錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

続『浪花の恋の物語』(その3)

2018-03-26 20:54:44 | 浪花の恋の物語
 東映から梅川役のオファーを受けて間もなく、有馬は松竹本社へ城戸四郎社長に会いに行った。昭和34年度(4月から翌年3月まで)の契約更改の前に、社長の了解を得ておこうと思ったのである。
 有馬が話を切り出すと、城戸は顔に不快な表情を浮かべ、内田吐夢監督の東映作品に錦之助の相手役で出演することは承諾できない、断ってくれと言下に答えた。これは有馬も予想していたことだったが、他社出演の契約条件を盾に、有馬も主張を曲げず、結局物別れになってしまった。
 しかし、松竹の側からすれば、有馬の今回の東映出演を了承しないのも当然であった。有馬は、東宝から移籍して以来4年間、松竹が特別扱いしてきた女優であり、映画に出れば集客力を見込める数少ないスターの一人だった。昭和32年春、松竹生え抜きのスター女優だった岸恵子が松竹を辞め、5月にイブ・シャンピ監督と結婚してフランスへ行ってしまった後、有馬が松竹のトップ女優になった。岸と入れ替わるように松竹は東宝を辞めた岡田茉莉子と優先本数契約を結び、女優陣を補強するが、人気という点では岡田より有馬の方が上であった。それだけに松竹は有馬の要望にできる限り応え、昨年は特別に吐夢監督の東映作品に出演することを許したのである。それが、また同じ吐夢監督の東映作品で今度は錦之助の相手役をやらせてほしいと言ってきたのは、城戸社長にとっても松竹の幹部にとっても心外な話で、図に乗るのもいい加減にしろと言いたいほどだった。幹部の中には、強硬手段に出て、再契約を解消すると有馬に迫れば、「ごてネコ」の有馬も(ネコは愛称で、ごてる(=ごねる)ことで製作者の評判が悪かった)引き下がるのではないかという意見を言う者さえいた。
 有馬の東映出演をめぐって松竹と軋轢が起こり、有馬の進退問題にまで発展しようとした時、最後の裁定を下したのが松竹の最高責任者、大谷竹次郎会長であった。




続『浪花の恋の物語』(その2)

2018-03-23 18:48:09 | 浪花の恋の物語
 小一時間ほどの秘密会談で吐夢と錦之助が有馬に梅川役を懇請し、プロデューサーの三喜雄が大川博東映社長の意を伝え、正式に出演依頼したのだと思われる。大川博は、3年前、有馬が初めて出演した東映作品『息子の縁談』を見て、有馬のファンになってしまい、有馬の東映作品出演を常に望んでいるほどだった。錦之助との共演に対しても喜んで賛成し、有馬をVIP待遇で招くつもりだった。有馬は感激し、梅川役を喜んで引き受け、吐夢の音頭で乾杯があり、その後は打ち解けて楽しい会食となったはずである。
 しかし、問題は、有馬が個人的に出演をオーケーしても、松竹本社が他社出演を了承するかどうかであった。当時有馬は一般には松竹の女優と見なされていたが、松竹と専属契約を結んでいたわけではなかった。有馬が松竹と結んでいたのは、年間6本の優先本数契約だった。優先本数契約というのは、主演級のスター俳優を映画会社が囲い込むため、自社が製作する映画に一年間に俳優が出演する最低本数を決めた契約で、1本の出演料も決まっていた。有馬は1本200万円だった。女優としてはトップクラスの高額である。ただし、優先本数契約の場合は月給がなく、ここが、出演料の他に専属料として一定額を毎月支給される専属契約と違っていた。また、専属契約では五社協定(ないし六社協定)によって他社出演を禁止されていたが、優先本数契約では撮影日程などで支障のない限り他社出演も可能であった。
 有馬と松竹との契約条件には互いの了承があれば他社出演も2本まで許可するいう条項も入っていたのだが、実際に松竹以外の映画に出演するとなると大変だった。松竹側が容易には承諾せず、いろいろな要求を突き付けてきたからだ。
 昨年(昭和33年)有馬は他社製作の映画に2本出演したが、松竹本社の要求で思い通りにならず、妥協する結果になってしまった。その2本とは、内田吐夢監督の東映作品『森と湖のまつり』と、にんじんくらぶ製作、小林正樹監督の『人間の條件 第一部・第二部』(公開は昭和34年1月15日)であるが、どちらも有馬は主演ではなく助演であった。実は2本の映画ともヒロイン役を依頼され、有馬自身もそれを望んだのだが、松竹本社に反対され、他の女優に譲らざるを得なかったのである。『森と湖のまつり』のヒロイン役は香川京子に代わり、有馬は特別出演という形になった。有馬はスナックのマダム役(主役の高倉健の元恋人)で出番はワンシーンだけ、セット撮影は夏のわずか3日間で終わった。とはいえ、有馬は、吐夢が感心するほど熱演し、映画公開後も有馬の演技は好評を博した。『人間の條件』は有馬が所属するにんじんくらぶの製作であったにもかかわらず、宝塚の先輩新珠三千代がヒロイン役を演じ、有馬は中国人娼婦の役になり、中国語のセリフを吹き替えなしでしゃべり、熱演している。女優として主演できなかった悔しさを、与えられた役にぶつけたのだろう。
 そうしたこともあって、有馬は今度の東映作品の梅川役をどうしてもやりたいと思い、松竹と直談判してあくまでも自分の主張を通そうと決心したのだった。



続『浪花の恋の物語』(その1)

2018-03-11 22:02:21 | 浪花の恋の物語
 昭和33年の年も押し詰まった師走の29日、錦之助は南青山の実家から有馬稲子の田園調布の家へ電話を入れた。近松の「梅川・忠兵衛」を映画でいっしょにやらないかと話を持ちかけたのだ。監督は内田吐夢、脚本は成沢昌茂、プロデューサーは兄の三喜雄だということ、そして、監督も自分も梅川役には有馬稲子を望んでいることを伝えた。それを聞いて有馬は喜び、ぜひやってみたいと答えた。有馬が大乗り気なので錦之助も喜び、それなら、1月4日か5日にでも兄貴を交えて直接会って打ち合わせをしようということになり、また連絡する約束をして電話を切った。
 三喜雄はすぐに、笹塚の本宅にいる内田吐夢に連絡をとり、有馬が快諾したことと、錦之助が京都へ帰る前に二人で有馬と会うことになったことを伝えた。すると吐夢は5日なら東映本社へ行く用事があるので、会談に顔を出してもいいと言った。監督が来てくれればこれほど心強いことはない。そこで、有馬、錦之助、吐夢、三喜雄の四人が正月早々異例の会談を行なう運びとなったわけである。
 有馬は5日新橋演舞場で歌舞伎を観る予定があり、昼の休憩に劇場を抜け出して打ち合わせに行くことにした。錦之助のほうは有馬に会ってからその足で三喜雄とともに羽田へ向かい、大阪着の飛行機で京都へ帰ることになった。
 会談の場所は有楽町の中華料理店で、内田吐夢の馴染みの店であった。鈴木尚之が一役買って、個室を予約し、映画関係者に知られないように密談の手はずを整えた。有馬は当時松竹と優先本数契約を結んでいた女優であり、とくに松竹関係者には絶対知られないように注意を払った。
 鈴木尚之の「私説内田吐夢伝」に、この秘密会談についての記述があるので、引用しておこう。

――有馬との間で隠密裏に話がすすめられ、出演交渉の日どりがきまった。某日、観劇のため新橋演舞場へおもむく有馬をつかまえて、他の場所で待機する吐夢と錦之助がむかえるという筋書きできあがったのである。問題は誰がその段取りをつけるかにあったが、とにかく松竹側に面が割れていない人物が適切であるという考えから、私に白羽の矢が立った。
 そして当日である。観劇の途中からぬけだしてきた有馬を、待たせてあったハイヤーに乗せると、有楽町の中華料理店へ急いだのである。

 鈴木の記述では、会談の日がいつ頃だったのかが不明で、そこに三喜雄がいたかどうかも分からない。しかし、1月以降の錦之助の日誌を読むと、錦之助は1月5日に京都へ帰り、以後『美男城』の撮影がずっと続いて、1月中は一度も東京に戻っていない。錦之助が帰京するのは2月5日で、これはブルーリボン賞の授賞式に出席するためで、その日の夜にすぐ京都へ帰っている。2月8日に『美男城』がクランクアップして数日間の休暇に入るが、この時錦之助は後援会誌「錦」2月号の巻頭文を書いて、有馬稲子と「浪華の恋の物語」(のちに「浪花」に変更)で共演することを発表している。つまり、2月初めまでには有馬の出演が内定し、タイトルも決まったことになる。錦之助が有馬に連絡をとり、吐夢と三喜雄を加えて秘密会談を行ったのは、錦之助が東京にいた12月29日から1月5日までの間だったことは間違いあるまい。
 鈴木がこの本を執筆したのは、当時から三十数年後のことであり、記憶もあいまいで、間違いも目立つが、水面下で有馬への出演交渉が行われ、鈴木が案内役を務め、有馬を新橋演舞場から有楽町の中華料理店までハイヤーで連れて行き、錦之助と吐夢に引き合わせたことは確かにちがいない。ただし、鈴木自身はこの会談に同席しなかったと思う。(この頃鈴木尚之は、吐夢と親しくしていたとはいえ、東映企画本部の一社員にすぎなかったからである)

「私説内田吐夢伝」で今挙げた引用箇所の続きはこうなっている。

――有馬は吐夢とはすでに『森と湖のまつり』をとおして面識があったが、錦之助とは初対面であった。この出演交渉がスムーズにはこんだことは、のちにふたりの結婚というハプニングを生むことになったことからも、容易に窺い知ることができよう。
 
 鈴木は「錦之助とは初対面であった」と書いているが、これは全くの誤りである。錦之助と有馬は、それまでに雑誌の仕事というおおやけの場で二度会っている。初めて会ったのは昭和30年10月半ば、築地の料亭で雑誌「近代映画」の対談をした時であり、二度目は昭和32年夏、神宮外苑で「平凡」のグラビア写真を二人で撮影した時である。(初対面で錦之助と有馬が意気投合したことはすでに書いた)