錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『一心太助 男一匹道中記』

2006-08-18 06:36:03 | 一心太助・殿さま弥次喜多
 『一心太助・男一匹道中記』(昭和38年1月公開)は、錦之助の「一心太助」シリーズの最後の作品だった。にもかかわらず、これだけがビデオになっていない。なぜかと言えば、多分この作品が興行的に振るわず評判も良くなかったからなのだと思う。この映画、ずいぶん昔テレビで観たような気もする。が、ほとんど覚えていない。観たとしても30年以上前のことだろう。テレビで観た映画というのはよほど面白くない限り、印象に残らない。しかし、ビデオ化されていないとなると、どうしても観たくなる。たとえ、作品の出来が悪かろうと、「一心太助」の第4作まではビデオで何度も観てきた私としては、最終作も出来れば自分の目で確かめたいと思っていた。そんな願いが通じたのか、先日、ある方からテレビで放映された時の録画を貸していただき、やっとこの映画を観ることができた。
 ところが、である。正直言って、この映画を観終わって、錦之助ファンの私は頭を抱えてしまった。これはまったく「一心太助」の体を成していない作品ではないか!題名だけは「一心太助」だが、看板に偽りあり、なのだ。さらに言えば、副題の「男一匹道中記」ということにも首をかしげたくなった。太助がお仲(渡辺美佐子)とお揃いで新婚旅行に出て、その旅先、それも江戸を出てすぐの保土ヶ谷あたりで起こる事件が話の内容だったからだ。つまり「男一匹」でもなければ、「道中記」でもなかった。が、副題の方はたいして重要ではない。問題なのは、この映画が「一心太助」ではないと私が感じたことである。そう感じた理由は四つある。
 第一に、話の舞台が江戸でなかったこと。まずこれがこの映画の失敗のもとだった。つまり、新婚旅行に出るというそもそもの設定が間違っていたのだと思う。一心太助は、江戸の町にいて活躍してこそ、水を得た魚のようにその江戸っ子ぶりが発揮できるわけで、片田舎の漁村では太助の個性が消えてしまう。
 第二に、大久保彦左衛門が死んでしまって、太助とのかかわりがなかったこと。やはり「一心太助」という作品は、彦左と太助の心暖まる主従関係があって成り立つ話である。床の間に飾った掛け軸の「一心如鏡」という書を見て太助が彦左を思い出す場面が第3作同様第5作にも出てくるが、わざとらしいとしか私には思えなかった。映画を作っている張本人が彦左を勝手に死なせておいて、今更なんなのだと言いたくなる。途中で将軍家光(錦之助)と松平伊豆守(山形勲)が語り合い、回想シーンで月形龍之介の彦左が登場するが、この場面もストーリーとは無関係に挿入しただけだった。また太助が「天下のご意見番大久保彦左衛門の一の子分、一心太助とはオレのことだ」と何度か啖呵を切る場面があるが、これも空威張りのようで、田舎の漁村に暮らしている連中には通用するはずもない。
 第三に、太助が魚屋として働いていなかったこと。江戸の鯛が一匹一両にまで値上がりしたという理由で、魚を売ることに嫌気がさし、太助はお仲と新婚旅行に出るのだが、魚屋姿の太助が活躍しないで、どうして「一心太助」と言えるのだろうか。太助が魚屋の半纏を着て天秤棒をかついで登場するのは最初のシーンだけで、旅先ではほとんど着流し姿で通している。錦之助が太助ではなく若き日の次郎長みたいなのだ。渡辺美佐子のお仲も、むしろ次郎長の女房お蝶である。
 第四に、将軍家光も老中も旗本も大名も出る幕がなかったこと。これがまた重大な欠陥だった。「一心太助」の痛快さは、江戸の庶民が彦左衛門の力を借りて、武家連中や豪商の鼻をあかすところにある。この映画は、太助が虐げられた漁民のために漁村を取り仕切る悪い網元(平幹二朗)ややくざの親分(佐藤慶)や代官を懲らしめる話であるが、これでは面白くもなんともない。なぜ、楽しい旅に出たはずの太助が見ず知らずの漁民たちに同情し、義侠心を発揮しなければならないのか。これがまた無理なこじつけで、江戸で鯛の値段が高騰しているのは、この漁村で採れた鯛を、値段を吊り上げ大儲けしようとたくらむ網元とやくざが出荷制限していることが原因だったというのだから、馬鹿馬鹿しくて開いた口がふさがらなかった。物価の高騰をテーマにした話なら米相場が普通で、大きな問屋が大規模な買占めをやるなら分かる。(そんな話は時代劇によくある)が、保土ヶ谷あたりの漁村で採れた鯛を網元がいくら操作したからといって、なんで江戸の鯛の値段が高騰するというのか。鯛が採れるのはこの漁村だけではないはずだ。太助が魚屋だから鯛にこじつけたにすぎず、あまりにも安易な設定に私はシナリオライターの芸のなさをののしりたくなった。

 この映画は、始まって20分くらいまでが面白く、あとは色気もユーモアもない陳腐な民衆蜂起劇に過ぎなかった。歩き疲れた太助とお仲が馬子(左ト全)の引く馬に乗って旅をするまでは良かった。が、それから先がいけなかった。源太という名の薄汚い与太者(ジェリー藤尾)が急に現れ、話が詰まらなくなった。ジェリー藤尾は当時人気があったが、歌手でも俳優でもない中途半端なタレントに過ぎなかった。今観るとそれがよく分かる。ジェリー藤尾のことを知らない若い人が見たら彼の演技はちっともウケないと思う。傍若無人に画面にはしゃり出てくるのが目障りとしか感じない。また、彼の恋人で村の小娘役を演じた十朱幸代がひどかった。それに、この映画では太助のやっている魚屋に二人の見習いが雇われていることになっていて、それが花房錦一(美空ひばりの実弟)と常田富士男なのだが、この二人が太助の後を追ってついて来る。これも余計で、アルバイトで出演する俳優を使うために無意味な登場人物を増やしたとしか思えなかった。悪役も佐藤慶と平幹二朗では力不足というか、個性が弱かった。時代劇の悪役というのは、難しいもので、リアルに演じすぎてはかえって悪役らしくなくなってしまう。プロレスの悪役のように、約束事で悪役をつとめているといった余裕と貫禄がなければならない。冷酷に演じればよいというわけではない。

 太助の人助けも度を越していると思った。七割で兌換するという金券を漁民たちから集めて、太助は強欲な網元へ交渉に行く。それが出来なかったとなると、漁民たちのところへ戻って、財布の金をすべてはたいて彼らにやってしまう。江戸っ子がいくら気前がいいといっても、旅費をすべてあげてしまうほどの人助けをどうしてしなければならないか。また、悪親分の佐藤慶が漁民を惨殺する場面には違和感を覚えた。さらに、ラスト・シーンでジェリー藤尾が親の敵討ちだと言って、追い詰めた佐藤慶を殺すときにニタニタ笑うところ、太助や漁民たちが彼に喝采を浴びせるところも気に入らなかった。

 沢島忠監督の映画は、出来不出来の差が激しい。あっと驚く快作を放ったかと思うと、とんだ駄作を作ることもある。これは明らかに駄作の部類に入る映画だった。そして、錦之助の明朗娯楽時代劇「一心太助」シリーズはこれで終わってしまった。沢島忠はこの映画と同じ年に傑作『人生劇場・飛車角』(昭和38年)を作る。この映画は大ヒットし、東映の任侠やくざ映画路線の先駆けになるのだから、皮肉なものである。


『家光と彦左と一心太助』

2006-07-07 22:11:00 | 一心太助・殿さま弥次喜多

 第四作『家光と彦左と一心太助』(昭和36年)は、また作れという会社の命令で作ったのだろうが、その割には大変よく出来た映画だった。第三作の不出来を見事に挽回した会心の娯楽作である。楽しさ満載、まさに錦ちゃんの独壇場といった感想を誰もが抱くにちがいない。この映画は、喜劇役者錦之助の稀有の才能が見られるお宝作品だ。きっとこの映画を観た人は腹をかかえて笑いころげたことだろう。錦之助の数ある映画の中で、笑える作品ベスト・スリーに入るはずだ。(順位は付けないが、ほかに同じ沢島監督の『股旅三人やくざ』第三話と松田定次監督の『水戸黄門・天下の副将軍』のバカ殿様が笑える。)
 さて、第一作から第三作まで、錦之助は太助と家光の二役を演じ分けてきたが、第四作では、太助が家光の替え玉になり、家光が太助に扮するという設定で、錦之助がいわば一人二役の裏返しみたいなことをやる。まだ、ご覧になっていない方は是非観ていただきたい。面白いこと請け合いである。このアイディア、誰が考えたのか知らないが、脚本は小国英雄である。小国英雄と言えば、黒沢映画の脚本家でも有名だが、さすがに才能豊かで、ストーリー構成も良いし、登場人物の配置も巧くセリフも生きている。私はこの映画を観ていて、チャップリンの『独裁者』を思い出した。この作品にヒントを得て、きっと『一心太助』第四作を作ったのかもしれない。『独裁者』は、チャップリンのトーキー第一作で、街の理髪師が一国の独裁者(ヒトラーがモデル)にそっくりなので、替え玉に使われる話である。独裁者に扮した理髪師が最後に演説するシーンで、初めてチャップリンが声を発し、トーキーになる記念すべき作品だった。『一心太助』第四作は、『独裁者』とは話の内容がまるで違うが、アイディアは似ているなと思った。
 共演者のことに触れよう。第三作で月形の彦左衛門を死なせてしまったことは前回書いたが、第四作ではタイトルにある通り、彦左衛門が復活する。が、演じるのは月形ではなく、進藤英太郎である。さすがに芸達者の進藤だけあって、月形とはまったく違った個性の彦左衛門を演じている。これまで圧倒的に悪役が多いが、こうしたとぼけた善人役もうまいものである。進藤の口元を見ていて気づいたのだが、上前歯の入れ歯をはずして演じているように見えた。が、確かなことは分からない。
 太助の女房のお仲は、中原ひとみではなく、北沢典子だった。が、こういう役はどうかなと疑問に思った。真剣すぎて、余裕がないのだ。ほかに家光の弟の忠長役に中村賀津雄(まだ演技開眼していない感があった)、笹尾喜内が私の好きな堺駿二でなく田中春男(くさかった)、太助になった家光の護衛役の柳生十兵衛に平幹二朗(結構良かった)といったところだった。
 ところで、この第四作は、前三作と話のつながりはない。むしろ断絶みたいなものを感じた。話を一から作り直したようなのだ。たとえば、家光はまだ将軍の世継ぎで、二代将軍秀忠が健在である。つまり時代が前にずれている。ストーリーは、弟の忠長を将軍に擁立しようとする老中一派が画策して、家光の暗殺を謀ろうとする。第三作までのレギュラーである山形勲の老中松平伊豆守は登場しない。山形は悪大名で、違った役回りだった。また、家光が将軍でないのに太助は女房持ちで、第三作までの展開と話が食い違っている。太助の腕に彫った「一心如鏡」の入れ墨は同じだが、錦之助が演じる太助の性格はずっとコミカルだった。また、第一作では字の読めた太助が、ここでは文盲になっていた。この映画を観て、私の正直な感想は、これまでイメージしていた「一心太助」とは何か違うなというものだった。確かに、この作品だけ観れば非常に面白く、笑いこけてしまうが、冷静に考えてみれば、別にこの話、「一心太助」を借りなくても良いような気もした。彦左衛門が太助より家光を大事にしているのがいささか気に入らないことでもあった。
 私の希望としては、第三作までのレギュラー陣で、むろん月形の彦左衛門を生かしたままで、シリーズを続けてもらいたかったと思っている。そうすれば、もっと傑作が生まれる可能性があったと信じている。もしかすると、『男はつらいよ』の寅さんシリーズに近い錦之助による喜劇の代表作が続々と生まれたかもしれない。それが残念でならない。
 第五作『男一匹道中記』は、昔映画館かテレビで観たことがあるはずなのだが、なぜか印象が薄い。この作品だけは、ビデオ化されていないので、感想が書けない。失敗作みたいな話をよく耳にするが、機会があったら、是非自分の目でもう一度確かめたいと思っている。



『一心太助・男の中の男一匹』

2006-07-07 19:29:42 | 一心太助・殿さま弥次喜多

 第三作『男の中の男一匹』(昭和34年)は、これを完結篇にしてシリーズを終わらせようとしたのが性急で、不満足な作品になってしまった。第一作、第二作と立て続けにヒットしたのに、なぜ第三作で終わらせようとしたのか、私には解せない。プロデューサーの意図だったのか、錦之助の都合だったのか。いずれにしても、筋がゴチャゴチャしていて、残念ながら相当な不出来である。結局、『一心太助』は、一年後に復活し、錦之助アンド沢島監督のコンビで第四作、第五作と製作することになるのだから、長期的な展望をもって、この第三作も作ってもらいたかったと思うのだが、後の祭りだった。
 この作品をご覧になれば分かると思うが、太助が急に分別臭くなり、なんだか偉そうになった印象を受ける。お仲とめでたく祝言を上げたこともあって、太助が彦左衛門に頼らない一人前の男になったことを強調しようとしたのがいけなかったのかもしれない。そのため、月形の彦左衛門の影が薄くなってしまった。『一心太助』は、彦左衛門と太助との掛け合いが魅力で、互いにもちつもたれつといった二人の関係こそ作品の要諦なのだから、これを崩してしまってはその良さが消えてしまう。作品の後半で、彦左衛門は、太助にも頼られず、家光にも年寄り扱いされ、寂しさに打ちひしがれ(私にはそう見える)可哀想に死んでしまう。私は今でも沢島監督が月形の彦左衛門をなぜ死なせたのか、その意味が分からない!そのあと、作品を明るく終わらせようとしたのだろう、付け足しのようなストーリーがあるが、もう取り返しはつかない。彦左衛門が死んで急に暗くなった観客の気分は戻らなかった。
 もう一つ、太助とお仲の関係も、描き方に不満が残った。中原ひとみのお仲の良さが発揮されていなかった。新婚早々居候に泊り込まれて迷惑している姿しか描けていないなと思った。太助とお仲が夜中に長屋を抜け出し、人気のない魚河岸でデートする場面がロマンチックで良いと感じただけだった。
 この作品の悪口を私は書きたくないし、細かい欠点をいちいちあげつらう気はないが、一番いけなかったことは、レギュラー陣に加えて余計な脇役が多すぎたことだと思う。脚本は、沢島監督と奥さんの共同執筆だが、脇役に気を遣いすぎたのだろう。それぞれが引き立つように役のウェイトを重くしたのが間違いだった。大河内伝次郎や丘さとみは良いとしても、チンピラ役の花房錦一や冴えない浪人役の徳大寺伸が出すぎで、また漫才師のいとし・こいしも画面をうるさくしていた。三島雅夫の巡礼役もでっぷり太って、適役でなかったし、悪役も進藤英太郎、阿部九州男、原健策のトリオに加え、沢村宗之助がいて、その他大勢出てくる始末で、ごった返していた。乱闘シーンも確か四回あり、あまりにバタバタしすぎて、途中から食傷気味になった。笑わせるツボもはずれ、わざとらしさが目立つところも多々あった。
 第一作の人間味と爽快感、第二作のドタバタ的な娯楽性と歯切れの良さは、どこへ行ってしまったのか、と頭をかしげたくなる映画だった。



『江戸の名物男 一心太助』(その二)

2006-06-26 04:18:32 | 一心太助・殿さま弥次喜多
 沢島忠監督が描く魚河岸のごった返している朝の場面が私は大好きである。太助が天秤棒をかついで、左から右へと人ごみをくぐって歩いていく姿を、私はいつも惚れ惚れとして見ている。魚河岸が「動」だとすれば、神田駿河台にある彦左衛門の屋敷は、「静」である。もちろん、太助が「天下の一大事!」と叫びながら大久保屋敷に駆け込む時や屋敷内に事件が起こる時は、「動」に変わるが、基本的にこの屋敷は落ち着いた静けさを保っている。
 また、この映画には、太助と彦左衛門が池で釣りをする場面が二度現れる。ここで二人は語り合い、太助が悩みを打ち明け、彦左衛門が教え諭すのだが、この「静」の場面が実に効果的なのだ。二人のやりとりをじっくり描いたこの場面があるからこそ、観客は二人の心の交流に強い共感を覚えるのだと言えよう。

 もともと、『一心太助』という映画の良さは、太助(錦之助)の「動」と彦左衛門(月形)の「静」の対照性にあるのだが、この動と静が、事によっては攻守交替することがあり、そこがまた堪らない魅力でもある。私が言っている「静と動」とは、心の動きのことでもある。
 家宝の皿を割ったお仲(中原ひとみ)をかばい、太助が彦左衛門の前で、残りの皿を全部割り、これで九人分の命が助かったと言って、もろ肌脱ぎ、お手打ちを覚悟する場面がある。この映画の名場面だ。太助に居直られて、彦左衛門はたじろぐ。この時、太助は、彦左衛門から教わった「一心如鏡」の心境に達し、「静」になる。一方、彦左衛門は普段の落ち着きをなくし、動揺する。この時、彦左衛門は逆に太助から大切な人の道を教わるのだ。太助の私心のない心意気に感服し、こう叫ぶ。「うー、えらい!立派じゃ、太助。さすがにワシが目をかけた男だけのことはある!」

 この映画は、「静と動」が巧みに使い分けられている。そのメリハリの利き加減が素晴らしいのだと思う。沢島監督の初期の映画は、バタバタしている印象が強い。息もつかせぬスピード感が特長で、登場人物たちが走ったり、群れをなして暴れたり、カメラワーク(坪井誠撮影)も動きが激しい。時には、それが落ち着きのない印象を与え、失敗したりもする。目まぐるしく暴れ回る場面が多すぎると、ストーリーや人物の描写が二の次になり、作品的に何も伝わらないまま終わってしまうことにもなる。
 『江戸の名物男』は、沢島監督のデビュー後二作目、親友錦之助を主演に招きメガフォンを取った念願の第一作である。つまり、彼のごく初期の作品なのだが、動きが多くスピード感溢れる彼の作品の特長はすでに発揮されている。ただし、太助が大乱闘するドタバタ喜劇的な場面は前半の一箇所だけにとどめ、シーン数の多さとシーン間のつなぎの鮮やかさでスピード感を出している。ドタバタ度は押さえ気味にして、セリフのやりとりや動作の面白さで喜劇性を演出している。笑わせるネタが次々に出て来るが、そのヴァリエーションの多さには感心してしまう。しかも、要所要所に「静」の場面、つまり情感のある点描を挿入し、作品に綾を加えている。たとえば、太助が休みの日と知らずに訪れた魚河岸の閑散とした情景(誰もいない市場に野良犬がうろついている)、雪の中で太助が老婆をおんぶして行く場面などがそうだ。また、「静」の場面では、登場人物たちの人間関係(お仲と彦左衛門、お仲と喜内など)をきちんと描いている。だから、作中で彼らが動き出した時、水を得た魚のように生き生きとしてくるのだろう。
 私は、これほど生きのよい、粋な作品を知らない…。



『江戸の名物男 一心太助』(その一)

2006-06-26 02:44:49 | 一心太助・殿さま弥次喜多

 錦之助の「一心太助シリーズ」では、第一作『江戸の名物男』(昭和33年2月公開)が、私はいちばん好きだ。この作品だけ低予算のモノクロだが、処女作にして「これぞ一心太助!」とでも言うべき見事な作品に仕上がっている。確かに第二作の『天下の一大事』(昭和33年10月公開)は、第一作の成功もあって総天然色になり、錦ちゃんもスタッフもみんなノリノリという感じで、最高に楽しめる娯楽作品である。(この第二作についてはすでにこのブログで感想を書いた。)しかし、作品の味わい深さ、内容的な奥行き、登場人物の奥ゆかしさ、きめ細かな情景描写という点では、第一作が勝ると思う。作品のスケール、ドタバタ喜劇的な面白さ、そして、錦之助の威勢の良い江戸っ子ぶりから見れば、第二作に軍配が上がるだろうが…。

 今回は、第一作『江戸の名物男』について書きたい。
 この作品はいろいろな点で素晴らしいと私は思っている。太助に成り切った錦之助のずば抜けた演技、月形龍之介の渋くて風格のある芸については語り尽くされていると思う。他の共演者について言えば、これも低予算のためか、やや手薄だが、太助を慕うお仲(中原ひとみ)の可愛らしさ、彦左衛門の家来笹尾喜内(堺俊二)の滑稽さ、老中松平伊豆守(山形勲)の一癖も二癖もある智謀家ぶり、長屋の大家さん(杉狂次)のほほ笑ましさ、魚屋の相棒(星十郎)の空元気など、みな適役ばかりで、二役を演じた錦之助の将軍家光も気品があって堂に入っていた。まあ、こんなことは言わずもがな、であろう。ここでは、あえて見方を変え、この作品の素晴らしさを語ってみたい。ちょっとマニヤックな鑑賞法になるかもしれないが、お許し願おう。
 まず何よりも注目したいのは、この映画が勧善懲悪のお決まりのストーリーでないことである。それにもかかわらず、十二分に楽しむことができ、痛快さを感じ、心を洗われたような爽快感を味わえるところが、第一作のすごさだと思う。
 ご覧になると分かると思うが、『江戸の名物男』には、悪者が一人も出て来ない。厳密に言えば、ちょい役でスリが一人出て来る程度である。彦左衛門のことを煙たがっている徳川の重臣は登場する。が、彼らは決して謀略をめぐらすような悪逆非道な権力者ではない。老中松平伊豆守の山形勲は、珍しく良い役で、彦左衛門の協力者である。若年寄の加賀邦男(端役だが…)は、彦左衛門に批判的だが、悪者ではない。太助が魚屋になってすぐに喧嘩をする魚河岸の連中も、彦左衛門のお裁きのあと、太助と仲直りして親しい仲間になる。
 東映時代劇で、悪役・敵役が出て来ないというのは非常にまれなことなのだ。娯楽作品では画期的なことかもしれない。だいたいどの時代劇も、ヒーローである主人公が悪事を暴き、最後は悪者を成敗するものとパターンが決まっている。そこに観客は鬼の首でも取ったかのような痛快さを感じるのだが、『江戸の名物男』は、このパターンを完全に脱している。脚本を書いた田辺虎男という人のことを私はほとんど知らないが、意識的に悪者の出て来ないストーリーを書いたことは明らかである。(第二作以降は、脚本家が変わったこともあってか、悪旗本や悪商人や手下の悪者たちがたくさん出て来て、残念ながらまた勧善懲悪のパターンに戻ってしまう。)
 要するに、この作品は、性善説に基づくとでも言おうか、人間の良心(善根)というものを前提にした上でストーリーが展開していく。途中で、片岡栄二郎がスリに財布を奪われた老人を助ける。が、あとでこの片岡が大罪人として捕縛され、馬に乗せられ引き回しになるシーンが出て来る。町の衆は片岡に石を投げるが、太助はそれを制し、生まれ変わる時は良い人になってくれと祈って彼を見送る。この場面など、やや作為を感じるものの、象徴的な表現だと思う。
 言ってみれば、『一心太助』第一作は、善男善女の人情話である。その面白さは落語的だが、この作品から得られる爽快感は、その内容が修身のお手本のようだからなのであろう。