錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『赤穂浪士』と『忠臣蔵』(その七)

2008-04-30 19:36:42 | 赤穂浪士・忠臣蔵
 錦之助の小山田庄左衛門が初登場するのは、前半(天の巻)の半ばすぎ、大石内蔵助が招集した赤穂城での評議の場面である。大広間に裃姿で居並ぶ数十人の赤穂家臣の中で、錦之助はひと際目立った登場の仕方をする。ここはぜひ注目したい。錦之助にとって、オールスター映画初お目見え、それに初のカラー映画出演だからである。(もちろん、これは多くの東映俳優にとって、そうだった。東映のカラー映画は、1953年11月公開の『日輪』以来、約二年ぶり。錦之助は、自分の顔がどんな肌合いに映るか非常に心配したと語っているが、これは杞憂で、まったく問題なし。)
 内蔵助(右太衛門)の事情報告が終わり、家臣の方へカメラが右から左へパンすると、錦之助のところでぴたりと止まる。カメラはさらに寄って、膝に両手を置き正座している錦之助のバストショット。月代(さかやき)から額のあたりがまぶしく、目元くっきり、紅い唇をきりりと結んだ、若くて凛々しい錦之助である。厳しくて真剣な表情をしている。籠城なんてもってのほかと大石に反論する弱腰な家老(大野九郎兵衛=香川良介)に対し、錦之助の小山田が言い寄る。「しからば、謹慎のほかに道はないと仰せられるのか!」今度は立ち上がって、「大野殿、いかに!」みたいなセリフ。小山田は若いだけあって血気にはやる急進派である。だが、凛々しい武士姿の錦之助の出番はこれでおしまい。
 
 後半(地の巻)になると、錦之助の小山田は、江戸で町人に成りすまし、菓子の行商をしながら吉良邸の動向を探っている。なぜ菓子なんかを売っているんだろうと思うが、多分錦之助の甘い顔立ちに引っ掛けたのかもしれない。仮の名を近江屋伝吉といい、歌舞伎の世話物に出てくる優(やさ)男といった感じだ。荷物を薄茶色の風呂敷に包んで背負い、両手で胸の前の結び目を押さえている。若い錦之助の着流し姿が見られるわけだが、堅気の町人なので襟元はきちんとそろえ、裾も乱れないような着こなしである。荷物を担いでいない姿は、まだ二十三歳の錦之助、少年のようにスレンダーだ。肩の肉もついていないし、お尻も小さい。まあ、これはさほど重要ではない。ある日、同じ長屋に住む貧乏浪人とその美しい娘の窮状を知り、親切心から彼らの未納の家賃を払ってやる。ここから錦之助と田代百合子のラブストーリーが始まる。こっちの方がずっと重要だ。とくに当時の若い女性ファンは、一体どうなるのかと気を揉んだことだろう。
 この頃の東映時代劇のラブシーンや濡れ場はさりげないものばかり。抱き締め合うか、せいぜい手を握り合うか、顔と顔が接近しても途中でカットといったシーンがほとんどである。
 この映画の中で錦之助と田代百合子は二度抱き合う。一度目は田代がイモリを恐がって、錦之助に抱きつく。二度目は、田代に遮られて討入りに行けなくなった錦之助が泣きながら田代を抱きかかえているシーンで、これは挿入カット。この頃の錦之助はまだ痩せていてひ弱な感じがあり、一方、田代百合子はむっちりして重量感があるので、お似合いと言えばお似合いだが、一歳年上の田代百合子のパワーに錦之助が負けているような印象を受ける。
 二人で、貸家を見学にいくシーンがほほえましい。これから同棲する若い男女がいそいそとアパートを借りに行く感じである。二階家だし、病気がちな浪人の父親は、一階に寝かせておけばよい。
 二人を貸家に案内し、締め切った雨戸を開けるのが赤木春恵。二人を気遣って、二階へは上がってこない。二階の窓際から外を眺め、錦之助がこう言う。
「ああ、これは涼しい。ここに決めましょう!」
 早いになんの、即決である。嬉しそうな表情の田代百合子。
 これから、ちょっとしたラブシーンが展開されるが、これは見てのお楽しみ。ただし、この時は一種の予行練習だと言っておこう。錦之助に抱きついた田代百合子が、すぐに離れて、
「はしたない真似、お許しください。」
 それに対し、「いやー、別にー」と言った錦之助のセリフが現代調で面白かった。

 錦之助が吉良邸に菓子を売りに来て、付き人たちに監禁され、拷問されるシーンはちょっとハラハラする。首謀格が目つきの恐い清川荘司で、錦之助に飲んでいたお茶をぶっかけることから始まって、弓か鞭のような細い棒で、錦之助を何度も打ちつける。顔面に一発打つと、錦之助の額から血が流れる。
 その後、場面が変わって、田代百合子が怪我して寝ている錦之助を看病するシーン。田代百合子が錦之助を看病する場面は、『新選組鬼隊長』にもあった。この時、錦之助は労咳病みの沖田総司で、田代はその恋人役だった。
 女が男を看病するというのは、女の側から言うと、母性本能を刺激するし、また男を自分のものにしているといった安心感と、男に尽くしているといった幸福感を覚えるようだ。まあ、これも一種のラブシーンで、この映画の見どころだと言えるだろう。錦之助の話によると、この時、セットの家で天井のない高いところを照明の人たちが重いライトを持って動き回っている。それが目に付き、下で寝ていて落ちてこないかと心配でならなかったそうだ。(つづく)



『赤穂浪士』と『忠臣蔵』(その六)

2008-04-30 12:12:41 | 赤穂浪士・忠臣蔵
 小山田庄左衛門は、討入りに加わらず、「四十八人目の男」と呼ばれている。これは大佛次郎の命名であるが、いささか問題点がある。
 ちなみに、赤穂四十七士というが、実は、討入り当日に一人逃げ出している。いわば四十七人目の男だ。寺坂吉右衛門という足軽で、赤穂浪士の中では最も身分の低い者だったという。彼がいなくなった理由も時日も不明で、討入り直前という説と討入り後という説とがあるようだが、いずれにせよ、赤穂浪士が吉良上野介の首をとって引き上げる時には彼はすでに消えていた。だから、後日切腹もしなかったし、泉岳寺にも彼の墓はない。討入りをして本懐を遂げたのは、本当は四十六士である。
 それはともかく、もう一つ。
 「四十八人目」は、小山田ではなく、毛利小平太とするのが普通のようだ。森田草平は、夏目漱石の門下で、すでに忘れられた小説家の一人になってしまったが、彼は大佛次郎の新聞小説『赤穂浪士』に刺激されたのか、ほぼ同じ時期に『吉良家の人々』と『四十八人目』という二つの中編小説を書いている。先日私は神田の古本屋でたまたまこの本を見つけたので購入し、『四十八人目』の方を読んでみた。その中に小山田庄左衛門も少しだけ登場するが、主人公は毛利小平太である。この小説の内容は省略するが、通説の毛利小平太とは違った解釈で、隠し妻を登場させ、彼の悩める胸の内を連綿と描いていた。毛利小平太は、脱落者の中でも目立った人物なのでご存知の方も多いかと思う。が、小山田ほど悪し様に言われることはない。通説によると、彼は討入りの秘密を兄に打ち明けたため、諌められ、もしおまえが参加するならお上に通告すると言われて進退窮まり、討入りを断念する。毛利小平太は、大佛次郎も『赤穂浪士』の中で取り上げ、また、東映五周年記念作品『赤穂浪士』でも登場する。映画では片岡栄二郎が演じていた。
 さて、大佛次郎は、戦後になり、『赤穂浪士』を書いた二十三年後に、その中の小山田庄左衛門を主人公にして新聞小説を書いた。この小説は、1951年(昭和26年)4月から11月まで読売新聞に連載され、そのタイトルが『四十八人目の男』だった。大佛次郎は、よほど小山田という男に愛着があったのだろう。タイトルは、森田草平の小説の題名を借りたようだが、その辺の事情は分からない。それで、小山田という人物が戦後再び脚光を浴びた。私はこの本も古本屋で文庫本(徳間文庫)を見つけて購入し、目下読みかけである。ところで、この小説は単行本が発刊後すぐ、同じタイトルで映画化された。1952年の新東宝の作品で、監督は佐伯清、脚色には大佛次郎も加わっている。小山田をやったのは大谷友右衛門(現在の中村雀右衛門)で、恋人役は山根寿子、大石内蔵助が大河内伝次郎、吉良上野介が高堂国典だったとのこと。私はこの映画を観ていないが、観られるものなら観たいと思っている。

 くどいようだが、実際の小山田庄左衛門について最後にもう少しだけ補足しておきたい。赤穂浪士関連の本を何冊か読んで調べてみると、どれも小山田の記述はわずかだが、次のようなことが分かる。
 小山田庄左衛門が江戸の同志宅から逃亡したのは、元禄15年11月終わりか12月初め頃。討入りが、元禄15年(1702年)12月15日であるから、その二週間前である。この時小山田は数え年で25歳だったという。同志宅というのは、堀部安兵衛の借家のようだが、被害にあったのは片岡源五右衛門とも堀部安兵衛とも言われている。小山田は彼らの留守中、金五両(または三両)と小袖を盗んで逃げた。金品を盗んだのは事実のようだが、女と逃げたかどうかは、不明である。この頃小山田は身を持ち崩し、湯島天神下の湯屋の遊女に入れ込んでいたらしい。それで、女と逃げたということになったようだ。
 小山田庄左衛門という男は、苦労知らずのお坊ちゃんだったように私は思う。しかも独身で、それなりにイイ男だったのではあるまいか。浅野家が断絶する前、小山田は江戸詰めで100石の俸禄をもらっていた。20歳代にしては、相当な高給取りである。それは、老齢の父・十兵衛が隠居して、息子の庄左衛門に家督を譲ったからだ。十兵衛は、隠居して娘婿の家に住み、一閑(いっかん)と名乗っていた。厳格で一徹な父親だったらしい。彼が自害した時、81歳だったというから、庄左衛門は55歳の頃に出来た子である。母親のことは分からない。姉が一人いたことは確かだ。きっと家族みんなから跡継ぎとして大切に育てられたのだろう。こういうお坊ちゃんが、主君の刃傷事件でお家断絶、下屋敷の住居も引き払わされ、失業して浪人になってしまったのだから、身を持ち崩すのも無理はなかったと言えよう。(つづく)



『赤穂浪士』と『忠臣蔵』(その五)

2008-04-22 19:39:13 | 赤穂浪士・忠臣蔵
 小山田庄左衛門は、実際にいた人物である。赤穂浪士で盟約に加わりながら、土壇場で討入りに加わらず、落伍した。こういう最後の脱落者は、浪士の中に四、五名はいたようだ。(毛利小平太もその一人である。)彼らは、赤穂義士ではなく、赤穂「不義士」と言われている。が、小山田はその中で最も評判が悪い。なぜか。実際の小山田は、湯屋の遊女に入れ込んだ挙句、借金で首が回らなくなり、討入り間際になんと同志の金品を盗んで行方をくらましたからである。
 それだけではない。隠居中で病身の父親が、赤穂浪士の討ち入り後に自分の息子の不参加と悪行を知り、なんと切腹してしまう。それで、小山田は、裏切り者、盗人というだけでなく、親不孝者という悪名まで着せられてしまった。

 講談で語られる小山田庄左衛門は、もっとひどく、そのだらしなさが誇張されている。討入り当日、深川で湯屋の馴染みの女に出会う。女に誘われ、どこかにしけ込み、酒を飲んで泥酔してしまう。そのまま眠り込んで、目が覚めてみると、翌朝で、もうとっくに討入りは終わっていた。その直後に、小山田はこの女と江戸を出奔する。その後どこかで漢方医をやっていたのだが、強盗に殺されたという。これはほとんど作り話らしく、いくら何でも小山田が可哀相なくらいである。

 では、大佛次郎の『赤穂浪士』はどうか。小山田庄左衛門は、悩める若者として暖かい目で捉え直されている。これはフィクションであるが、小山田は、幸(さち)という浪人の美しい娘と相思相愛になる。いずれ死すべき自分が添い遂げようのない恋をしてしまったことに悩むわけである。このあたりの経緯は、映画でも原作に忠実に描いている。ただ、小山田の揺れ動く心理描写が映画では描き切れていないが、これは仕方ない。しかし、後半が原作とはまるで違う。原作では、小山田が幸と一時的に別れる決心をし、別れの手紙を書く。それを読んだ幸が絶望し、自殺してしまうのだ。それを知った小山田は、自責の念にさいなまれ、身を持ち崩していく。それでも、主君の仇を討つことの意味を自問自答し、人生の幸福を考え、人にはもっと社会のために尽くす大きな使命があるのではないかと悟っていく。ある時、江戸で小山田は幸にそっくりの遊女と出会い、この女に溺れ、ついに討ち入りを断念し逃亡する。原作では、同志(片岡源吾)の金品を盗んだことは、一言触れただけに済ませ、父親が自害したことも書いていない。

 映画はどうか。錦之助の小山田は、幸(田代百合子)との純愛を突き進む。幸は父親を亡くし一人ぼっちになってしまう。討入りの当夜、小山田は幸に自分の身分を打ち明け、集合場所に行こうとする。しかし、幸にすがりつかれ、どうしても行くなら私を殺して!とまで言われ、ついに振り切ることができなくなって、討入りを断念する。ああ、何たることか!
 錦之助は当時人気鰻上りの若手ナンバーワン・スターである。遊女に溺れ、同志の金を持ち逃げするような卑劣な男にしたものなら、ファンが容赦しなかったにちがいない。映画の中で、錦之助の小山田は、松田監督がファンの目を意識してか、非常に好意的に、またスターらしく描いていたと思う。
 しかし、この役でも、ファンの評判はかんばしくなかったようだ。なんで錦ちゃんを討入りの仲間に入れなかったのよ!女なんか捨てて、千代ちゃん(浅野内匠頭役の東千代之介)の仇を討たせてあげなければ、許せない!という不満があちこちで沸いたらしい。抗議の手紙も東映本社に殺到したにちがいない。(これはあくまでも私の推測である。多分女性ファンの気持ちはこうだったのではあるまいか。)

 私ならストーリーの最後を以下のように変えたであろう。
 幸は、小山田に打ち明けられ、愕然とする。それでも、気を取り直し、二世を契った男のため、本懐を遂げさせてやろうと思い、彼を送り出す。彼が行った後、幸は短刀を首に突き当て、自害してしまう。小山田は、家を出た後、幸のことが気がかりで、集合場所へどうしても足が向かない。あちこちさまよった末、集合の刻限が過ぎ、そしてついに討入りに加われなくなってしまう……。どうですかね?(つづく)



『赤穂浪士』と『忠臣蔵』(その四)

2008-04-22 16:12:51 | 赤穂浪士・忠臣蔵
 五周年記念作の『赤穂浪士』は、松田定次監督をはじめスタッフ全員が入念に準備し総力を挙げて作った映画だけあって、その成果が見事に現れていた。まず、脚本が良く練れていて、ストーリー展開、場面構成が鮮やか。セリフも簡潔明瞭で登場人物の性格がうまく表されていた。また、スピード感あふれる細かいカット割りは松田定次監督の特長であるが、川崎新太郎(撮影担当)の規範的なフレームと緩急自在なカメラワークがマッチして、この長時間に及ぶ映画を見飽きないものにしていた。私はこの映画にまったくたるみを感じなかった。
 豪華なセットと衣裳の色彩も申し分ない出来ばえで、深井史郎の音楽も荘重で良かった。彼の音楽は、画面に寄り添うように、あるいは画面に忍び込むように入ってくるので、音楽に気づいた時には映像とともに相乗効果を上げていて、観る者の感情がぐらぐらと揺さぶられている。これがホンモノの映画音楽であろう。
 
 さらに、この映画を傑作にした何よりもの要因は、オールスターの配役が奇跡的なほど適材適所で、誰もが熱演していたことである。
 市川右太衛門の大石内蔵助は、千恵蔵の陰気で力んでばかりいる内蔵助よりずっと良く、あだ名だった昼行灯(あんどん)らしさを髣髴とさせる。右太衛門のこの内蔵助は一世一代の名演だったと思う。内蔵助の肝の据わった大人(たいじん)ぶりを右太衛門は十二分に表現していた。(右太衛門は、この作品で京都市民映画祭の主演男優賞を受けた。監督賞は松田定次だった。)
 月形龍之介の吉良上野介は、気品といい貫禄といい最高で、単なる憎まれ役を超越し、足利氏以来の名門の高家筆頭とはかくあるべしといった存在感であった。あたりを威圧し、近寄りがたさすら感じる。歴代の上野介役者の中で月形がダントツに良いと言われるのも、うべなるかな。「この世の中は金じゃ。金、金、金、……」この「金」という言葉を何度口にしたことだろう。耳について離れない。
 浅野内匠頭の東千代之介も良かった。良かったというのは役柄に合っていたということだ。いかにもぽっと出のお坊ちゃん大名らしい。政界の裏表も知らず、自分の狭い信条にこだわって、指南役の吉良上野介への付け届けをないがしろにした。吉良上野介に礼儀知らずと思われ、無視されるのも当然であろう。内匠頭が必死になって教えを請えば請うほど、上野介から馬鹿にされる。千代之介の内匠頭は、そのあたりの鈍感さと、いざとなってからの慌てぶりが良く表されていた。千代之介は、この大役を汗だくになって必死で演じたと語っているが、それが内匠頭の切羽詰った心境とぴったり一致し、画面からにじみ出ていた。私は時々思うのだが、錦之助の浅野内匠頭より千代之介の方が内匠頭らしいのではないだろうか。錦之助の内匠頭は、未完成な名君を工夫して演じていたとはいえ、それでも立派すぎるかもしれない。あれだけ家来たちのことを思っている内匠頭なら、最後まで我慢し続け、刃傷には及ばないのではないかと。もちろん、刃傷がなければ、「忠臣蔵」の話が始まらないわけであるが……。

 大友柳太朗の堀田隼人は、無表情で薄気味悪いところが良く、狂気が漂っていた。(大友は、十周年記念作でも同じ堀田隼人をやっているが、こちらは演技が支離滅裂で、ひどかった。)
 進藤英太郎の蜘蛛の陣十郎も適役。(次作『忠臣蔵』で、進藤の吉良上野介はどうも似合わなかった。)
 小杉勇の千坂兵部は、訥弁でいかにも東北の大藩(米沢15万石)の家老らしい。小杉勇は、戦前から現代劇の名優だったが、この頃は東映に在籍し、監督兼俳優をやっていた。宮城県石巻生まれで、あの独特の訛りは東北弁である。
 原健策の片岡源吾右衛門、薄田研二の堀部弥兵衛は、まさにはまり役。両者とも絶品である。切腹を前にした千代之介の内匠頭と原健策の片岡源吾の対面シーンは、錦之助と原健策の対面シーンと比べてみるのも一興であろう。私はどちらも好きである。薄田の堀部弥兵衛は、以後定番化し、『青年安兵衛・紅だすき素浪人』『忠臣蔵』十周年記念作『赤穂浪士』でも同じ役を演じ続ける。(正確には、昭和19年製作大映の『高田馬場前後』で扮した堀部弥兵衛が初役。これは私が観た戦前の松田定次監督作品の傑作の一本。薄田研二は、本名の高山徳右衛門で出演していた。)
 伏見扇太郎の大石主税も爽やかで良かった。扇ちゃんはこの頃まだ19歳だったという。彼の大石主税は、私の観たすべての主税の中で一番良かったと思っている。
 片岡千恵蔵の立花左近は、特別出演であるが、彼の大石内蔵助より私は好きだ。先日、マキノ雅弘と池田富保が監督した昭和13年製作の『忠臣蔵』を観た。千恵蔵は浅野内匠頭と立花左近の二役をやっていたが、とうも私はこの浅野内匠頭もうまいとは思えず、立花左近の方が良いと感じた。

 その他、オールスター映画なので俳優を挙げていくとキリがない。加賀邦男(小林平七)、宇佐美淳(柳沢吉保)、清川荘司(吉良家の付き人の一人で、錦之助を何度も鞭打つ憎っくき役)、河野秋武(目玉の金助)、三島雅夫(犬医者丸岡朴庵)が目立ったところか。
 女優陣では、高千穂ひづる(お仙)、田代百合子(さち)が良い役で好演。喜多川千鶴、千原しのぶ、浦里はるみは、役不足か。(喜多川千鶴には瑶泉院をやらせたかった。これは『悲恋 おかる勘平』で実現したが……。)それと内蔵助の妻りくを演じた三浦光子が、地味で良かった。(三浦光子は妖艶な悪女役が多いが、こういう武家の妻の役も落ち着いていて良い。りくの役は、木暮実千代も素晴らしいが、甲乙つけがたい。)
 ところで、大川橋蔵は、まだ東映に入ったばかりで出演していない。もちろん、東映城の二代目三人娘(丘さとみ、大川恵子、桜町弘子)も同様である。
 
 最後に、錦之助が演じた小山田庄左衛門を忘れてはならない。この役は、今思うと、この時代の東映では錦之助以外に出来る俳優はいなかったと思う。残念ながら、今回は長くなってしまったので、詳しくは次回に。(つづく)



『赤穂浪士』と『忠臣蔵』(その三)

2008-04-18 17:57:29 | 赤穂浪士・忠臣蔵

 東映の二本の『赤穂浪士』で大佛次郎の原作に比較的忠実なのは、五周年記念作の方である。特に映画の前半はほぼ原作通りだと言えるが、後半は、ずいぶん変えている。錦之助が演じた小山田庄左衛門の描き方も多少変えているが、堀田隼人(大友柳太朗)を最後まで登場させた点が大きく違う。家老の千坂兵部(小杉勇)も原作では、赤穂浪士の討入りの前に主君に命じられて国元の米沢に帰ってしまうのだが、映画では最後まで上杉家のため活躍することにしてある。ただ、この辺の脚色は映画を分かりやすくまた面白くするためには問題ないと思う。
 一番違っていて問題なのは、大石内蔵助(市川右太衛門)の東下りで、立花左近(片岡千恵蔵)との対決場面を入れたことである。原作では、立花左近はまったく登場しない。大石内蔵助が九条家御用人の立花左近に化けて東下りし、途中でホンモノの立花左近が現れ、この二人が宿屋で対面するというシーンは、戦前(といっても大正時代らしい)マキノ省三が「忠臣蔵」映画で創り出し、当たりを取った名場面だったという。大佛の原作では、大石は垣見五郎兵衛と名前を変え、江戸に入るが、東下りの部分はさらりと書いているにすぎない。マキノ省三は、マキノ雅弘、マキノ光雄、松田定次の実父で、「映画の父」とも呼ばれる人物であるが、明治末期から昭和の初めまで「忠臣蔵」映画を何本も撮った。この辺の歴史は私も詳しくないし、戦前の「忠臣蔵」映画は二本しか観ていないので省略するが、以後マキノ一家が関係する「忠臣蔵」映画では必ず、ニセモノとホンモノの立花左近が対決するこの場面が描かれることになったという。だから、五周年記念作の『赤穂浪士』でも、原作に書かれていないこの場面を大々的に取り入れたわけである。私はどうもこの対決場面にわざとらしさを感じ、また大芝居すぎてこの映画では違和感を覚えるのだが、片岡千恵蔵を立花左近の役に当てた以上、仕方がなかったのだろう。右太衛門と千恵蔵が対決しなければオールスター映画にならないからである。両御大の対決は、東映オールスター映画では一番の見せ場だった。というか、東映という映画会社にとって一番重要な場面だったと言えよう。しかし、私はと言えば、子供の頃この二人の対決シーンにそれほど魅力を感じず、また長いこと二人のおじさんがにらめっこをしているなと思う程度だった。この気持ちは今でも変わらない。
 ところで、不思議なことに、立花左近の対決場面は、大佛次郎の原作ではない二番目のオールスター映画『忠臣蔵』には出て来ない。そしてまた、大佛次郎の原作である十周年記念作の『赤穂浪士』には立花左近が登場することになる。こちらは大河内伝次郎の立花左近で、大石内蔵助は千恵蔵である。十周年記念作は、もう原作とは程遠く凡作に近い作品なので、どうでも良いと言えるかもしれない。だいたい、この『赤穂浪士』は、原作の特長がほとんど生かされず、脚本家の小国英雄が改作しすぎていて、もう本来の『赤穂浪士』ではなくなっている。大石内蔵助(千恵蔵)と千坂兵部(右太衛門)との関係がクローズアップされ、堀田隼人(大友)はまったく違う人物のように変わっていた。蜘蛛の陣十郎(名前を替えていた)は道化役で、お仙(丘さとみ)の行動も理解に苦しむ。また、小山田庄左衛門は登場せず、赤穂浪士の脱落者については名前だけを挙げるにすぎなかった。多分新しい「忠臣蔵」映画を作ろうとしたのだろうが、これが裏目に出て、オールスター映画としては珍しくレベルの低い作品だった。
 五周年記念作の『赤穂浪士』は、大佛次郎の原作をうまく生かして映画化した傑作である。だから、立花左近の場面が余計、私には気になるのだと思う。ついでに言えば、浅野内匠頭夫人の瑶泉院がこの映画にはまったく登場しない。が、瑶泉院は、「忠臣蔵」映画にとって重要な役柄だと思う。大石内蔵助との南部坂での別れの場面が有名だが、原作では大石には会わず、費用報告の手紙をもらって、瑶泉院が討入りの意図を知ることにしていた。この点原作は史実に忠実な描き方をして、瑶泉院を最後の方に少ししか登場させなかった。それで映画でも省略したのだろう。
 ところで、この映画の脚色は新藤兼人ということになっているが、実は、監督松田定次の指示で、当時チーフ助監督だった松村昌治がシナリオをずいぶん手直ししたらしい。新藤の脚本があまりにリアリズムに傾き過ぎ、赤穂浪士のロマンを損じるものだったので、東映の大衆向き娯楽映画にはそぐわないという理由で書き直したようだ。プロデューサーのマキノ光雄も書き直しに同意したという。その辺の事情は、『松田定次の東映時代劇』(畠剛著、ワイズ出版刊)という本でインタビューされた松村昌治が明らかにしている。(つづく)