『冷飯』も『おさん』も主人公の錦之助が歩いていく背中のショットから映画が始まるが、第三話『ちゃん』もそうだった。が、この話の主人公重吉はへべれけに酔っ払っている。千鳥足で、長屋の路地をふらふらしながら歩いていく。家の前にたどりつくと重吉は大声を上げる。「ゼニなんかない、よーだ。みんな飲んじゃった、よー。」この映画は出だしから、衝撃的なのだ。
第三話の『ちゃん』は、実に重厚でコクのある作品だった。飲んだくれの火鉢職人が、女房と四人の子供をかかえる「とうちゃん」である。貧乏人の子沢山だが、女房(森光子)はしっかり者、縫い物の内職をして、家計を支えている。重吉は、昔気質の職人で、時勢に取り残され、伝統的だが売れない火鉢を作り続けている。職人の意地はあっても、稼ぎは悪く、金は酒に遣ってしまう、そんな甲斐性なしの自分に重吉は嫌気がさす。そして、とうとう、夜中に一人家出をはかる。そんなみじめな話だが、これがまた胸にじーんと来る。亭主の夜逃げを見つけた女房が重吉に膝を突き合わせるようにして、こんこんと説く。子供もみな起き出し、「ちゃん」と一緒について行くと言って、重吉を励ます。このクライマックスの場面で、私は思わず落涙!してしまった。
この作品は、貧しさをものともせず、たくましく生きる女房と明るい子供たちが「ちゃん」を暖かく囲む、そんな理想的な家族愛を描いている。この映画は三部作のなかで最も原作に忠実であった。原作も素晴らしいが、映画はその良さを十二分に生かしきり、原作に勝るとも劣らぬ出来ばえだった。ラスト・シーンは明らかに映画の方が優れていた。重吉が家出を企てた日から何日か経って、再び、長屋の路地を酔っ払って歩いていく。重吉の背中が映し出されるファースト・シーンとまったく同じなのだ。クダまで同じで、「ゼニなんかない、よーだ。みんな飲んじゃった、よー。」観る者は、重吉が性懲りもなく、また飲んだくれになったと思う。ところが、違う。重吉は嬉しいことがあって、酒を飲んだのだった。戸口で女房に地べたに坐れと命じ、重吉は柳橋の商家で自分の火鉢が認められ、注文がたくさん入ったことを打ち明ける。これは原作にはない見事なハッピー・エンドだった。「映画はこうでなくちゃ」と私は思った。
『冷飯とおさんとちゃん』は、善人ばかりが登場し、内容があまりにも理想主義的だと批判する人もいるかもしれない。しかし、こうしたひた向きさと求道者精神こそ、田坂具隆の真骨頂だと私は思っている。そして、だれがなんと言おうと敢えて理想主義的な映画を作ろうした彼の信念と意気込みに私は打たれてしまう。今はだれ一人こうした映画を本気で作ろうとしない。また作ることもできなくなってしまった。高い理想を失い、人道精神も地に落ちた現代の日本であるからこそ、田坂作品が輝きを増すと私は思っている。田坂具隆は山本周五郎のヒューマニスティックな人生観と波長が合った人であり、周五郎の世界を鮮やかに表現できる映画監督だった。これが黒澤明だとまったく違ったことになる。黒澤も周五郎の作品が好きだったらしく、『赤ひげ』『どですかでん』などを映画化しているが、黒澤作品はダイナミックだが、登場人物は類型的で、人情の機微を表現するのは不得手だったと思う。
<山本周五郎>
ここで、三役に扮した錦之助の名演について、私の感想を書いておこう。
第一話『冷飯』で錦之助が扮した柴山大四郎は、末っ子の甘えん坊、自由奔放でのんきだが、仕事もなければ、嫁ももらえないという冷飯食い。錦之助の演技には浮き世離れしたおおらかさとモラトリアムの悲哀の両方がにじみ出ていた。古本の収集に熱を上げているところなども面白いが、とくにほほえましかったシーンは、高級料理屋へ行って、お品書きの言葉がよく分からず、女中(宮園純子が良い!)にいちいち尋ねるところだ。第二話『おさん』の主人公参太は、ぐっと抑えた演技で、女にもてそうな、無愛想だが優しい男らしさがあった。また、悩みを内に秘めた男の暗い影もうまく表現していた。第三話『ちゃん』の重吉の飲んだくれの演技は、これが錦之助の地なのかと思うほどだった。酒飲みの演技は、下戸の方がうまいとはよく言うことだが、若い頃から酒好きで酔っ払って祇園の街を練り歩いたという錦之助である。が、この酔っ払いの演技を見ていると下戸の方がうまいという定説もウソだなと思う。また、錦之助は二日酔いの演技もうまかった。酒を飲んで帰った翌日の重吉の後悔したような、やるせない表情がとくに良かった。
この映画で錦之助が演じた役柄は、錦之助個人の実人生と微妙に重なっているところも多々あったように思える。こうした映画の見方はやや邪道であるが、一応それにも触れておこう。第一話の大四郎同様、実際に錦之助は四男坊で、母親っ子。歌舞伎界の名門一家のいわば冷飯食いだった。有馬稲子とのすれ違いの夫婦生活が、第二話のようであったかどうかは知らないが、うがった見方をしたくなる気にもなる。第三話は、錦之助のその後の人生を予見しているようで、どうしても錦之助の独立プロが倒産した後のことを思い浮かべてしまう。女房は淡路恵子で、四人の子供をかかえて、窮乏生活を送るところも暗示的である。時代劇も衰退し、錦之助の名演技も発揮する場所がなくなって行った経緯は、重吉の報いられない悲哀を感じさせるものがあった。
最後に共演者について。この映画にはミス・キャストは一人もいないと思った。というより、各共演者が登場人物に成りきった演技をしていると、もうその人物はこの男優この女優でなければならなかったと後から思い込ませてしまう、と言った方が適切だろう。この映画、東映の枠を越え、あっちこっちから、よくもまあ芸達者を集めたものだという感じなのだ。たとえば、第一話の大四郎の母親は、武家の母親の落ち着きと寛大さを備えた木暮美千代でなくてはならず、すぐ上の兄でおしゃべりな三男坊はお調子者の小沢昭一でなければならず、中川八郎兵衛はからっと明るい千秋実でなくてはならないと思ってしまう。可憐な桔梗みたいな娘は入江若葉で決まり。ただ、若葉さん、セリフがあるのは最後の最後。錦之助と祝言を挙げた後で、可哀想に彼女は眉を剃り、お歯黒だった。冷飯の先輩、大四郎の叔父役は苦みばしった花沢徳衛がはまっていた。第二話の淫乱タイプのおさん役は悪いけれどもやっぱりブリッ子の元祖三田佳子で、しっとりとした情感溢れるおふさ役は東映女優には見当たらず、どう見ても新珠三千代が適役だった。彼女が錦之助の寝ている床に足から潜り込むところなど、もうゾクゾクしてしまった。おさんに惚れて、骨抜きにされる男が大坂志郎で、すさんだ表情が良かった。第三話のしっかり者の女房は絶対に森光子、飲み屋の女将は気丈で情熱的な渡辺美佐子でなければならない。どろぼう役は、三木のり平。とぼけた味がなんとも言えなかった。そして、四人の子役がみな良かった。とくに長男の伊藤敏孝がうまく、末娘の藤山直子(藤山寛美の娘、現在の藤山直美)がなぜか関西弁で愛嬌たっぷり、本当にお上手だった。(2019年2月6日一部改稿)
*『冷飯とおさんとちゃん』が東京千石にある三百人劇場で近日公開されます。「田坂具隆の映画特集」の一本としてですが、ほかにも錦之助主演の映画では『ちいさこべ』と『鮫』も上映されますので、東京首都圏にお住まいの方はお見逃しなく!(注:2006年5月1日にこの記事を書いた時の呼びかけ。懐かしい!)
第三話の『ちゃん』は、実に重厚でコクのある作品だった。飲んだくれの火鉢職人が、女房と四人の子供をかかえる「とうちゃん」である。貧乏人の子沢山だが、女房(森光子)はしっかり者、縫い物の内職をして、家計を支えている。重吉は、昔気質の職人で、時勢に取り残され、伝統的だが売れない火鉢を作り続けている。職人の意地はあっても、稼ぎは悪く、金は酒に遣ってしまう、そんな甲斐性なしの自分に重吉は嫌気がさす。そして、とうとう、夜中に一人家出をはかる。そんなみじめな話だが、これがまた胸にじーんと来る。亭主の夜逃げを見つけた女房が重吉に膝を突き合わせるようにして、こんこんと説く。子供もみな起き出し、「ちゃん」と一緒について行くと言って、重吉を励ます。このクライマックスの場面で、私は思わず落涙!してしまった。
この作品は、貧しさをものともせず、たくましく生きる女房と明るい子供たちが「ちゃん」を暖かく囲む、そんな理想的な家族愛を描いている。この映画は三部作のなかで最も原作に忠実であった。原作も素晴らしいが、映画はその良さを十二分に生かしきり、原作に勝るとも劣らぬ出来ばえだった。ラスト・シーンは明らかに映画の方が優れていた。重吉が家出を企てた日から何日か経って、再び、長屋の路地を酔っ払って歩いていく。重吉の背中が映し出されるファースト・シーンとまったく同じなのだ。クダまで同じで、「ゼニなんかない、よーだ。みんな飲んじゃった、よー。」観る者は、重吉が性懲りもなく、また飲んだくれになったと思う。ところが、違う。重吉は嬉しいことがあって、酒を飲んだのだった。戸口で女房に地べたに坐れと命じ、重吉は柳橋の商家で自分の火鉢が認められ、注文がたくさん入ったことを打ち明ける。これは原作にはない見事なハッピー・エンドだった。「映画はこうでなくちゃ」と私は思った。
『冷飯とおさんとちゃん』は、善人ばかりが登場し、内容があまりにも理想主義的だと批判する人もいるかもしれない。しかし、こうしたひた向きさと求道者精神こそ、田坂具隆の真骨頂だと私は思っている。そして、だれがなんと言おうと敢えて理想主義的な映画を作ろうした彼の信念と意気込みに私は打たれてしまう。今はだれ一人こうした映画を本気で作ろうとしない。また作ることもできなくなってしまった。高い理想を失い、人道精神も地に落ちた現代の日本であるからこそ、田坂作品が輝きを増すと私は思っている。田坂具隆は山本周五郎のヒューマニスティックな人生観と波長が合った人であり、周五郎の世界を鮮やかに表現できる映画監督だった。これが黒澤明だとまったく違ったことになる。黒澤も周五郎の作品が好きだったらしく、『赤ひげ』『どですかでん』などを映画化しているが、黒澤作品はダイナミックだが、登場人物は類型的で、人情の機微を表現するのは不得手だったと思う。
<山本周五郎>
ここで、三役に扮した錦之助の名演について、私の感想を書いておこう。
第一話『冷飯』で錦之助が扮した柴山大四郎は、末っ子の甘えん坊、自由奔放でのんきだが、仕事もなければ、嫁ももらえないという冷飯食い。錦之助の演技には浮き世離れしたおおらかさとモラトリアムの悲哀の両方がにじみ出ていた。古本の収集に熱を上げているところなども面白いが、とくにほほえましかったシーンは、高級料理屋へ行って、お品書きの言葉がよく分からず、女中(宮園純子が良い!)にいちいち尋ねるところだ。第二話『おさん』の主人公参太は、ぐっと抑えた演技で、女にもてそうな、無愛想だが優しい男らしさがあった。また、悩みを内に秘めた男の暗い影もうまく表現していた。第三話『ちゃん』の重吉の飲んだくれの演技は、これが錦之助の地なのかと思うほどだった。酒飲みの演技は、下戸の方がうまいとはよく言うことだが、若い頃から酒好きで酔っ払って祇園の街を練り歩いたという錦之助である。が、この酔っ払いの演技を見ていると下戸の方がうまいという定説もウソだなと思う。また、錦之助は二日酔いの演技もうまかった。酒を飲んで帰った翌日の重吉の後悔したような、やるせない表情がとくに良かった。
この映画で錦之助が演じた役柄は、錦之助個人の実人生と微妙に重なっているところも多々あったように思える。こうした映画の見方はやや邪道であるが、一応それにも触れておこう。第一話の大四郎同様、実際に錦之助は四男坊で、母親っ子。歌舞伎界の名門一家のいわば冷飯食いだった。有馬稲子とのすれ違いの夫婦生活が、第二話のようであったかどうかは知らないが、うがった見方をしたくなる気にもなる。第三話は、錦之助のその後の人生を予見しているようで、どうしても錦之助の独立プロが倒産した後のことを思い浮かべてしまう。女房は淡路恵子で、四人の子供をかかえて、窮乏生活を送るところも暗示的である。時代劇も衰退し、錦之助の名演技も発揮する場所がなくなって行った経緯は、重吉の報いられない悲哀を感じさせるものがあった。
最後に共演者について。この映画にはミス・キャストは一人もいないと思った。というより、各共演者が登場人物に成りきった演技をしていると、もうその人物はこの男優この女優でなければならなかったと後から思い込ませてしまう、と言った方が適切だろう。この映画、東映の枠を越え、あっちこっちから、よくもまあ芸達者を集めたものだという感じなのだ。たとえば、第一話の大四郎の母親は、武家の母親の落ち着きと寛大さを備えた木暮美千代でなくてはならず、すぐ上の兄でおしゃべりな三男坊はお調子者の小沢昭一でなければならず、中川八郎兵衛はからっと明るい千秋実でなくてはならないと思ってしまう。可憐な桔梗みたいな娘は入江若葉で決まり。ただ、若葉さん、セリフがあるのは最後の最後。錦之助と祝言を挙げた後で、可哀想に彼女は眉を剃り、お歯黒だった。冷飯の先輩、大四郎の叔父役は苦みばしった花沢徳衛がはまっていた。第二話の淫乱タイプのおさん役は悪いけれどもやっぱりブリッ子の元祖三田佳子で、しっとりとした情感溢れるおふさ役は東映女優には見当たらず、どう見ても新珠三千代が適役だった。彼女が錦之助の寝ている床に足から潜り込むところなど、もうゾクゾクしてしまった。おさんに惚れて、骨抜きにされる男が大坂志郎で、すさんだ表情が良かった。第三話のしっかり者の女房は絶対に森光子、飲み屋の女将は気丈で情熱的な渡辺美佐子でなければならない。どろぼう役は、三木のり平。とぼけた味がなんとも言えなかった。そして、四人の子役がみな良かった。とくに長男の伊藤敏孝がうまく、末娘の藤山直子(藤山寛美の娘、現在の藤山直美)がなぜか関西弁で愛嬌たっぷり、本当にお上手だった。(2019年2月6日一部改稿)
*『冷飯とおさんとちゃん』が東京千石にある三百人劇場で近日公開されます。「田坂具隆の映画特集」の一本としてですが、ほかにも錦之助主演の映画では『ちいさこべ』と『鮫』も上映されますので、東京首都圏にお住まいの方はお見逃しなく!(注:2006年5月1日にこの記事を書いた時の呼びかけ。懐かしい!)