錦之助はすぐに、『笛吹童子』第一部「どくろの旗」の台本のページをめくった。
企画:マキノ光雄、宮城文夫 原作:北村寿夫 脚本:小川正
監督:萩原遼 撮影:三木滋人 音楽:福田蘭童 美術:鈴木孝俊
配役を見た。
すぐに自分の名前が目に飛び込んできた。
菊丸:中村錦之助
錦之助は菊の花が大好きだった。歌舞伎座の最後の舞台も「菊畑」の牛若丸だったし、映画界入りを決めた時もどこかの庭で見た大輪の菊の花が目に焼き付いている。おれはよほど菊と縁があるんだなと錦之助は思った。
気になるのは共演者である。「兄の萩丸は誰がやるんだろう」
萩丸:東千代之介
東千代之介? 聞いたことのない名前だなと錦之助は首をかしげた。
霧の小次郎:大友柳太朗、赤柿玄蕃:月形龍之介
この二人は、さすがに錦之助も知っている俳優だった。
台本の書き出しはナレーションから始まっていた。
――今を去ること約五百年の昔、応仁の大乱のあと、花の都は焼け野と化し、天下は麻のごとく乱れ、野盗は横行し、人は家を失い、飢えに苦しみ、不安におののいていた。ここ丹波の国、満月城は、野武士の首領赤柿玄蕃に攻め寄せられて……
ナレーションにかぶって、城下での戦闘シーン。城主は討ち死にし、城は赤柿一派に略奪される。そのあと、家老上月右門の妻と娘の隠れ家のくだりがあって、場面は中国の明の国へ飛ぶ。そこでまたナレーション。
――赤柿玄番に滅ぼされた満月城の城主丹羽修理亮の二人の子供は、明の国に渡って、兄の萩丸は武芸を、弟の菊丸は面作りを学んでいた。
場所は、面作りの名人劉風来の家の庭。月夜の晩に、沁みとおるような笛の音。笛を吹いているのは笛吹童子と呼ばれる菊丸である。師匠の劉風来と彼の美しい娘が菊丸のそばに佇んで笛の音に耳を傾けている。
錦之助は台本を熟読した。
菊丸は、平和主義者だった。戦乱の世に自ら侍をやめて、笛を唯一の友として平和を祈願しながら面作りに励もうと決心する。されこうべの面に打ち勝つ白鳥の面を完成することが自分に課せられた仕事である。そのため、父の仇を討とうと満月城に向かう兄の萩丸とは袂を分かち、荒廃した京の都に残るのだった。菊丸は邪心のない純真無垢な少年であった。
立ち回りはないが、錦之助は菊丸の役が気に入った。映画を見てくれる子供たちの手本になるような役づくりを心がけようと思った。
錦之助が太秦にある東映京都撮影所を訪れたのは三月半ばだった。
撮影所長の山崎真一郎と企画担当の宮城文夫が出迎えた。
「お待ちしてました。よく来てくれましたなあ!」
山崎は、所長というより、土建屋のおじさんといった風体である。四十を越えたばかりだが、頭髪は後退し、テカテカと光った額に汗をにじませている。浅黒い顔に笑いを浮べ、大きな眼を輝かせて、錦之助を歓迎した。
「中村錦之助です。よろしくお願いします」と、錦之助は深々と頭を下げた。
「いやあ、わかってます。早くうちのスターになってください、頼みますよ」
早速二人は、錦之助を連れて撮影所を案内した。錦之助は映画を二本撮った下加茂撮影所ではすでに顔なじみも多く、スタッフも気心が知れるようになっていたが、東映の京都撮影所は初めてで多少不安だった。が、山崎所長の飾り気のない人柄に接し、すっかり安心してしまった。
温厚そうな宮城も錦之助に声を掛け、
「マキノ本部長も期待してますよ。今度の映画は、ぜったい当るでえ、って」
「すいぶん見込まれちゃったな」と錦之助は頭を掻いた。
「うちの息子たちも映画、楽しみにしてましてね。なにしろラジオにへばりついて聞いてたほどのファンでしたから」と宮城は付け加えた。
撮影所内は、錦之助が思った以上に前近代的だった。木造のバラックのようなステージが四棟。俳優の控え室も安下宿のようだった。噂には聞いていたが、東映はまだまだ貧乏会社のようだった。しかし、すれ違う人たちがみんな元気良く挨拶しながら、忙しそうに通り過ぎていく姿を見て、錦之助は下加茂撮影所よりずっと活気があるなあと感じた。
「今、何を撮影しているんですか」と錦之助は山崎所長に尋ねた。
「河野組で『雪之丞変化』撮ってるんですけど、主演は東千代之介、うちのスター候補ですわ」
「あっ、『笛吹童子』でぼくの兄貴の役をやる人ですね」
「近いうちに紹介します。まだ若いんだけど、踊りのお師匠さんですよ」
錦之助は、この時、東千代之介がまさか暁星中学時代の教練の教官若和田孝之先生とは思ってもみなかった。
企画:マキノ光雄、宮城文夫 原作:北村寿夫 脚本:小川正
監督:萩原遼 撮影:三木滋人 音楽:福田蘭童 美術:鈴木孝俊
配役を見た。
すぐに自分の名前が目に飛び込んできた。
菊丸:中村錦之助
錦之助は菊の花が大好きだった。歌舞伎座の最後の舞台も「菊畑」の牛若丸だったし、映画界入りを決めた時もどこかの庭で見た大輪の菊の花が目に焼き付いている。おれはよほど菊と縁があるんだなと錦之助は思った。
気になるのは共演者である。「兄の萩丸は誰がやるんだろう」
萩丸:東千代之介
東千代之介? 聞いたことのない名前だなと錦之助は首をかしげた。
霧の小次郎:大友柳太朗、赤柿玄蕃:月形龍之介
この二人は、さすがに錦之助も知っている俳優だった。
台本の書き出しはナレーションから始まっていた。
――今を去ること約五百年の昔、応仁の大乱のあと、花の都は焼け野と化し、天下は麻のごとく乱れ、野盗は横行し、人は家を失い、飢えに苦しみ、不安におののいていた。ここ丹波の国、満月城は、野武士の首領赤柿玄蕃に攻め寄せられて……
ナレーションにかぶって、城下での戦闘シーン。城主は討ち死にし、城は赤柿一派に略奪される。そのあと、家老上月右門の妻と娘の隠れ家のくだりがあって、場面は中国の明の国へ飛ぶ。そこでまたナレーション。
――赤柿玄番に滅ぼされた満月城の城主丹羽修理亮の二人の子供は、明の国に渡って、兄の萩丸は武芸を、弟の菊丸は面作りを学んでいた。
場所は、面作りの名人劉風来の家の庭。月夜の晩に、沁みとおるような笛の音。笛を吹いているのは笛吹童子と呼ばれる菊丸である。師匠の劉風来と彼の美しい娘が菊丸のそばに佇んで笛の音に耳を傾けている。
錦之助は台本を熟読した。
菊丸は、平和主義者だった。戦乱の世に自ら侍をやめて、笛を唯一の友として平和を祈願しながら面作りに励もうと決心する。されこうべの面に打ち勝つ白鳥の面を完成することが自分に課せられた仕事である。そのため、父の仇を討とうと満月城に向かう兄の萩丸とは袂を分かち、荒廃した京の都に残るのだった。菊丸は邪心のない純真無垢な少年であった。
立ち回りはないが、錦之助は菊丸の役が気に入った。映画を見てくれる子供たちの手本になるような役づくりを心がけようと思った。
錦之助が太秦にある東映京都撮影所を訪れたのは三月半ばだった。
撮影所長の山崎真一郎と企画担当の宮城文夫が出迎えた。
「お待ちしてました。よく来てくれましたなあ!」
山崎は、所長というより、土建屋のおじさんといった風体である。四十を越えたばかりだが、頭髪は後退し、テカテカと光った額に汗をにじませている。浅黒い顔に笑いを浮べ、大きな眼を輝かせて、錦之助を歓迎した。
「中村錦之助です。よろしくお願いします」と、錦之助は深々と頭を下げた。
「いやあ、わかってます。早くうちのスターになってください、頼みますよ」
早速二人は、錦之助を連れて撮影所を案内した。錦之助は映画を二本撮った下加茂撮影所ではすでに顔なじみも多く、スタッフも気心が知れるようになっていたが、東映の京都撮影所は初めてで多少不安だった。が、山崎所長の飾り気のない人柄に接し、すっかり安心してしまった。
温厚そうな宮城も錦之助に声を掛け、
「マキノ本部長も期待してますよ。今度の映画は、ぜったい当るでえ、って」
「すいぶん見込まれちゃったな」と錦之助は頭を掻いた。
「うちの息子たちも映画、楽しみにしてましてね。なにしろラジオにへばりついて聞いてたほどのファンでしたから」と宮城は付け加えた。
撮影所内は、錦之助が思った以上に前近代的だった。木造のバラックのようなステージが四棟。俳優の控え室も安下宿のようだった。噂には聞いていたが、東映はまだまだ貧乏会社のようだった。しかし、すれ違う人たちがみんな元気良く挨拶しながら、忙しそうに通り過ぎていく姿を見て、錦之助は下加茂撮影所よりずっと活気があるなあと感じた。
「今、何を撮影しているんですか」と錦之助は山崎所長に尋ねた。
「河野組で『雪之丞変化』撮ってるんですけど、主演は東千代之介、うちのスター候補ですわ」
「あっ、『笛吹童子』でぼくの兄貴の役をやる人ですね」
「近いうちに紹介します。まだ若いんだけど、踊りのお師匠さんですよ」
錦之助は、この時、東千代之介がまさか暁星中学時代の教練の教官若和田孝之先生とは思ってもみなかった。