錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『竜馬がゆく』(その四)

2006-06-23 00:00:53 | 幕末・竜馬がゆく

 『幕末』で錦之助の立ち回りは、寺田屋襲撃の場面一箇所しかないが、ここは迫力満点。右手に傷を負ってから、左手一本で行う刀さばきは、まるで丹下左膳のようだった。刀の重量感と斬殺のリアリティが伝わってくる。竜馬の護衛役の江原真二郎(槍を使う)も良い。二人で襲撃者たちに立ち向かい、狭い寺田屋の二階で斬り合うのだが、暗い部屋の壁や廊下の障子にスポットを当てたような照明を使ったのが効果的で、モノクロっぽい画面がかえって鮮やかだった。ここにはおりょうも居て、竜馬を手伝う。敵に裸を見せて、竜馬をかばう場面が有名である。三人はどうにか急場を逃れるのだが、この場面のシークエンスは、殺陣の切れ味もカット割りも素晴らしい。錦之助、江原、小百合の三者三様の動きも良いが、何と言っても伊藤大輔の演出の冴えが発揮されていて、感服した。
 
 最後に、テレビドラマ『竜馬がゆく』について少しだけ触れておこう。伊藤大輔が亡くなったのは昭和56年(1981年)だが、彼の残した脚本を基にして、この年の終わりに12時間ドラマ『竜馬ゆく』が制作される。錦之助はすでに改名し萬屋錦之介になっていた。このドラマは翌年(1982年)1月2日にテレビ東京で放映された。振り返れば24年も前だが、私はこのドラマを全部観たことをはっきり覚えている。先日、購入したビデオ5巻を二日がかりで全部観た。さすがにテレビドラマだと間延びしていて冗長な印象を受けたが、映画『幕末』で描かれた場面はそのまま踏襲していたが、それ以外の所は原作を忠実に再現していた。テレビの方が司馬遼の『竜馬がゆく』のイメージに近いなと感じた。ただ、惜しむらくは、錦之助が49歳で年をとり過ぎていたことだった。それに貫禄があり過ぎて、映画以上に他の男優陣を圧倒しているのが気になった。テレビドラマでは、共演者の年齢差、芸歴の幅が大きすぎて、錦之助のスケールの大きさに付いていけない印象が抜けなかった。たとえば、竜馬より実際には6歳年上の俊英武市半平太が伊吹吾郎では明らかに不釣り合いだし、亀山社中の同僚たちも出演者のレベルがぐっと落ちていた。
 テレビで錦之助に太刀打ちできる演技を見せたのは、岸田今日子の乙女(竜馬の姉)、淡島千景のお登勢(寺田屋の女将)と中村賀津雄の中岡慎太郎くらいだった。大谷直子のおりょうは熱演、あべ静江のお田鶴も奇麗で、若林豪の勝海舟と原田大二郎のまんじゅう屋長次郎も良かった。が、あとは見劣りする共演者が多かった。
 それとこのドラマには錦之助の息子(実子ではない)の島英津夫が新宮馬之助という大事な役をやっていたが、溌剌としていてなかなかの熱演だった。島英津夫には、母親の淡路恵子の協力を得て錦之介の死後出版した『親父の涙 萬屋錦之介』という本がある。その中に書いてあったが、この頃彼は、中村プロのため、そして義父錦之介に憧れ、いい役者になろうと一生懸命働いていたと言う。結局、中村プロは、ドラマ『竜馬がゆく』の放映の翌月、すなわち昭和57年(1982年)2月、不渡り手形を出して、あっけなく倒産してしまう。負債総額12億7千万円、経理担当者の使い込みと資金運用の乱脈が原因だったと言う。島英津夫の出演料(給料)も払われないどころか、萬屋一家は大借金と信用の失墜という大変な苦難を背負うことになった。
 思えば、映画『幕末』が中村プロの記念すべき映画第一作(中村プロは『祇園祭』の製作途中で設立されたので、錦之助自身は『祇園祭』が第一作だと言っている)、そしてドラマ『竜馬がゆく』は、突然の倒産によって、残念ながら中村プロの最後を飾る作品になってしまった。昭和57年は、錦之助にとって、まさに悲劇の幕開けだった。(完)



『竜馬がゆく』(その三)

2006-06-22 23:39:44 | 幕末・竜馬がゆく

 前回は『幕末』を少々けなし過ぎたようである。私はこの映画のビデオを実は三日間に三度観た。毎日一度ずつ観ていたわけだ。それでも飽きないで、十分鑑賞に耐え得るのだから、中身の濃い良い映画なのだろう、とも思っている。詰まらない映画なら、一度観てそれっきり(途中でビデオを巻き戻す最悪の映画すら多い、ただし錦之助の映画ではない)、ちょっと面白い映画でも、時を隔てず二度目観ると、ダレるものである。『幕末』は、二度、三度観ても、見方が投げやりになることもなく、緊張感を持続して観ることができた。なまじっか原作の『竜馬がゆく』を読んでいて、原作に思い入れがあるから、映画に失望したのだろう。原作と比較せず、先入観なしで映画そのものを鑑賞する態度も重要であると思う。
 
 『幕末』は、出演者が、(一名だけ除き)みな芸達者で、最高に近い演技をしている。錦之助の演技、セリフ回し、立ち回り、すべて申し分ない。この映画に出演した時、彼は37歳であったが、演技力はピークに達したまま、それを維持している。表情にやや暗い翳りが見えるのは、思いすごしかもしれないが、若い頃の元気と明るさがなくなっているのは残念に思う。また、貫禄がありすぎて、共演する男優陣を圧倒してしまうので、ほかの幕末の人物が小さく見えてしまう。錦之助に対抗できるのは、中岡慎太郎の仲代達也くらいなものだが、私はどうも仲代が好みでないため、演技はうまいと思うものの、どうしても魅力を感じない。この頃錦之助は仲代との共演を望んでいたようだが、二人の共演は、『幕末』より『地獄変』の方が火花を散らすようで良かったと思う。勝海舟の神山繁、西郷隆盛の小林桂樹も持ち味を発揮していて、好演だった。後藤象二郎の三船敏郎は、終わりの方にちょっと出て来るだけだが、いつものワンパターンで、面白味のない演技である。桂小五郎の御木本伸介も武市半平太の仲谷昇も良い。
 この映画は、女優陣が手薄で(江利チエミが端役だった)、目立った登場人物がおりょうしかいなかったが、紅一点の吉永小百合は素晴らしかった。この時、小百合は24歳だったが、けなげで一途なおりょうを見事に演じていた。竜馬が療養のため薩摩へ行くことになって、おまえも連れて行くから急いで支度しろと言われた時の、小百合の嬉しさを表した演技は出色だった。錦之助とのツーショット(高千穂の山頂の場面)もお似合いだった。小百合は新婚旅行から帰って来ると、眉を剃り、お歯黒になる。それでも美しいと感じるのは、私の欲目なのだろうか。
 『幕末』では、寺田屋のお登勢も出てこないし、おりょうとの馴れ初めも省かれている。家老の妹のお田鶴さまも千葉道場のさな子など、竜馬に思いを寄せる娘たちが登場しないのが私としては大いに不満だった。また、竜馬の姉の乙女も映画では出番が少なかった。(今回は原作と比較しないという約束だった!)
 そう、忘れてはいけない。まんじゅう屋長次郎を演じた中村賀津雄が相変わらずの大熱演で、すごく印象に残った。賀津雄はテレビドラマの方では、中岡慎太郎をやっているが、これも良かった。派手さはないが、さりげないように見えて、細かい芸が行き届いた素晴らしい演技だと感服した。(これは後年の賀津雄を観て、いつも感じる。)
 ところで、「(一名を除いて)みな芸達者」と書いたが、その一名を明らかにしておこう。それは、なぜこの映画に出たのか訳が分からないが、岡っ引きのちょい役で出た作家の野坂昭如だった。野坂昭如が大のサユリストであることは有名だが、小百合のおりょうが薩摩屋敷に駆け込もうとするところを捕まえて抱きかかえようとするのだが、竜馬の短銃に撃たれ、あえなく殺されてしまう。倒れた場所が水溜りで、みじめな死に際だったが、野坂のことだから、きっと喜んで出演したのだろう。そういえば、三島由紀夫も映画『人斬り』で(1969年公開。勝新太郎が岡田以蔵、石原裕次郎が竜馬を演じた五社英雄監督作品)、田中新兵衛役で出演したばかりだったので、きっと野坂もそれに対抗したのだろう。(つづく)



『竜馬がゆく』(その二)

2006-06-22 19:11:44 | 幕末・竜馬がゆく

 『幕末』のビデオを三度観て、12時間テレビドラマ『竜馬がゆく』のビデオを全編観た。目下司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を三十数年ぶりに再読している。ついでに、中公新書の『坂本龍馬』を読み、別冊歴史読本の『坂本龍馬の謎』を拾い読みし、これまた昔読んだ織田作之助の名作『蛍』(寺田屋お登勢の話)まで再読した。この一週間で、私の頭の中は坂本龍馬だらけになってしまった。当初は錦之助の竜馬について書こうと思って取り掛かったのだが、なんだか収拾がつかなくなってきた。もちろん、私は坂本龍馬の研究者になりたいわけではない。この辺で整理して、錦之助の竜馬に戻りたいと思う。

 坂本竜馬を演じた俳優は数多く、私の知る限りでは、錦之助のほかに、石原裕次郎、北大路欣也、原田芳雄、根津甚八が思い浮かぶ。(武田鉄矢もやっていたような気もするが、彼はどうでもいい。最近の上川隆也、市川染五郎を私は見ていない。)が、何と言っても、竜馬と言えば、錦之助のイメージが強かった。
 しかし、今回ビデオをじっくり観て、また本を読み直して、なぜか、司馬遼の竜馬は、錦之助より裕次郎の方が適役だったのではないかと思い始めている。私が感じた司馬遼の竜馬は、茫洋としてつかみ所がなく、自由奔放、大胆不敵、女にはオクテ、照れ屋、放浪癖があり、議論嫌いの行動派、ユーモラス、やや鈍感、無口、人情家、夢想家、新しい物好き、などなどである。一方、錦之助の竜馬は、シリアスで、ややニヒル、議論好きで、弁が立ち、熱血漢で、貫禄がある、などなどで、司馬遼の竜馬とはずいぶん違っている印象を受けた。それで、司馬遼の竜馬には裕次郎の方が近いと私は思った次第であるが、錦之助の竜馬が魅力的でないと言うわけでない。

 錦之助の演じた竜馬を見ていると、監督の伊藤大輔の影響が強く現れているように思う。彼のシナリオは、セリフが多く、センテンスも長く、やや文語調である。いや、講談調の美文と言った方が良いかもしれない。そして、人物の描き方はシリアスで、ユーモアの入り込む余地はない。悲劇的な人物を描くことを得意とし、それが伊藤大輔の特長でもある。『反逆児』を見ても分かるが、伊藤監督の映画はギリシャ悲劇のようで、彼が描きたいと思うテーマは、運命に翻弄される人間の悲劇と行き着く果てにある人間の死である。社会の疎外者である主人公が、時代の閉塞状況の中で生きる道を懸命に探す。が、道を切り開けないまま終わってしまう。彼はそこに人間の高貴さと美しさを見出しているようである。
 映画『幕末』を観ても、そうした伊藤大輔の特色が顕著に現れている。伊藤大輔が錦之助とともに造形した竜馬も、悲劇的な人物像に仕上がっているのだ。竜馬は、伊藤の解釈によれば、土佐藩を脱藩し、帰る場所のない疎外者である。七つの海を自由に航行するという理想を抱きながらも、最後はその望みを絶たれ、非業の死を遂げる。竜馬が暗殺される場面は、原作では二、三ページの付け足し程度に過ぎないのだが(司馬遼はいやいや書いている)、映画ではそこに至るラストシーンが延々30分近くにわたってみっちり描かれる。竜馬と中岡慎太郎(仲代達也)との対話シーンである。そして、二人の殺され方もリアル極まりない。
 この映画は確かに見ごたえはあるが、画調は暗く、全体的に陰惨さを感じる。同志(古谷一行)の切腹と、まんじゅう屋長次郎(中村賀津雄)自害のシーンを強調しすぎたからでもあろう。長編の原作をわずか二時間の映画に仕上げるのだから、登場人物や場面の思い切った取捨選択は仕方がない。とはいえ、映画のシナリオに選んだシーンは、伊藤大輔の偏った好みが出すぎていた。私はいくつかの場面を原作と比較してみたのだが、潤色を越えた内容の改変があり、伊藤の新解釈が随所に見られた。良い悪いかは別にして、これは、はっきり言って、原作の『竜馬がゆく』とはかけ離れている。原作は、明るく、希望にあふれ、男のロマンを満たしてくれるような青春ドラマである。また、だからこそこの小説が多くの日本人に読まれ、ベストセラーになったのだが、映画『幕末』にはそうした雰囲気はない。

 これはどこかで読んだ伊藤大輔自身の述懐であるが、時代小説作家の多くは、自分の小説を伊藤が監督して映画化するのを敬遠していたそうだ。なぜかと言うと、原作がまったく彼の個性で塗りつぶされた作品に変わってしまうからだという。『幕末』を観ると、その理由も十分理解できる。司馬遼太郎がどう思って、『竜馬がゆく』を伊藤大輔に預けたかどうかは知らないが、映画を観て、まったく違った作品になってしまったという感想を抱いたことは疑いない。『竜馬がゆく』の舞台公演と映画化については錦之助が司馬遼を説得したらしいが、時代劇の巨匠伊藤大輔が演出するなら、喜んで、と言ったかどうかは不明である。
 司馬遼は歌舞伎座の舞台は観ている。おりょうを演じた中村玉緒を楽屋に訪ね、「寝顔がきれいでしたね」と照れくさそうに褒めたそうだ。(文藝春秋刊「司馬遼太郎の世界」中村玉緒『おりょうを演じて』から)



『竜馬がゆく』(その一)

2006-06-20 21:47:30 | 幕末・竜馬がゆく

 錦之助が東映を辞めて、新たに挑んだ大役は坂本龍馬だった。龍馬という人物に渾身の情熱を注いだ。自らの生き様を龍馬になぞらえ、龍馬を演じることをライフワークの一つにした。錦之助は、35歳から40代終わりまでの間に、舞台、映画、テレビで龍馬を演じ続けている。錦之助がなぜこれほどまでに坂本龍馬という人物に打ち込んだのか、その理由も分からなくはない。この頃の錦之助の境遇と生き方が、今にして思えば、坂本龍馬のそれとダブって見えるような気がしないでもないからだ。
 司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の新聞連載が始まったのは昭和37年(1962年)夏で、それから四年にわたり連載は続くが、その間単行本が次々と出版され大ベストセラーになっていた。「竜馬ブーム」は日本中を席巻した。司馬遼太郎も一躍人気作家になった。ちょうど日本が昭和39年秋の東京オリンピックをはさんで、高度成長期のピークにある頃だった。それとは反比例的に、東映時代劇は衰退の一途をたどり、製作本数が激減するとともに、製作の主体がチャンバラ時代劇からヤクザ映画やエロ映画に移行していった。昭和40年(1965年)、錦之助は『巌流島の決闘』で「宮本武蔵」を完結させ、東映との年間契約出演作4本を半年で撮り終えると、昭和41年(1966年)5月、ついに東映を去ることになる。錦之助が東映を辞める決意をした最後の決め手は、大川博社長の「時代劇はもう作らない」という言葉だった。
 ちょうどこの頃錦之助は『竜馬がゆく』を読んで、竜馬(司馬遼太郎はフィクションの意図を込めて、あえてこの字をつかう)という幕末のヒーローに自分の姿をなぞらえ、是が非でもこの魅力的な人物を演じてみたいと感じたようだ。坂本竜馬は、封建的な体制の束縛を逃れ、土佐藩を脱藩する。錦之助が東映を辞めたのも、脱藩のようなものだった。東映城という企業の存続に四苦八苦する幹部やこの城に居残らざるを得ない同僚たちと袂を分かち、新たな活躍の場を求め、独立への道を選んだ。竜馬は下級武士や町人たちを集め、亀山社中という会社を作り、それが海援隊に発展するのだが、錦之助も日本映画復興協会を作り、さらには中村プロダクションを設立する。竜馬が同志の隊員とともに船出をしたのと同様、錦之助も息のかかったスタッフを集め、自主的な映画製作に乗り出す。しかし、その船出は幾度も嵐に見舞われ、困難を極めた。東映を辞めて二年あまり錦之助は映画を製作するどころか、他社の映画にも出演できなかった。それで、錦之助はテレビと舞台に活躍の場を移していた。東映を辞めて、『祇園祭』の企画製作に着手したが、この映画の完成までには二年もかかった。クランクインまでにいろいろな問題が持ち上がり、錦之助はその対応に追われたようである。その一つが監督の交替劇だった。鈴木尚之のシナリオを監督に予定されていた伊藤大輔が大幅に変更しようとしたことで、軋轢が生じ、伊藤は監督を降板、代わって山内鉄也がメガフォンをとった。ようやく『祇園祭』が完成し、洋画系列のロードショーの映画館で公開されたのは、昭和43年(1968年)11月のことだった。錦之助の姿が二年半ぶりにスクリーンに登場するとあって、錦之助ファンは映画館へ駆けつけた。もちろん、私もその一人で、高校1年だったが、渋谷パンテオン(渋谷東急だったかもしれない)で、封切りを観たのを覚えている。
 ところで、NHKの大河ドラマ『竜馬がゆく』が制作・放映されたのが、昭和43年(1968年)1月からで、竜馬を演じたのは北王路欣也、おりょうは浅丘ルリ子であった。このドラマは水木洋子の脚本で、途中から演出が和田勉に代ったりして、視聴率がなかなか上がらなかったようだが、私は欠かさず見ていた。浅丘ルリ子のおりょうに憧れていたのだった。あの頃は、明治百年ということもあって、幕末物が異常な人気を呼んでいた。なかでも『竜馬がゆく』はその代表だった。
 その間、錦之助は『竜馬がゆく』を舞台化しようと脚本を伊藤大輔に依頼していた。昭和43年(1968年)6月、歌舞伎座の錦之助の定期興行で、伊藤大輔の脚本・演出で、『竜馬がゆく』は上演された。その後、映画化の企画が、錦之助によって進められた。中村プロが東宝と提携し、映画『竜馬がゆく』の製作が始められたのは、翌年の昭和44年(1969年)だった。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を下敷きに、同じく伊藤大輔が脚色、自ら監督して作ることになった。共演者は当時の映画界のスターたちを集めた。吉永小百合、仲代達也、小林桂樹、三船敏郎ほか。映画の内容は原作とずいぶん隔たっていたし、伊藤監督の好みと特色がはっきり現れた作品になっていたからだろう。タイトルは、『竜馬がゆく』ではなく、『幕末』に変えられた。
 『幕末』は、昭和45年(1970年)2月、東宝系映画館で一斉に公開され、中村プロが企画製作した記念すべき映画になった