錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~反逆と挫折(その4)

2012-11-02 17:52:25 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 錦之助は、2年前に三越青年歌舞伎で「鏡山」のお初を演じた時のひた向きさも、歌舞伎座が新築開場した時に抱いた歌舞伎へ傾ける燃えるような情熱も、今や失っていた。
 やるだけのことはやってみた。先輩や仲間たちとともに反逆の狼煙も上げた。が、四囲を厚い壁にふさがれ、進むべき道が見えなかった。後年、錦之助は伊藤大輔監督で時代劇映画の名作『反逆兒』を撮るが、まさに三郎信康のような境遇にあった。

 そんな時、映画会社からの最初の誘いがやって来たのである。
 それは、新東宝からのものだった。 
――そんな悩みを持っている頃、新東宝の某プロデューサーが私の家を訪ね、白井喬二先生の原作になる『坊っちゃん羅五郎』の映画化の計画をたて私に是非出演してみないかと話をもって来たのですが、私の父は私が映画へ出演することを徹底的に嫌っていましたし、又先方の都合によってこれは実現出来なかったのです。しかし、私の気持ちの中に楽な気分で、もし機会があれば出演してもいいぐらいのつもりはあったのです。

 「そんな悩みを持っている頃」とは、錦之助が「歌舞伎の世界にいるより、未知の世界ではありましたが、門閥も何もない力だけの映画の世界が若い情熱をもてあましていた私には大変な魅力だった」頃とだけしか分からない。漠然としていて、いつ頃なのかまったく手がかりがないのだが、恐らくチャンバラ映画が解禁になった昭和27年か、もしかするとそれ以前のことだったかもしれない。これは錦之助初の自伝「ただひとすじに」に書いてあることだが、その後、錦之助は新東宝からの話に関しては一切触れていない。それがどうしてなのか分からない。新東宝への配慮というのもおかしな話だが、出演交渉を受けてすぐ立ち消えてしまったので、話すほどのことでもないと後で思ったのかもしれない。ともかく、新東宝の某プロデューサーが白井喬二原作の『坊ちゃん羅五郎』の企画を持って錦之助の家を訪ね、熱心に出演依頼したことだけは間違いない。
 ちなみに、「坊ちゃん羅五郎」というのは、白井喬二が昭和17年に発表した時代小説で、その続編もあり、二部作である。私は読んでいないが、代官の息子羅五郎が剣の腕を磨き、父の恨みを晴らすという内容らしい。昭和23年に講談社小説文庫で発行されたという。

 新東宝による「坊ちゃん羅五郎」の映画化は結局実現しなかった。
 が、この時、映画出演の話は父時蔵の猛反対にあった。錦之助が素直に引き下がったとも思えないが、正式に断る前に映画の企画が流れてしまったのではないかと思う。
 錦之助の映画出演の最初のチャンスは見送りになった。

 そして第二のチャンス。それは、東映からの誘いであった。
 これも正確にいつのことだったのか、私は確定できずにいる。手がかりは、「芸能生活五十年を語る」の中で錦之助(当時は萬屋錦之介)が「映画に入る一年ほど前」と言っていることだけで、昭和二十七年の終わりなのか、昭和二十八年になってからなのか、分からない。なにしろ「芸能生活五十年を語る」という本は、平成元年時点での思い出話であり、東映からの映画出演の誘いは、その三十六年前のことである。
 この時のことは錦之助の第二の自伝「あげ羽の蝶」に詳しく書いてあるので、まずそれを紹介しよう。最初の自伝「ただひとすじに」にはなぜかまったく出ていない話である。「あげ羽の蝶」では「テストに失敗して映画熱一時さめる」という見出しの付いている一節だ。

――東映からの招きといっても、直接僕あてではなかったんです。現製作本部長、そのころ京都撮影所長だったマキノ(光雄)専務から兄の芝雀に映画に出ないかという話があって、弟も一緒に連れてくるようにとのことだったのです。
 明治座の近くの料亭で、東映のえらい方がたにお会いしました。こちらは芝雀と僕二人に、母がつきそっていました。マキノ専務は僕を見るなり「現代劇もいけるじゃないか」といわれました。映画の中でも特に洋画にのぼせていたようなときでしたから、自分の顔が現代劇にも向いているといわれたことだけでも、僕はカブキ俳優より映画俳優の方が向いているんではないかと思い、「二、三日したら大泉(東映東京撮影所)へ来い」ときいてはもう有頂天でした。映画スターに、すでになってしまったような喜びようでした。
 ところが世の中のことはそうやすやすと進むはずのものではありませんでした。大泉では着くとすぐ前髪と御家人のカツラをつけさせられて、カメラテストを受けました。現代劇スターとしてのテストを受けるどころではなく、カツラも他人のもので、鏡に向った僕をあわてさせたほど不恰好なものでした。これでカメラテストをしたところで、よく撮れるはずのものではありません。案の定、テストの結果はよくなかったらしく、その結果はついに知らされては来ませんでした。


 その後に続く文章を読むと、その時期は、昭和二十八年夏の新橋演舞場での公演のしばらく前であったことは確かである。錦之助のこの文章では季節を知るヒントがない。
 が、私は昭和二十八年の四月ではないかと勝手に推測している。つまり、次兄の梅枝が中村芝雀を襲名した頃である。
 最初、私は「明治座の近くの料亭」ということから、芝雀と錦之助が明治座に出演した時期、昭和二十八年七月か、あるいは昭和二十七年八月を考えてみた。しかし、こうした密談を公演場所の近くで行うのはどうかと思い直した。松竹関係者の誰に会うかもしれないからだ。歌舞伎座出演後、明治座近くの料亭へわざわざ出向いたという方が確かそうな気がしてきた。
 東映のマキノ光雄が(他のプロデューサーを介してかもしれない)、芝雀に映画出演の話を持ちかけたというのは、襲名を機にそれに華を添えようという切り出し方で、映画に出演すれば人気もぐっと上るとか、大きなことを言ったのではあるまいか。
 そこで、母のひなも取りあえず話を聞いてみようと同伴した。時蔵の了解も得てのことだろう。明治座近くの料亭で会うというのは、もちろん東映の接待である。よほど興味をそそる話でなければ、芝雀と母ひなと錦之助の三人が揃って出席することはありえない。
 錦之助は単なる付き添いだった。東映側が映画に強い関心を持っている錦之助の話を聞いて、それでは弟さんもぜひご一緒にということになったのではなかろうか。
 マキノ専務と他のお偉方との料亭での密談がどうなったのかは分からない。が、時蔵あるいはひな夫人がその後、松竹演劇部へ出向いて、芝雀の東映映画への出演を打診したことは確かだろう。他社への敵対心の強い松竹のことだ。若手役者、それも襲名間もない前途有望な芝雀が、松竹ではなく、東映映画に出演することには難色を示したにちがいない。そこで、芝雀の東映出演の話は壊れた。
 先に引用した錦之助の文章には書いてないが、東映大泉へ芝雀は行かず、錦之助だけが一人で行ったのである。芝雀が映画に出ないとなれば、ついでに出そうというだけの錦之助に用はない。そこで、適当にあしらわれて、はい、サヨナラという結果になったわけだ。
 マキノ光雄も、錦之助におべんちゃらを言う程度で、見る目がなかった。しかし、ここで一度錦之助に会ったことが後で響いてくる。『笛吹童子』の時である。

 ともかく、映画出演の二度目のチャンスは逃げていった。錦之助はこう書いている。
 
――一度頂上まで登りつめた映画熱が一ぺんにへし折られたあと、僕は相変わらず無気力な気持を持ちながらも、カブキの修業はつづけていました。





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