錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『続 花と龍 洞海湾の決斗』(追記)

2006-12-24 19:16:41 | 花と龍
 周知のように、錦之助は、1965年5月(この映画が製作される半年前)、東映京都俳優クラブ組合の代表に推され、契約俳優たちの権利と生活を守るため約三ヶ月先頭に立って東映本社と団交した。この人権闘争は、東映の強硬姿勢と組合員に脱落者が出たことで、失敗に終わり、8月に錦之助は大川博社長と直談判し、組合を元の親睦団体に戻す条件で和解に至る。『続 花と龍』は、そうした経緯をストーリーに反映させていた。
 ついでに言うと、組合運動のリーダー格の一人がこの映画で金五郎の幼友達の清七役を演じた神木真寿雄だった。彼は、前作『花と龍』では、金五郎が故郷を旅立つまでの最初の部分で付き添い役として登場し、『続 花と龍』では、若松に金五郎を訪ねに来て、仲間に加わり、最後は金五郎をかばって、鉄骨の下敷きになり、無残にも死んでしまうのだが、この二作では(特に続編では)かなり良い役をやっている印象を受けた。この脇役俳優は、それまで目立った役を演じたことがなかったと思うが、きっと錦之助の強い推挙があったのだろう。
 さらに言うと、『続 花と龍』は、玉井金五郎という人物の信念である暴力否定、やくざ嫌いの側面を強く打ち出していた。これは、原作者の火野葦平が意識的に描いた金五郎像でもあるが、それにしても、映画はこの点を強調しすぎている感があった。
 東映が任侠やくざ路線に方向転換しようというこの頃に、あえて『続 花と龍』のような会社批判とも言える映画を作ったことは、どう判断したら良いのだろうか。組合結成、神木真寿雄、暴力否定、やくざ嫌い…。どう見ても、これは東映内部のレジスタンス映画なのである。
 錦之助は、『花と龍』正続編2本を撮り終えると、『遊侠一匹 沓掛時次郎』と『丹下左膳 飛燕居合い斬り』に主演し、東映との優先契約本数の4本を完了して、東映を去っていく。錦之助の兄で東映の企画担当をやっていた小川三喜雄(前名・貴也)も辞めた。神木真寿雄は東映を辞めると同時に映画界を去ったようである。ただし、神木は錦之助に助けられ、その後しばらくの間舞台出演していた。
 シナリオライターの田坂啓は、『続 花と龍』以降は、東映映画のシナリオを5本ほど手がけ(ただし、やくざ映画のシナリオは一本も書いていないと思う)、その後、五社英雄の映画や松竹の喜劇映画(瀬川昌治監督や渡辺祐介監督の作品)のシナリオを書き、テレビの時代劇(『鬼平犯科帳』など)やサスペンス・ドラマの脚本家として活躍を続けていった。一方、監督の山下耕作は、東映仁侠映画のヒット作を次々と生み出し、東映を支える重要な監督になっていくことはご存知の通りである。

 『続 花と龍』は、1966年(昭和41年)の正月第三週に封切られ、観客には好評だったようだが、東映の会社内部の反応はどうだったのであろうか。詳しいことは分からないが、どうやら何か根深いしこりを残したようである。この映画がずっとビデオ化されずにお蔵に入っていたのも、その辺の事情が理由だったのかもしれない。(いまだにビデオにもDVDにもなっていないが、最近東映チャンネルで放映されたので、40年経ってようやく時効になったのかもしれない。)



『続 花と龍 洞海湾の決斗』(その2)

2006-12-24 19:02:39 | 花と龍
 『続 花と龍』には「洞海湾の決斗」というサブタイトルが付いている。これは東映が宣伝用に付けたものではないかと思う。この映画より約10年前の『花と龍』の初の映画化作品では(佐伯清監督、藤田進主演の東映映画)、サブタイトルが「洞海湾の乱斗」だったので、「乱斗」を「決斗」に代えたものにすぎない。もちろん、こうした章が原作にあるわけではない。ところで「決斗」の「斗」の字は、「闘」の当て字で、以前学生運動が盛んだった頃は「斗争」「共斗」などとも書いていたが、最近はあまり使わなくなった。
 さて、今回この映画を観て、どうもサブタイトルが内容に即していないように感じた。決闘らしきシーンはこの続編にはなく、あるのはただ、前回述べたように、玉井金五郎が角助らに襲われて、やられっぱなしのまま、瀕死の重傷を負う壮絶なシーンだけである。しかしこれは、決闘ではなく闇討ちだった。洞海湾に浮かんだ船上で決闘シーンがあったのは、むしろ前作の『花と龍』の方である。洞海湾は、若松港や戸畑港のある湾で、輸送船に石炭を積み込むことが仕事のゴンゾウ(=沖仲仕)にとっては生活を左右する重要な場所だった。そして、ここを本拠地にゴンゾウたちに仕事の差配をする有力な小頭たちとその一家、すなわち友田喜造や島村ギンの共働組や江崎満吉の一家と、新興の玉井組との争いを「洞海湾の決斗」と見立てたのかもしれない。いずれにしても、『宮本武蔵』の「般若坂の決斗」や「一乗寺の決斗」といった錦之助の素晴らしい立ち回りのある決闘シーンを期待して映画を観に行った人は、見事にはぐらかされたことだろう。サブタイトルも考えもので、この映画は単に『続 花と龍』で良かったと思う。
 
 ここで、『続 花と龍』の内容について、私なりの正直な感想を述べてみたい。はっきり言って、私は前作の『花と龍』の方が面白く感じた。もちろん、続編も見ごたえのある映画だったが、ややもの足りなさを感じた。
 これは、火野葦平の原作も同じで、第一部の前半は大変面白いのだが、次第に詰まらなくなり、第二部になると、ダラダラと書いている印象さえ受けた。映画『続 花と龍』は、原作の第一部の後半を脚色したもので、第二部は全く関係ないのだが、実は面白くするために原作のストーリーをずいぶん変えていた。
 たとえば、若松で玉井金五郎が小頭たちの組合を作るくだりは確か原作では小さく取り上げられていたにすぎなかった。しかも、金五郎が組合を作るのは襲撃される前である。(ただし、第二部で長男の玉井勝則(=火野葦平)が沖仲仕の組合を作るところは力を入れて描かれていたと思う。)また、マンが長男を出産するのは、映画の設定よりずっと前で、マンが金五郎とお京との関係を知り、腹を立てて郷里の広島へ帰る時には、子連れだった。映画では、その時、マンは妊娠中で、マンが家出して森新之助の家に泊まっている間に、金五郎が襲われ、瀕死の重傷を負うといったように変えていた。マンが病院に駆けつけ、金五郎を死なしてなるものかと看病する場面は原作にもあったが、意識を回復した金五郎に子供が出来たと初めて打ち明けるところも映画だけの話だった。ほかにもいろいろと設定を変えていた。映画化に際して、ある程度原作を変えることは仕方がないと私は思っている。『続 花と龍』に関しては、ストーリーをドラマチックにするためにかなり工夫を凝らしていた。もちろん、玉井金五郎の生き方やマンの性格は、原作に忠実だった。
 前作の『花と龍』では、シナリオライターの田坂啓のことを褒めたが、察するところ、続編はどうも脚色に行き詰ったようである。途中で中島貞夫が協力して、シナリオを完成したらしいが、それでもストーリーがやや単調すぎるきらいがあった。前作に比べ、エピソードの挿入やユーモアもなく、小道具も生かされていなかった。登場人物の描き方も浅く、前作ほど躍動していなかった。前作を10点とすれば、続編は6点ぐらいの出来だったと思う。

 立志伝のようなストーリーでは、どうしても青雲の志を抱いて自分の道を進んでいく途上が面白いもので、これは『花と龍』に限るものではない。小説で言えば、私の好きな富田常雄の『姿三四郎』にしても吉川英治の『宮本武蔵』や『新書太閤記』にしても同じだ。
 映画『花と龍』の前作では、金五郎とマンとのロマンスに魅力があり、金五郎がゴンゾウから裸一貫でのし上がっていく過程にわくわくする興奮があった。金五郎とマンの生き方に共感し、大きな夢を抱くこの二人が「満州だ、ブラジルだ」と言い争いながら、力を合わせて共に進んで行く姿に私は幸福感を覚えたのだった。前作ではこの二人以外の登場人物も生き生きと描かれていた。親友の森新之助(田村高廣)も蝶々牡丹のお京(淡路恵子)も、前作の方が個性的で引き立っていたと思う。吉田磯吉(月形龍之介)、平尾角助(小松方正)、友田喜造(佐藤慶)、大川時次郎ほか、みなそうである。
 『続 花と龍』では、金五郎以外のこれらの登場人物は存在感が薄いように感じた。佐久間良子のマンも金五郎の女房におさまって、貫禄みたいなものは出していたが、陰で金五郎を支える役どころでは、佐久間良子の良さも出ないというものである。金五郎とお京の関係を疑って家出したり、負傷した金五郎を懸命に看病するだけではもの足りなかった。
 また、淡路恵子のお京は、続編でも重要な役なのだが、ぱっとしなかった。金五郎のことが忘れられなくて若松にやって来て、森新之助と君香が開いたお茶屋に芸妓として潜り込むところは原作にもあるのだが、金五郎を誘惑してあっさり振られたり、金五郎に横恋慕する染奴(岩本多代)を脅したりするだけで、魅力に乏しかった。淡路恵子は、前作のつぼ振りや彫り物師はあでやかで良かったが、芸妓役は色気もなく、あまり似合わないと感じた。二回も出てくる踊りも、決してうまいとは言えなかった。
 『続 花と龍』では、前作には登場しなかった新聞記者の品川信健(永井智雄)とやくざの親分の江崎満吉(浜村純)が目立ち、いい味を出していた。どてら婆さんの島村ギン(日高澄子)は、前作より出番が多かったが、もっと豪快さが欲しかった。金五郎に対し好意的になりすぎ、平凡な善人になり下がっていたのが残念だった。
 この映画は、錦之助の独壇場とでも言おうか、いわば「玉井錦之助」の迫真の演技だけが目立って、主人公にからむ登場人物たちが背景に引っ込んでしまう作りになっていたと思う。そこに私は不満を覚えた。とはいえ、山下耕作監督の演出、古谷伸のカメラワーク、鈴木孝俊の美術、三木稔の音楽など、すべて前作同様、素晴らしい出来だった。続編は、原作を思い切ってもっと変更するくらいのつもりで、シナリオをさらに練って作れば、前作に劣らぬ傑作になっていたと思う。



『続 花と龍 洞海湾の決斗』(その1)

2006-12-21 04:50:30 | 花と龍

 錦之助がずたずたに斬られる映画といえば、『任侠清水港』の森の石松がすぐに頭に浮ぶ。『仇討』のラストも凄かった。『幕末』の竜馬が暗殺される場面も壮絶だった。これらの作品では主役の錦之助が斬られて殺されてしまうのだが、悪役があっさり殺されるのとはわけが違う。殺され方が異様に長く、すさまじいのだから、たまったもんではない。ファンとしてはこうした斬殺シーンはまともに見ていられない。目をそむけたくなる。無論私もそうだ。なぜこんな役どころを、あの錦之助が何も好んで必死に演じなくてはならないのか、疑問に感じる人も少なくないだろう。襲いかかる敵をバッタバッタと斬り倒すカッコいい役を錦之助にはやってもらいたい。そう願う人が多いにちがいない。私もそう願う。
 しかし、錦之助という役者は、本気になると、斬られようが殺されようがおかまいなしで、最高の演技をぶつけてくる。過激なのである。もちろん、ストーリーに必然性があり、ヒーローが殺されなければならないから、それを演じるのだが、役に打ち込んだ時の錦之助は、無残な姿も平気で見せる。これも彼一流の役者根性だったのだろう。錦之助は若い頃、あのジェームス・ギャグニーのギャング映画をたくさん観て、死に方を研究したのだと言う。藤沢で淡路恵子と暮らしていた頃は、子供たちと決闘ごっこをやり、迫真の演技で死んで見せ、子供を驚かせたとか。確か、義理の息子の島英津夫の本にそんなことが書いてあった。それは、ともかく……。

 『続 花と龍 洞海湾の決斗』を観て、また同じことを感じた。玉井金五郎が雨の中、数人の暴漢(平尾角助ら)に襲われ、ずたずた斬られるシーンがある。そこがまた実にすさまじかった。時間を計ったわけではないが、5分以上あったと思う。この5分がとても長く感じた。金五郎は初め、さしていた傘で防戦するのだが、すぐに捨て、素手で立ち向かう。ほとんどやられっぱなしで、斬られたり、刺されたり、無残なことこの上ない。何回、斬られて刺されたかを数えてはいないが、五回以上はやられたのではないだろうか。この頃の映画は、擬音も派手なのだが、ここでは雨の中での格闘ということもあって少し押さえ気味にしていた。しかし、刺されるとズブッという音がする。そのたびに、まるで自分が刺されたような思いになった。もちろん私は、映画を観る前に原作を読んでいて、このシーンも原作にあるのを知っていたし、また金五郎が死なないことを知っていたので、安心(?)して見ていられたが、話を知らない人が見たら、錦之助ファンならずとも、失神しかねないすさまじさだった。金五郎は病院に運ばれ、一命を取り止めるのだが、医者は二十四箇所の傷があると言っていた。普通なら、一、二箇所刺されただけでも出血多量で死んでしまうことだろう。そこは映画だから許そう。
 ご承知のように、玉井金五郎という人物は、やくざではない。また、やくざのようにドスを振り回して、相手がやくざでも人を殺傷することなど決してしない。いわば暴力否定主義者である。刀剣を集めてはいるものの、これは鑑賞用で、普段はドスなど身に携えていなし、このシーンでも最後に相手のドスを奪い取ったが、返り討ちにすることはしなかった。その結果が、二十四箇所の傷を負って、瀕死の重態ということになった。ここで、このシーンのことばかり書くのはあまり良くないかもしれない。また、映画全体の内容とはあまり関係ないと言われるかもしれない。が、あれだけ、やられっぱなしで凄い演技を見せた錦之助は、ちゃんと計算していたと思うのだ。原作を十分理解し、その解釈の上に立って、演じてみせたことは明らかである。つまり、金五郎はやくざではない、暴力によって強引に何かを決めようとする態度には絶対に反対の立場を貫く。それが、立派な男の生き方であると信じて疑わない。だから、敵にあえて歯向かわなかった。
 この映画の主題は、すべてそこに集約されていた。暴力否定、やくざ否定である。江崎満吉の一家が果たし状を突きつけ、夜中に金五郎の家に殴りこみに来ようとするシーンがその前にあるが、ここも同じ考え方に貫かれていた。金五郎は、一家の男たちを二階に押し込め、喧嘩に加われないように、梯子をはずしてしまう。マンだけが、階下の炊事場で、大きな釜で糊みたいなものを煮立てている。亭主に斬りつけた奴らに煮えた糊をぶっかけてやるのだと言う。金五郎は玄関の前にいくつもの提灯をぶらさげ、明るくしたなかで、玄関のたたきの前に、一人で座り、たらいに張った水で刀を洗う。この時の錦之助の着流し姿がカッコ良く、気迫に満ちた演技も素晴らしかった。片肌脱いで、刺青を見せ、ラムネのビンをずらっと横に置いて、ラッパ飲みしている。外から玄関の様子を見た江崎一家は、恐れをなして、退散し、結局出入りにならずに終わるのだ。金五郎は、もし彼らが殴りこんできたら、やられる覚悟だったと思うのだが、いわゆるおどけ芝居を打ったというか、デモンストレーションをやってみたのだった。(つづく)



『花と龍』(その3)

2006-11-07 05:14:28 | 花と龍
 この映画の素晴らしさは、田坂啓のシナリオの良さに負うところが大きかったと思う。長所を二、三挙げると、まず、ダイアローグ(対話)が巧みだったこと、見せどころの場面はセリフに頼らず登場人物の表情や動作で視覚化していたこと、そして、何よりもユーモアがあるところが良かった。また、モチーフになる小道具の使い方もうまかった。助広の小刀、懐中ランプ(ライター)、菊の花、貯金通帳などがストーリーにからみ、実に効果的に扱われていたと思う。
 もちろん、スピード感のあるストーリー展開と全体の構成も優れていた。ドラマは「緊張」と「弛緩」が大切であるとよく言われる。が、この「弛緩」ということが難しく、下手をすると不発に終わってしまう。あるいは、間延びしてダレしまう。脚本家や監督の手腕が問われるところである。この映画では、場面転換の節々にユーモアを盛り込み、それが適度な弛緩作用を発揮していた。それで、ドラマが小気味良く展開して行ったのだと思う。
 前半のハイライト・シーンを例に挙げよう。
 夜、金五郎がマンを浜辺に呼び出して、マンの真意を確かめる場面がある。ここから後のドラマの展開は見事だった。「緊張」「弛緩」「緊張」「大緊張」「緊張」「弛緩」といった具合に進んでいく。この辺は、原作にない映画だけのオリジナルである。
 浜辺に呼び出されたマンは金五郎の煮え切らなさに憎まれ口を叩く。「女の気持ちも分からない血の巡りの悪い男!女の手も握れない弱虫!」とマンに罵られ、金五郎は怒ってマンの手を握ろうとする。マンに手を噛み付かれ、金五郎はついにプロポーズする。抱き締めあう二人。ここでいったん暗転して、次に二人が浜辺に腰を下ろし、仲良く語り合う場面。マンが懐から貯金通帳を出し、金五郎に見せる。「ずいぶん貯めこんだなー」「あんたは?」「貯まっとらん」。そして「満州」「ブラジル」の応酬。「強情っぱり!」ここは、ゆったりとした「弛緩」のシーン。
 長屋の前で二人は別れる。金五郎が家に入ると、親友の新之助(田村高廣)と君香(宮園純子)が潜んでいる。やくざの親分を旦那に持つ君香を奪って、駆け落ちしてきたのだ。ここからまた「緊張」のシーン。あたりの様子がおかしいのでマンも金五郎の家にやって来る。そこで、裏から新之助と君香を逃がしてやる。新之助に貯金通帳とハンコを渡す金五郎。
 その直後、やくざが数人、金五郎の家に殴りこんでくる。布団をかぶって寝たふりをしていた金五郎がさっと起き上がって、君香の旦那である親分に小刀を突きつける。ここは「大緊張」のシーン。君香を新之助にやる約束を親分から取り付ける金五郎。やくざたちが帰っていく。ここから「弛緩」に入っていく。刀を捨て、自分のしたことに後悔する金五郎。泣いて見守るマン。ここで、もう一度、愛の告白があり、強く抱き締めあう二人。
 ここで暗転して、その後が昼間の線路のシーン。鍋釜など荷物を持って、仲良く線路を歩いていく金五郎とマン。汽車賃が足りない。マンが貯金通帳を君香にあげてしまったことを打ち明ける。また「満州」「ブラジル」の応酬があって、金五郎が「満州行って、それからブラジル行ったらよか」と妥協案を出す。このシーンはなんとほほえましいことか。明るいシーンで笑いを呼び、ドラマを締めくくっている。お見事である。

 まだまだ、この映画には見せ場が多くてとても語りつくせないが、あと一つだけ挙げよう。コレラの疑いで小屋に隔離されていた金五郎と新之助のところに、マンが洗濯物と菊の花を持ってやって来る場面が私は大好きである。小便に行ってこいと新之助を追い払ってから、金五郎はマンにアメリカ製の懐中ランプ(ライター)をプレゼントする。その後、噂話のことで二人はちっとした口論をして、マンは小屋から出て行く。小屋の裏で、金五郎からもらったライターを試しに点けてみるマン。この場面はほんの三秒かそこらなのだが、佐久間良子が抜群に可愛い。ライターに向かってにっこりとほほえみ、ふんと鼻を鳴らすのだ。心の中で「金五郎のバカ!」と言う表情がなんとも言えない。
 
 最後に、『花と龍』のスタッフと共演者のことを書いておこう。
 撮影は古谷伸で『真田風雲録』『関の弥太ッペ』『遊侠一匹・沓掛時次郎』などを撮ったカメラマン。美術は鈴木孝俊、音楽は三木稔である。
 共演者は、田村高廣、淡路恵子、月形龍之介、宮園純子、三島ゆり子、小松方正、佐藤慶、遠藤辰雄、内田朝雄、香川良介、日高澄子など。この映画では、錦之助の素晴らしさと佐久間良子の美しさばかりが目に付いしまったが、淡路恵子も落ち着いた色気があって良かった。錦之助と淡路恵子は、この映画の共演によって、意気投合し、結婚することになる。田村高廣は、錦之助との共演作ではこれがベストのような気がする。月形龍之介は大親分吉田磯吉役だったが、出番がワン・シーンしかなく、やや印象が薄かった。(聞きところによるとこの頃月形は脚が悪く、体調を崩していたようだ。)小松方正の角助という憎まれ役も良かった。遠藤辰雄の「のろ甚」はユーモラスで印象に残った。金五郎と将棋を指しながら、マンの噂話をする場面は思わず笑ってしまった。三島ゆり子は、マンからライターを買い取ろうとする憎たらしい洋装の芸者役だったが、好演していた。

<追記>
 『花と龍』はこれまで六度も映画化されている。最初に映画化されたのは昭和29年で、原作が単行本になったすぐ後だった。これは、東映東京の作品で、監督は佐伯清、玉井金五郎を藤田進、マンを山根寿子、お京を島崎雪子が演じた。私はこの映画を観ていない。二番目が、昭和37年の日活作品で、監督は舛田利雄、石原裕次郎と浅丘ルリ子の共演だった。私はこの映画を二度ほど観ているが、裕次郎がお坊ちゃんっぽく、浅丘ルリ子は蓮っ葉だった印象が強い。原作の第一部までを脚色したものだったが、ストーリーの展開が速すぎて、金五郎の暴力否定の考え方も納得が行くまで描き切れていなかったと思う。とくに、ラストシーンで、金五郎がやくざに襲われ、まったく抵抗せずにズタズタに斬られる場面は不自然で、きっと裕次郎ファンの不評を買ったにちがいないと思う。三番目が錦之助と佐久間良子のこの映画で、『花と龍』(昭和40年)と『続花と龍 洞海湾の決斗』(昭和41年)の二部作である。四番目が高倉健と星由里子が主演したマキノ雅弘監督の東映作品で、『日本侠客伝・花と龍』(昭和44年)である。お京は藤純子だった。この映画も私は二度観ているが、原作をずいぶんねじ曲げていたと思う。ラストシーンで、高倉健が殴り込みに行くところは、やくざ映画のパターンで、暴力否定主義者の玉井金五郎とはまったく無縁の主人公になっていた。同じく東映作品の山下耕作監督による『日本侠客伝・昇り龍』(昭和45年)も『花と龍』を原作にした映画であるが、これは観た記憶がない。金五郎は高倉健、マンは中村玉緒、お京は藤純子だったとのこと。六番目が加藤泰監督の松竹映画『花と龍』(昭和48年)三部作「青雲篇」「愛憎篇」「怒涛篇」で、渡哲也が玉井金五郎、香山美子がマンを演じた作品だった。先日この映画をビデオで観ようとしたが、一時間ほど観て途中で辞めてしまった。この映画は正直言って、おすすめできる作品ではないと思う。
また、『花と龍』はテレビ作品が何本かあるようだが、私は一本も観ていない。
  
 ところで、錦之助と佐久間良子の『花と龍』の続編である『続花と龍 洞海湾の決斗』は、学生時代どこかの名画座で他のやくざ映画に混じって観たような気もするが、残念ながらこの映画の印象がはっきり残っていない。しかも、ビデオ化もされていないのでずっと観られなかった。が、幸い今月19日に私の所属している錦友会(錦之助ファンのつどい)が大阪で催す上映会でこの『続花と龍』を観られることになった。感想は、映画を観てからぜひ書きたいと思う。



『花と龍』(その2)

2006-11-06 21:15:49 | 花と龍
 火野葦平の『花と龍』は、昭和27年から28年にかけて、読売新聞に連載され、大変な人気を博した小説である。その後、ベストセラーになり、今でも多くの人々が愛読している。主人公玉井金五郎は火野葦平の父であり、マンは母であるが、この小説は、両親のほかにも、吉田磯吉、井上安五郎、品川信健など北九州・若松の著名人を実名で登場させた一種のドキュメンタリー小説であった。小説の前半(序章から第一部)は、別々に故郷を旅立ったマンと金五郎が門司で出会い、沖仲仕として働きながら恋愛結婚し、若松で玉井組を設立するまで。後半(第二部と結章)は、若松で市会議員となった金五郎が妻マンに支えられながら、仲間たちと選挙活動を行い、長男勝則の結婚に助力するといった話。勝則とは火野葦平の本名である。後半は、葦平の自伝小説でもあった。玉井金五郎は、長年にわたり若松の発展に貢献したが、大戦後も生き延び、昭和25年70才で亡くなる。葦平が両親の一代記であるこの『花と龍』を書こうと決心したのは、父金五郎の死がきっかけだった。読売新聞の文化部長に熱心に勧められたこともあった。その頃母マンは健在で、息子の新聞小説の連載を喜んでいたという。マンは、昭和35年1月葦平が自殺した後まで生き延び、息子の死後3年経って亡くなっている。

 最近私はずっと読みかけになっていたこの大部の小説を初めからじっくり読み返してみたのだが、大変面白かった。とくに序章から第一部まではわくわくする面白さで、次々と起こる事件に巻き込まれながらもそれを乗り切って行く玉井金五郎とマンの活躍が生き生きと描かれていた。それと、この小説は、作者が自分の両親を描いただけあって、主人公の二人に対する愛情の込め方も格別で、それが読む者に伝わり、心暖まる感動をもたらす。私は、これまで映画を何度も観ているので、原作を読みながら、映画のシーンを思い浮かべたり、映画には描かれていない部分を興味深く読んだりした。また、逆に映画に描かれていて原作には書かれていない部分にも注目しながら、読んでみた。
 原作と比較して気づいたことを述べてみよう。

 まず、映画の『花と龍』は、原作の前半(序章と第一部)のほぼ三分の二を脚色したものであった。内容の変更はかなりあるにせよ、原作のコンセプトは忠実に映画化していた。とくに最も大切な玉井金五郎とマンの性格や人物像はしっかり表現できていたと思う。錦之助自身、原作をきっちり読み、役作りを入念に研究したことは明らかである。金五郎は善意の人である。暴力に訴えず、誠意を尽くして話し合えば心は通じるといった信念の持ち主である。そして、この馬鹿正直さが金五郎の魅力でもあるのだが、錦之助は金五郎の性格を見事に表現していたと思う。普段はおどけた二枚目半で、いざとなれば度胸の据わったカッコ良い男に変貌する。これは錦之助の得意とするところで、今更彼の卓抜した演技力を褒めることもあるまい。佐久間良子も、マンの性格を実にうまく、しかも自然に表現していた。勝気だが心の暖かいマンに成りきっていたと思う。
 映画のシナリオを書いたのは田坂啓であるが、原作の面白さをうまく生かした脚色だったと改めて感心した。まず、何と言っても田坂啓のシナリオを褒めなければなるまい。原作を読んで、映画と比較してみると、脚色上の工夫の跡があちこちに窺われ、いかにも映画らしく作り変えていたことが分かる。
 最初の部分で、原作と映画が大きく違うところは、原作はまずマンを主人公にして広島の山村から書き始めていることである。が、映画は、序章(一)のマンの部分は全部省略していた。序章(二)の松山での金五郎のエピソードから始めることにしたのだが、その方が映画では導入部として成功していたと思う。この部分もずいぶん省略していたが、古道具屋で助広の小刀に見入っている姿から錦之助の金五郎を登場させたのはなかなか良かった。次に、道後温泉で重要な脇役であるお京(淡路恵子)が登場するが、風呂の中で、金五郎と出会わせたのは映画が工夫したところだった。原作では、お京の付き人のようなやくざ者がいて(般若の五郎という)、金五郎は彼と風呂で出会い、賭場に誘われることになるのだが、映画はここを思い切って簡略化した。ここもすっきりしていて良かった。お京が刺青の入った裸姿で金五郎に会い、会話を交わす場面は、『花と龍』という映画のイメージを印象付けて巧みだったと思う。
 また、映画は金五郎が旅立ちするシークエンスを導入部に置いたので、マンが初めて登場するシーンも引き立った。佐久間良子のマンが紫の羽織を着て、門司の海岸に現れるシーンは目も鮮やかに印象に残る。掘っ立て小屋のような茶屋で、マンが水を一杯ぐっと飲み干すと、そこに居た女衒にだまされかける。そこを錦之助の金五郎が助けるのだが、立ち去ろうとする金五郎をマンが呼び止めて、「ちょっとあんた、うちの邪魔するつもり?せっかくいい稼ぎ口、見つかったのに!」と言う。この一発のセルフで、マンの勝気な性格が描き出される。この場面、もちろん原作にはない。(つづく)