錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『源氏九郎颯爽記』(その一)

2007-08-17 13:02:29 | 源氏九郎颯爽記・剣は知っていた
 「姓は源氏、名は九郎――おぼえておいてくれとはたのまぬ。」
 真っ白けの姿で現れた錦ちゃんの源氏九郎、カッコ良かったなー。

 「見っ、見たぞ!秘剣揚羽蝶!」
 両腕を左右に水平に伸ばし、両手に持った大刀と小刀を垂直に立てる。
 
 ガキの頃、昆虫採集に凝り、蝶々ばかり追いかけていた私は、この「揚羽蝶」という構えが気に入った。真っ白いアゲハチョウなんかいないから、あれは大きなモンシロチョウだと思った。でも、「秘剣紋白蝶」では弱そうだ。
 源氏九郎という名前も、錦之助のあの白いイメージも、ガキの私(五歳だったようだ)の小さな頭にインプットされた。今思い出すと、あの頃、『源氏九郎颯爽記』の第一部「濡れ髪二刀流」を観たのか、第二部「白狐二刀流」を観たのか、それとも両方観たのか、まったく覚えていない。ただただ、錦ちゃんの源氏九郎は最高にカッコ良いし、いちばん強いと信じていた。
 第三部「秘剣揚羽の蝶」は、予告編を観て、錦ちゃんがまた源氏九郎をやるというので、封切られると勇んで観に行ったことを憶えている。そして、目の玉が飛び出るほど驚いた。お姫様の大川恵子が真っ裸になったからだ。(あれが吹き替えだと分かったのは後年のことで、私はずっと大川恵子だと思っていた。お笑いください。)殿様の寝間に入っていく時である。後姿だけだが、立ったまま着物を脱いで、全裸になったあのシーンは、瞼に焼き付いた。映画で、女性のヌードを見たのはあれが初めてだったから、驚いたのも当たり前である。エロ映画(?)初体験だった。第三部は、調べてみると、昭和37年3月封切りということだから、私は小学3年生の終わりだったようだ。性に目覚め始めた頃なのだろうか。学校では女の子のスカートめくりばかりやって、担任の先生に何度か直訴されていた。その後、四十数年、このエロチックなシーンと錦之助のカッコいい剣さばきだけは鮮明に記憶していた。が、その他の内容はほとんど全部忘れてしまっていた。

 『源氏九郎颯爽記』三部作をビデオですべて見直したのは、昨年の春からのことで、間をあけてそれぞれ三度ずつ観たのだが、どれもまあまあだなーと思っていた。第三部のあの全裸シーンも確認した。ほんの一瞬で、たいしたことなかった。思い出にしまっておけば良かったと後悔した。それに、錦之助は、美剣士よりもむしろ、やくざとか、太助のような江戸っ子とか、武将とか、殿様とかの方がいいなーと感じた。だから、このブログでも取り上げなかった。
 それが、昨年の暮、渋谷の映画館で、第三部「秘剣揚羽の蝶」をスクリーンで観て、考え方が変わった。子供の頃観て感じたのと同じように、錦之助の源氏九郎の魅力に引き付けられたのだった。それで、別の日にもう一度観に行った。やはり、ビデオで観るのとスクリーンで観るのとは大違いで、陶酔感が違う!

 今年の五月に京橋のフィルムセンターで、第一部「濡れ髪二刀流」を上映するというので、私はいそいそと観に行った。この映画にもしびれた。源氏九郎を満喫することができたのである。もう一回上映日があったので、その間に柴田錬三郎の原作を読んだ。これまた面白く、錦之助のイメージそのままだと思った。第一部「濡れ髪二刀流」は加藤泰監督の映画であるが、錦之助主演の彼の映画では、『風と女と旅鴉』『瞼の母』『沓掛時次郎』といった股旅物が断然好きで、どちらかと言うと、『源氏九郎颯爽記』二作は敬遠していた。それが、「濡れ髪二刀流」を二度スクリーンで観て、この映画も加藤泰らしさが所々に発揮されていて、面白い映画であると再認識した。第二部「白狐二刀流」だけは、まだスクリーンで観ていないのが残念である。仕方がないので、スクリーンで観たらどうかなと想像しながら、部屋を真っ暗にして今年に入って二度ビデオ鑑賞した。錦之助だけについて言うなら、第二部の源氏九郎がいちばん輝いている、と今私は思っている。
 
 今回は前置きということにして、これから順番に『源氏九郎颯爽記』三部作について書いていこうと思う。(つづく)



『美男城』(その3)

2007-08-16 13:47:02 | 美男城
 『美男城』には、主馬之介を慕う三人の女が登場する。美尾姫、千草、朝路である。映画では、この三人の女に東映城の三人娘、大川恵子、桜町弘子、丘さとみを振り当てていた。が、惜しむらくは、主馬之介をめぐる女たちの描き方が不十分で、問題だった。原作ではこの三人は、それぞれ悲劇のヒロインなのだが、映画ではほとんどその悲劇性が描き切れておらず、単なる飾り物にすぎなくしてしまった。脚本を書いたのは成沢昌茂だったが、あれほど男女の濃密な関係をリアルに描けるライターが、どういうわけか、安易な妥協をしてしまい、脚本を東映娯楽調に合わせてしまったとしか思えない。監督佐々木康の演出も、この三人のヒロインに関しては、中途半端だったと思う。

 まず、大川恵子の美尾姫は、役柄が不向きで、セリフに違和感を覚えた。美尾姫は、小早川秀秋の妹なのだが、秀秋が家康に忠誠を誓うため、家康のもとに側女(そばめ)として送られるという設定になっている。美尾姫は美女でも高慢で気が強く男勝りなところがあり、だから戦場で鎧を身に着けているわけである。映画の最初に出て来る大川恵子の鎧姿は、可愛らしい桃太郎さんみたいで良かったが、大阪方の落ち武者に襲われ、危いところを主馬之介に救われ、一目惚れしてしまう。原作では、輿入れの途中、美尾姫は逃走し、主馬之介を追いかける。そして、須藤頼之助(主馬之介の幼友達で、初恋の人・千草の兄)に犯され、純潔を失って、泣く泣く主馬之介を諦めることになっている。
 この辺の経緯を映画ではすべて省略していた。まさか大川恵子にそんな役をさせるわけにもいかず、適当に筋立てを変え、彼女が出番の場面では、出来るだけ引き立てていた。美尾姫が、お付きの女中と風呂場へ行く場面があった。浴室で着物を一枚脱いで、さあ次は、と思ったら、ふところに入れておいた主馬之介の印籠(救われた時に拾ったもの)を落としてしまう。それを拾い上げ、思い入れがあって、ハイ終わり。多分ファンサービスのつもりだったのだろうが、これではどうも物足りない。頼之助の屋敷の牢屋に閉じ込められた主馬之介を美尾姫が逃がしてやる場面も、ちょっとお粗末だった。「毒を盛ったのは千草です」と千草への嫉妬心からウソをつくのだが、主馬之介が美尾姫に毒の一件を尋ねること自体もおかしいが、それより、美尾姫が「わたしといっしょに逃げて!」と泣きながら懇願するくらいのことがなければ、納得がいかない。そのほか、まだ家康の側女になってもいないのに、美尾姫がそれを盾にいろいろ指示を出すのも変だった。
 
 桜町弘子の千草は、三人の中ではいちばん良い役であった。錦之助とのラブシーンも彼女がお相手をしていた。ラブシーンといっても着物を着たままでただ抱き合うだけだが、観ていると、錦之助と差し向かえに坐っていた桜町弘子の方が、感極まりすごい勢いで錦之助の胸元に身を投げ込んだのには驚いた。1メートル以上空間移動したのではあるまいか。千草は主馬之介の初恋の人であり、また許嫁同然の間柄だったが、主馬之介が八年前出奔してから、二人はずっと会えなかった。主馬之介は千草の兄・頼之助(徳大寺伸)に誘われて、千草に会いに行ったのである。しかし、頼之助は自分の栄達に目がくらみ、邪魔者の主馬之介を殺そうとする。千草は兄の策略にはまり、久しぶりに会った主馬之介に毒入りの酒を飲ませてしまう。
 千草は、原作では、兄の言いなりになる小心者の乙女として描かれているが、原作でも性格描写があいまいだったと思う。結局、朝路を愛し始めた主馬之介に見捨てられてしまうのだが、映画での千草は、主馬之介とのラブシーンもあり、桜町弘子の熱演もあって、主馬之介との相思相愛状態を崩さないまま、ずっと保っていた。それが、ラストで、主馬之介が兄を斬ったことで、破局を迎えてしまう。千草は、兄の菩提を弔うために寺に入ると言い、主馬之介は、千草の兄を殺してしまったことを後悔し、千草と別れる決心をする。最後は、千草に見送られながら、主馬之介は宗太郎と従者(多次郎)を連れて、廃墟の城を去っていく。ここで、映画はエンドマーク。が、第三の女性・朝路を登場させなければ、こうした終わり方も良かっただろうし、主馬之介と千草との恋愛と別離を本筋に据えて、ストーリーの構成上、矛盾もなかったと思う。問題は、丘さとみの演じた朝路の扱い方がまったく中途半端だったことである。朝路を思い切ってもっと軽い役にするか、原作のように重要な役として扱うなら、場面を増やし、もっと忠実に描かなければならなかったと思う。

 原作を読むとわかるのだが、『美男城』の重要なテーマの一つは、主馬之介と朝路の主従関係を越えた異性愛だった。朝路は、身寄りのない孤児で、幼い頃に日坂の城に雇われ、一所懸命に働いてきた下女である。城以外に棲家のない猫のような美しい娘であり、純真で一途、城中の雑用に日夜専念することしか知らない哀れな娘なのである。城主・伊能盛政(主馬之介の父)が、家臣に背かれ、乱心して城に火を放った後も、朝路は一人だけ城にとどまり、焼けただれて無残な姿に変わり果てた盛政を守り、その世話をしていた。廃墟のあちこちに罠を仕掛け、敵の侵入を防いでいたが、盛政は遺言を残し、死んでしまう。(映画では、主馬之介と会うまで生きていた。)主馬之介は、城に帰って来て、朝路に出会う。その時、朝路から父の遺言を聞き、自分の出生の秘密と父の裏切りの理由を知るのである。(それについては映画を観るか、原作を読んでいただきたい。)ここまでは、映画もそれほど原作と変わりない。
 しかし、原作では、終章に、主馬之介と朝路との廃墟の城での同棲生活が描かれている。そして、朝路の献身的な世話に、主馬之介は心を打たれ、彼女をいたわり、彼女が好きになっていく。この過程が、泣けるほど感動的なのだが、映画はこの部分とそれ以下を省いてしまった。ある夜、主馬之介は朝路と関係を持ち、妻にしようと心に誓う。主馬之介は、父の汚名を晴らすため家康に会いに行く。留守中、孤児の宗太郎が訪ねて来て、彼も城に住み着く。しかし、主馬之介が帰って来るというその当日、城が頼之助の一派に襲われ、朝路は頼之助が投げ放った槍を背中に受け、崖から落ちて死んでしまう。主馬之介は、頼之助を斬り殺す。そして、朝路の遺骸を渓流で発見し、城の地中に埋葬する。その後、主馬之介と宗太郎は城を去っていく。これが原作のラストである。

 すでに出来上がっている映画、それも48年前に公開された映画の荒さがしをしても意味はないが、原作が優れていて、しかも錦之助の御堂主馬之介が素晴らしいだけに、残念でならない。丘さとみも可哀相だった。

 ここから先はお読みにならなくても結構だが、私ならこの映画を以下のように作り直したいと思っている。
 千草と主馬之介のラブシーンはカット。ラブシーンは、最後の方に回し、朝路と主馬之介のシーンに代える。
 主馬之介たちが父の亡骸を菩提寺に運ぶシーン、坊主(三島雅夫)が登場するシーン、主馬之介たちを取り囲む群集シーンはカット。その代わりに、主馬之介と朝路との廃墟での生活のシーンをいくつか入れる。ラブシーンもここに挿入する。途中で宗太郎を加えてもよい。
 ラストで千草は登場させない。多次郎も出さない。父の日記を焼くシーンもカット。
 主馬之介と宗太郎が朝路の墓を掘って、埋葬し、二人で城を去っていく。これは夕日の中が良いだろう。そこでエンドマーク。(2019年2月4日一部改稿)



『美男城』(その2)

2007-08-15 12:29:20 | 美男城
 御堂主馬之介を観ていると、この頃錦之助は悲劇の主人公の演じ方を完全にマスターしていたのではないかと思えてくる。
 錦之助は、殿様からやくざまで、悲劇・喜劇を問わず、さまざまな役柄を演じているが、悲劇の主人公に限って言えば、錦之助が演じた最高の役は、殿様なら『忠臣蔵』の浅野内匠頭、武将なら『反逆児』の岡崎三郎信康、剣士ならこの御堂主馬之介ということになると思う。
 錦之助の浅野内匠頭は、これはもう絶品で、「忠臣蔵」の映画史上最高の内匠頭だと私は信じて疑わないが、愛惜の念が悲哀に変わり、さらに諦念に変わっていく心の推移の表わし方が実に秀逸だった。悲劇の名君は、こうやって演じるんだ!というお手本みたいな演技だったと思う。錦之助が内匠頭を演じたオールスター映画の『忠臣蔵』(昭和34年正月公開)は、『美男城』の直前に製作された映画であり、錦之助にとっては重要な転機になった作品だったのかもしれない。
 『反逆児』の信康は、激情的で、感情があふれ出る時もあるが、それが静まった時の悲哀に満ちた表情が印象的で私の頭に焼きついている。ラストの切腹シーンは、言語に絶する描写だった。『反逆児』(昭和36年)は、伊藤大輔監督の脚本・演出の凄さと、錦之助の成熟した演技がスパークし燃え上がった作品だった。戦後の時代劇史上、悲劇ではナンバーワンの傑作と言うべきものである。
 『美男城』は、『反逆児』の二年前に作られた映画であるが、錦之助の御堂主馬之介は、役柄こそ違うが、『反逆児』の三郎信康に通じるような演技をしていたと感じる。もし伊藤大輔が監督して『美男城』を作ったら、どんな映画ができただろう、と私は思うことがある。『美男城』のテーマは、いかにも伊藤大輔が好みそうな悲劇的なテーマだからである。伊藤大輔は『反逆児』を作り、さらに錦之助主演で柴田錬三郎原作の『源氏九郎颯爽記』第三部をいわば換骨奪胎して脚色・監督しているが、今思えば、柴田錬三郎の作品を映画化するなら『美男城』の方がずっと伊藤大輔に向いていたと言えるだろう。逆に、『美男城』を監督した佐々木康は、どちらかと言えば通俗的で娯楽性の高い『源氏九郎颯爽記』を作った方が、痛快で面白い映画ができたのではないかと思う。
 まあ、そんなことを言っても、今更始まらないことで、伊藤大輔は昭和30年代半ばまでは大映にいて、市川雷蔵の映画などを撮っていたわけで、彼が東映に移り錦之助と出会って、傑作『反逆児』を作った奇跡的幸運を喜ぶべきであろう。

 御堂主馬之介に戻ろう。主馬之介は、孤独感が強く、美剣士というより、むしろ憂愁の剣士であった。心に耐えがたい苦しみを抱え、愛情に飢えながらさまよっている。苦しみの原因は、父親への憎悪であり、許嫁の女性への断ちがたい恋慕の情だったが、父親を殺して自分も自害しようと決意するところから悲劇が始まる。錦之助は、主人公の複雑な心境やこうした心の葛藤を見事に表現していた。
 これは、内匠頭、信康、主馬之介といった悲劇の主人公に共通して言えることだが、三つの役柄の特徴あるいは魅力は、「貴公子の悲哀」といったものである。
 「悲哀」というのは、行き場のない愛情の屈折した表出であると私は思うのだが、注ぎたいと思う愛情を注げない時の孤独感や失望感が悲哀になって現れるのだと言えるだろう。別の見方をすれば、悲哀は、未練とか心残りとかいった生へ執着が薄れかかる寸前に生じる表情とも言えよう。内匠頭も信康も主馬之介も、エリートないしはエリート候補である。それに、まだ若い美青年である。ここが肝心で、悲劇性を一層高め、純度の濃いものにするわけである。「庶民の悲哀」や「やくざ者の悲哀」や「老人の悲哀」とは、質が違うのである。そして、「貴公子の悲哀」を素晴らしく表現できる俳優は、この頃の若い錦之助をおいて他にいなかったし、今後も現れない、と私は思っている。
 だいたい、「悲哀」を自然に表現できる俳優ですら、そうざらにはいない。渥美清はその一人だと思うが、彼は「庶民の悲哀」を表現できる俳優だったと言えよう。「貴公子の悲哀」と言えば、ある人たちは市川雷蔵が思い浮かべるかもしれないが、雷蔵は孤独感の方が強く出て、硬質で近寄りがたい冷たさを感じる。悲哀というより悲愴感が漂っている。それが雷蔵の魅力であり、「眠狂四郎」には彼のそうした魅力が存分に発揮されていたと思う。眠狂四郎は、ニヒルな剣士であり、ニヒルというのは生への執着がなく、非人間的な生き方をしている。だから、女に恋することなどもなく、平気で女を犯すし、場合によっては女を殺すことさえある。そんな役は、錦之助には似合わない。柴田錬三郎が描いた主人公では、甘さの残る、源氏九郎、眉殿喬之介、御堂主馬之介の方が錦之助にはぴったりだったと言えよう。

 錦之助を観ていて私がいつも思うことは、錦之助という俳優は感情表現が実に豊かで抜群にうまいということである。うまいというと何か技巧的な演技を思わせるが、そうではなく、役に成りきって、主人公の心の持ちようを、表情だけでなく、しぐさや身振りを含め、体全体で現わすことができるということである。しかも錦之助は、主人公の微妙な感情やその心の揺れまでを表現しようと試み、また実際に表現できている。
 さらに凄いと思うのは、こうした演技のコツを錦之助は二十四、五歳でマスターしたことである。舞台俳優や歌舞伎役者ならそうした人もいたかもしれないが、映画俳優では稀である。主演級のスターでは、錦之助一人だと思う。それに、映画は舞台とは違い、大画面に全身をさらけ出さなければならないし、顔のアップも多い。映画では、演技の稚拙さやわざとらしさがすぐ目に付いてしまう。若い頃の錦之助を観ていると、完全に役にはまって演じているので、主人公と錦之助が一体化して、区別が付かなくなってしまう。場面によっては、ややオーバーアクションだなと思うことはあるが、わざとらしさは感じない。錦之助が主人公の激しい感情を表現している時には観ているこちらも心を激しく揺さぶられ、錦之助が微笑や悲哀や恥じらいの表情を浮かべている時には、うっとりと見惚れてしまう。要するに、錦之助は強弱の感情の表現が天才的にうまいのである。

 
 話が長くなった上に、『美男城』から錦之助の俳優論に逸れてしまった。が、今回はこれでお許し願いたい。(2019年2月4日改稿)



『美男城』(その1)

2007-08-13 13:16:32 | 美男城


 何とも奇抜なタイトルである。が、『美男城』といっても、お城に住む美しい王子様のロマンスではない。確かに「美男」も「城」も出て来るが、タイトルからは想像もつかないような、すさまじい悲劇である。近親憎悪、裏切り、謀反、乱心、悲恋などがテーマの時代劇なのだ。
 原作は、柴田錬三郎の同名の時代小説で、「剣は知っていた」に続く戦国物三部作の第二作である。「剣は知っていた」は、関が原の戦いでの主人公の眉殿喬之介らしき者の活躍を伝える挿話で終わったが(映画では描かれていない)、それに続き、『美男城』は関が原の戦いが終わったところから始まる。主人公は、同じく孤高の浪人、御堂主馬之介(みどうしゅめのすけ)にバトンタッチする。
 『美男城』は、柴錬の作品にしては珍しく非常にシリアスな280ページほどの中篇だが、一気に読めて、読み終わった後、文学的感動を覚える小説である。「剣は知っていた」は、壮大な伝奇ロマンで娯楽性が強く、喬之介と鮎姫の相思相愛の恋愛が基調になっている点では甘美なロマンティズムが漂う。それにハッピーエンドである。が、第二作の「美男城」は、主人公・御堂主馬之介のペシミズムが全体を覆い、悲劇性が濃く、読み終わった後、アンハッピーな結末に何か救いようのない寂寥感と重苦しいものが心に残る。
 さて、映画の方は、率直に言って、やや不満が残った。東映の娯楽作品なので、暗くて陰惨な感じはしないが、異性関係の描き方を純愛に変えてしまったところもあり、他にも原作を変えすぎて、シリアスなテーマを十分表現しないまま終わってしまったという印象が拭えなかった。
 ただし、これは今この映画を観ての感想で、当時を思えばこれで仕方がなかったのかもしれない。スターシステムにのっとった大衆的な娯楽映画路線を突き進んでいた東映の製作方針からすれば、主役の錦之助が最高に輝いて見えれば第一目的は達したわけで、その点は見事に成功していたと思う。御堂主馬之介を演じた錦之助は素晴らしかったし、立ち回りや剣さばきもふんだんに加えていたので、チャンバラファンも大満足したであろう。
 さらにオールスター映画でもないのに東映城の三人娘を勢ぞろいさせ、配役したことも注目すべきことだった。丘さとみ、大川恵子、桜町弘子が揃って、錦之助の映画に出演したのもこの作品だけではあるまいか。だいたい一人か二人がこれまで錦之助と共演してきた。しかも、この映画では、三人が主役の錦之助にからんで彼を好きになるという設定で、なかなか華やかなものだった。

 映画の内容について書こう。
 時代は、関が原の戦いの頃。御堂主馬之介は、一介の浪人なのだが、名前も変わっていれば、容姿も異彩を放ち、謎めいている。戦乱の巷に、別世界から舞い降りたような美剣士なのである。が、もの悲しげで、心の奥に何か苦悩を秘めている。
 御堂主馬之介は、眉殿喬之介と同じ着流し姿、黒鞘の長刀一本差しで登場するが、同じ錦之助でも主馬之介は喬之介よりずっと派手な印象を与える。着物の襟と袖に文様の入った縁取りがあるのは同じだが、無地でも光沢のある浅黄色の着物を着ているからであろう。喬之介のイメージは、蝶にたとえれば、黒アゲハで、主馬之介は黄アゲハのようなのだ。錦之助のメーキャップも違う。眉が太く、目張りも濃い。髪型も束ねていない総髪だから余計派手に見えたのであろう。(私の個人的好みから言うと、眉殿喬之介の方がカッコ良いと感じる。)
 主馬之介は、荒れ果てた戦場で、一人の少年に出会う。宗太郎(植木基晴)という孤児である。「おまえも一人ぼっちか」と主馬之介は宗太郎に尋ね、さらに言う。「おとなにも泣きたいときがある。が、涙を流すまいと、こらえているだけなのだ。」

 主馬之介がどんな宿命を背負い、どんな苦悩を抱いているかは、次第に明らかになっていく。が、映画をよく観ながらセリフを注意深く聞いていないと理解できない。主馬之介の来歴は、友人の須藤頼之助(徳大寺伸)との会話や、彼の妹で主馬之介の初恋の相手・千草(桜町弘子)との会話で、分かってくるからである。
 主馬之介は、関が原の戦いでは侍大将として徳川方に加わり戦功を上げたが、褒賞も受けずに、あっさり武将の身分を捨ててしまったのだという。今は主君も持たない流浪の身。実は、本名は伊能信也(いのうのぶや)といい、美濃の国の日坂というところの城主の嫡男で、母を虐待し自分を冷遇した暴君の父を憎んで八年前に家出した。その間どこかで兵法を学び、御堂主馬之介と改名して、家康にかかえられたらしい。(原作では、柳生宗矩と御前試合をして引き分け、家康の目に留まったことになっていた。)父の名は、伊能盛政(もりまさ)で、この役は薄田研二が強烈に演じている。映画の冒頭の字幕説明では、まことしやかに、「関が原の戦いで東軍が勝利した陰には、伊能盛政の裏切りがあった」とある。(そんな戦国大名の名前など聞いたことがないので、歴史上に実在した人物ではあるまい。関が原の戦いでの裏切りと言えば、小早川秀秋が有名であるが、秀秋の妹で美尾姫という美女がこの物語には登場する。美尾姫を大川恵子が演じている。)伊能盛政は、西軍の大将・石田光成の親友であるにもかかわらず、徳川方に寝返って、西軍の壊滅に大きな役割を果たしたのだという。主馬之介が関が原の戦いで東軍(徳川方)に付いたのは、戦場で西軍(大阪方)に付いた父親と戦い、父親の首を討ち取ってやろうと思ったからだった。が、その父が大阪方を裏切り、徳川方に付いたために、主馬之介は忸怩たる思いを味わう。しかも、父は裏切り者の汚名を受け、主馬之介はこの父の行為に憤り、城に帰って父と刺し違えようと決意する。

 ここまでが、映画が始まった時点での主人公の来歴と現況なのだが、原作をじっくり読んで理解するのとは違い、セリフによる説明だけでこうした複雑な状況を把握するのは難しい。『美男城』を初めて観た時に、私は、多分いい加減に観ていたのだろうが、ストーリーの前提も、主人公が置かれた状況も、良くつかめず、分かりにくい映画だなあと感じた覚えがあるが、そう感じたのは私だけではあるまいと思う。(2019年2月4日一部改稿)



『剣は知っていた 紅顔無双流』(その三)

2007-08-07 13:09:02 | 源氏九郎颯爽記・剣は知っていた
 眉殿喬之介の生い立ちに関しては前回紹介したが、彼の性格付けについて少し触れておこう。
 喬之介は、生きがいや幸福を求めてさまよう孤高の剣士である。喬之介は、自分の育った城の屋敷に帰って来た時、忍者の風の猿彦と出会い、彼と打ち解けて、こんなことを言う。「わたしは、この城の者であって、この城の者ではない。どちらかというと邪魔者かな。」さらに、「やはり私の来る場所ではなかった」と言う。
 つまり、喬之介には、自分の居場所がどこにもなく、自分を支えてくれる身よりも仲間もいない、孤独に苦しむ若者なのである。彼には、仕える主君もいなければ、仕えてくれる家来もいない。原作では、一人だけお付きの郎党が居たのだが、年老いて死んでしまい、それが、喬之介が城を出奔する原因にもなっている。城には、一人だけ、幼馴染で喬之介に好意を寄せている侍がいて、奥野周作(岩井半四郎)というのだが、彼とて城主に仕える身で、喬之介とは立場が違う。
 箱根の山には、喬之介の剣の師匠と世話役の伊作爺さんがいるだけで、山から下りて来た時も喬之介はたった一人だった。ちょうど秀吉による北条家攻略が始まった頃で、城は合戦前で殺気立っている。喬之介は、育ての親である北条氏勝に会い、自分は戦乱に加わり戦う意思のないことを宣言し、氏勝の逆鱗に触れる。彼は、剣士でありながら、人殺しは好まない平和主義者である。「人間にはもっとおだやかな生活があるはずだ」と言う。
 喬之介は、若者らしい燃えるような情熱は持っているのだが、その情熱を注ぐ対象が見つからず、それで悩み、生きがいを見つけようしている。戦乱に身を投じ、栄達を望む気もなければ、剣の道をさらに磨いて、武者修行を続ける気もない。これは、後で出て来るのだが、自分が名門眉殿家の嫡子だと知ってからも、眉殿家を再興する意思は抱かない。だだ、父と母の無念を晴らすため、仇敵北条氏勝は討とうと決意する。
 
 眉殿喬之介は、美しい鮎姫と出会い、相思相愛になり、初めて自分の生きる道を見出すのだが、このあたりからストーリーが俄然盛り上がって来る。原作を読んでいると、ハムレットが、ジュリエットを見つけ、急にロミオに変わってしまった印象なのだ。初めてこの小説を読んだ人なら、もしかして悲劇的な結末になると嫌だなーと思いながら、はらはらしながら読み続けていったことだろう。鮎姫は、徳川家康の娘である。喬之介は、名門の出身とはいうものの、一介の浪人にすぎない。家康は、喬之介を捕まえて、殺そうとまでする。少なくとも二人の仲を引き裂こうとする。喬之介か鮎姫のどちらかが死ぬか、二人で心中でもするのか、悲劇ならそんな結末もよく起こることである。私は、小説を読む前に、この映画を何度も観ていたので、ハッピーエンドになることが分かっていたが、それでも、映画と原作は結末が違うことも多いので、一抹の不安を感じながら、読んだほどである。
 
 話が逸れてしまった。喬之介が一人の美しい女性を愛することで、生きがいと幸福を本当に得られるのかどうかは別として、若い美男美女の大恋愛とハッピーエンドが、この映画、そして原作の最大の面白さと魅力であることに間違いない。「ロミオとジュリエット」ではなく、これはロマンチックな騎士道物語に近いと言えよう。「一人の女性を愛し、その愛を貫くことは武門の恥にはならない」と喬之介は家康の前で断言する。この時のセリフなど、まるで中世の騎士が言いそうな言葉ではないか!

 その一方で、眉殿喬之介と鮎姫の生き方は、戦後の若い日本人の新しい価値観を投影している面も感じられる。二人で愛の巣を作り、ひそやかで幸福な生活を願う。これは、昭和30年代から高度成長期に風靡し、今でも日本人の生き方の主潮になっているマイホーム主義である。戦争参加に反対し、覇権主義にも異を唱え、ひたすら個人の生きがいと幸福を求める考え方である。若者の疎外感、情熱を注ぐはけ口のない空虚感も現代的である。柴田錬三郎の原作は、また当時大ヒットしたこの映画も、つきつめれば、若い日本人の戦後の生き方や新しい価値観を、戦乱の世に花咲く恋愛ロマンに移し替え、理想化してみせたと言える。またそれが、人気を呼んだ要因だったのだろう。

 最後になったが、この映画で印象深かったシーン、私がとくに気に入っているショットをいくつか挙げておこう。(前々回書いた場面は省略する。)
 一、喬之介と鮎姫が山小屋で二人きりになり、愛を誓い合い、抱き合うシーン。武蔵とお通さんを反射的に私は思い浮かべてしまった。この時の錦之助の表情は、後年の武蔵の表情とそっくりだった。大川恵子の鮎姫は、演技がとてもうまいとは言えないものの、錦之助とラブラブになって、映画を越えた幸福感が満ち満ちていたように感じられた。
 二、喬之介が牢に入れられ、家康と鮎姫に対面するシーン。この時の錦之助の凛々しさと潔さが良かった。まさに日本男児!
 三、柳生石舟斎が、喬之介の立派な態度に感心し、家康の脇で、黙ってうなずくショット。月形龍之介の慈愛に満ちた表情が何とも言えなかった。
 四、喬之介が無明組の館で、乳母(松浦築枝)に母の死を尋ねるシーン。錦之助の感情の激しさが最も表れていた。
 五、喬之介がおふりを馬に乗せ、彼女の歌を嬉しそうに聞くシーン。馬上で中原ひとみが後ろから錦之助に抱きついていたが、錦之助の表情がいかにも中原ひとみを妹みたいに可愛がっているようで、ほほえましかった。私は『源義経』で共演した二人(義経とうつぼ)を思い浮かべてしまった。
 ほかにもいろいろあるが、片岡栄二郎が演じた風の猿彦という忍者が飄々としていて面白かったこと、明石潮が演じた伊作爺さん(山小屋のあるじ)が味わい深かったことを付け加えておきたい。(了)