錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『花と龍』(その3)

2006-11-07 05:14:28 | 花と龍
 この映画の素晴らしさは、田坂啓のシナリオの良さに負うところが大きかったと思う。長所を二、三挙げると、まず、ダイアローグ(対話)が巧みだったこと、見せどころの場面はセリフに頼らず登場人物の表情や動作で視覚化していたこと、そして、何よりもユーモアがあるところが良かった。また、モチーフになる小道具の使い方もうまかった。助広の小刀、懐中ランプ(ライター)、菊の花、貯金通帳などがストーリーにからみ、実に効果的に扱われていたと思う。
 もちろん、スピード感のあるストーリー展開と全体の構成も優れていた。ドラマは「緊張」と「弛緩」が大切であるとよく言われる。が、この「弛緩」ということが難しく、下手をすると不発に終わってしまう。あるいは、間延びしてダレしまう。脚本家や監督の手腕が問われるところである。この映画では、場面転換の節々にユーモアを盛り込み、それが適度な弛緩作用を発揮していた。それで、ドラマが小気味良く展開して行ったのだと思う。
 前半のハイライト・シーンを例に挙げよう。
 夜、金五郎がマンを浜辺に呼び出して、マンの真意を確かめる場面がある。ここから後のドラマの展開は見事だった。「緊張」「弛緩」「緊張」「大緊張」「緊張」「弛緩」といった具合に進んでいく。この辺は、原作にない映画だけのオリジナルである。
 浜辺に呼び出されたマンは金五郎の煮え切らなさに憎まれ口を叩く。「女の気持ちも分からない血の巡りの悪い男!女の手も握れない弱虫!」とマンに罵られ、金五郎は怒ってマンの手を握ろうとする。マンに手を噛み付かれ、金五郎はついにプロポーズする。抱き締めあう二人。ここでいったん暗転して、次に二人が浜辺に腰を下ろし、仲良く語り合う場面。マンが懐から貯金通帳を出し、金五郎に見せる。「ずいぶん貯めこんだなー」「あんたは?」「貯まっとらん」。そして「満州」「ブラジル」の応酬。「強情っぱり!」ここは、ゆったりとした「弛緩」のシーン。
 長屋の前で二人は別れる。金五郎が家に入ると、親友の新之助(田村高廣)と君香(宮園純子)が潜んでいる。やくざの親分を旦那に持つ君香を奪って、駆け落ちしてきたのだ。ここからまた「緊張」のシーン。あたりの様子がおかしいのでマンも金五郎の家にやって来る。そこで、裏から新之助と君香を逃がしてやる。新之助に貯金通帳とハンコを渡す金五郎。
 その直後、やくざが数人、金五郎の家に殴りこんでくる。布団をかぶって寝たふりをしていた金五郎がさっと起き上がって、君香の旦那である親分に小刀を突きつける。ここは「大緊張」のシーン。君香を新之助にやる約束を親分から取り付ける金五郎。やくざたちが帰っていく。ここから「弛緩」に入っていく。刀を捨て、自分のしたことに後悔する金五郎。泣いて見守るマン。ここで、もう一度、愛の告白があり、強く抱き締めあう二人。
 ここで暗転して、その後が昼間の線路のシーン。鍋釜など荷物を持って、仲良く線路を歩いていく金五郎とマン。汽車賃が足りない。マンが貯金通帳を君香にあげてしまったことを打ち明ける。また「満州」「ブラジル」の応酬があって、金五郎が「満州行って、それからブラジル行ったらよか」と妥協案を出す。このシーンはなんとほほえましいことか。明るいシーンで笑いを呼び、ドラマを締めくくっている。お見事である。

 まだまだ、この映画には見せ場が多くてとても語りつくせないが、あと一つだけ挙げよう。コレラの疑いで小屋に隔離されていた金五郎と新之助のところに、マンが洗濯物と菊の花を持ってやって来る場面が私は大好きである。小便に行ってこいと新之助を追い払ってから、金五郎はマンにアメリカ製の懐中ランプ(ライター)をプレゼントする。その後、噂話のことで二人はちっとした口論をして、マンは小屋から出て行く。小屋の裏で、金五郎からもらったライターを試しに点けてみるマン。この場面はほんの三秒かそこらなのだが、佐久間良子が抜群に可愛い。ライターに向かってにっこりとほほえみ、ふんと鼻を鳴らすのだ。心の中で「金五郎のバカ!」と言う表情がなんとも言えない。
 
 最後に、『花と龍』のスタッフと共演者のことを書いておこう。
 撮影は古谷伸で『真田風雲録』『関の弥太ッペ』『遊侠一匹・沓掛時次郎』などを撮ったカメラマン。美術は鈴木孝俊、音楽は三木稔である。
 共演者は、田村高廣、淡路恵子、月形龍之介、宮園純子、三島ゆり子、小松方正、佐藤慶、遠藤辰雄、内田朝雄、香川良介、日高澄子など。この映画では、錦之助の素晴らしさと佐久間良子の美しさばかりが目に付いしまったが、淡路恵子も落ち着いた色気があって良かった。錦之助と淡路恵子は、この映画の共演によって、意気投合し、結婚することになる。田村高廣は、錦之助との共演作ではこれがベストのような気がする。月形龍之介は大親分吉田磯吉役だったが、出番がワン・シーンしかなく、やや印象が薄かった。(聞きところによるとこの頃月形は脚が悪く、体調を崩していたようだ。)小松方正の角助という憎まれ役も良かった。遠藤辰雄の「のろ甚」はユーモラスで印象に残った。金五郎と将棋を指しながら、マンの噂話をする場面は思わず笑ってしまった。三島ゆり子は、マンからライターを買い取ろうとする憎たらしい洋装の芸者役だったが、好演していた。

<追記>
 『花と龍』はこれまで六度も映画化されている。最初に映画化されたのは昭和29年で、原作が単行本になったすぐ後だった。これは、東映東京の作品で、監督は佐伯清、玉井金五郎を藤田進、マンを山根寿子、お京を島崎雪子が演じた。私はこの映画を観ていない。二番目が、昭和37年の日活作品で、監督は舛田利雄、石原裕次郎と浅丘ルリ子の共演だった。私はこの映画を二度ほど観ているが、裕次郎がお坊ちゃんっぽく、浅丘ルリ子は蓮っ葉だった印象が強い。原作の第一部までを脚色したものだったが、ストーリーの展開が速すぎて、金五郎の暴力否定の考え方も納得が行くまで描き切れていなかったと思う。とくに、ラストシーンで、金五郎がやくざに襲われ、まったく抵抗せずにズタズタに斬られる場面は不自然で、きっと裕次郎ファンの不評を買ったにちがいないと思う。三番目が錦之助と佐久間良子のこの映画で、『花と龍』(昭和40年)と『続花と龍 洞海湾の決斗』(昭和41年)の二部作である。四番目が高倉健と星由里子が主演したマキノ雅弘監督の東映作品で、『日本侠客伝・花と龍』(昭和44年)である。お京は藤純子だった。この映画も私は二度観ているが、原作をずいぶんねじ曲げていたと思う。ラストシーンで、高倉健が殴り込みに行くところは、やくざ映画のパターンで、暴力否定主義者の玉井金五郎とはまったく無縁の主人公になっていた。同じく東映作品の山下耕作監督による『日本侠客伝・昇り龍』(昭和45年)も『花と龍』を原作にした映画であるが、これは観た記憶がない。金五郎は高倉健、マンは中村玉緒、お京は藤純子だったとのこと。六番目が加藤泰監督の松竹映画『花と龍』(昭和48年)三部作「青雲篇」「愛憎篇」「怒涛篇」で、渡哲也が玉井金五郎、香山美子がマンを演じた作品だった。先日この映画をビデオで観ようとしたが、一時間ほど観て途中で辞めてしまった。この映画は正直言って、おすすめできる作品ではないと思う。
また、『花と龍』はテレビ作品が何本かあるようだが、私は一本も観ていない。
  
 ところで、錦之助と佐久間良子の『花と龍』の続編である『続花と龍 洞海湾の決斗』は、学生時代どこかの名画座で他のやくざ映画に混じって観たような気もするが、残念ながらこの映画の印象がはっきり残っていない。しかも、ビデオ化もされていないのでずっと観られなかった。が、幸い今月19日に私の所属している錦友会(錦之助ファンのつどい)が大阪で催す上映会でこの『続花と龍』を観られることになった。感想は、映画を観てからぜひ書きたいと思う。



『花と龍』(その2)

2006-11-06 21:15:49 | 花と龍
 火野葦平の『花と龍』は、昭和27年から28年にかけて、読売新聞に連載され、大変な人気を博した小説である。その後、ベストセラーになり、今でも多くの人々が愛読している。主人公玉井金五郎は火野葦平の父であり、マンは母であるが、この小説は、両親のほかにも、吉田磯吉、井上安五郎、品川信健など北九州・若松の著名人を実名で登場させた一種のドキュメンタリー小説であった。小説の前半(序章から第一部)は、別々に故郷を旅立ったマンと金五郎が門司で出会い、沖仲仕として働きながら恋愛結婚し、若松で玉井組を設立するまで。後半(第二部と結章)は、若松で市会議員となった金五郎が妻マンに支えられながら、仲間たちと選挙活動を行い、長男勝則の結婚に助力するといった話。勝則とは火野葦平の本名である。後半は、葦平の自伝小説でもあった。玉井金五郎は、長年にわたり若松の発展に貢献したが、大戦後も生き延び、昭和25年70才で亡くなる。葦平が両親の一代記であるこの『花と龍』を書こうと決心したのは、父金五郎の死がきっかけだった。読売新聞の文化部長に熱心に勧められたこともあった。その頃母マンは健在で、息子の新聞小説の連載を喜んでいたという。マンは、昭和35年1月葦平が自殺した後まで生き延び、息子の死後3年経って亡くなっている。

 最近私はずっと読みかけになっていたこの大部の小説を初めからじっくり読み返してみたのだが、大変面白かった。とくに序章から第一部まではわくわくする面白さで、次々と起こる事件に巻き込まれながらもそれを乗り切って行く玉井金五郎とマンの活躍が生き生きと描かれていた。それと、この小説は、作者が自分の両親を描いただけあって、主人公の二人に対する愛情の込め方も格別で、それが読む者に伝わり、心暖まる感動をもたらす。私は、これまで映画を何度も観ているので、原作を読みながら、映画のシーンを思い浮かべたり、映画には描かれていない部分を興味深く読んだりした。また、逆に映画に描かれていて原作には書かれていない部分にも注目しながら、読んでみた。
 原作と比較して気づいたことを述べてみよう。

 まず、映画の『花と龍』は、原作の前半(序章と第一部)のほぼ三分の二を脚色したものであった。内容の変更はかなりあるにせよ、原作のコンセプトは忠実に映画化していた。とくに最も大切な玉井金五郎とマンの性格や人物像はしっかり表現できていたと思う。錦之助自身、原作をきっちり読み、役作りを入念に研究したことは明らかである。金五郎は善意の人である。暴力に訴えず、誠意を尽くして話し合えば心は通じるといった信念の持ち主である。そして、この馬鹿正直さが金五郎の魅力でもあるのだが、錦之助は金五郎の性格を見事に表現していたと思う。普段はおどけた二枚目半で、いざとなれば度胸の据わったカッコ良い男に変貌する。これは錦之助の得意とするところで、今更彼の卓抜した演技力を褒めることもあるまい。佐久間良子も、マンの性格を実にうまく、しかも自然に表現していた。勝気だが心の暖かいマンに成りきっていたと思う。
 映画のシナリオを書いたのは田坂啓であるが、原作の面白さをうまく生かした脚色だったと改めて感心した。まず、何と言っても田坂啓のシナリオを褒めなければなるまい。原作を読んで、映画と比較してみると、脚色上の工夫の跡があちこちに窺われ、いかにも映画らしく作り変えていたことが分かる。
 最初の部分で、原作と映画が大きく違うところは、原作はまずマンを主人公にして広島の山村から書き始めていることである。が、映画は、序章(一)のマンの部分は全部省略していた。序章(二)の松山での金五郎のエピソードから始めることにしたのだが、その方が映画では導入部として成功していたと思う。この部分もずいぶん省略していたが、古道具屋で助広の小刀に見入っている姿から錦之助の金五郎を登場させたのはなかなか良かった。次に、道後温泉で重要な脇役であるお京(淡路恵子)が登場するが、風呂の中で、金五郎と出会わせたのは映画が工夫したところだった。原作では、お京の付き人のようなやくざ者がいて(般若の五郎という)、金五郎は彼と風呂で出会い、賭場に誘われることになるのだが、映画はここを思い切って簡略化した。ここもすっきりしていて良かった。お京が刺青の入った裸姿で金五郎に会い、会話を交わす場面は、『花と龍』という映画のイメージを印象付けて巧みだったと思う。
 また、映画は金五郎が旅立ちするシークエンスを導入部に置いたので、マンが初めて登場するシーンも引き立った。佐久間良子のマンが紫の羽織を着て、門司の海岸に現れるシーンは目も鮮やかに印象に残る。掘っ立て小屋のような茶屋で、マンが水を一杯ぐっと飲み干すと、そこに居た女衒にだまされかける。そこを錦之助の金五郎が助けるのだが、立ち去ろうとする金五郎をマンが呼び止めて、「ちょっとあんた、うちの邪魔するつもり?せっかくいい稼ぎ口、見つかったのに!」と言う。この一発のセルフで、マンの勝気な性格が描き出される。この場面、もちろん原作にはない。(つづく)


『花と龍』(その1)

2006-11-05 20:48:49 | 花と龍

 三十数年前、映画館で初めて『花と龍』を観たときに受けた痺れるような感動を、私は忘れることができない。玉井金五郎を演じた錦之助に男惚れし、マンを演じた佐久間良子に恋してしまったのだ。
 それ以来この映画をビデオで何度観たか分からない。が、錦之助の金五郎に惚れ、佐久間良子のマンに恋する私の気持ちはまったく変わらない。不思議なものだ。もちろん、錦之助が演じた素晴らしい主人公は、玉井金五郎のほかにも数え切れないほどたくさんある。佐久間良子も、美しさと悲しみをたたえた魅力的な役柄を数多く演じてきた。が、錦之助にしても佐久間良子にしても、相思相愛でこれほど心から互いに信頼しきった至福のヒーロー・ヒロインを演じたことは少なかったのではあるまいか。
 二人は、『独眼竜政宗』(昭和34年)で初共演している。錦之助は若き日の伊達政宗に扮し、佐久間良子は山家育ちの娘になり、清らかでかなわぬ恋を演じた。それは、実にさわやかで心に残るものだった。それ以来、二人は同じ東映に居ながら、すれ違いのまま、長い間共演することがなかった。それを私は残念に思っていた。錦之助は東映京都で時代劇を撮り、佐久間良子は東映東京で主に現代劇を撮り続けていたからだ。この二人の共演が再び実現したのは、なんと六年ぶりで、これが、火野葦平の名作『花と龍』だったのである。この映画は、娯楽時代劇でもなく、やくざ映画でもない。明治期の青春大河ロマンである。それがかえって二人にマッチしたと思う。この頃、佐久間良子は美しさの絶頂にあり、また演技派女優としても著しい成長をとげていた。一方、錦之助は『宮本武蔵』最終作を撮り終え、東映を辞める決意を固め、有終の美を飾ろうとしていた。この二人が満を持して共演したのだ。監督は、『関の弥太ッぺ』で新境地を開いた新進気鋭山下耕作である。素晴らしい映画が生まれる条件はそろっていたと言えるだろう。

 錦之助の玉井金五郎と佐久間良子のマンほど、たまらない魅力にあふれた男女を私は知らない。二人は最高のカップルであり、男と女の理想の姿でもある。ずっと私はそう思ってきたし、今でもそう思っている。そして、これからもずっと私にとって最高のカップルであり続けることは間違いない。これは、あくまでも私の心の中だけのことであるが、錦之助の玉井金五郎と佐久間良子のマンを見ていると私はこの上なく幸福な気持ちになることができる。何度見ても同じように幸福な気持ちになれるのは、どうしてなのだろうか。
 いちばん大きな理由は、言うまでもなく、私の最も好きな男優と私の最も好きな女優が、最も輝いていた頃に、これ以上ないほど息の合った共演をしているからである。この時の錦之助とこの時の佐久間良子が出会い、惚れ合い、夫婦になるという映画は、もう二度と作れない。その意味で、この映画は幸運であったし、かけがえのない宝になったとも言えよう。
 が、私がこの映画の中の二人を最高のカップルだと思う理由はそれだけではない。玉井金五郎とマンという主人公が人間的魅力に満ちていたからでもある。私はこの二人の生き方に共鳴し、感情移入し、互いに惹かれ合う二人を羨み、憧れさえ感じる。運命の赤い糸で繋がっていた、などと言うと陳腐に聞こえるかもしれないが、この二人の出会いと結びつきはまさにそれだった。
 時代は明治後期、日清戦争の勝利にわき立つ近代日本が大きく発展していく頃である。舞台は門司、下関の彦島、北九州の戸畑、若松と移っていく。物語の発端はこうである。松山のみかん畑で育った玉井金五郎と、広島の山奥で育った谷口マンが、それぞれ故郷を出奔し、石炭の荷揚げで賑わう門司港へやって来て、宿命的に出会う。金五郎は満州で一旗上げよう青雲の志に燃え、マンはブラジルに自由な新天地を求めている。若い二人は、大望を抱きながら、沖仲仕となって働き、好意を寄せ合う。裸一貫、運命は自分で切り開くものだという信念ももって、懸命に働く金五郎。因襲的な女の生き方に捉われず、世の中の荒波にもまれながらも前向きに生きていこうとするマン。この二人が心から信じ合い、力を貸し合って生きていく姿は感動的で、こよなく美しい。
 『花と龍』は、映画作品としても傑作である。だからこそ、錦之助と佐久間良子が輝いて見えるのである。そして、この映画は、私の知る限り、山下耕作監督の最高傑作だとも思っている。私は、山下耕作の『関の弥太ッペ』や『総長賭博』より『花と龍』の方を買う。『花と龍』は、原作の面白さに負うところも大きいが、映画として作品的な完成度が高いことも確かである。画面展開の小気味良さ、演出の間(ま)の取り方、ロマンチックな雰囲気、ユーモアの混ぜ方などが実に秀逸で、傑作の名にふさわしいものだったと思う。(つづく)