錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『宮本武蔵』(その二十三)

2007-06-21 14:09:48 | 宮本武蔵
 「一乗寺の決闘」で十三歳の少年源次郎を殺したことは武蔵の心に大きな傷となって残った。決闘の後、武蔵は比叡山の無動寺に籠もり、菩提を弔うためか、それとも自らの心を癒すためなのか、木の観音像を彫っていた。第四部のラストシーンである。庭に面した板の間で独り黙々と小刀で木を削っている髭の伸びた武蔵が映し出される。
 そこへ僧兵のような法師たちがやって来て、庭の向こうに立ち並ぶ。武蔵は立ち退きを通告される。悪評が伝わったからだという。
 法師たちから「外道!羅刹!悪魔!鬼!」と口汚く罵られ、さらに「これは天の声だ」「人をして言わしめているのだ」とまで言われて、武蔵はどうにも我慢ならなくなり、言葉を返す。
 「おれは正しい!卑劣なことはしていない。天地に恥じるところはない。」
 しかし、法師の総帥(沢村宗之助)から、「ならば訊く。源次郎という幼少をなぜ斬った。それでもおぬしは人間か!」と痛罵を浴びせられる。
 武蔵は一言もない。一番痛いところを突かれてしまったのだ。
 その時の武蔵の表情は何とも言えなかった。やるせなさ、怒り、自己嫌悪、苦しみ……、そのすべてが武蔵の五体に満ち溢れ、目の玉がひん剥け、鼻腔や耳の穴から溶岩のような感情が流出しそうに思えるほどだった。あの錦之助の迫真の演技は脳裏に焼きついて忘れることができない。あれだけすごい形相をした武蔵、いや錦之助を私は観たことがない。
 
 法師たちが去って、武蔵は自分に言い聞かせるように独白する。
 「たとえ子供でも敵の名目人であるからには大将である。三軍の旗だ。なぜそれを斬って悪いか。名目人に子供を立てる方が責められるべきではないか。敵の象徴を斬らずして武蔵の勝利はなかったのだ。」
 そして、最後の名セリフ。
 「われ、事において後悔せず!」
 そう言うと、武蔵はまた黙々と観音像を彫り始める。
 
 このラストの場面は、非常に印象的だった。それは、武蔵が泣いていたからだ。小刀に力を込め、木を削っているが、武蔵は洟をすすりながら、明らかに泣いていた。黒ずんだ板の間の斜め上から、カメラは俯瞰で、観音像を彫っている武蔵に近づいていく。武蔵の心の奥にまでにじり寄っていくような移動撮影である。武蔵の肩口から手元でカメラがぴたっと止まり、真新しくて白い木の観音像を映し出す。小刀を置き、武蔵はそれを両手でいつくしむように支え持つ。音楽が高鳴り、溶暗の後、エンドマーク。
 説明は不要であろう。この鮮やかな映像が、言葉にならない武蔵の心をいかんなく表わしていた。(つづく)



『宮本武蔵』(その二十二)

2007-06-19 23:07:41 | 宮本武蔵
 「八幡、命あっての勝負!」小刀を左手で抜き、武蔵が裏山の傾斜を初めはゆっくり、そして徐々に加速して駆け下りていくあの場面から、吉岡一門七十三人との壮絶な死闘が始まる。
 鉢巻に突き刺した小柄を一本また一本と手にとり、木の上に向かって手裏剣のように投げつける。飛び道具を構えていた男が二人とも地面に落ちてくる。あんなに離れていてよくもまあ命中するものだなと思ったのも束の間、「約定によって宮本武蔵、試合に参った。いざ!」という名乗り声を上げて、二刀を両手に持った武蔵が下がり松の本陣目指し一直線に襲いかかかる。

 ここから武蔵は吉岡勢を何人斬ったのであろうか。まず、本陣を護衛していた四人を一気に斬り倒す。そして、恐れおののいて松の幹にすがった源次郎と彼を抱きかかえ身を挺してかばった壬生源左衛門を背中から襲う。武蔵は「許せ!」と叫んで、十三歳の少年ではあるが名目人の大将と後見人である彼の父を、二人もろとも串刺しにする。
 実は、この二人の殺し方に関しては、予告編を観ると違う形になっていて、源次郎は突き刺し、源左衛門は袈裟斬りにして殺していた。が、原作はもっとリアルで凄かった。源次郎の首を斬り落とし、返す刀で源左衛門をなぎ倒すのだ。「般若坂の決斗」では武蔵が牢人の首を斬り落とす場面があり、しかもカラーで生々しかったが、「一乗寺の決闘」ではモノクロだったとはいえ、さすがに罪のない少年の首をはねるのは抵抗があったのかもしれない。しかし、よく考えれば、串刺しにしただけでは死んだかどうかも分からず、敵の大将ならとどめを刺して頚動脈を切るか、首をはねて殺すのが当然であり、原作の描き方が正しいと言えないこともない。

 さて、敵の大将を討って勝利を得た武蔵は、駆け寄ってきた吉岡勢を次々に斬り倒しながら血路を開いていく。まず三人斬り、あぜ道を走りながら十数人斬る。途中で武蔵がバランスを失いそうになるところもあるが、錦之助の武蔵の立ち回りはすさまじく、見てくれもなにもあったものではない。カッコ良くなんてことを気にしていたら、あの迫力は生まれなっただろう。斬る方も必死なら、斬られる方も必死である。
 この時武蔵は二刀流であるが、多人数の敵を相手にする場合は当然、両手に二刀を持って闘わざるを得なかったのだろう。武蔵の二刀流はそうした戦闘の必然性から編み出されたのだと思う。しかし、右手に大刀を持って振り回すのだから、相当な腕力が必要だと思うし、あれほど長い間二刀を持って闘っていたら、肩が抜けるか腕がバカになってしまうと思うが、いかがなものだろう。錦之助には悪いが、彼はあまり腕力がなさそうな感じがしないでもない。でも、錦之助はよく頑張った!

 途中で、林彦次郎(河原崎長一郎)が闘いに加わるが、その時、丘の中腹で高みの見物をしていた佐々木小次郎(高倉健)が映し出され、「無駄だ。武蔵の剣を倒せる者はオレ以外にはない!」と言うカットが挿入される。しかし、ここは余計だった。健さんの小次郎が登場すると調子が狂ってしまう。私は高倉健が嫌いではないし、仁侠映画の健さんのファンでもあるが、『宮本武蔵』の佐々木小次郎だけはいだだけなかった。高倉健は時代劇には向いていないと思うし、小次郎ほど似合わない役柄はなかったと思う。天才肌の美剣士、気障(きざ)で傲慢な女ったらし、なんて人物は、健さんの柄に合わない。『宮本武蔵』で小次郎を扮した高倉健に対し私は同情を感じ、可哀想だったとすら思っている。だから、小次郎のことは書きたくないのだが、「一乗寺の決闘」のシーンでちょこちょこ顔を出す小次郎は、ひどかった。折角緊迫したシーンに水を差してしまい、興覚めだった。
 
 さて、話は変わるが、原作にはない登場人物、吉岡一門だったが伝七郎に破門され、その後武蔵に批判的な目を向ける「林何某」、河原崎長一郎が演じたこの人物のことはすでに書いた。林という苗字だけは分かっていたのだが、名前が不明だった。彼は第二部から登場するのだが、クレジットタイトルの部分を一時停止してよく見ると、「林彦次郎」となっている。それが不思議なことに、第三部からは、「キネマ旬報」のデータもDVDの付録にある配役名も「林吉次郎」になっていて、鈴木尚之の『内田吐夢伝』でも林吉次郎で通している。映画の中では、彼をフルネームで呼ぶ場面はないので、どうでもよいが、『宮本武蔵』第三部から第五部までは、クレジットタイトルに役名が書かれていないので、どこでどう間違ったのか調べようがない。きっとシナリオを書いた鈴木尚之が第三部から名前を書き間違え、それが通ってしまったのかもしれない。前回引用した『吐夢がゆく』には張本人河原崎長一郎の苦労話が載っているが、役名については彼も書いていない。
 「一乗寺の決闘」の撮影の時、河原崎は胃痙攣に悩まされた上に、吐夢に徹底的にしごかれ、惨憺たる有様だったそうだが、あの林彦次郎(もしくは吉次郎)の頬のこけた悲愴な表情は、そんな事情があったからなのだろう。
 「貴様の剣は非道だ。卑怯者!」と叫んで、武蔵に斬りかかり、あぜ道から転げ落ち、田んぼのぬかるみを這ってまで武蔵を追いかけていく林の執念が凄かった。

 追いすがる林の顔面を横一文字に斬って、武蔵が田んぼのぬかるみを絶叫しながら逃げていく最後の場面まで、戦闘開始からいったい何分あったのだろうか。
 測ってみると五分十五秒、斬り倒した吉岡勢はなんと三十六名に及んでいた。(つづく)



『宮本武蔵』(その二十一)

2007-06-19 14:46:17 | 宮本武蔵
 吉川英治の原作には、闘いが始まる前のプロローグのような場面はない。設定もまったく違っている。武蔵はやはり現場に遅れてやって来る。三本道のどれも選ばず、山越えをしながらようやく裏山の中腹にたどり着く。背後から吉岡勢の虚を突いて襲いかかる点は同じだが、先に来て吉岡勢の様子を窺うようなことはしない。また、地図を描き、闘いに挑むような準備もしない。これは、すべて監督内田吐夢とシナリオライター鈴木尚之の創作である。
 吉岡勢がやって来る前から武蔵を裏山に潜ませ、様子を窺わせているというアイディア、これが素晴らしかった。映画の武蔵の方がずっと実戦的で作戦巧者に見えたことも確かである。決闘が始まる前の臨場感が高まったことも大きい。が、何よりも、観客に武蔵の視点で決闘現場の状況を眺めさせ、いつの間にか武蔵と一心同体となったような錯覚を観客に感じさせたところが吐夢一流の見事な演出だった。
 吉岡勢が続々と到着する。駕篭に乗って、名目人の少年源次郎と父親の壬生源左衛門(山形勲)もやって来る。下がり松を本陣として、三本道で待ち伏せする吉岡勢の配置が決まる。武蔵は眼を皿のようにして、その位置と数を確認する。飛び道具を持った三人の場所も地図に書き込む。鉄砲を持って下がり松の上に登った者が一人。弓矢を持って近くの木に登った者が一人、草むらに潜んだ者が一人。総勢は、この三人に加え、いったい何人なのか。武蔵は図を見ながら独りつぶやく。
 「本陣十五人、白河道十人、鳥居道二十人、京道十五人、くぬぎ林十人。」

 「七十三対一!」これは吉川英治の原作にはないセリフである。そして、このセリフこそ、闘いの凄さを一言で集約し、観客に強烈なイメージを植え付けたキーワードだった。
 武蔵が闘志をむき出しにして言うセリフ「殺さなければ殺される!」も、襲い掛かる寸前に言うセリフ「八幡、命あっての勝負!」も原作にはない。こうしたキーワードのようなセリフを武蔵に次々に言わせながら、緊迫感を高めていったところが心憎いほどうまかった。闘いに至るまでの過程が映画では実に細かく描かれていた。折りたたんだ地図を挟んだ鉢巻を頭に締めたり、たすきをかけたり、手のひらと刀の柄に唾を吹きかけ、さらに小柄を二本鉢巻に刺したり……この細かすぎるとさえ思われる描写が、壮絶な闘いに至るプロローグとして重要な役割を果たしていたのだと思う。

 内田吐夢の十七回忌に出版された『吐夢がゆく』という本は、多くの映画関係者が寄稿しているアンソロジーで、どれも大変興味深く読めるものだが、その中で『宮本武蔵』第一部と第三部に助監督として付いた山下耕作がこんな証言をしている。武蔵を千年杉に吊し上げるシーンに関し、吐夢はこう言ったのだそうだ。「吊し上げる過程を順を追って丁寧に撮って行く。これを文化映画的手法という」と。「一乗寺の決闘」に至るまでの過程も、この伝でいくと、吐夢用語では「文化映画的手法」ということになるのだろう。吐夢の言う文化映画とは、教育映画や科学映画のことで、その手法とは、たとえば理科の観察記録のように、種子から芽が出て花が咲くまでの過程を克明に撮影していくことを意味するのであろう。
 吐夢のつかう映画用語には、「小矛盾」「大矛盾」「弁証法」「爆発」「正念場」など独特な言葉が多いが、以前私は吐夢の著書『映画監督五十年』を読んで、彼のクライマックス論に大変興味を覚えたことがある。それによると、クライマックスとは、多くの小矛盾が重なって大矛盾になり、それが極点に達し、爆発するというものだった。『宮本武蔵』に限らず、吐夢の映画を観て感じるクライマックスの迫力には、爆発的な物凄さがある。「一乗寺の決闘」はその最たるものだが、決闘が始まる前のプロローグの部分は、まるで導火線のようだった。導火線に火が付いて今にも爆発しそうな緊迫感。爆発した後の場面もすさまじいが、その前の緊迫感も堪らなく良かったことをもう一度強調しておきたい。(つづく)



『宮本武蔵』(その二十)

2007-06-18 17:37:54 | 宮本武蔵
 「一乗寺下がり松の決闘」のシーンは、巨匠内田吐夢ならではの大胆にして細心な映画作りの特長が見事に発揮されていたと思う。これは吉川英治の原作と比べてみて分かったことなのだが、映画はずいぶん原作を変えていたし、また原作にない部分を取り入れ、鮮やかな映像表現に仕上げていたと言える。映画独自の創意工夫が随所に見られ、素晴らしい効果を上げていた。そこを見逃してはならないと私は思っている。
 内田吐夢の『宮本武蔵』を傑作に上げ、とくに「一乗寺の決闘」を絶賛する映画評論家たちは私の知る限り誰もそうした点に触れていない。名を挙げて悪いかもしれないが、佐藤忠男も川本三郎も『宮本武蔵』に関しては映画の観方が浅いと思う。映画史上での位置づけも結構である。あらすじを書いて印象批評でお茶を濁らせるのも仕方がないのかもしれない。ただ、吐夢と錦之助の『宮本武蔵』を傑作と認めているなら、具体的に何が素晴らしいのかをもっと掘り下げて書いてほしいと思う。シナリオや映画手法の独自性にも触れず、錦之助や共演者の演技にも論評を加えないで、それで映画評論と言えるのか。(『君は時代劇映画を見たか』(佐藤忠男)、『時代劇ここにあり』(川本三郎)という本の題名も偉そうで、どうも気に食わない。)
 さて、小説と映画では明らかに表現方法が違う。吉川英治の『宮本武蔵』にはかなり観念的な表現も多く、武蔵の心理描写も多い。吐夢はそうした部分を大胆に切り捨て、その上で、小説で描かれた情景を具体的に映像化し、時間的な流れに移しかえ、観客に映画の醍醐味を満喫させてくれた。「一乗寺の決闘」の場面には、映画の緊張感と迫力、言い換えればリアルタイムの臨場感があふれていた。内田吐夢は映画の奇術師だった。それも大仕掛けのスペクタクルを得意とするスケールの大きな奇術師で、観客をあっと驚かせることにかけては超一流のテクニックを披露してくれたと思う。
 モノクロに変わったファーストシーンは、夜明け前の一乗寺跡の遠景だった。人気(ひとけ)のない暗い田んぼの風景を俯瞰で撮影し、「さあ、これからここで凄いことが始まりますよ」と暗示する。この前触れが観客をゾクゾクさせるわけだ。バックに流れる音楽も狂気を孕んでいるように聞こえ、雰囲気を盛り上げていた。
次に武蔵のバストショットが映し出される。決闘現場に武蔵は早々と到着しているではないか。武蔵は、果し合いの時には、たいてい約束の時刻に遅れて来る。が、一乗寺の決闘の時は、違っていた。前もって現場にやって来て、裏山の中腹から地形を下検分している。懐から紙を取り出し、筆で地図を描き始める。武蔵は周到に作戦を練っている。
 右隅に狭い原っぱがあり、そこに松の木が一本立っている。これが目印の「下がり松」だ。「一乗寺下がり松」とは、京都郊外に一乗寺というお寺のあった跡地があり、そこに残っている枝の垂れ下がった松ということである。ここへは三本の道が通じている。
 画面に映し出される全景は、武蔵の眼に映った眺めになっている。松の木のこちら側に裏山があり、武蔵はそこに潜んで、様子を探っているのだ。左側の道の向こうに明かりを点々と灯した隊列のようなものが現れる。吉岡勢である。遠くの方から下がり松の方へ複数の明かりが近づいてくるこの全景のカットが長々と映し出される。十秒ほどあったであろうか。このあたりの描写が実に巧みで、内田演出の芸の細かいところである。いかにも映画らしいのだ。(つづく)



『宮本武蔵』(その十九)

2007-06-14 17:23:36 | 宮本武蔵
 「一乗寺の決闘」のシーンは、ロケーションに一ヶ月かけ、毎朝夜明けの短時間だけを狙って撮り続けたというのだから、すごい話である。
 鈴木尚之の『私説内田吐夢伝』には、撮影の裏話が明かされていて面白い。カメラマンの吉田貞次の談話も載っている。それによると、「一乗寺の決闘」のこのシーンは全部で100カットほどあったそうで、暁闇で撮影に適した時間はわずか15分、一日3カットを撮影するのが精一杯だったという。リハーサルは前の日の午後に行い、当日はぶっつけ本番で撮影していったそうだ。毎日がそれの繰り返しで、撮影前になるとスタッフ全員が極度の緊張を強いられたという。吉田貞次は、どうせ白黒で撮影するなら、朝だけでなく夕方撮影しても同じだから、朝夕両方やりましょう、そうすれば日数が半分で済む、と内田吐夢に提案したところ、吐夢は頑としてこれを拒み、暁闇時の撮影だけを主張したという。
 実は、昨夜前回のブログを書き終えてから、以前読んだことのあるこの本を引っ張り出し、『宮本武蔵』の箇所だけを再読してみた。「一乗寺の決闘」のパートモノクロのことがどうしても頭に引っかかっていたからである。吉田貞次の談話では、このシーンはどうやら初めからモノクロで撮影したようなのだ。『私説内田吐夢伝』から吉田の談話の部分を引用してみよう。
 「決闘場面だけは白黒でやろうってわけね。まあ暁闇でもあるしね、カラーで撮っても色は出ないし、なまじヘンな色が出るよりも白黒のほうがスゴミがでると、賛成したけどね。(以下省略)」(309ページ)
 これを読んで昨夜書いたことが怪しくなってしまった。カラーで撮影したフィルムをモノクロに変えたという話も、どこで読んだのか私の記憶があいまいになっていたのだが、その出典も突き止めたてみた。それは錦之助自身の著書である『わが人生(みち)悔いなくおごりなく』であった。その部分も引用しておこう。
 「一乗寺下り松での大立ち回りは、それまでのカラーから突然、モノクロになって映し出されますが、これは黒白フィルムで撮影したのではないのです。いったんはカラーフィルムで撮り、それから色を抜く手法をとられたため、陰影の出方がまるで違います。『さすがは内田先生、すごいことを思い付かれるものだ』と感心いたしました。」(147ページ)
 どうも何がなんだか分からなくなってしまった。カメラマンの話がウソであるわけはないし、錦之助の話も確信に満ちている。どちらを信用してよいものか。真相が判明したら、いずれまた報告したいと思う。
 それにしても、俳優・スタッフ全員(約140名)をロケ地に一ヶ月間も釘付けにした費用だけでも膨大な金額に上ったことだろう。回したフィルムも相当な長さに及んだはずである。ロケ地は、滋賀県の饗庭野(あいばの)で、一乗寺跡の決闘現場を人工的造ったのだそうだ。この費用も桁はずれだったにちがいない。松の木は、18メートルのコンクリートの柱を立て、枝や樹皮を付けて作ったもので、三本の道も古畳をずらっと並べて作ったのだという。
 さて、余談ばかり長くなってしまったが、次回は本題に帰り、「一乗寺の決闘」のシーンの素晴らしさを語りたいと思う。(つづく)