のフラッシュ・バックがあって、ここがラスト・シーンへなだれ込むつなぎのカットとしてものすごく効果的で、いかにも映画的な手法なのだが、もちろん原作にはなかった。その上、中川の娘の名前は、原作では八重で、菊乃ではない。さらに、気がついたのは、映画の初めに大四郎が紙屑屋とぶつかって、古書を買う場面があり、その古書の題名が「秋草庵日記」になっていたが、これも完全に映画上のアイデアで(多分こんな本は実際にはないのだろう)、桔梗と菊という秋の草花を後で登場させる布石になっているのが分かった。『冷飯』は、ストーリーは原作に忠実だが、映画の中にはかなり手の込んだ仕掛けが施してあり、それを知って私は納得し、「うまいもんだなあ」と感心したのだった。

 第二話の『おさん』。これは原作そのものが映画的で、たとえば、二つの話を同時進行させることや、回想場面の挿入の仕方がそうである。もちろん、映画はこうした原作の描写を踏襲している。とくに旅の宿での主人公参太と女中おふさ(新珠三千代)との会話はほとんど同じだった。実は若妻おさん(三田佳子)との場面より私はこちらの方が好きなのである。おさんとの関係については、この作品を映画で観たとき、どうも不自然に感じたところがあった。それは参太が、なぜ美しい若妻のおさんと離別までして、二年間に及ぶ上方への長い旅に出たのかということである。たとえ、おさんが夜の床で恍惚とし、参太の知らない男の名前を叫ぶとしても、それが離別する理由にはならないと思ったのだ。そして、風の噂に、江戸に残したおさんが次から次へと男に身をゆだねていると聞いた参太がそれでも妻への想いを捨てきれず、妻の元に帰ろうとする気持ちも分からなかった。帰途の旅で出会ったおふさとの成り行きは自然なのだが、参太があくまでも女房持ちであることにこだわって、離縁同然にした妻の、自分への変わらぬ愛を信じて疑わない。その単純さが、理解できなかった。原作を読んでも、これは同じで、どうも男女の心理描写に無理がある作品だなと思った。映画では、大磯の宿で、おふさが拾い集めた貝殻を参太に見せるシーンが印象的なのだが、これは原作にはない。おさんを昼顔に喩えるところは原作にもあるが、貝殻の場面では、原作はおふさを朝顔の花になぞらえていた。昼顔と朝顔ではコントラストが際立たないので、映画では貝殻に変えたのだろう。『おさん』は、心理描写も原作に忠実で、参太のモノローグに近い言葉(辰造=佐藤慶との会話)などは原作の記述をそのままシナリオ化していた。原作の観念的に偏りすぎた欠陥が、映画にも見られたことは、残念だが仕方がないことだったのかもしれない。この作品は、全体的に暗くて身につまされる話だが、ラスト・シーンがせめてもの救いだった。参太が墓参りをして、昼顔を活け、死んだ妻おさんと語り合う。映画では、おさんの幽霊が出てくるが、原作にはなかった。原作では、参太が心の中で、妻ならこう答えるだろうと、自問自答していた。言うまでもなく、幽霊の方が映画的で、観る者の瞼に焼き付くように思えた。(つづく)