錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『織田信長』(その2)

2015-07-21 14:24:46 | 織田信長
 山岡荘八の「織田信長」を読みながら、錦之助は、身体中の血が沸き上がるような興奮を覚えた。是が非でも信長がやってみたい。そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。小説の映画化権のことが気になって仕方がなかった。
「えい、こうなったら直談判してみよう」と錦之助は思った。
 
 これまで錦之助は、子母澤寛、長谷川伸、村上元三といった作家を自ら訪問し、原作の映画化を願い出て快諾を得てきた。プロデューサーに任せるのではなく、原作者に自分が直接会いに行って、情熱を吐露し、誠意を尽くして交渉するのが錦之助の流儀であった。常に前向きで自信もあり、初対面の大家でも人気作家でも物おじすることがなかった。
 
 山岡荘八は長谷川伸が主宰する新鷹会(しんようかい)の主要メンバーだった。これは、長谷川を慕う大衆小説の作家たちが月一回長谷川邸に集まって、自作の小説を発表し、批評しあって切磋琢磨するという勉強会であった。土師清二が顧問格で、山岡のほかに山手樹一郎、村上元三、大林清、長谷川幸延、戸川幸夫といった面々が会員で、のちに池波正太郎、平岩弓枝も参加している。
 長谷川伸は、人望があって面倒見もよく、戦前からずっと後進の作家たちの育成に尽力していた。戦後は本格的な史伝に取り組み、股旅物の芝居を書くことはなかったが、戦前に書いた名作の数々は、GHQの規制がなくなると、再び舞台で上演され、映画でも次々にリメイクされた。長谷川伸は自分の旧作の主人公を演じたいと望む若手の役者たちにも暖かい目を向けたが、なかでも錦之助に大きな期待をかけていた。錦之助が「越後獅子祭」の片貝半四郎をやりたいと言ってきた時にも喜んで承諾し、激励したほどだった。
 長谷川に続き、新鷹会の幹事役でベストセラー作家の村上元三も進んで錦之助を応援し、朝日新聞に連載中の「源義経」を錦之助主演で映画化することにオーケーを出していた。
 山岡荘八は、山手樹一郎、村上元三に比べ、戦後の再スタートが遅れ、昭和20年代はヒット作もなく、二人の後塵を拝していた。昭和25年まで公職追放され、現代物や少年小説を細々と書いて糊口を凌いで来たが、その後もメジャーの新聞や雑誌に小説を連載することがなく、不遇をかこっていた。映画化された小説もほとんどなかった。
 熱血漢で酒好きの山岡は、書斎に積み上げた戦国時代の史料を前に朝から酒杯を傾け、徳川家康の壮大なロマンの構想を練っていた。前回書いたように、山岡が地方紙夕刊に「徳川家康」を連載し始めるのは昭和25年からである。昭和30年には、すでに「徳川家康」が数巻単行本化され、山岡もようやく多くの読者から再認識され始めた。「織田信長」は第一巻の単行本が発行されたばかりだった。
 
 思い立ったら吉日、錦之助は入院中の慶応病院から山岡荘八の家へ電話をかけた。山岡と面識のある父の時蔵に番号を教えてもらったのである。
 錦之助から電話をもらって、山岡は驚いたが、ぜひお会いしましょうと答えた。山岡はあの売り出し中のスターがいよいよ俺のところへもやって来るのかと思い、楽しみになった。師匠の長谷川伸からも同輩の村上元三からも錦之助の評判は聞いていたし、実は錦之助の主演作も何本か見て、親戚の若者に対するような身近な親しみを感じていたのだ。
 錦之助は退院すると、飛ぶようにして山岡荘八の家を訪ねた。世田谷の梅ヶ丘にある庭の広い古い家だった。
 玄関に出た山岡の奥さんが慌てて、
「ホンモノの錦ちゃんが見えましたよ」と、二階の書斎へ声をかけた。
 山岡は、人なつっこそうな笑顔で錦之助を迎え、客間へ案内した。頭に鉢巻のようなものをしていた。エジソンバンドである。磁気を帯びたキャタピラー状の金属板が付いた健康器具で、嘘かまことか、これを巻くと頭がすっきりするとか頭がよくなるとか言われていた。当時学生たちの間で流行した勉強用具でもあり、山岡は執筆中、常にこれを愛用していた。


 壮年期の山岡荘八 頭にエジソンバンドをしている

 山岡とは初対面の錦之助は、一風変わった先生だなと思った。太い眉毛に亀のような丸い目、鼻の下には口髭をたくわえ、もじゃもじゃ頭にエジソンバンドを締め、着物の両袖を上腕までめくり上げている。
 山岡荘八はこの時48歳、新潟出身の苦労人で、たたき上げの文士であった。高等小学校を中退し13歳で上京、印刷所の活字拾いから、編集者を経て、物書きになった。新潟と言えば越後、戦国時代は上杉謙信の領地であるが、山岡の風貌は、謙信ばりの武将というより、野武士か歩兵のようだった。
 錦之助はスーツ姿であった。山岡は、颯爽とした錦之助を見て、目を細めた。どこか少年の面影を残し、元服したばかりかと見まがうような初々しさである。モダンボーイだが、気品があり、戦国時代の名家の若大将が現代に生まれ変わったかのではないかといった錯覚すら覚える。

 山岡は、「まっ、どうぞ」と愛想よく座布団を勧めた。
 錦之助は「ありがとうごじます」と言いながら、座布団をよけ、その傍らに正座すると畳に両手をついて挨拶した。山岡もあわてて座り直し、深々と頭を下げる。
 錦之助は顔を上げると単刀直入に話を切り出した。
「実はきょう、お願いがあって伺ったのですが……」
「ほほう」と言って、山岡は頷くと、錦之助のほうを見た。
 手提げのバッグから「織田信長」の単行本を取り出すと、錦之助は両手で本を目の前に差し上げ、
「先生のご本、読ませていただきました。感動しました」と言う。
 山岡は、ニコッとして、続く言葉を待った。
 錦之助は目をキラキラ輝かせながら、
「このご本、ぜひ私にください。東映にではなく私個人にください。映画でこの信長をやってみたいのです。真剣に取り組みます。お願いします」と、本をさらに高く掲げて、頭を下げた。
 山岡は、錦之助のストレートな申し出に驚いた。と同時に、その情熱と自信に圧倒された。剣道でいえば、試合が始まってアッという間に一本取られた感じで、「参った!」という心境だった。山岡は、即答した。
「よし、君にあげましょう」
「えっ、ほんとうですか!」
「じゃあ、新潟のうまい酒があるんで、祝杯でもあげないか」

 山岡荘八はこの日以来、錦之助が好きになり、支援者になった。そして、自分の書いた若き信長のイメージは錦之助にぴったりだと感じるようになった。その後は錦之助をイメージしながら「織田信長」を書き続けていった。
 山岡の大作「徳川家康」(昭和40年、伊藤大輔監督)が東映で映画化された時も、信長役は錦之助であった。後年(昭和46年)、山岡荘八はNHKの大河ドラマのために「春の坂道」を書き下ろすが、主人公の柳生宗矩は錦之助をイメージして描いたものだった。NHKに主演は錦之助にするように指定したのも山岡自身であった。錦之助が東映を辞め、活躍の場をテレビと舞台に移してからも、山岡荘八は錦之助を支援し続けたのである。

 山岡は、映画「織田信長」の製作に際して、こんな文章を寄せている。
――不世出の大天才であった織田信長は、美男としても有名だった。精悍で、竹を割ったような淡白な性格は、錦之助君にはピッタリそのまま絵になると思う。映画化の話があった時から、若い信長のイメージを錦之助君に求めていただけに、今度の配役についても、私の描いた信長が、映画の上で再現されるという確信があり、原作者として実に心たのもしいものがある。錦之助君の信長によって、この映画「織田信長」が若い世代にアッピールすることを期待している。


『織田信長』(その1)

2015-07-17 19:06:05 | 織田信長
 昭和30年6月半ば、『源義経』の撮影が終わると、錦之助は東京の実家に帰り、一週間ほど休むとまた京都へ舞い戻った。次作の『織田信長』の撮影に入るためであった。
 『源義経』は目下編集の真っ最中で、封切りは一か月後である。錦之助の演じた牛若丸と義経がファンや一般の観客や口の悪い映画評論家たちからどのような評価を受けるかも分からないが、錦之助は全力を尽くして演じきったことに充足感を覚えることはあれ、後悔する気持ちはなかった。新たに意欲を掻き立て、次の映画へ進んで、大役の織田信長を演じようとしていた。


 錦之助の信長

 信長は、義経と同じ歴史上の英雄であるが、義経とはまったくタイプの違う強烈な個性の持ち主である。傍若無人の荒々しさ、天才的なひらめきと鋭さ、有無を言わせず人を統率していく並外れた魅力がある。
『笛吹童子』以来、美少年や前髪剣士に扮してきた錦之助にしてみれば、牛若丸と若き義経は、既成のイメージの延長線上にある役柄と言ってよかった。折り目正しい繊細な美しさに悲愴感を漂わせた人物像である。それに対し、信長は錦之助が今までにやったことのない剛毅な役柄で、太くて濃い線で逞しい人物像を描き上げなければならない。
 これまで俳優多しといえども義経と信長を演じた俳優は皆無に近かった。
 活動写真の大スター尾上松之助だけであろう。松之助は、講談、歌舞伎のおおよそすべての主人公を演じていて、義経にも信長にも扮している。が、これは大正時代のことで、トーキー以後、両者を演じた映画俳優は誰もいないはずだ。
 歌舞伎の舞台では、「花の海老さま」こと先々代市川海老蔵(のちに十一代目團十郎)が両者を演じている。海老蔵は戦後大佛次郎が彼のために書いた芝居「若き日の信長」(大佛次郎・作)で信長を当たり役としていた。それ以前に海老蔵は、「勧進帳」で、得意役の富樫のほかに一度だけ義経を演じたことがあった。
 錦之助は、義経と信長の両者を、なんと22歳のほぼ同時期に主役で演じようというのだ。錦之助の燃え盛るような意欲と積極果敢な挑戦心は推して知るべしであった。

 錦之助が信長を演じてみたいと思ったきっかけは、2月に盲腸の手術をして慶応病院に入院中の時だった。親友で日本テレビに勤めている樋口譲が見舞いに来て、面白いから読んでみろよと置いていった本があった。山岡荘八の歴史小説「織田信長」第一巻だった。読み始めるとすぐ錦之助はその面白さに引き込まれていった。
 山岡荘八の「織田信長」は、昭和29年春に月刊誌「小説倶楽部」に連載が始まり、「平凡」にも一部連載されたが、つい最近第一巻(無門の巻)が講談社から単行本として発行されたばかりであった。山岡はすでに北海道新聞、中日新聞、西日本新聞の地方紙夕刊に「徳川家康」を連載していたが、同時並行して「織田信長」も書いていた。
 山岡荘八は、戦時中に従軍作家として戦意高揚小説を書いたことで終戦後公職追放され、それが解けた昭和25年から再び精力的にペンを執り始めた。創作のテーマは戦争と平和で、愛国精神は戦前から一貫して変わらなかった。山岡は国家存亡の危機と平和への祈願を、戦国時代を舞台にした歴史小説に託して描き、戦後の多くの日本人の共感を勝ち得たのである。「織田信長」は全8巻(文庫版は5巻)、5年で書き終わるが、「徳川家康」は完結するまで足かけ18年もかかり、全26巻に上った。「家康」は山岡荘八のライフワークであった。「徳川家康」が大ベストセラーになり、日本中に空前の家康ブームが巻き起こるのは、日本が高度成長期を迎え始める昭和30年代半ばである。以来半世紀にわたってロングセラーを続けている。そして「徳川家康」は、韓国では1970年代に全訳され評判になり、中国では最近翻訳発行され(2007年11月第1巻発行)、全13巻で200万部を越えるベストセラーになっている。


 山岡荘八(1907~1978)

 ところで、山岡荘八の小説「織田信長」は、15歳の信長に斎藤道三の娘濃姫との縁談が持ち上がるところから始まっていた。信長は、すでに元服し、吉法師から三郎信長を名乗り、尾張那古野城の城主であったが、少年時代からの暴れん坊ぶりは変わらず、大うつけ者と呼ばれている。
 信長は若い家来を率いて野生児のように領内を馬で駆け巡り、奇行が多く、領外にもその悪評は聞こえていたが、後見役の家老平手政秀は信長の器量を見込み、美濃の領主斎藤道三と同盟を結ぶため、才色兼備の濃姫を信長にめとらせようと画策する。
 一方、マムシの異名を持つ策謀家の道三も、いずれ尾張を掌握する腹積もりだから、この縁談に乗り気で、最愛の娘濃姫を尾張の大うつけ者に嫁がせる。濃姫に信長身辺の情報を提供させ、いざとなれば信長を刺し殺せと命じるのだが、濃姫もマムシの子だけあって、信長がいとおしくなれば、父に刃を向けるかもしれないと言って那古野城へ輿入れする。濃姫は信長より3歳年長の18歳であった。
 政略結婚によって結ばれた信長と濃姫の夫婦関係を軸に、斎藤道三、平手政秀、そして信長の父織田信秀などの個性的な人物が登場して、物語がダイナミックに展開する。「織田信長」は、連載物らしく一回一回が読み切りのショートストリーのようで、読者を飽きさせず、娯楽性豊かな歴史小説であった。
 錦之助は自分が信長になったような気になって、一心不乱に読みふけった。
 若き日の信長のガキ大将ぶり、先見性と決断力のある行動型人間のところなど、自分に似ているではないか。なぜか勝気な才女に弱い点までそっくりだ。