錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~若和田先生(その2)

2012-09-03 19:12:37 | 【錦之助伝】~誕生から少年期
 ところで、当時の千代之介と錦之助の二人について、錦之助の暁星時代の同窓生四人の座談会では一人がこんなことを話している。前にも引用した「平凡スタアグラフ」から。

「学芸会で千代之介さんが芝居を書いてやったね。サルカニ合戦を歌舞伎化してやろうということになって、顔をつくる人がいないので錦ちゃんに頼んでさ、東千代之介作、中村錦之助指導というのをやったね。受けたね。これが。(笑)」

 二人で新作の歌舞伎芝居を企画してやったというのだ。もちろん、東千代之介という芸名はまだないので、本名の若和田孝之作ということだろうが、中村錦之助の方は四歳の時からこの芸名を使っていたし、学内でもその名は知られていたので、芸名を使ったかもしれない。それにしても、二人のノリノリ振りが目に浮ぶようだ。

 昭和二十年七月、軍事教練だけでなく学芸会でも生徒指導していた千代之介にとうとう召集令状が来る。今度は本当の壮行会をやることになったのだ。千代之介は、生徒の前でこんな演説したという。別れを惜しむ錦之助も目に涙を浮べて聴いていた。
「俺が、こうやって喋っている間にも先輩たちは爆弾を抱き、銃を執って護国の鬼と化している。俺は君たちが後に続くを信じて……」
 胸が詰まって言葉にならなかった。

 千代之介は甲府で入隊すると、間もなく千葉へ回され、竹槍などを作っていたという。戦線に送られることはなかった。


補助憲兵の頃(昭和20年9月) 前列左端が千代之介

 昭和二十年七月二十六日、ポツダム宣言発表。連合国は日本に無条件降伏を要求。八月六日、広島市へ原子爆弾投下。八月八日、ソ連が日ソ中立条約を破棄、日本に宣戦布告。八月九日ソ連軍が満州へ侵攻。米軍が長崎市へ原子爆弾投下。八月十四日、天皇が御前会議でポツダム宣言受諾の意思を表明。連合国側に通知。大本営が攻勢作戦の停止を発令。八月十五日 玉音放送。終戦。
 錦之助もラジオで玉音放送を聞いた。中学一年、十三歳の時だった。

――終戦の日が来ました。父も母も、広く世間一般の大人たちも子供たちまでもが、天皇陛下のお声を聞いて泣いたといい、そういわれてきてもいます。しかし僕はさっぱり泣けませんでした。泣けるどころか、何の事やら判りませんでした。年が若かったために、国家がどうこうしたのなど、ぴんとこなかったのです。

 錦之助にとって何にも増して嬉しかったことは、池の平に疎開していた母ひなや姉妹や弟の賀津雄が引き揚げてきて再びもとの大家族に戻ったことだった。誰欠けることなく、家族全員が無事息災で団欒の楽しさを取り戻したことだった。錦之助は、みんなと騒ぎ、はしゃぎまわった。ふと見ると、笑っている父時蔵の目にも母ひなの目にも、涙が光っていた。




中村錦之助伝~若和田先生(その1)

2012-09-03 18:04:47 | 【錦之助伝】~誕生から少年期
 錦之助が暁星中学校の一年に編入すると、愉快なことがあった。それは若々しくて面白い教師、若和田孝之先生との出会いだった。錦之助がのちに東映に入ってその不思議な再会に驚くと同時に大喜びしたという、その人の名は、東千代之介である。
 東千代之介は、本名を若和田孝之といい、大正十五年(一九二六年)八月十九日、東京市四谷区塩町に長唄の家元六代目杵屋彌三郎の次男として生まれた。四谷第三小学校に入学し、三年の二学期に暁星小学校へ転校し、昭和十四年暁星中学校に進んだ。一年先輩に錦之助の長兄貴智雄(種太郎)、一年後輩に次兄茂雄(梅枝)がいた。中学三年の頃、弓道部で先輩部員の貴智雄と知り合った。その貴智雄が落第し、中学四年で千代之介と同級となった。千代之介は子供の頃から大の歌舞伎ファンで、歌舞伎役者に憧れていたので、二人は親友になる。すると学期末に千代之介が成績不良で落第してしまい、中学四年をもう一年やる羽目になり、そこで今度は錦之助の次兄茂雄と同級になった。まず、錦之助の兄二人とはそういう関係である。

 東千代之介については、「東千代之介 東映チャンバラ黄金時代」(一九九八年発行 ワイズ出版)にある千代之介自身が書いた「『雪之丞変化』でデビューするまでの私」が貴重な資料として大いに参考になる。この本は千代之介の写真も満載で、千代ちゃんファンにはたまらない一冊である。千代之介が亡くなる二年半ほど前に出版され、あいにく遺作となってしまったという曰く付きの本でもある。


東千代之介(昭和19年)

 さて、昭和十九年四月、千代之介はどうにか最終学年の中学五年に進級する。(千代之介は間違えて昭和十八年と書いているが、昭和十九年が正しい。)が、もうこの頃は戦争もたけなわで、授業どころではない。毎日、学徒勤労奉仕に駆り出された。千代之介が勤めさせられたのは、品川の鮫洲にある防毒マスクの工場だった。千代之介は軍国少年(当時は青年)であったが、この勤労奉仕が嫌で、怠けがちになり、暁星中学校で軍事教練担当の或る教官に相談した。馬場中尉という人だったそうだ。すると、じゃあ教官でもやってみるかという話になり、六月頃、母校の体育科補助教官に採用される。こうして十八歳の千代之介、いや、若和田孝之先生が暁星中学校に誕生したのである。
 前掲書から千代之介自身の文章を引用してみよう。

――補助教官の仕事は、低学年には軍歌演習、高学年には武装して軍事教練を行うことだ。校庭をぐるぐる廻って、「轟沈」「若鷲の歌」など好きな軍歌を声高らかに唄っていたあの頃が、ほほえましく、なつかしい。
 この新教官は張切りすぎて時折大失敗をやらかして恥をかいた。重い背嚢に三八式歩兵銃という完全軍装で駆け足行進をしたときのことだ。普段教官や助手は演習の場合、軽装しているものだが、僕は生徒と同じ装備に機関銃を担いで出かけた。生徒への励ましもあるが、多分に教官としての面子もあった。さて出発、先頭を走る私が「ワッショイ」と言うと、あとに続く生徒たちが「ワッショイ」と唱和する。「ワッショイ」「ワッショイ」と、まことに威勢よく九段から日比谷、半蔵門、そして警視庁前まで来たときには、さすがに元気な私も、顎を出してノビてしまった。先頭で「ワッショイ」と掛け声を掛ける方は初めからお終いまで休む暇なく叫び続けなければならない。生徒の方は大勢だから休めるが、こちらは休めない。とうとう息切れして頭がクラクラでへばり込んでしまった。

 若和田先生は、生徒と年齢も近く、また真面目で愛すべき人柄だったので、すぐに生徒の間で人気が出た。みんな、明るく元気な若和田先生を慕い、先生に付いていった。授業は軍歌の演習や隊列を組んでの行進だけではなかった。若和田先生が校舎の屋上に登り、手旗信号をやってみせたり、ある時などグライダーを借りてきて生徒と実戦さながらの飛行機ごっこなどもしたようだ。
 校庭で青空教室もやった。その時はなんと、若和田先生が市川右太衛門の旗本退屈男の真似をして、講釈師まがいにストーリーを話して聞かせたという。
 若和田先生は徴兵検査で甲種合格になっていた。いずれ学徒出陣で兵隊にとられることが分かっていたので、自分が主役となって自宅に生徒たちを招き、壮行会の練習までしたそうだ。教練の教官をしているという役得を生かし、配給の食糧を大目にもらって、みんなに振舞った。手に入れた酒は自分が飲むだけでなく生徒たちにも試しに飲ませてやったというから、豪気な先生ではないか。

 昭和二十年、錦之助は世田谷の松沢国民学校から、また暁星に戻った。半年振りでガキ大将の錦ちゃんが帰って来たことを、東京に残って心細い思いをしていた友達は喜んで迎えたにちがいない。
 そして、教練の最初の授業。評判の若和田先生が颯爽として現れる。
「なんだ錦坊じゃないか!」
「あっ、先輩!」
 若和田孝之は、小川貴智雄と茂雄の弟である錦之助のことを知っていた。また錦之助も、兄貴たちの級友で歌舞伎好きな若和田先輩のことを知っていた。
 東千代之介と中村錦之助、『笛吹童子』で萩丸と菊丸の兄弟を演じ、揃って一躍東映の人気スターとなり、以後数々の映画で共演をしてファンを沸かせたこの二人の最初の出会いは、こうして始まった。
 錦之助は当時の千代之介の思い出について、「ただひとすじに」の中でこう書いている。
 
――私は、学校のころ、錦坊錦坊と可愛がられたもので、その頃の私は大変腕白だったので、千代之介さんの大切に秘蔵していた日本刀をこっそり持ち出して、庭の木をバサリバサリと叩き斬ってしまったことがあります。あの時は千代之介さんもただあきれて、別に怒りもせず、私もやってしまってからやりすぎたかとちょっと悪い気がした程度でしたが、全く今考えると、腕白だったその頃が一層懐かしくよみがえって来ます。

 これについては、千代之介もコメントしている。生徒を集めての壮行会の予行演習の時だったとのことで、「この中には錦ちゃんも入っており、一杯機嫌で、伝家の宝刀を持ち出し庭の木を斬ったりしていた」と。
 この壮行会の予行演習には、錦之助の長兄貴智雄もいつも参加したという。千代之介はこう書いている。

――壮行会で一番お世話になったのは、錦ちゃんのお兄さんの歌昇さんである。この良き先輩はその頃、鵠沼の六代目尾上菊五郎の家に住んでいたが、壮行会の報を聞く度に入手困難な鮮魚などを持って遠路はるばる出席して下さった。

 文中、千代之介は歌昇さんと書いているが、貴智雄のことで、当時の芸名は種太郎である。彼は六代目菊五郎に心酔し、昭和二十年のこの時期に(四月から終戦までの頃)、六代目の疎開先の家に住み込んでいた。時蔵と錦之助たちが赤坂氷川町の知人の家に移った時、家が狭かったので、彼だけ六代目の家に移ったのかもしれない。


中村錦之助伝~戦中の一家(その6)

2012-09-02 21:20:47 | 【錦之助伝】~誕生から少年期
 三河台の家が全焼したのは、四月二十五日の夜のことだった。
 翌朝、世田谷の家に電話があり、錦之助は三河台の家が焼けたことを知らされた。早速、父時蔵と兄たちみんなで焼け跡に向かうと、一面焼け野原で、あちこちにはまだ煙がいぶり、焼けただれた黒い塊がころがっていた。足元がすくむ思いだった。三河台の家は跡形もなく焼け落ちていた。父も兄たちも悄然としてただ眺めるだけだった。すると、向こうに母ひなの姿が見えるではないか。家族の安否を確かめに、新潟から駆けつけたのだった。あまりに突然で驚き、みんなで母の方へ駆け寄った。母は涙を浮かべていた。それは悲しみの涙ではなく、家族にまた会えた嬉し涙だった。気丈な母は、「東京中の家が焼けたんだから、うちが焼けても当然よ。かえって心配がなくなっていいじゃない」と言ってみんなを励ました。
 すでに日本は本土決戦体制の準備を進めていたものの、米軍との兵力の差は歴然として、敗色濃厚だった。昭和二十年三月、米軍は硫黄島の戦いを終え、四月には沖縄本島に上陸。ルーズベルトが急逝し、米国大統領はトルーマンに代わったが、日本に無条件降伏を求めるべく、米軍の攻勢は激しさを増した。欧州では四月末にイタリアが降伏し、ムッソリーニは銃殺され、続いてヒトラー自殺。五月には、ドイツの降伏によって欧州戦線は終結した。

 五月二十四日未明から二十六日にかけ、東京上空に490機もB29が出撃し、山の手中心に広範囲の空襲を行った。
 五月二十五日、新橋演舞場、そしてついに歌舞伎座が焼けちる
 この時は、我が家が焼け落ちた時以上に、歌舞伎界の人たちのショックは大きかった。歌舞伎座という歌舞伎の殿堂は、カトリック教徒にとっての大聖堂に等しく、これを焼き払われた時の悲嘆の激しさは、言葉に表せないほどだった。


空襲直後の歌舞伎座

 父時蔵と兄とともに廃墟と化した歌舞伎座を訪れた錦之助は、暗澹たる気持ちの中に激しい怒りさえ覚え、そして、日本の必勝を信じて疑わなかった確信は崩れ去り、敗北感にうちひしがれた。
 時蔵と錦之助たちが世田谷の借家を出て、赤坂氷川町の知人の家へ移ったのは、この頃であった。
 錦之助の自伝は二冊ともこのあたりの記述が曖昧である。昭和二十年三月、世田谷の松沢国民学校で錦之助は六年生を終え、四月から松沢国民学校の初等科から高等科(二年制)へ進んだのか、それともすぐに暁星中学校へ入ったのかが分からない。暁星国民学校は六年で初等科を終えると、その後は暁星中学校(四年ないし五年制)へ編入される。赤坂氷川町に移った時点で、錦之助がまた暁星に復学したとすると、中学一年の一学期の途中からということになろう。その場合は早くて五月初め、遅くとも六月半ばには転校したと思われる。また、松沢国民学校初等科を終えて暁星中学校へ入ったとするならば、しばらくは世田谷から九段下(または飯田橋)まで電車通学していたことになる。京王電車で新宿まで行き、新宿から市電あるいは省線で通っていたのだろうか。
 ところで、赤坂氷川町というのは、当時は東京都赤坂区氷川町(現・港区赤坂六丁目)で、地下鉄赤坂駅(TBSのあるあたり)の南側、三河台(六本木)から溜池に向かって六本木通りを行けば10分ほどのところにある。世田谷の家を出たのは、家主が戻って来たからで、赤坂氷川町の家は時蔵の元内弟子の家で、彼の家族がみな疎開してしまい、がらんとしていたからだという。あまりいい家ではなかったらしい。錦之助は「あげ羽の蝶」でこう書いている。

――ガケの下の、陽当たりの悪い長屋ゼンとした一軒でした。雨がちょっと降っただけで道がぬかり、となり近所も陽気でさわがしい人たちばかりでした。はじめてみる庶民生活といった感じなのですが、僕には心地よく、共感さえおぼえました。

 現在の高級住宅地・赤坂とは雲泥の差であるが、錦之助とっては、向う三軒両隣といった長屋生活は楽しかったようだ。ここでの生活は、戦後になってもしばらく続く。


中村錦之助伝~戦中の一家(その5)

2012-08-31 01:16:02 | 【錦之助伝】~誕生から少年期
 世田谷の家へ移り、錦之助は、暁星国民学校で六年生を終える頃、松沢国民学校へ転校すろ。当時は疎開した生徒が多く、学校には少数の生徒しかいなかったと錦之助は書いている。が、校則の厳しい私立のお坊ちゃん学校の暁星から、東京郊外のハナタレ小僧や悪ガキの多い公立学校へ転校したことは、錦之助にとって面白い体験だったようだ。
 「あげ羽の蝶」によると、松沢国民学校には顔をきかせていた悪童がいて、そいつは俳優の杉狂児の息子(長男の杉義一の弟)で、その子分がこれまた俳優の星ひかるの息子だったそうだ。錦之助は、この二人とよく喧嘩をしたという。この悪童二人を相手に錦之助は一人で立ち向かい、いつも勝っていたと書いているが、本当なのだろうか。
 杉狂児は、ご存知のように後年ベテランになってから錦之助を脇で支えた名喜劇俳優であるが、昭和十年以降、数々の日活多摩川作品で星玲子(マキノ満男と結婚)とコンビを組み一世を風靡した人気スターだった。昭和十八年末から昭和二十年前半は映画界を離れ、杉狂児一座を結成して慰問巡業していた。長男の杉義一は、映画の子役から戦後東横映画(のちの東映東京)の俳優となり、錦之助も『青春航路 海の若人』で共演している。錦之助は名前を挙げていないが、喧嘩相手というのは四男坊の杉幸彦だったと思われる。彼も映画の子役から、戦後は日活の俳優となりテレビでも活躍した人である。映画初主演は日活多摩川作品の『次郎物語』(昭和十六年 島耕二監督)で、主役の次郎(幼年時代)だった。
 悪童たちのいる松沢国民学校に転校した錦之助はどうなったのか。

――向こう気の強い僕は転校したばかりの新入りのくせに、たちまち悪童仲間の親分みたいな格におさまりました。と、僕の貫禄はたいしたもので、だれかがいい争ったり、なぐりあいなどしていようものなら、すぐ別のだれかが僕を、「小川、けんかだぞ、来てくれ、来てくれ」といって、呼びにくる始末でした。

 話を空襲に戻そう。
 一月二十七日に銀座・有楽町を直撃した空襲についてはすでに述べたが、二月以降も空襲は連日のように東京で続いた。
 錦之助は空襲が恐くてたまらず、サイレンが鳴ると、すぐに逃げ支度をしたそうだ。父時蔵はそんな錦之助に、一つの役目を仰せつけた。それは、空襲警報が鳴ったら、必ず祖父母の位牌を持って避難するということだった。時蔵は、子供の錦之助をご先祖様に守らせたかったのだろう。そうした親心を知って知らずか、十二歳の錦之助は防空壕にもぐり、ブルブル震えていた。

 三月一日には空襲によって明治座と浅草国際劇場が焼け落ちる。
 そして、三月十日の零時直後、B29およそ300機が東京の下町に爆撃を開始した。これが歴史に悪名高い米国による東京大空襲である。風の強い日を見計らった計画的なもので、木造家屋が密集する一帯で焼夷弾による火災の延焼を狙ったのだった。空襲は十日の未明まで続き、東京の約三分の一を焼き払った。死者は十万人以上、被災者は百万人以上と見積もられている。長崎での原爆の死者が約七万人、広島での原爆の死者が約十二万人と言われるが(もちろん、被爆者で後に死亡した人を合わせればもっと多い)、この東京大空襲も、戦争とはいえ、罪のない民間人を無差別に殺傷した米国政府による非道行為であった。


東京大空襲後の都心部

 この日の夜の様子を錦之助は、「ただひとすじに」の中でこう書いている。

――東京都の下町一帯を火焔につつんで大空襲が夜の空を真紅の色に染めました。私たちはふるえる足をふみしめて世田谷から夜の更けるのを忘れてじっとみつめておりますと、あの火の海も次には私たちの上にくるかと思うと何を考えるのもいやになるような息苦しさでした。

 新潟県の池の平に疎開していた母ひなは、大空襲のことをラジオで聞くと、すぐに汽車に飛び乗り、何時間もかけて世田谷の家へやって来た。そして、家族の無事を見てほっとし、力が抜けて畳の上にへたり込んでしまった。その日、久しぶりに会った母を囲み、遮蔽幕と暗い電燈の下でささやかな宴を開き、父と兄三人と錦之助は、最後になるやも知れぬ団欒に、努めて明るく振舞ったという。
 東京への空襲は、この後も続き、四月十三日(皇居の一部や明治神宮の本殿・拝殿が焼失)、四月十五日にも、大規模な空襲があった。


中村錦之助伝~戦中の一家(その4)

2012-08-30 00:11:27 | 【錦之助伝】~誕生から少年期
 なぜ、錦之助が頑強なまでに東京に残ることを主張したかといえば、良き歌舞伎役者になるためには東京を離れてはいけないと子供ながらに思っていたからだった。子役として舞台に立つ機会はなくなっても、錦之助は真剣に芸事の稽古を続けていたという。
 三河台の大きな家は、母たちが疎開してからはがらんとして、父時蔵を中心に兄三人と錦之助、そして世話をする二、三人の弟子だけになった。長兄の貴智雄(種太郎)は、当時すでに十九歳になっていたが、体が悪かったため兵役は免れていた。次兄の茂雄(梅枝)は十六歳、三兄の三喜雄が十四歳であった。

――私たち兄弟は寂しそうな父に心配をかけてはいけないと暗黙のうちに言い交わしていたのです。なにか弓の弦をピンと張ったような緊張した生活でした。とぼしかった食糧も発育ざかりの私たちには全く不足なものでした。しかし、不平ももらすことなく私たちは分けあって食べたものでした。
 疎開先から母が婆やと共に重いリュックを担い大きな袋に食糧をつめて度々はこんでくれました。(中略)母が二日程いて疎開先に帰ります。兄たちも寂しそうに母を見送っておりました。(中略)母もまた、心を残して侘しさを瞳にたたえながら婆やと共に空のリュックと袋を持って帰って行くのでした。

 歌舞伎座は閉鎖されたとはいえ、昭和十九年の秋から、時蔵は吉右衛門劇団とともに新橋演舞場に出演、十月にはまた慰問巡業をしていた。しかし、それも昭和十九年の暮までだった。

 昭和十九年の年も押し詰まった十二月二十九日、吉右衛門と時蔵の末弟・中村もしお(のちの十七代目勘三郎)が帝國ホテルで結婚式を挙げる。相手は六代目菊五郎の長女寺島久枝であった。その馴れ初めから結婚までの経緯は、勘三郎著「やっぱり役者」に詳しい。面白いので一読をお勧めする。十二月二十九日をわざわざ選んだのは、一年間の歌舞伎の興行が終了した後が披露宴をするのに望ましかったからであろう。勘三郎によると、いつ空襲が来るか気が気でなかったそうだが、この日は幸い空襲がなく、無事に結婚式を済ませたという。錦之助も列席したにちがいない。
 この新婚夫婦の間に生まれた最初の子が波乃久里子(本名波野久里子)で、結婚式のほぼ一年後、昭和二十年十二月一日に生まれている。菊五郎は、敗戦の年の子だから「敗子」にしろと言ったそうだが、夫婦の疎開先だった神奈川県久里浜の名を借りて、久里子と名づけたという。

 昭和二十年になると、いよいよ戦争は激しさを増し、国内各地に米軍による空襲が多発し、本土決戦の様相を帯びてくる。すでに東京はじめ大都市では急速に疎開が進み、また、成年男子の多くは徴兵され、学徒動員も強化されて、東京も過疎化していた。
 それでも正月の歌舞伎興行は行われた。新橋演舞場では菊五郎が「赤垣源蔵」を演じ、「鏡獅子」を踊った。それに負けじと吉右衛門も、明治座で、時蔵、芝翫との共演で「石切梶原」を熱演した。が、公演中、何度も警戒警報が鳴り、芝居を中断しなけれならなかったという。
 東京の中心地、銀座をめがけて米軍機B29が空襲を行ったのは昭和二十年一月二十七日昼のことであった。それまで米軍による空襲は、主に軍需工場や港湾施設を狙ったものだったが、この日は東京郊外の武蔵野町にあった中島飛行機武蔵製作所を狙って出撃した76機のB29のうち56機が有楽町・銀座地区へ目標を変更、空爆を行い、有楽町駅は民間人の死体であふれたという。新富町の五階建ての松竹本社にも焼夷弾が落ち、多くの死傷者を出した。四階に居た大谷竹次郎社長は爆風のため鼓膜を破られたという。

 東京に留まった時蔵と息子四人が、三河台の家から世田谷の知人の家を借りて移り住んだのは、それから間もなくのことだったと思われる。おそらく昭和二十年の二月になってからではなかろうか。
 三河台の家の近く、龍土町(錦之助が生まれた家があった所)には、歩兵第三聯隊の近代的設備を誇る兵舎があり、空襲で狙われる確率が高かったからだ。ただし、その頃歩兵第三聯隊の主力は満州に渡り、昭和十六年以降は新たに編成された近衛歩兵第七聯隊が駐屯していた
 錦之助の自伝「ただひとすじに」によると、三河台の家は売り払ったのではなく、父時蔵と長兄貴智雄がしばしば様子を見に行って、交代で泊ることにしていたという。その時のことを錦之助はこう書いている。

――それは私たちにとって父が泊っても長兄が泊っても不安なものでした。そんな夜、無気味な空襲を報せるサイレンが唸ると、もしものことがなければと防空壕の中で神に念じたものです。爆弾が落ちても父と一緒に死ぬのならと思うと、その頃の私はそれ程恐怖感がなかったのですが、父が三河台の家に泊りにいっている時にサイレンでもなると不安でその夜は眠れない程でした。