錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

久しぶりの『笛吹童子』

2019-06-23 21:57:21 | 笛吹童子


♬ヒャラーリ ヒャラリコ、ヒャリーコ ヒャラレロ 誰が吹くのか 不思議な笛だ♬
 ラピュタで『笛吹童子』(1954年)三部作を見てきた。10年ぶりにスクリーンで見たせいか、大変面白かった。さすがに一世を風靡した東映娯楽版の会心作だけあって、見どころ満載。低予算でセットも何も安っぽく、特撮も大したことはないのだが、そこがまた、味があって良い、なんて言ったら、褒め過ぎか。子供向けとはいえ、こんな冒険時代活劇をよく作ったよなあと思う。錦・千代、大友、月形の男優陣、高千穂、田代の女優陣のキャスティングもぴったり。脇役では千石規子がいい。個性的な人物がたくさん出て来て、ストーリーもテンポ良く展開していくので、飽きない。当時の少年少女は、NHKのラジオドラマをずっと愛聴していて、翌年映画化されるや、期待に胸膨らませて、映画館に行ったのだというが、みんなハラハラ、ドキドキしながら見たにちがいない。
 私は「笛吹童子世代」(1940年代生まれ)でなく、兄がそうだった。それで、父母に連れられて幼児の私(2歳)も見せられたらしいのだが、公開時の『笛吹童子』はまったく覚えていない。物心ついて見た『紅孔雀』はかすかに記憶があるのだが…。『笛吹童子』をちゃんと見たのはリバイバル上映(あるいはテレビ)で、小学生低学年の時だったと思う。
 まあ、そんなことはどうでもいいが、今回私が『笛吹童子』見た日(金曜)のラピュタはほぼ満員。70歳以上の「笛吹童子世代」のお客さんばかりだった。今の若い人が『笛吹童子』を初めて見たら、どう思うのだろうか。で、たまたまラピュタのスタッフの女性がいっしょに見ていたので、終わってから尋ねてみた。「ほんとに面白かった!見て良かった。とくに第二部はあっという間に見終わっちゃった」
嬉しくなった私は、彼女を喫茶店へ誘い、ケーキを御馳走した。





『笛吹童子』(その3)

2006-09-18 11:00:42 | 笛吹童子

 先週、池袋の映画館で、『笛吹童子』三部作を観たことはすでに書いた。その後、ビデオで全編見直し、よせばいいのに昨晩もう一度ぶっ通しで観てしまった。今、私の頭の中は、『笛吹童子』でいっぱいである。場面場面が浮んでは消え、消えては浮んで……、もう気が狂いそうなほど。
 霧の小次郎に扮した大友柳太朗の不敵な顔と、胡蝶尼役の高千穂ひづるの陽気な笑顔が頭の中を交錯している。「ウッワハッハハ」と笑う大友の太い声も耳から離れない。古井戸の前で唱える高千穂のおまじない、「出て来い、出て来い、上がって来い、魔法の柱を登って来い」という甲高い声も離れない。高千穂が長い髪を振って引っ張ると、井戸の底から、ざんばら髪の亡者のような斑鳩隼人(楠本健二)がぬーっと浮かび上がって来る。このシーンが二回か三回かあって、印象に強く残っている。魔法使いの婆さんの姿も夢に現れて来そうだ。鼻を高くするため粘土みたいなもの付けていたなー。この婆さんを演じたのは千石規子で、よくやったと感心する。

 錦之助のことも書かなくてはまずいだろう。菊丸である。だが、どうも印象が薄い。笛を吹いている涼しげな顔しか浮ばない。この映画の出演時、錦之助は21歳である。顔にあどけなさが残り、可愛らしさは感じるが、水もしたたるイイ男とまでは行っていない。男っぽさはなく、美少年でお小姓的である。とても成人した若者には見えないと思う。菊丸は、そのタイトル通り『笛吹童子』の主人公であるはずなのだが、この映画では脇役的存在になっていた。全篇を通じ、出番もそれほど多くなかった。錦之助の立ち回りもほとんどなかった。刀は最後に一度抜いただけである。菊丸は武士を捨て、平和回復のため、面作りに専念する。そういう設定だから、悪者に対しても手を出さなかったのだろう。笛を吹いたり、面を彫ったりしているだけで終わってしまった。『里見八犬伝』の犬飼現八の方がカッコ良かったと思う。ところで、菊丸が留学先の明の国で世話になったあの娘はどうしたのだろう。第一部に登場する面作りの先生の娘である。恋人だったのに、別れたきりになってしまった。錦之助が出て来て、すぐラブ・シーンもどきの場面があったのにはちょっと面食らったのだが……。
 萩丸の千代之介はもっと印象が薄い。思い出してみると、第二部には確か全然出て来なかったと思う。千代之介の印象的なシーンと言えば、やはり、しゃれこうべの面をかぶされて取れなくなった場面である。千代之介は、立ち回りが多かったが、下手だなーとつくづく思った。萩丸の千代之介はどうも個性がなかった。正直言って、『紅孔雀』の浮寝丸の方がずっと良かった。

 桔梗の田代百合子のことは、ご年配の隠れファンが多いので、変なことを書けない。『笛吹童子』を観た当時の少年たちのほとんどが一遍で熱烈な田代ファンになったことを私は知っている。純情可憐な桔梗役の田代をけなそうものなら、オールド・ファンに袋だたきにされそうで恐いが、私は彼女の緊縛シーンが目に焼きついている。この映画で桔梗は何度縛られたことだろう。三回、いや四回あった気がする。田代百合子は、どことなく陰影があり、マゾ的な雰囲気が漂うエロティックな女優さんだなーと私などは感じるのだが、賛同してくれる方がいるかどうか。斑鳩隼人が知らないふりをして、ムチで折檻するシーンがあるが、その時田代が身を屈めて、打たれるたびに悩ましい声を上げたところが私は忘れられない。また、霧の小次郎に嚇された時の、「堪忍して!」「助けて!」という声も耳にこびり付いている。
 『笛吹童子』の大きな魅力の一つは、陰性の田代百合子と陽性の高千穂ひづるの競演にあったと思う。高千穂ひづるは演技もうまいし、宝塚出身だけあって、輝いている。それに対し、田代百合子はいかにもシロウトっぽく、控え目で、そこがまた良かったのかもしれない。

 桔梗の父親、上月右門役の清川荘司の間抜けぶりも妙に頭に浮かんでくる。漂流して無人島に潜んでいたり、しゃれこうべの面をかぶった主君の萩丸を谷底に突き落としたり、満月城の抜け道に隠れていて萩丸に襲い掛かったり、馬鹿さ加減に飽きれてしまう。演技も下手。だが、ちょこちょこ登場するので、目に付く。女房役の松浦筑枝は、さすがにうまかった。堂々とした所作と落ち着いたセリフ回しに感心した。息子の上月左源太に扮した島田照夫(その後片岡栄二郎と改名)は、父親役の清川荘司に負けず、頼りなかった。第一部で母親の松浦に命令され、援軍を頼みに行くのだが、そのままどこかへ行ってしまい、第二部は登場せず。第三部の終わりでやっと現れたと思ったら、白鳥党に入っていた。

 『笛吹童子』三部作は、はっきり言って、幼稚で矛盾だらけのストーリーだった。しかし、幻想的なロマンに溢れたこの冒険活劇は、戦後の窮乏時代に育った子供たちに夢と憧れを与え、一世を風靡することになった。今この映画を観ると、奇想天外、荒唐無稽を通り越して、バカバカしいと思われる部分も多い。今の若い人や子供たちがこの映画を観たら、どんな感想を述べるだろうか。もしかすると漫画の方がずっと面白いと言うかもしれない。私自身、前にも書いたように、この映画をリアルタイムで観て感動したわけではないので、懐かしい思い出を込めてこの映画について熱っぽく語ることができない。昔も今も変わらない初恋の人に再会した時のような気持ちにはどうしてもなれないのだ。かといって、この映画を生まれて初めて観た若い人のように、時代背景を抜きにして、まったく新鮮な気持ちで感想を述べ、面白がったり、馬鹿にしたりすることもできない。そんなわけで、支離滅裂な感想になってしまったかもしれないが、お許し願いたい。



『笛吹童子』(その2)

2006-09-17 10:44:56 | 笛吹童子

 『笛吹童子』がなぜこれほどの人気を呼んだかに関してはいくつかの理由があると思う。が、一番大きな理由は、『笛吹童子』が映画化される前に、ラジオドラマとしてすでに絶大な人気を得ていたことである。まずこれが大きかった。黙っていても観客が呼べる条件が整っていたからだ。そして、中村錦之助と東千代之介という二人のフレッシュで魅力溢れる美男俳優が出演していたことが爆発的な人気を確定した。もちろん、この映画が若い観客の期待に応え、ハラハラドキドキの連続で、非常に面白かったことも大きい。

 ご存知の方も多いと思うが、『笛吹童子』は、『新諸国物語』というシリーズの中の一作である。原作者は北村寿夫(1895~1982)で、劇作家の小山内薫に見出されて以来、映画やラジオドラマの脚本を戦前から手がけていた作家だった。彼は児童文学も書いていた。森鴎外の翻訳集に『諸国物語』という作品があるが、これは西洋諸国の冒険話で、北村の『新諸国物語』は昔の日本各地の冒険話である。これには、『笛吹童子』のほかに、『白鳥の騎士』『紅孔雀』『オテナの塔』『七つの誓い』『天の鶯(うぐいす)『黄金孔雀城』が含まれている。すべてラジオドラマ化され、映画化されたが、『新諸国物語』シリーズの第一作『白鳥の騎士』が初めてラジオで放送されたのは昭和27年(1952年)のことだった。NHKの連続ラジオドラマで、夕方15分間、月曜から金曜まで毎日放送された。『白鳥の騎士』はそこそこの人気だったようだが、翌昭和28年1月から『笛吹童子』が放送され始めると、一大センセーションを巻き起こした。
 主題歌が良かったこともある。「ヒャラーリ ヒャラリコ、ヒャリーコ ヒャラレロ、誰が吹くのか、ふしぎな笛だ」で始まるあの有名な曲である。原作者の北村寿夫が作詞したが、何と言っても尺八の名手福田蘭童(1905~1976)が作曲した哀愁に満ちたメロディーが胸に沁みた。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html
<「笛吹童子」のメロディが検索できます>
 子供たちは皆心躍らせ、ラジオの前に坐り込み、耳をそばだててドラマを聴き入った。(もちろん、これは母や兄や先輩諸氏から聞いた話で、私はラジオドラマで育った世代ではない。『赤銅鈴之助』を聴いていた覚えはあるが、東映の子供映画と漫画の月刊誌で育ち、テレビが家庭に備わってからは『月光仮面』『七色仮面』などが憧れのヒーローだった。NHKテレビの『ちろりん村とくるみの木』などはバカにして見ていなかった。)
 福田蘭童のことに少し触れておこう。彼は、明治の天才洋画家青木繁の遺児で、幼少の頃に母子を捨てた父とは死別し、母とも生き別れて、不幸な少年時代を過ごしたようである。そんな孤独感もあってか、彼は尺八奏者となり、作曲家としても一躍名を上げた。そして、昭和8年、当時人気絶頂だった映画女優川崎弘子と恋愛結婚する。二人の間に生まれたのが石橋エータロー(クレージーキャッツの一員で、ピアニスト)だった。
 ラジオドラマ『笛吹童子』は、昭和28年の大晦日まで続き、大好評のうちに終了する。その後昭和29年正月から始まったのが『紅孔雀』である。

 さて、東映がこの『笛吹童子』の映画製作権をいつ取ったのかは不明だが、製作に本格的に乗り出したのは、昭和29年春だった。主人公の萩丸、菊丸を誰にするかしばらく迷っていたらしいが、初めに東千代之介が決まり、次に中村錦之助に白羽の矢が立ったようである。その頃東映には、子供や若い女性を呼べる青年の人気スターがいなかった。千代之介は昭和29年初めに東映に入社し、デビュー作『雪之丞変化』も決まって、撮影に入っていた。錦之助はといえば、昭和28年11月に歌舞伎界から美空ひばりの相手役として新芸プロの福島通人社長にスカウトされ、すでに松竹映画『ひよどり草紙』(昭和29年2月公開)でひばりと共演し、映画デビューを飾っている。錦之助の映画出演第二作が新東宝の『花吹雪御存じ七人男』(昭和29年3月公開)で、その撮影終了後に福島社長が錦之助に出演の依頼をしてきたのが、東映の『笛吹童子』だった。錦之助は二つ返事で、出演を引き受けたと言う。ただ、ラジオドラマの『笛吹童子』のことはまったく知らなかったらしい。萩丸と菊丸のどちらがやりたいかという福島の質問に対し、笛を吹くのは菊丸だと聞き、錦之助は即座に菊丸がやりたいと答えたようだ。「笛吹童子」の菊丸の方が主役だと思ったからだった。
 
 ところで、東映社長大川博の随想集『この一番』を読むと、昭和26年4月東映設立当初からの苦しい経営事情が書かれていて興味深い。大川博の赤字打開策は、次の三つだった。第一に、東映の専属の映画館を全国に増やすこと。第二に、そこでは東映の映画を毎週二本立てで上映すること。第三に、一本は長編の大作にして、もう一本は、子供ないし若年層向きの中篇映画にすることだった。大川博は、第三の計画を達成するために当時東映の辣腕プロデューサーであったマキノ光雄に若手スターの急遽育成を指示する。
 昭和28年頃から第一と第二の計画は軌道に乗り始めた。が、週替わりの二本立てといっても昭和28年度は二本立てのうちの一本はリバイバル上映だった。また若い観客を呼べる若手スターは育っていなかった。新作二本立て体制が整い始めるのは昭和29年からで、それを確実にしたのが5月に『笛吹童子』が大ヒットしたことだった。錦・千代ブームが起こって初めて、東映はプログラム・ピクチャーの量産体制に入ったのである。データを見ると、昭和28年度が57作品だったのに対し、昭和29年度は103作品になり、ほぼ倍増したことになる。当初、子供向けに作られた中編映画は、大人向けの長編映画の添え物に過ぎなかった。しかし、これが観客動員を飛躍的に増やす決め手となった。東映の目算は予想を超えて、当たった。東映はジャリ集めの映画を作って儲けているといった非難を映画界から浴びたが、あっという間に、他の映画会社を追い抜き、三国一の映画王国を築いてしまう。
 
 『笛吹童子』三部作と共に封切られたメインの映画は、『悪魔が来りて笛を吹く』(横溝正史原作、松田定次監督、片岡千恵蔵主演)、『唄しぐれ おしどり若衆』(佐々木康監督、美空ひばり、中村錦之助主演)、『鳴門秘帖』(吉川英治原作、渡辺邦男監督、市川右太衛門主演)だった。注目すべきは、『笛吹童子』第二部と併映されたのが、ひばりと錦之助が共演した映画だったことである。錦之助は『唄しぐれ おしどり若衆』を『笛吹童子』の前に撮影し終えていたようだ。昭和29年のこどもの日は、東映の全国の封切館に錦之助の映画が2本並んだことになる。東映がいかに錦之助を売り出そうと力を入れていたかが分かる。錦之助の名前は、錦(にしき)の鯉のぼりのように五月の空高く舞い上がったわけである。(つづく)



『笛吹童子』(その1)

2006-09-17 04:39:54 | 笛吹童子

 中村錦之助の名前を一躍日本中に知らしめた映画と言えば、まさにこれである。
 東映映画『笛吹童子』第一部が封切られたのは昭和29年4月27日、ゴールデンウイークに入る直前のことだった。『笛吹童子』は封切られるやいなや爆発的人気を呼んだ。続いて第二部が同年5月3日、第三部が5月10日に封切られた。連続ものの三部作で、一週間に一作ずつ上映されて行った。そして、これが爆発的人気をさらに爆発的にした。
 日本中のどれほどの多くの少年少女がこの映画を観に行ったのだろう。その数は分からないが、数百万人に上ったに違いない。観客は、昭和29年当時の小・中学生が中心だったが、幼児や高校生も含まれていた。年代的に言えば、昭和10年代後半から昭和20年代初めに生まれた子供たち。こんなことを言っては悪いが、戦争中ないしは戦後直後のドサクサまぎれに生まれた子供たちである。現在の年齢なら、70歳から60歳くらいまでの間の人たちで、いわゆる「団塊の世代」(昭和22・23年生まれ、戦後のベビー・ブーム世代)より数歳上の世代である。
 かく言う私は、彼らに比べてずっと若く、サンフランシスコ講和条約が公布され日本がアメリカの占領時代を終えた昭和27年4月生まれなので、もちろんリアルタイムで『笛吹童子』を観ていない。物心つくかつかぬうちに東映映画の洗礼を受け、錦之助の大ファンになったとはいえ、覚えのあるのは『紅孔雀』からである。ただ、七歳年上の私の兄が、『笛吹童子』からずっと東映映画のファンだったので、幼い頃の私は兄の影響をもろに受けて育った。
 赤ん坊時代が終わると私も両親と兄に連れられて、東映の映画館に行き始めたようだ。そのうち兄よりも熱心な東映ファンになってしまい、休日に父と二人だけで観に行くようになった。目黒駅のそばに多分東映の映画館があったのだろう。もしかすると五反田だったかもしれないが、映画館が大変混んでいて座席が取れないと、よく通路に坐って観ていた記憶と、映画を観た後、父と二人で目黒の権之助坂をてくてく歩いて中目黒の自宅へ帰って来た記憶が断片的に残っている。権之助坂の途中におもちゃ屋があって、そこで刀やメンコを買ってもらったこともよく覚えている。
 当時のガキたちは、チャンバラ映画を観ては、庭や空き地で刀を振り回して遊んでいた。アイドルの錦之助はたいてい柄のある派手な着物を着ていた。そこで、私も真似た。それには、押入れにあるお客用の布団を包んでいた大風呂敷が最適だった。濃い緑色の地に白い唐草模様があるヤツである。私はそれを引きはがし、肩からかぶって、チャンバラごっこをしていた。きっと私は『紅孔雀』の「那智の小天狗」に成りすましていたのだろう。この仮の衣装を泥だらけにしたり、破いたりして、母にこっぴどく叱られたこともあったと思う。

 『笛吹童子』の話に戻そう。この映画、封切りではなかったが、大昔にどこかで観たような気がする。映画館で再映された時だったかもしれないし、テレビで放映された時かもしれない。子供の私にとって『笛吹童子』は、先輩たちから語り継がれた伝説の映画で、観たい映画のナンバーワンだったはずである。だから、きっと観たのだと思う。実は、この間、それこそ50年ぶりに『笛吹童子』第一部のビデオを観て、見覚えのあるシーンが二、三あったのには驚いた。萩丸(東千代之介)が悪者にどくろの面をかぶされて、取れなくなってしまうシーンと、最後に霧の小次郎(大友柳太朗)が竜に乗って現れ、処刑寸前の娘(田代百合子)をさらって行くシーンである。小次郎が雲の上でワッハッハと大声で笑う場面がカッコ良く、記憶に鮮やかだった。
 そして、先週の月曜、池袋の新文芸座で『笛吹童子』三部作を一挙上映するというので、観に行った。昼からの二回目だったが、大入りとは行かぬまでも、百数十人の観客がいた。ほとんどは60歳以上のシニアで、男性と女性が半々だった。夜の部はもっと多くの観客が詰め掛けたと思う。多分若い男女も混じっていたことだろう。私は一回だけ観て、映画館で出会った知り合いの男性と飲みに行ってしまったのだが、彼(65歳)は、朝から二回観たとのことだった。近くに座っていた老婦人など、三回観てから帰ると言っていた。スクリーンで『笛吹童子』を観られる機会は死ぬまでないかもしれない---そんな悲壮な思いを抱いてここへ観に来た人たちも数多く居たようだった。(つづく)