錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

錦之助出演のラジオドラマ(3)

2015-11-24 10:06:49 | 【錦之助伝】~スター誕生
 錦之助が出演したラジオドラマの3本目(映画界に入ってからは2本目)が山岡荘八原作の「織田信長」だった。錦之助が主役で、若き日の信長を演じるものである。錦之助は「明玉夕玉」でラジオドラマには懲りていたが、あえてこれに再挑戦した。
「織田信長」の映画化に賭けていたからだ。錦之助は意欲満々だった。自伝「あげ羽の蝶」に、錦之助はこう書いている。

――「明玉夕玉」を放送して以来、僕の苦手の放送も、これだけは張り切って出演、連続放送劇としてラジオ東京から毎週一回放送致しました。

 ラジオ東京は、民放のTBSの前身である。後援会誌「錦」昭和30年5月号(5月半ば発行)に錦之助主演の連続ラジオ放送劇「織田信長」の予告とあらすじが掲載され、以後10月号まで提供の雪印乳業の1ページ分の広告にラジオ放送のことが書かれている。
 それによると、「織田信長」は、5月下旬からラジオ東京だけでなく、ほぼ全国ネットで放送された。ラジオ東京では毎週水曜の夕方17時30分から30分間。他の放送局は、北海道放送(土曜19:00~)、ラジオ岩手(土曜20:30~)、東北放送(水曜19:30~)、中部日本放送(土曜17:30~)、新日本放送(火曜18:15~)、ラジオ九州(水曜18:00~)である。
 また、「織田信長」のラジオ放送開始に合わせ、「平凡」7月号(5月下旬発売)から山岡荘八原作、伊勢田邦彦挿画の「織田信長」の連載絵物語が始まる。山岡の「織田信長」はすでに「小説倶楽部」に連載され、第1巻の単行本が講談社から発売されていたが、「平凡」誌上にもう一度最初から転載することになる。これは「明玉夕玉」と同じく、ラジオで放送する立体絵物語と称し、挿画をたくさん加えて読みやすくしたものだった。「平凡」誌上での「織田信長」の連載は、ラジオドラマの宣伝も兼ね、各放送局の曜日と時間帯を記載して11月号まで5回連載された。ちょうど映画の『紅顔の若武者 織田信長』が9月20日に封切られるまで続いた。

 連続ラジオ放送劇「織田信長」の制作スタッフおよび配役は以下の通りである。 
 脚色:高橋辰夫、音楽:若山洋一、演出:番一夫
 配役:吉法師信長=中村錦之助、中務政秀(語り手)=小沢栄、織田信秀と森三左エ門=中村歌昇、濃姫=水城蘭子、その他、劇団「葦」


 信長の守役の平手政秀が小沢栄(栄太郎)で語り手もやっている。錦之助の長兄の中村歌昇が信長の父信秀と斎藤道三の家来の森三左エ門の二役を演じた。濃姫役の水城蘭子はのちにテレビドラマの脇役や声優としても活躍した女優である。

 「錦」昭和30年5月号の錦之助の日誌を見ると、第一回目の録音は昭和30年4月24日の午後6時半から大阪のスタジオ(マジェスティック・テレビ・プロダクションの録音室)で行われた。錦之助の台詞だけを単独で録音したようだ。この日は、午前中は『あばれ纏千両肌』の撮影、午後から大阪の朝日ラジオホールで錦之助後援会の関西地区の「春の集い」に出席し、大忙しの一日だった。「織田信長」の録音が終わったのは夜の11時半で、錦之助は夜中に京都の常宿小田屋へ帰っている。
 二回目の録音は5月1日の午後、東京のアオイスタジオで行われた。アオイスタジオというのは錦之助の一つ上の姉の多賀子の夫(丹羽氏)が経営していた録音用スタジオで、永田町にあり、錦之助の後援会の本部もここにあった。
錦之助の日誌の5月1日には、こうある。

――午後1時アオイスタヂオに出向き、織田信長の吹込。4時に終って、階下に降りると日曜にもかかわらず、会員の皆さんが一生懸命封筒書きをしておられる姿には感心しました。

 錦之助後援会は昭和29年7月に設立し、8月22日に上野精養軒での盛大な発会式を行ったが、その後会員の数が増え続け、昭和30年5月には1万人を突破していた。設立時から会誌「錦」を毎月発行してきたが、その郵送が大変で、事務局が会員に呼びかけ、本部で封筒のあて名書きを手伝ってもらっていたのだ。

 「平凡」9月号(7月下旬発売)の「織田信長」の最初のページには「東映映画化、中村錦之助主演・撮影開始」という予告と、顔写真入りで錦之助のメッセージ「ラジオだけでなく映画にも出演することになりました。ファンの皆様どうぞご声援ください」という一文が載るが、錦之助待望の映画『織田信長』はすでにクラックインし、7月中は撮影の真っ最中だったわけである。


錦之助出演のラジオドラマ(2)

2015-11-04 20:08:31 | 【錦之助伝】~スター誕生
 ラジオドラマの「明玉夕玉」はもともと美空ひばり側の企画で、錦之助はひばりに誘われて、引き受けたのだった。主題歌と挿入歌はひばりが唄い、主役もひばりであるが、相手役に錦之助を望んだのはひばり自身であった。
 前回引用した錦之助の言葉によると、ひばりと共演した映画『八百屋お七 ふり袖月夜』の撮影中に「明玉夕玉」の出演を頼まれたと言っているが、本当は撮影前の昭和29年7月上旬だったのではあるまいか。その時錦之助はあまり考えずに気軽に応じたのだと思われる。この頃は『里見八犬傳』5部作が公開されたばかりで、錦之助の人気が急上昇する途上にあったとはいえ、「平凡」をはじめとする芸能雑誌がまだ錦之助を大々的に取り上げていなかった。美空ひばりに比べれば、知名度には雲泥の差があった。錦之助はまだ全国の日本人に知られるほどのスターではなく、『笛吹童子』や『里見八犬傳』などの錦之助の出演映画を見た限られたファン、おもに一部のティーンエイジャーたちにとって錦之助がアイドル的存在になりかけた頃であった。ちょうど千原しのぶとの共演作『唄ごよみ いろは若衆』を撮影中で、『八百屋お七 ふり袖月夜』がクランクインする前である。

 昭和29年8月号(6月下旬発売)の「平凡」を見ると、連載が始まった「明玉夕玉」第1回には、ラジオドラマのことがまったく触れられていない。それが9月号(7月下旬発売)には、第2回「明玉夕玉」の冒頭ページにひばりと錦之助がマイクの前で仲良く並んだ写真が「録音中の二人 珠姫=美空ひばり、竜太郎=中村錦之助」の文字入りで掲載され、ラジオドラマが宣伝されている。「7月18日から毎日曜日午後7時より放送開始!☆ニッポン放送(JOLF)1310KCに どうぞラジオのスイッチを!」とあるが、9月号が発売されるのとほぼ同時にラジオドラマが放送されたわけである。また、キャッチフレーズの「ラジオで放送する日本で初めての立体絵物語」もこの時から使われ始める。



 雑誌「平凡」がひばりと錦之助を格好のカップルとして扱い始めたのはこの9月号からであるが、同時に錦之助の取材記事が急に増え始めるのも9月号からであった。同号には、ひばりが東京の麻布三河台町にある錦之助の実家を訪問するという3ページのグラビア記事「錦之助さん、こんにちは!」を載せ、ひばりと錦之助の仲良しぶりを公(おおやけ)にしている。まるでひばりがフィアンセでもあるかのように錦之助は母や兄嫁や妹たちにひばりを紹介しているのである。ひばりが錦之助の東京の実家を訪ねたのは6月のことだと思うが、ひばりと錦之助は6月下旬に京都で再会し、この時から8月半ばまでの期間に二人は恋愛関係に入った。ひばり17歳、錦之助21歳である。そして、二人の熱々ぶりが最高潮に達したのは、『八百屋お七 ふり袖月夜』の撮影期間中であった。この映画はひばりと錦之助の三度目の共演作だったが、まさに三度目の正直で本物の恋が燃え上がり、ひばりは、ヒロインのお七さながら、吉三郎の錦之助を熱愛するようになっていた。昭和29年の真夏、7月下旬から8月半ばの2週間のことである。



 錦之助が東京のニッポン放送で「明玉夕玉」の数回分の収録を行ったのは、昭和29年8月22日だった。錦之助は書いていないが、その日ひばりもいっしょにいたことは間違いない。ひばりはまた錦之助と東京で会って、「明玉夕玉」の仕事をいっしょにできることを喜んだにちがいない。
 錦之助の日誌によると、20日に『八百屋お七 ふり袖月夜』がクランクアップして、21日に東京に帰り、22日は朝、駒沢球場で野球をして、昼にニッポン放送のスタジオへ向かった。その時、「明玉夕玉」の台本をもらって、ぶっつけ本番で台詞の録音をしたそうだが、録り直しの連続でひどく苦労したようだ。午後5時まで掛かって、ようやく数回分の収録を終えたが、翌日23日もスタジオへ行きその続きの録音をした。ひばりは台本の台詞をすらすら上手にこなしていくのに対し、錦之助は慣れていなかったので、台詞が棒調子になり、また言葉に詰まることも多かった。これで、錦之助はラジオドラマに対して苦手意識を持ってしまった。「錦」第3号(昭和29年9月発行)で錦之助は、こう語っている。

―――ラジオというやつは馴れないせいもあって、まるっきり苦手である。ひばりちゃんはじめ、レギュラーの方々は、オーソリティばかり。私だけが取り残されているみたいで、最初は全くマイク恐怖症にかかってしまった。が、最近漸く馴れて来た様に思うが、あとで聞いてみるとまだまだ勉強不足。アクションなしで、声の変化によって感情を出すという事の難しさをしみじみと味わっている。一日も早く「明玉夕玉」がおしまいになることを祈るや切。

 「明玉夕玉」のラジオドラマは、ニッポン放送では昭和29年の暮まで計24回続いて終了し、昭和30年から同じく毎週日曜に7時半から再放送されたようだ。放送開始時期、放送時間は違うが、ラジオ大分、関西の新日本放送(毎週土曜夜9時から)、ラジオ青森でも放送されている。
 
 「明玉夕玉」は、ひばりと錦之助の共演で、東映が映画化する話もあった。昭和30年4月号(2月下旬発売)の「平凡」に掲載された「明玉夕玉」(第9回)の冒頭ページには「ひばり・錦之助主演 東映映画化決定!」とあり、最後のページにも「いよいよ四月から東映でクランクインすることに決定しましたから、どうぞご期待ください」と発表されている。「平凡」4月号が編集された2月の時点では、東映は『紅孔雀』に続く少年少女向きの娯楽版を「明玉夕玉」に決め、ひばりと錦之助のコンビで前後篇ないしは3部作にして製作するつもりだったのだろう。
 ところが、それが急きょ中止になった。その理由は明らかにされていないが、映画の製作決定後間もなく、錦之助が降板したいと申し出て、製作中止になったのだと推測される。錦之助はひばりに勧められて一度は出演を承諾したようだ。しかし、昭和30年2月に錦之助が盲腸の手術で慶応病院に入院することになって状況が一変した。錦之助は2月8日に手術をしてその後2週間入院していたが、その間に映画俳優としての今後の自分のあり方について、いろいろ考えたようだ。映画デビュー以来、会社にあてがわれた役を次から次へとがむしゃらに演じてきたことは決して無駄ではなく、映画俳優として成長の一段階であったが、これからは自分が演じる役を十分に検討し、少年少女向けの中篇娯楽版の連作に出演することは控えようと考えたのではなかろうか。大人が見ても鑑賞に耐えられる映画に出演し、演技者としてさらに前進しようと錦之助は決意を固めたのだと思う。